第6話 運命の出会う場所で

 おばあちゃんが女子高生ということは、戦後間もない頃だ。

 日暮れ時で、西側からの斜光が輝いている。

 建物が少ないから夕焼けが広い。

 色のないモノクロの風景なのに勝手に色が思い浮かぶほど鮮やかだ。

 こんな見事な夕焼けを見るのは初めてだ。

 やっぱり、なんか空気が違うのかな。

 すぐ近くに若いときのおばあちゃんがいる。

 初世さんは道祖神さんの岩の上で本を広げていた。

 でも、なんだか視線がさまよっている感じで、ため息までついている。

 うつむいているせいもあるんだろうけど、夕日に照らされた表情が暗い。

 なんだか私の知っているおばあちゃんのイメージと違うな。

 話しかけようかと思ったとき、自分の体が透けていることに気がついた。

 そばに生えている草に触れてみようとしたけど、素通りだった。

 まるで幽霊になったみたいだ。

 私はきっとこの世界の人には見えないことになっているんだろう。

 映画を見ている観客のような立場なんだろうな。

 と、まさに古いモノクロ映画のように場面が動き出した。

「おう、ねえちゃん、悩み事かい」

 通りかかったヤカラ風のお兄さんが初世さんに声をかけている。

 ちょっと、何、これ。

 もしかして道祖神さんのイタズラ?

 でも、この前みたいに本物だったら困るし、どうしよう。

 それに観客の立場だから、私は口出しできないんだろう。

 実際、目の前にいるのに、この二人は私のことなど全然気づいていないようなのだ。

 あれでも、変だな。

 ヤカラさんまで私に気づいてないみたいだけど、道祖神さんじゃないのかな。

 じゃあ、なおさら助けてあげたいんだけど。

「ようよう、ねえちゃん、ため息なんかついてさ。どうしたんだよ。悩みがあるなら相談に乗るからよ。ちょっといいとこ行こうぜ」

「いえ、何も悩んでません」

 初世さんが困ってる。

 なんとかしたいと私も困っていると、若い男の人が通りかかって二人の間に入った。

「お兄さん、おやめなさい。お嬢さんが困っているじゃありませんか」

 幸作さんだ。

 詰め襟学生服姿がピシッと決まっている。

 うちで見た写真のとおりの人だ。

「なんだよ、そっちこそ邪魔なんだよ。俺が先に声かけたんだからよ」

「しかし、こちらのお嬢さんだって何も悩んでないって言ってるじゃないですか」

「なんだと、うるせえな」

 ヤカラさんが殴りかかろうとしたその瞬間、幸作さんが腕をつかんでねじり上げた。

 やだ、幸作さん、かっこいいじゃん。

 初世さんまで乙女の視線で見上げちゃってる。

「イテテ! てめえ、おぼえてろよ」

 まるで時代劇の悪役みたいなセリフを残してヤカラさんが去っていく。

 パンパンと手をはたいて幸作さんが声をかけた。

「大丈夫でしたか」

「ありがとうございます。本当に困っていたんです」

「明倫館高校の生徒さんですよね」

「え? はい、そうですけど」

「その制服の校章、懐かしいですね。僕は卒業生なんですよ。今は大学に通っています。たまたま通りかかって良かった」

「ああ、そうだったんですか」

「僕らのころは男ばかりでね。新制高校で共学化されて良かったですね。今日は学校の帰りですか」

「はい、いつもここで本を読んでいくんです」

「もうすぐ日が暮れますよ。早くお帰りなさい。またあんなヤカラが来ると困るでしょう」

 すると初世さんがうつむきながらふうとため息をついた。

「もう少しここで読書をしていきます」

「どうしてですか。暗くなったら字なんて読めないでしょう」

「私、両親がおりませんの。戦争で亡くなりまして」

 初世さんが幸作さんを見上げる。

「戦争中に、私だけこちらの叔母の家に疎開してきてまして、世話してもらっていたんです。東京に残っていた両親は空襲で亡くなりました。そのまま叔母の家で養育してもらっているんですけど、あんまり迷惑をかけたくないんで、なるべく居残り勉強をしたり、こうやって読書をしてから家に帰るようにしているんです」

「ああ、そうなんですか」

「あんなに良くしてもらっててこんなこと言ったら申し訳ないんですけど、やっぱり甘えるわけにはいかないかなと」

「僕と同じですね」

 今度は幸作さんが語りかける。

「僕の両親も亡くなりましてね。やっぱり同じですよ。今は伯父の家にお世話になってます。大学まで行かせてもらって感謝しきれないくらいですよ」

「そうなんですか。私も本当は働きに出た方がいいんでしょうけども、これからの時代に必要だから高校に行きなさいと言われたもので……。でも、正直あまり勉強は気がすすみませんね」

 初世さんのお腹が鳴った。

 顔を赤らめる女子高生のおばあちゃんがかわいい。

 幸作さんが鞄から包みを取り出した。

「お腹が空いてますか。いい物があります。一緒にどうですか」

 樋ノ口屋の栗饅頭だ。

「いいんですか」

「ええ、遠慮なく。人気の品でなかなか手に入らないんですけど、今日はたまたま入手できましたから」

「そんな貴重なものをいただけません」

「いいんですよ。お知り合いになれた記念に。どうぞ」

 幸作さんが初世さんの手を取って栗饅頭をわたす。

 見ているだけでなんだか味が思い浮かぶ。

 私も食べたいな、一緒に。

 初世さんの目に涙が浮かんでいる。

「こんなにおいしいお菓子があるんですね」

 幸作さんが微笑みかけた。

「そうです。おいしいでしょう。こんなにうまい栗饅頭はどこをさがしてもなかなかあるもんじゃありませんよ」

「本当ですね」

 初世さんの頬を涙が伝う。

「これから一人で生きていかなければならないかと思うと生きていてもいいことがないかと思っていました。でも、こんなにおいしい物が食べられるんだから、他にもいいことがあるかもしれませんね」

 幸作さんが初世さんを見つめながら言った。

「一人じゃありませんよ。僕がいますから」

「え?」

「一人で生きていかなければならないと決まっているわけではないでしょう。二人でもいいじゃありませんか」

 初世さんが返事に困っている。

 幸作さんが石碑を指差しながら言った。

「これはきっとこの道祖神さんが僕らを引き合わせてくれたんですよ。お互い孤独な者同士、助け合って生きていけというお告げですよ」

「そうなんでしょうか」

 おばあちゃんは半信半疑のようだけど、幸作さんの勘は鋭いな。

 やっぱり道祖神さんがイタズラで引き合わせたのかな。

 でも、じゃあ、なんで私に気づかなかったんだろう。

 いくら透けているからといって、私の姿に気づかないのはおかしい。

 だっていちおう神様なんだから。

『こりゃ、おまえさん口出しするなよ』とか言いそうなのにな。

 おばあちゃんに会わせてくれると言っていたのは弁天様だから、もしかしたら、私が見ていることは道祖神さんには内緒なのかもしれない。

 栗饅頭を食べ終わった二人が向かい合っている。

「これからもここで会えますか」

 幸作さんの問いかけに初世さんがはにかむ。

「はい」

 そこまでで、急に視界がぼやけ始めた。

 軽いめまいを感じて目を閉じる。

 少し落ち着いてきて目を開けたら場面が変わっていた。

 春、桜の季節だ。

 二人が用水路の土手に並んでお弁当を食べている。

 おかずはコロッケだ。

 幸作さんが目を丸くしている。

「これはおいしいなあ。じゃがいもがほくほくしていて、なんだろうな、何か入ってますね。隠し味ってやつですか?」

 そうか、お母さんのコロッケだと思っていたのはおばあちゃんのレシピだったのか。

 うちのコロッケには挽肉以外にも何かが入っている。

 でもそれがなんなのかは教えてもらったことがない。

 幼稚園くらいの頃におばあちゃんのお手伝いをしていたときも、揚げ物は火の扱いが危ないからと、コロッケだけは手伝わせてくれなかった。

 私は見よう見まねでラーメンやカレーを作ったりしていたから、勝手に真似しないように揚げるところは見せてくれなかったのだ。

 幸作さんはほっぺたを膨らませながらあっというまに全部たいらげてしまった。

「いやあ、うまいなあ。ごちそうさま。こんなにおいしいコロッケは東京の食堂でも食べられませんね」

「それはまだ都会では物資が不足しているからでしょう」

「いや、最近は大学の食堂でもまともなものを出すようになってきていますよ。定食屋でも米は足りなくなってませんし。樋ノ口屋の栗饅頭だって戦前と同じように買えるようになったんですからね。これから世の中はどんどん良くなっていきますよ」

「そうですか。そうなるといいですね」

「ええ、よくなりますよ。僕ら若い者が次の世の中を作っていけばいいんです。僕らが学んだことを社会にお返ししていけば、きっと安心して暮らせる世の中が実現しますよ」

 戦争で家も家族も街も仲間も、すべてを失ってしまった時代の若者達。

 その想いは熱い。

 その後も、雨の日に二人で一つの傘に入って桜の花を眺めていたり、四季折々の風景が切り替わって、仲良く栗饅頭やコロッケを食べている二人の姿が現れては消えていった。

 あれ?

 ふいに情景に色がついた。

 私の目の前に、私と同じ年頃のおばあちゃんがいる。

 一人で岩に腰掛けて本を読んでいる。

 また幸作さんと待ち合わせているんだろうか。

 初世さんが顔を上げた。

 目が合ってしまった。

 若いときのおばあちゃんが私に微笑みかけている。

 あれ、もしかして見えてるの?

 まわりには他に誰もいない。

「どうかしましたか?」

 やばい。

 やっぱり見えてるんだ。

 どうしよう。

 急に姿を現したから変な人と思われちゃったじゃないのよ。

 私もおばあちゃんのことをじっと見ていたから、今さら人違いとか言い逃れはできない。

 せっかくおばあちゃんに会えたのに、緊張しちゃって声が出ない。

「あの、その岩、お尻がむずむずしませんか」

 言うことが思いつかなくて、よけいなことを聞いてしまった。

 絵梨佳ちゃんの時と同じだ。

 私って、あいかわらずポンコツだな。

 初世さんが首をかしげる。

「いつも座ってるけど、そんなことないわよ」

「その岩、神様の依り代なんですよ」

「あら、そうなの。それじゃあ、腰掛けたら悪いかしらね」

 初世さんが立ち上がって道祖神さんの石碑に向かって頭を下げた。

「でも、どうしてあなたはそんなことを知っているの?」

 説明するよりも実際に見てもらった方が早そうだ。

 私は辺りを見回して呼んでみた。

「道祖神さん、いるんでしょ、出てきてくださいよ」

 以前、道祖神さんは『姿を現さんでも、みなわしがここにおることを知っておったさ』と言っていた。

 だから、きっと声は届くはずだ。

 すると、やっぱりどこからか声が聞こえた。

「なんじゃ、誰か呼んだか」

 岩の横にぽわんと道祖神さんが姿を現した。

 白装束の老人姿だ。

 初世さんは目を丸くして驚いている。

 それはそうだろう。

 何しろ本物の神様なんだから。

 道祖神さんは私のことを見て首をかしげている。

「誰じゃ、おぬしは?」

 あれ、そうか、この時代の道祖神さんはまだ私のことを知らないのか。

「私はつる……」

 名前を言いかけて、思わず口を押さえた。

 鶴咲なんて名前を出したら話がややこしくなってしまう。

「あの……、ええと、私は向こうの弁天様の紹介で……」

 振り返ると、広い野原の向こうにこんもりとした鎮守の森が見えた。

 その森に包まれるようにして小さな赤い鳥居がぽつんと立っている。

 なるほど、ずっとこっちと向かい合ってたんですね。

 姿を見せてはいないけど、なんだか見つめ合っているような感じがする。

 道祖神さんは弁天様と聞いて顔をしかめていた。

「なんじゃ、そうなのか。おまえさん、弁天の使いの者か」

「はい、いちおうお世話になってます」

「あのチチデカ女の仲間にしてはぺったんこだな」

「よけいなお世話です。それ、セクハラですよ」

「セクハラ? なんじゃそりゃ?」

「またとぼけて! 知ってるくせに」

 あれ、でもあれか、七十年前のこの時代にはまだセクハラなんていう言葉はなかったのか。

 私たちのやりとりを見ていた初世さんが道祖神さんに頭を下げた。

「いつもここに腰掛けていて済みませんでした」

「おう、かまわんぞ。ずっと旅人が休憩していた場所だからな。座り心地が良かろう」

「ええ、とても」

 道祖神さんがニヤリと笑みを浮かべる。

「おまえさんの尻も触り心地がよいからのう」

 うわ、最低。

 私を無視するかのように道祖神さんは初世さんに尋ねた。

「おまえさん、前はいつもため息ばかりついておったが、最近は楽しそうじゃな」

「まあ、いつも見ていてくださったのですか」

「まあな。ここに来る者を見守るのがわしの仕事だからな。何か願い事があるなら言ってみるがいい。かなうとは限らんがな。もっとも、もうおまえさんの願い事はかなっておるんじゃろ」

 どういうこと?

「あの幸作とかいう大学生とくっつきたいんじゃろ」

 初世さんが顔を赤らめている。

「だから、わしがおまえさんとあいつを結びつけてやったではないか」

 やっぱりそうだったんだ。

 あのときのヤカラ系お兄さんは道祖神さんの化身だったんだ。

「心配するな。あいつもおまえさんのことを大切に思っておるさ」

「ありがとうございます」

 頭を下げている初世さんに対して、道祖神さんは偉そうにふんぞり返っている。

 後ろから膝カックンしてやりたい。

「おまえさん、あいつとうまそうな菓子を食っておっただろ。今度来る時はあれをお供え物に持ってくるといい。そうしたら、わしはいつでも姿を現してやるぞ」

「樋ノ口屋さんの栗饅頭ですか?」

 道祖神さんはニヤリとうなずくとぽわんと姿を消した。

「あらまあ、本当に神様なのねえ。あなたも神様のお使いの娘さんなのね。お稲荷さんの狐さんかしら?」

 いえ、あなたの孫です。

 ……とは言えないか。

「向こうの弁天様の知り合いです」

 弁天様にお願いしておばあちゃんに会えるようにしてもらったけど、私が会いたいと思っていたのはおばあちゃんになってからのおばあちゃんだったから、女子高生時代の初世さんだと緊張してしまう。

 聞きたいことがいろいろあって、何から話していいのか分からない。

「あのう、コロッケ、おいしそうでしたよね」

 あまりにも混乱してしまって、口から出てきたのはそんな言葉だった。

 もっと大事なことがあるのに、いざとなると心の奥に押し込まれてしまう。

「あら、ずっと見守ってくれていたんですか」

「ええ、まあ……」

「うふふ。あのねえ、あのコロッケはね、このご時世じゃあ挽肉なんか使えないでしょう。だから、ちょっとした工夫があるのよ」

「へえ、そうなんですか」

「すりごまとおかかを混ぜてあるの。それで風味とうまみを加えてあるのよ」

 そうだったのか。

 そのレシピがお母さんに受け継がれて、うちのコロッケはおいしいんだ。

 おばあちゃんがゆでたジャガイモに何か調味料のような物を混ぜていたのは知っていたけど、それが何なのかまでは気にしたことがなかった。

 ずっとコロッケとはそういうものだと思って育ってきて、小学校の遠足で友達のお弁当に入っていたのと交換したときにびっくりされたのを覚えている。

 友達みんながすごくおいしいとほめてくれたので私も鼻が高かったものだ。

 レシピを話すときの初世さんは目尻が下がって楽しそうだ。

 よほど幸作さんと出会えたことが幸せなんだろう。

「やあ、こんにちは」

 学生服姿の幸作さんがやってきた。

「今日のコロッケもおいしかったですよ。ごちそうさまでした」

 あれ、今日もって、いつもお弁当を作ってあげてたのか。

 初世さんが頬を赤らめて木製のお弁当箱を受け取っている。

「また明日も何か作ってきますから」

「手間もかかるし食材も必要でしょう」

「いえ、自分のと一緒に作りますから」

 そうか、こうやって毎日お弁当を受け渡すために会っていたのか。

 だから、他の人には交際していることが分からなかったんだね。

 これがおばあちゃんのデートだったんだ。

 あれ?

 いつの間にか私の体が透けている。

 幸作さんが来たから姿が見えないようになっちゃったのかな。

 初世さんもきょろきょろしている。

 幸作さんも辺りを見回しながら尋ねた。

「どうかしましたか?」

「いえ、ちょっとさっきまで人と話をしていたものですから」

「またあの変なヤカラですか」

「いいえ、ちがいますよ」と初世さんが口元をおさえながら微笑む。「とてもかわいらしいお嬢さんでしたよ」

 姿を現して名乗りたいけど私の声はもう聞こえないらしい。

 それに、血のつながりのない孫という説明をこの時の初世さんにするわけにはいかないんだろう。

 でも、私は迷ってしまった。

 教えた方がいいんだろうか。

 結婚してすぐに幸作さんが亡くなってしまうことを。

 今教えればおばあちゃんは悲しい思いをしなくてもすむんじゃないだろうか。

 そのために私はここにいるのかもしれない。

 そんなことを悩んでいると目の前が暗くなってきた。

 ちょっと貧血になったような感じがして頭がくらくらする。

 私は立っていられなくなってその場にしゃがみ込んだ。

 頭が痛い。

 心臓がドキドキして息も苦しくなってくる。

 急にどうしたんだろう。

 意識が遠のいていく。

 体が浮いているような感覚に包まれる。

 ……みもりちゃん。

 美森ちゃん……。

 誰かが私を呼んでいる。

「ここがあなたのたどり着く場所」

 はっきりと声が聞こえた。

 少しずつ呼吸や鼓動が落ち着いてきて私はそっと目を開けた。

 そこは弁天様の神社の境内だった。

「やっと来たわね」

 ふらつく頭をおさえながら立ち上がると、目の前に弁天おねえさんがいた。

 あいかわらず何かいい匂いがする。

「私、どうしちゃったんですかね」

「消えかかってたから呼び戻したのよ」

「ああ、体が透けてたってことですか」

「そうじゃなくて、この世から消えそうになってたってこと」

 この世から?

 本当の幽霊になっちゃうってこと?

「だめよ、他人の運命に口出ししようとしたら。あなたは傍観者なんだから」

 おばあちゃんに幸作さんの運命を教えようとしたことか。

「あのね、美森ちゃん。人の運命は変えられないの。それはあなたの役目じゃないでしょう。よけいなことをしたら、あなた、永遠に消えちゃうわよ」

「でも……」

 その先に悲劇が待ちかまえていると知っているのなら、それを教えてあげたくなるじゃないですか。

 ただ、私はその言葉を口に出して言うことができなかった。

 本当にそうなんだろうか。

 目の前の悲劇をねじ曲げて、なかったことにしてしまえば、それで幸せだと言えるんだろうか。

 他人が幸せかどうかを私が勝手に決めていいんだろうか。

 私が明倫館高校に落ちたことをおばあちゃんは「美森は不幸な子だね」というだろうか。

 春におばあちゃんの伝言を見せてもらったとき、確かこんなことを言っていたっけ。

『人が喜んでいるのを自分のことのように楽しめれば、自分が悲しくて辛いときもそれを受け入れることができるのよ』

 そういうものなのかな。

 あのときもそんなふうに疑問に思ったけど、今でもやっぱりそんなに素直に受け入れられそうにない気がする。

 でもおばあちゃんはそうやって受け入れて生きてきたんだろう。

「あなたはおばあちゃんが不幸だったと思うの?」

 弁天おねえさんにそう言われると返事ができなくなる。

 私が決めていいことじゃないんだ。

 私が黙っていると、弁天様にぎゅっと抱きしめられた。

 うわお、胸に挟まれて息ができない。

 道祖神さんなら喜ぶだろうけど、私、苦しいんですけど。

 息ができなくてだんだん視野がぼやけていく。

「あなたが消えちゃったら、それこそ運命が変わっておばあちゃんが悲しむじゃない」

 え、どういうこと?

 目の前が再び真っ暗になって、心の中にモノクロの映像が浮かんできた。

 道祖神さんの石碑だ。

 割烹着を着た初世さんが手を合わせている。

 少しやつれたような顔だ。

 坂巻さんの話を思い出した。

 幸作さんが列車の脱線事故で亡くなって、その時おばあちゃんは流産してしまったんだった。

 手を合わせている初世さんの隣に道祖神さんが姿を現した。

「また来てくれたのか」

「こんにちは。栗饅頭をお持ちしましたよ」

「おう、ありがとさん」

 初世さんは岩に腰掛けて栗饅頭を道祖神さんに渡す。

 ひょいと丸ごと口に放り込んでもぐもぐと頬張っている。

 昔からお行儀悪いんだな。

 神様なのに。

 一口ずつ口に入れている初世さんに道祖神さんが話しかける。

「ごちそうになってるのに、何もしてやれなくてすまんな」

「いいえ」

「わしが一人と出会わせたばかりに二つの別れを背負わせてしまうとはな」

 二つの別れ。

 幸作さんと、お腹の中の子供のことか。

 道祖神さんがぽつりぽつりと話している。

「わしがここを通り過ぎる人々を見守るようになってから百年。戦争やら災害、事故が何度もあったなあ。大勢の人が亡くなったものよ。人が亡くなればまわりの者は悲しむ。家族、恋人、友人、通ってた定食屋のオバチャンみたいなただの知り合いだってみんな悲しむさ。寿命を全うできなかった無念。残された者の寂しさ。人を結びつけるということはそういったものを背負わなければならんじゃろ。よけいなことをしなければ良かったと後悔することも多いさ」

 そうか、人と人を結びつけるだけでなく、道祖神さん自身もみんなと結びついていたんだ。

 だから、いろんな人を見てきて、いろんなことを背負ってきたんだ。

「わしの役割は人を結びつけることで、生き死にを操ることではないからのう。わしがふざけておまえさんにちょっかいをだしたばかりに二人の運命が交わって、おまえさんにつらい思いをさせてしまったな」

「いいえ、幸せでしたよ。人の生き死にの運命が変えられないとしても、出会えないままの方が寂しかったんじゃありませんか。あの人と引き合わせてくださったことには感謝していますよ」

 初世さんがふふっと微笑む。

「神様にこんな偉そうなことを申し上げたらバチが当たりますね」

「なに、そんなことはないさ。わしもおまえさんにそんなふうに言ってもらえれば少しは気が紛れるというものだ」

 道祖神さんがぽんと手をたたく。

「よし、お礼だ。おまえさんに一つ神の力を使わせてやろう。なんでも言ってみるがいい」

「そんなことを急に言われても、何も思いつきませんねえ」

「辛くはないのか?」

「それはまあ、そうですけども。さっきおっしゃっていたじゃありませんか。人の生き死には変えられないと」

「まあそうじゃがな」

 道祖神さんは口をへの字に曲げたまま空を見上げている。

「あの人の分までちゃんと生きていかなかったら、あの人が悲しみますよ。そのためにも、ちゃんと受け入れなくちゃいけませんでしょう」

「そうじゃのう。悲しいことを忘れたいとか」

「忘れたくはありませんよ。私が忘れたら幸作さんは悲しむでしょう。それに生まれてくるはずだった赤ん坊だってそうでしょう」

 しばらく二人は無言のままだった。

 先に口を開いたのは道祖神さんの方だった。

「何もなければ、そうじゃな……、便秘も治せるぞ」

「あら、まあ、どうしてそれを?」

「おなごの半分以上は便秘で悩んでおるからな。あとは冷え性かどっちかだ」

「お見通しということではなかったんですね。占い師さんみたいですね」

「占い師は見通せても、病気は治せまい。わしなら治してやれるぞ」

「それもそうですけど、でも、そんなに悩んでいるというわけではありませんからねえ」

「何もないかのう」

「そうですねえ」

 初世さんは考え込んでしまった。

「まあ、今でなくても良いさ。思いついたらここに来ればいい。わしはいつでもここにおるからの」

「そうですね。また栗饅頭をお持ちしますよ」

「おう、すまないな。ごちそうさん」

 初世さんが帰っていく。

 モノクロの風景がゆらぐ。

 まためまいだ。

 渦を巻いて視野が暗くなる。

 うわ、気持ちが悪い。

 吐きそうだ。

 私はその場にうずくまって目を閉じた。

 おい……。

 誰かが呼んでいる。

「おい、大丈夫か、おまえさん」

 道祖神さんの声だ?

「おい、パンツ丸見えだぞ」

 え?

 目を開けると、そこは見慣れた光景だった。

 ショッピングモールがあって、色もついた風景だ。

 向こうの大通りを通り抜けていく車の音が聞こえる。

 どうやら現代に戻ってきたらしい。

 頭をおさえながら立ち上がると、目の前に道祖神さんがいた。

「あれ、私……、戻ってきたんですか?」

 そういえば、丸見え?

 ……ていうか、私、今日チノパンはいてたよね。

 スカートじゃないじゃん。

「もう、なんですか。丸見えって。見えるわけないじゃないですか」

「ようやく気づいたか。だがな……」

 道祖神さんが手で輪っかを作って右目に当てる。

「心の目ならなんでも見通せるぞ」

 うわ、サイテー。

「それよりおまえさん、こんなところで何をしておった」

「あれ、さっき会いましたよね」

 思わず言ってしまってから気づいたけど、もう手遅れだった。

 いけない、道祖神さんには内緒だったんだ。

 道祖神さんが眉間にしわを寄せる。

「おぬし、あれほどやめろと言ったのを……。弁天のやつ」

 弁天おねえさんのこともばれちゃったらしい。

 まあ、それはそうだろう。

 おんなじ神様だもんな。

「で、おまえさんの望み通りの結果だったか?」

「いいえ。弁天様に言われていたように、望むような結末ではありませんでした」

「人と人をつなぐものにはいろいろある。血のつながりはその一つに過ぎんじゃろ。血縁関係にある親子でも虐待はあるし、一番大切なのは人の想いだ。相手を思いやる気持ち、慈しむ気持ちがあれば、その絆は本物じゃろう」

「それは分かりますけど」

 わかる。

 わかってる。

 でも、本物か偽物かを気にしなくちゃならないってこと自体が、本物じゃないってことなんだ。

 その暗闇の蓋を開けてのぞき込んだのは私自身だ。

 見なきゃ良かった。

 でもそれは私のせいなんだ。

「おまえのおばあさんは隠していたんじゃない。大切にしていたんだ。家族というのは生まれてきたらそれで良いというものではない。すぐに壊れたり、無くしたり、憎み合ったりするものだ。血のつながりなんてものでごまかしあいながら家族を演じ続けていることの方が多いのかもしれんさ。おまえさんが当たり前だと思っていた家族の形、それ自体が一つの奇跡だったんじゃないのか。おばあさんはそれが分かっていたからこそ、大切にしていたんだろうが」

 うん、そうだ。

 だからそれを疑ったりしたらいけないんだ。

 でも、やっぱり本当のことを知ってしまった以上、素直でいられるわけじゃない。

「おまえのおばあさんが大切にしてきたものを踏みにじったのはおまえさんだ。もうおぬしに話すことは何もない。もう二度とここへは来るな」

 道祖神さんは消えてしまった。

 じめっとした風が頬を撫でていく。

 背負うには重すぎる事実。

 知らなければ良かったのに。

 ため息が出てしまう。

 重たい足を引きずりながら私は家路についた。


   ◇


 家の玄関まで戻ってきたところで絵梨佳ちゃんからスマホにメッセージが来た。

『元気?』

『大丈夫よ』

 当たり障りのない返事しかできない。

 めちゃくちゃ落ち込んでると正直に答えたところで気分がスッキリするわけでもない。

 そもそも、学校のテストとは違う。

 解決方法なんかない問題なんだ。

 だって、事実は曲げられないんだから。

 受け入れるかどうか、それだけの問題だ。

 私はなるべく明るい声でただいまを言った。

「あら、おかえり」

 家ではお母さんが夕飯の支度をしていた。

 ちょうどゆであがったジャガイモをつぶしているところだった。

「夕飯はコロッケ?」

「そうよ」

 ほくほくと湯気の立つジャガイモにすりごまとおかかを混ぜ合わせる。

 おばあちゃんのコロッケだ。

「手伝うよ」

「あらそう。じゃあ、粉と卵とパン粉をならべておいて」

 私がスマホを置いて手を洗っている間に、お母さんはテーブルの上にトレイと材料を並べて、牛挽肉を炒め始めた。

 そういえば、うちのコロッケには前から挽肉が入ってた。

 若い時のおばあちゃんのコロッケには挽肉は入っていなかったのに。

「ねえ、このコロッケはおばあちゃんに教わった作り方なの?」

「うん、そうよ」

「うちのコロッケ、挽肉入ってるよね。お母さんが入れたの?」

「そんなことないわよ。おばあちゃんのコロッケにも入ってたわよ」

 そうなのか。

「おばあちゃんが若かった頃は戦後間もない頃だったからお肉は入れてなかったのかもね。でも、お母さんが生まれた頃はもう今と変わらない生活だったから挽肉くらい普通に入れてたんじゃないの。入れた方がおいしいでしょう」

 まあ、そりゃそうか。

 食糧不足の時代とは違うもんな。

 時代が変わってコロッケのレシピも変わったんだ。

 お母さんはおばあちゃんのことを話すときも普段とまったく変わらない様子でしゃべる。

 今までもずっとそうだった。

 だから私は全然本当のことを知らなかったんだ。

 聞きたいけど、やっぱり聞けない。

 挽肉がカリカリに炒め上がってジャガイモに加わる。

 手際よくへらで混ぜあわせると、お母さんはいつも一口味見する。

 おばあちゃんもいつもそうやっていたっけ。

「よし、オッケー」

 手を真っ赤にしながらお母さんが成形して、粉のトレイに置く。

 私が粉をまぶして卵をくぐらせ、パン粉をつける。

 この工程まではおばあちゃんにやらせてもらっていたから慣れたものだ。

「お母さん、熱くないの?」

「熱いわよ。料理はスピード」

 粉と卵とパン粉が間に合わないくらいのテンポでジャガイモが成形されていく。

 うちでコロッケを作るときはいつも十個くらい一度に作る。

 今は三人家族になったけど、やっぱり今日も十個だ。

 成形を終えたお母さんが手を洗いながら急に昔話を始めた。

「お父さん、このコロッケが大好きでね。初めてうちに連れてきた時に、おばあちゃんが作って出したら、おいしいおいしいって一人で五個も食べてたのよ」

「へえ、そうなんだ」

「おばあちゃん、びっくりしてたわよ」

「そりゃ、そうだろうね」

「お父さんが『こんなおいしいコロッケ食べたことないです』って言ったら、めずらしく照れてたのよね」

「おばあちゃんが?」

「うん」

 おばあちゃんの表情が思い浮かぶ。

 きっと幸作さんのことを思い出したんだろう。

 スマホにクラスのグループメッセージが来て、待ち受け画面がついた。

 赤ん坊の時の私の写真だ。

 粉と卵で手が汚れているから触れないで放っておいたら画面が消えた。

「あら、今のその写真、どこで見たの?」

 お母さんが私のスマホを指差す。

 私はとっさに半分嘘を混ぜてごまかした。

「病院で、おばあちゃんが財布から出して見せてくれたの。幼稚園の頃にも見せてもらったことがあって懐かしかったから、スマホで撮っておいたんだ」

「あら、そうなの。その写真、おばあちゃんが亡くなるときに手に持たせてあげたのよ」

「ふうん、そうなんだ」

「小さな声でね、『財布、写真』って言うからね。出して見せてあげたらにっこり笑ったような感じだったのよね。おばあちゃん、最期の言葉が何だったのか、意味が分からないのよね。『さんにんめ』って言ってたんだけど」

 さんにんめ?

「え? お母さんにも?」

「ん? あなたにも言ってたの?」

「うん」

「だったらやっぱり『さんにんめ』って言ってたのね」

 でも、私にも意味は分からない。

 お母さんは揚げ物用の鍋に油を入れて火にかけた。

「その写真、おばあちゃんが撮ってくれたのよ」

 それは初めて聞く思いがけない話だった。

「え、そうなの?」

「うん、そうよ。おばあちゃん、写真なんか全然撮らなかった人だけどね、あなたが生まれた時だけ、なんでだか一生懸命写真撮ってたわよ。おばあちゃんが撮ったのはね、このときだけかな。でも、いい写真でしょ」

 そうだったんだ……。

「そういえば、あなたが生まれた時にも変なこと言ってたっけ。あなたを抱っこしながら『ふたりめ』って」

 ふたりめ?

「だって初孫でしょう。一人目でしょうって思ったんだけど、聞き間違いかなと思ったから何のことかは聞かなかったんだけどね」

 油が温まるのを待つ間、お母さんは私が生まれたときの話をしてくれた。

「お母さんね、あなたの命がお腹の中にできたときに働いてたんだけど、切迫流産になっちゃったのよ」

 流産しそうになることを切迫流産というらしい。

「それで、一ヶ月間、絶対安静で寝てなくちゃならなくてね」

 そうだったのか。

 そんな話も聞くのは初めてだった。

「おばあちゃんが毎日神社にお願いしに行ってくれてたんだけどね。ほら、公園のそばに小さな神社があるでしょ」

「ああ、ショッピングモールの向かい側の?」

「うん、今は立派になったけど、昔は目立たなくて、あんまり御利益なさそうな感じだったわよね」

 弁天おねえさんが聞いたら怒られそうだ。

「でもまあ、それでなんとか流産しなくてすんで、あなたが生まれてきたんだから、おばあちゃんのお祈りの御利益があったんでしょうね。おばあちゃんも『かわいい神様が授けてくださった孫』だって、よろこんでたもの」

 かわいい神様?

 弁天おねえさんのこと?

 かわいいというよりは妖艶だと思うけどな。

「おばあちゃんもね、昔、流産しちゃったことがあったらしくて、すごく心配してたのよ」

 お母さんの口からおばあちゃんの昔の話を聞くのは初めてだった。

「きっと自分のことみたいに心配だったんでしょうね。だから、美森が生まれてきたときは本当にうれしかったんじゃないかな。それで、たぶん、ふだん撮らない写真を一生懸命撮ろうとしたのかもね」

 私は思いきって聞いてみた。

 一番大事な話をするときは変な前置きなんかいらないんだ。

「お母さんは、おばあちゃんと血がつながっていないことを、いつ知ったの?」

 私の質問に、お母さんは顔色一つ変えずに答えた。

「結婚した時ね。戸籍を見たらそうなってて、初めて知ったわね。ふうんって感じだったけど」

 そんなものなのかな。

「全然驚かなかったの?」

「もう成人してたし、今さらそれを知ったところで、だから何って感じだったからね。だって、私のお母さんはどう考えても美森のおばあちゃんだったからね」

「おばあちゃんには聞いてみたの?」

「ううん。聞いてない」

「どうして?」

「おばあちゃんが言わなかったんだから、私も聞かなくていいでしょ。べつに困ったことなんか何もないし」

 そんなのおかしいんじゃないのかな。

 ふつうは気になって聞くでしょう?

「ねえ、美森」

「なに?」

「もしもあなたがお母さんの本当の子供じゃなかったら、どうする?」

 え?

 何それ?

 どういう質問?

「この家を出ていく? 本当のお母さんに会いに行く? なんで今まで黙ってたのかって怒る?」

 どういうこと?

 私はおそるおそる尋ねた。

「……そうなの?」

「怒る?」

 ねえ、教えてよ。

 そうなの?

 お母さんは油の具合を見つめたまま黙っている。

 ねえ、やだよ。

 どうして黙ってるの?

「私もね……」

 お母さんがようやく話してくれた。

「他の子と違って父親がいなかったり一人っ子だし、親戚づきあいもほとんど無かったから、よそのうちとは違う事情があるんだなってうすうす気づいてはいたのよ」

「じゃあ、なんで確かめなかったの?」 

「だって、物心ついたときからずっと私のお母さんだったし、血がつながっていないからって嫌いになったりするの?」

 ならない。

 そんなわけない。

 でも、私は言葉にすることができなかった。

「戸籍を見たときもね、むしろ、本当は関係のない私を実の子供以上にかわいがってくれていたことに感謝しかなかったわよ。今まで注いでくれていた愛情を思うと美森のおばあちゃんのことがもっと好きになったくらいよ」

「生みの親のことは気にならなかったの」

「私が生まれてすぐに亡くなったらしいし、一度も会ったことがなかったからね。もちろん大事な人だとは思うけど、逆にあまり気にしちゃいけないのかなと思ったかな。少なくとも、会いたいと思ったことはないのよね。悪い気持ちは持ってないのよ。でもね、私は私として今の生活があるんだから、それをわざわざ壊す必要なんかないんだって思ったのよね。おばあちゃんがちゃんと幸せな家庭を作ってくれてたんだから、今さらそれを否定するなんて、生みの親だって望まなかったんじゃないかなって」

 お母さんが私の様子をちらりと見て、少しガスの火を弱めた。

「怖かったっていうのもあるかもね。壊したら元には戻らないんじゃないかって」

 そうか。

 私はそれを壊しちゃいそうになったんだ。

 そういえば、とお母さんが話を続けた。

「鶴咲家の親戚がポロっとそんな話をしたときがあったんだけどね、トイレに行くふりをして詳しくは聞かなかったな。そのときはもう戸籍を見てたからいちおう話としては知ってたし、でも、それ以上は聞く必要がないと思ってたからね」

「それで良かったの?」

 お母さんはにっこり微笑んでうなずいた。

「それが育ててくれたおばあちゃんに対する恩返しだと思っただけ。今でも私のお母さんは美森のおばあちゃん一人だけだもん。今まであなたに話さなかったのもそういうことよ。怒った?」

 ううん。

 怒るわけない。

 びっくりはしたけど。

 私もお母さんと同じだ。

 おばあちゃんに対しては感謝しかない。

「美森はどうして知ってたの?」

 弁天様と道祖神さんに聞いたとは言えなかった。

 どうやって説明したらいいのか思いつかなかったから、また適当に嘘をついた。

「ああ、まあ、おばあちゃんに聞いたんだけどね」

「あら、そうだったの。天国まで持っていくつもりなんだと思ってたけどねえ」

 お母さんはそれ以上詳しく尋ねようともしなかった。

 ごめん、おばあちゃん。

 よけいなことしたね。

 ただもう一度会いたかっただけだったんだけどな。

 あれ、そういえば……。

「ねえ、じゃあ、私はお母さんの子でいいんだよね?」

 お母さんが笑い出す。

「ああ、ごめんごめん。だから、もしもの話よ」

 お母さんが火を止めて私を抱きしめてくれた。

「さっきも言ったじゃない。流産しかかったけど、あなたはちゃんとお母さんのお腹の中で育って元気に生まれてきたの。それはおばあちゃんが無事に生まれてきてくださいって一生懸命お祈りしてくれたからでしょ。お母さんも一人、おばあちゃんも一人。本物も偽物もないの」

 そうか。

 一人だけか。

 一人だけ……。

 頭の中に数字が浮かんでくる。

 ふたりめ。

 さんにんめ。

 道祖神さんの言葉が聞こえるような気がした。

『算数の問題』

『複雑な計算などいらない』

 二人目、三人目、それなら一人目がいるはずだ。

 一人目?

 ……ひとりめ。

 そうか。

 そういうことだったのか。

「ちょっと買い物行ってくる」

「今から? 揚げたらできるのに?」

「大丈夫、すぐ帰ってくるから」

 私は家を飛び出した。

 やっと分かった。

 事実を知ったところで、私とおばあちゃんの絆は変わらないんだ。

 一番大切なことが何か。

 それが分かっていればちゃんと受け入れられるんだ。

 おばあちゃんがそうやって生きてきたように、私にだって、それができるはずだ。

 正しいとか本物とか、そんなことよりももっと大切なこと。

 それを教えてくれていたのは、他でもない私のおばあちゃんだったんだから。

 喜びも悲しみも出会いも別れもすべてふくめておばあちゃんの人生なんだ。

 そのおばあちゃんの物語を私が勝手に書き換えちゃいけないんだ。

 道祖神さんに謝りに行かなくちゃならない。

 私が間違っていたんだ。

 ショッピングモールに寄って混雑した人波の間をぬってお菓子屋さんに急いだ。

 でも、樋ノ口屋さんのショーケースにはいつもの栗饅頭がなかった。

「あの、栗饅頭は……」

「ああ、すみません。今日はもう売り切れなんですよ。残ってるのは水ようかんだけになってしまって」

 申し訳なさそうにしている店員さんにお礼を言って私は手ぶらで外に出た。

 ショッピングモールの裏手は暗くなっていた。

 駐車場から漏れてくる照明で、かすかに道と石碑の場所が分かる程度だ。

「ごめんなさい、道祖神さん。私が間違っていました。姿を見せてくださいよ」

 頭を下げてお願いしてもぬるい風が吹き抜けていくだけだ。

『姿を現さなくてもここにいることはみんな分かっていたさ』

 それなのに姿を現してはくれない。

 栗饅頭は持ってきてませんけど、お話をさせてくださいよ。

「いるんでしょう? 出てきてくださいよ」

 やっぱり栗饅頭を持ってこないとだめかな。

「まったく、いつまで拗ねてるんだか」

 いつのまにか弁天おねえさんが石碑の横に立っていた。

「ちょっと、モリオちゃん、出てきなさいよ」

 つま先で石碑を蹴っ飛ばす。

 うわ、だめですよ、乱暴しちゃ。

「べつに美森ちゃんが悪いわけじゃないでしょう。いきなり真相を知らされてびっくりしちゃっただけじゃない。おばあちゃんのことが嫌いになったわけじゃないんだし」

 弁天おねえさんが私の気持ちを代わりに言ってくれている。

 そうなんです。

 びっくりしちゃっただけなんですよ。

「モリオちゃんがおばあちゃんによけいなちょっかい出さなければよかったのになんて、思ってないよね、美森ちゃん」

 あ、うん、ええと……、はい。

 そんなこと思ってません。

 だから、もう一度だけ、お話をさせてくださいよ。

「わしのせいじゃないだろう」

 ようやく姿を現してくれたけど、ものすごく機嫌が悪い。

 道祖神さんが顔をしかめながら弁天おねえさんに文句を言った。

「おまえさんがよけいなことをしたからいけないんだろうが」

 今度は弁天様が拗ねてしまった。

「なによ。私はただ美森ちゃんのお願いを聞いて、おばあちゃんに会わせてあげただけじゃない」

「だから、それがよけいだと言うんだろうが。わしはやめておけと言ったんだ」

「あのう……」

 神様同士のケンカの間に割って入るのは気が引ける。

 だけど、これは私の問題なんだ。

「道祖神さんがおばあちゃんと幸作さんを引き合わせてくれたことも、弁天おねえさんが本当のことを教えてくださったことも、どちらも感謝しているんです。確かに真相を知った時はびっくりしちゃったし、なんで教えてくれなかったんだろうって思ったりもしたんですけど、でも、今は違うんです。おばあちゃんのことがもっと好きになったし、おばあちゃんにお礼を言いたいんです。だから、さっきはごめんなさい。私が間違っていました」

 私は道祖神さんに頭を下げた。

「おぬしがあやまるべきなのは、わしではなかろう」

 うん、その通りだ。

「だから、私のお願いを一つ聞いてください」

「よかろう。約束だからな」

 道祖神さんが私の額に人差し指を当てる。

 目を閉じるとまぶたの裏にぼんやりと光が浮かんできた。

 光は最初ろうそくの炎のように小さく揺らいで、次第に大きく輝き始めた。

 モノクロームの風景がはっきりと浮かんできた。

 今から十六年前。

 私がお母さんのお腹の中にいた時だ。

 弁天様の神社を出たおばあちゃんがこちらへ歩いてくる。

 ショッピングモールはないけど、このころにはもう住宅街はできていたんだな。

 やって来たおばあちゃんは、道祖神さんの石碑の前にしゃがみ込んで手を合わせた。

 七十歳の元気だった頃のおばあちゃんが目の前にいる。

 流産しかけているお母さんと私のためにお祈りに来てくれているんだ。

 お母さんは弁天様のことは言っていたけど、おばあちゃんはやっぱり道祖神さんのところにもお祈りに来ていたんだ。

 道祖神さんが人と人とを結び合わせる神様だと知っていたからだろう。

 私とおばあちゃんをつなぐ場所。

 それがこの場所なんだ。

 私に気づいていないのか、おばあちゃんは目を閉じて熱心にお祈りをしている。

「あのう……」

 声をかけると、目を開けたおばあちゃんがこちらを見た。

 よかったちゃんと姿が見えるらしい。

「あら、あなたは前にお会いした弁天様のお使いの子かしら」

 おばあちゃんにとってはずっと前のことなのに、ちゃんと覚えていてくれたんだ。

「私、おばあちゃんの孫です。もうすぐ生まれてくる美森です」

 本当のことを打ち明けても、驚く様子もなく、おばあちゃんは私を受け入れてくれた。

「あら、まあ、そうなの」

「大丈夫ですよ。ちゃんと生まれてきて、ほら、こんなに大きくなるんですから」

 おばあちゃんは目尻を下げて微笑んでくれた。

「神様のお告げなら、大丈夫かしらねえ。うちの娘が無理して働いたものだから、具合を悪くして大変なことになってしまってねえ。心配してたんですよ」

「あのね、おばあちゃん」

「はい、なんですか」

「あのね、その子はね、栗饅頭が大好きだからね」

「道祖神さんのお仲間だから、好みが似てるのかしらね」

「ちょっと甘えん坊でたまに『栗饅頭なんて大嫌い』って言っちゃうけど、本当は大好きだからね」

「はいはい、分かりましたよ」

「あとね、お風呂で冷たい水をかけちゃったり、ひどいイタズラするから、その時はちゃんと叱ってあげてね」

 おばあちゃんは楽しそうにくすくす笑っている。

「あらまあ、それはいけませんねえ」

「あとね、その子、明倫館高校を受験するんだけど、落ちちゃうの。でもね、別の高校でちゃんと勉強して頑張るから。安心してね」

「あらまあ、それは大変ねえ。でも、元気に育ってくれればそれでいいわねえ」

 立ち上がったおばあちゃんが私の頭を撫でてくれる。

 泣きそうになったけど、私は最高の笑顔を見せた。

「大丈夫。元気だけは間違いありません。それがおばあちゃんの孫。この私ですから」

 私の体が透けていく。

 おばあちゃんが驚いた顔で見つめている。

 景色が回り始める。

 つくしを取った春。

 手提げ袋を引きずっていたピアノの帰り。

 時代劇を見ていたおばあちゃんの部屋。

 一緒に食べた栗饅頭の味。

 病院の部屋になって、回転が止まった。

 癌で入院したおばあちゃんがベッドの上で小さな赤ん坊を抱いている。

「さんにんめ」

 やせてしまったおばあちゃんだけど、赤ん坊を見つめている表情は明るい。

 さんにんめ?

 生まれてくることを予告した一人目の私。

 実際に生まれてきた二人目の私。

 そして、さんにんめ。

 この赤ん坊は誰?

 病室に中学の制服を着た私が入ってきた。

 ほんの数ヶ月前の私だ。

 自信のなさそうな顔でキョロキョロしている。

 私、こんな顔してたんだな。

 元気になってもらおうとしてたのに、もう、心配してるのがばればれだ。

 おばあちゃんはあの時のように、お財布を出すように言って、中から千円札を取り出して私に握らせた。

 その時に、おばあちゃんはお財布の中に入れてあった写真を見てにっこりと微笑んでいるのだった。

 そうだったんだ。

 写真を見るために私にお財布を出してくれと頼んでいたんだ。

 お金をくれていたのは、ついでだったんだ。

「ねえ、美森」

 え、何、おばあちゃん。

 おばあちゃんが話しかけているのはお見舞いに来ている方の私だった。

 泣きそうな顔の私におばあちゃんは穏やかな表情で語りかけている。

 しっかりしなよ、私。

 ベッド脇に立ち尽くして、そんな顔してたらおばあちゃんが悲しむじゃないよ。

「人はね、つながっているの。一人の時も、一人じゃないの。それを教えてくれたのが道祖神さんと、そして、生まれてくる前のあなた」

 この頃のおばあちゃんは、しゃべるのも大変そうで、もうほとんど声が出せなくなっていたんだった。

 おばあちゃんがせっかく話しかけてくれているのに、私は涙をこらえているばかりで全然気がついていない。

「泣かなくてもいいのよ。ううん、泣いてもいいのよ。相手のことが好きだったその気持ちが嘘でないなら、もう二度と会うことはできなくても寂しくはないの。相手だって自分のことをずっと覚えていてくれるんだから。おばあちゃんも美森のことを決して忘れたりはしないから」

 ごめん、おばあちゃん。

 そんなことを言ってくれていたなんて、知らなかったよ。

 うん、でも、大丈夫。

 ちゃんと受け取ったからね。

 おばあちゃんの気持ち。

 病室に男の人が入ってきた。

 幸作さんだ。

「あらまあ、迎えに来てくれたんですか。もう一度一緒に栗饅頭を食べるのを楽しみにしていたんですよ」

「僕はコロッケが食べたいですよ」

「もうすぐ作ってあげられますからね。それより、ほら……」

 おばあちゃんは抱っこした赤ん坊をあやしながら幸作さんに見せている。

「ほら、見てくださいな。かわいいでしょう。さんにんめ。美森にそっくりでしょう。私たちのひ孫ですよ」

 生まれてくることを予告した一人目の私。

 実際に生まれてきた二人目の私。

 そして、三人目の私。

 写真の私を見て、おばあちゃんは私そっくりのひ孫が生まれてきたと思ったんだ。

 だから、にっこり笑って『三人目』って言ってたのか。

 たとえそれがもうろうとした意識の中での勘違いだったとしても、おばあちゃんにとって何よりも大切な家族が続いていくことを喜んでいたんだ。

 家族の絆がつながっていく。

 たとえ血のつながりがなくても、たとえ自分の命は消え去っても、それでも家族の絆は続いていくんだ。

 おばあちゃん。

「あら、あなた……」

 あれ?

 おばあちゃんが私を見ている。

 見えるの?

 こっちの私のことも。

「おばあちゃん」

「約束通り生まれてきてくれてありがとうね」

「うん。私、ちゃんと頑張ってるからね」

「美森は頑張り屋さんだからねえ。たまには栗饅頭でも食べながら『ああ、疲れた』って言えばいいんだよ」

「うん。友達がうれしそうにしていたら、自分のことのように喜べる人になるからね」

「そうだねえ。それなら安心だねえ」

 おばあちゃんの体が透けていく。

 病室の風景もかすんでいく。

 私の体も薄くなっていた。

 待ってよ。

 ねえ、もう少しだけ、ねえ、おばあちゃん。

 かすかにおばあちゃんの声が聞こえる。

「美森」

「何、おばあちゃん」

「道祖神さんにお礼を言っておいてね。お願い事をかなえてくださってありがとうございましたって」

 おばあちゃんのお願いごと?

 なんだっけ?

 便秘……じゃなくて……。

 なんだかよく分からないけど、まあいいや。

「うん。栗饅頭を持ってお参りに行くよ」

 おばあちゃんがにっこりと微笑む。

 私はその姿が消えてなくなる前にちゃんと言った。

「おばあちゃん、ありがとう。大好きだよ」

 おばあちゃんの微笑みが消えていく。

 待って、まだ消えないで。

 私はとっさに両手を広げて腕を伸ばした。

「私ね、おばあちゃんの孫でよかった」

 目の前が真っ暗になる。

 でも、それは冷たい闇ではなかった。

 まるでおばあちゃんに抱っこされていた時のような。

 あたたかな優しさに満ちた静寂だった。

 みもり……。

 なあに。

 ……おばあちゃん。

 みもりちゃん……。

 ……美森ちゃん

「ここがあなたのたどり着く場所」

 気がつくと私は道祖神さんの石碑の前に立っていた。

「お帰りなさい」

 私は弁天おねえさんの胸に抱かれて泣いていた。

「ちゃんと言えました」

 道祖神さんがうなずいていた。

「あのう、結局、おばあちゃんのお願い事って何だったんですか」

「まだ分からんのか。そんなの一つに決まっておるだろ」

 そうか。

 そういうことだったのか。

 家族の絆。

 おばあちゃんの願い事。

 それはおばあちゃんの家族がつながることだったんだ。

 血のつながりはなくても、大切に思う気持ちを持った家族の絆が続くことを願っていたんだ。

 だから今までずっと私たちは家族であることを疑わなかったのか。

 家族の絆。

 それを結びつけて守っていてくれたのが道祖神さんだったんだ。

 だから私はこの場所でいろいろな人に出会って結びあい、結ばれあってきたんだ。

「ありがとうございます」

 私は弁天おねえさんに抱きつきながらお礼を言った。

「おい、おい。礼を言うのはこっちじゃないのか」

 道祖神さんが拗ねている。

「モリオちゃんには後であたしがたっぷりギューッてしてあげるから」

「つまらんのう。何十年もおまえさん達一家を守ってきてやったのに……」

 道祖神さんにもお礼を言いたいのに弁天おねえさんが私を離してくれない。

「日頃の行いが悪いんだからモリオちゃんの自業自得でしょ」

 ああ、まあ、確かにそうかも。

 でも、ちょっとかわいそうな気もする。

「いいのよ。あいつスケベおやじなんだから。どさくさに紛れてどこ触られるか分からないわよ」

「尻は触り飽きたわい」

 うわ、サイテー。

 まあいいや。

 また今度改めてお礼を言いに来よう。

 私は涙を拭いて家に帰った。

「どこ行ってたのよ。コロッケできたわよ」

 お母さんがテーブルにお皿を並べていた。

「ごめん、今手伝うよ」

 ちょうどお父さんも帰ってきた。

「お、今夜はコロッケか」

「今日はね、美森が手伝ってくれたのよ」

「へえ、そりゃ、楽しみだな」

 お父さんが一つつまんでソースもつけずにかじりついた。

 サクッといい音が聞こえる。

「あ、お父さん、つまみ食いはダメ!」

 育ち盛りの子供じゃないんだから。

 どっちかっていうとメタボだよね。

「うまいなあ」

 お父さんは満足そうに席についた。

「もう、お行儀悪いんだから」

「おばあちゃんの味が受け継がれたってことだな。こいつは何もつけなくても本当においしいからなあ」

 そんなお父さんの笑顔を見ながらお母さんも席に着いた。

「じゃあ、食べましょうか」

 三人そろって、いただきまーす。

 そう。

 つながっている。

 味も記憶も、そして、気持ちも。

 それが家族なんだ。


   ◇


 翌日、日曜の午前中に、翔弥さんから秀太君が遊びに来ているという連絡が来た。

 散歩に行くというので、道祖神さんのところで会う約束をした。

 動画は見せてもらってたけど、会うのは久しぶりだな。

 ちょっとは大きくなったのかな。

 少し早めに来て、石碑の隣の岩に腰掛け、蝉の四重奏を聴きながら秀太君を待つ。

 気温は三十度を超えていたけど、岩のところはちょうど木陰に入っていて、ちょっとだけ涼しい気がする。

 もうすぐ七月だ。

 そういえば高校の試験ももうすぐか。

 また頑張ろうっと。

 今日はちゃんと道祖神さんのために樋ノ口屋さんの栗饅頭を買ってきた。

「おう、また来たのか」

 白装束のお爺さん姿で道祖神さんが現れた。

 いきなり栗饅頭をつまみ上げてひょいと口に放り込む。

 もう、お行儀悪いんだから。

「しかたないだろ。うまいものを我慢するのは神にでも無理だ」

 なんて、そんなこと言ってるけど、ほら、また喉につかえてる。

 私はステンレスボトルのお茶を差し出した。

「ああ、うまい。最高だな、おまえさんのお茶は」

 おばあちゃん譲りのいれ方ですからね。

 ふうと、一息ついた道祖神さんが空を見上げながらつぶやいた。

「栗饅頭にしろコロッケにしろ、それにこのお茶にしろ、同じ味を受け継ぐことだって家族の形の一つだろうさ。同じものを食べておいしさを喜び合う気持ちに嘘はあるまい」

 そうですね。

「まあ、なんだかんだ言って、おまえさんはおばあちゃん孝行な孫だったってことさ」

 そうですか?

 道祖神さんがうなずく。

「なんの疑いもなく甘える孫は、戦争で親に甘えることのできなかった初世さんにとって、幸せの象徴そのものだったんだろうが。自分ができなかったことを、自分がさせてやれる喜び。それをおばあさんにあたえてやれたのがおぬしだったんじゃろうよ」

 私がおばあちゃんにしてあげられたこと。

 思いっきり甘えてかわいがってもらうこと。

 それがおばあちゃんの喜び。

 しあわせ。

 そうか。

 だから私も幸せだったんですね。

「結びつけてくださって、ありがとうございました」

 お礼を言うと、道祖神さんが私をじっと見つめていた。

 なんだか初めて見る優しい顔だ。

「百年以上わしはここにいる。景色は変わっても、人の気持ちは受け継がれていく。人が行き来し、人と人が出会う。それを結びつけるのがわしの仕事だ。それはこの先百年もまた変わらんだろうさ」

「これからもここに来たら、いろんなお話聞かせてくれますか」

「わしの好物は知っておるじゃろ」

 道祖神さんはニヤリと笑みを浮かべると、急に姿を消してしまった。

 あれ、誰か来たのかな?

 ふりむくと小さな男の子をはさんで歩く家族連れの姿が目に入った。

 ひょこひょこと歩く男の子の顔には見覚えがある。

「あ、秀太君!」

 翔弥さんと絵梨佳ちゃんが一緒だ。

 なあんだ。

 どこかの家族かと思ったら、夫婦でも親子でもなかった。

 私が手を振ると秀太君が両手を広げて突進してくる。

「ねーたん、ねーたん」

 しゃがんで待ち構えていたらドーンと勢いよく私の胸に突っ込んできた。

 うわお!

 お相撲強いね。

 尻餅ついちゃった。

「あ、こら、秀太、ダメじゃないか」

 翔弥さんがあわてて駆け寄ってきて秀太君を抱き上げようとした。

 するとワンパク少年は両腕をあげてずるりと器用に抜け出して私に抱きついてきた。

「じょじょぶ? じょじょぶ?」

 ああ、うん、まあ、大丈夫だよ。

 でもね、キミがやったんだけどね。

 あ、そういえば。

 今日、私スカートなんだった。

 もしかして、チラリズム?

 翔弥さんの顔が耳まで赤い。

 あ、これは大丈夫じゃないやつだ。

「見ましたね」

 立ち上がってそっと尋ねると、翔弥さんがあわてて首を振る。

 バレバレじゃないですか。

「絵梨佳ちゃんに告げ口しちゃおうかな」

「かんべんしてよ。せっかくつきあい始めたんだから」

 あら、いきなりなんの告白ですか。

「鶴咲さんのおかげだよ」

 え?

 何が?

「昨日、急にいなくなっただろう。あの後、ちゃんと二人で話したんだよ。きっと、わざと僕らを放置して背中を押してくれたんだろうなって」

 いやいや、そんな余裕なかったんですよ。

 自分勝手な行動だったんですから。

 まあ、でもそれで二人が結びついたんだったら、私も役に立ったってことなのかな。

 秀太君が絵梨佳ちゃんの脚にまとわりついて又くぐりをしている。

 絵梨佳ちゃんは七分丈のデニムだからチラリの心配はないか。

 翔弥さんがそんな二人のじゃれあいを眺めながら言った。

「せっかく鶴咲さんが導いてくれた出会いなんだから、大切にしたいと思ってるよ」

 それはなによりですね。

 秀太君が私の前に来て、両腕を伸ばして背伸びする。

「ねーたん、ねーたん」

 抱っこしてあげるとウケケケと大笑いしながら喜んでいる。

 思えば秀太君だって、知り合った頃は家族がバラバラになりかけていたんだった。

 いつだってそこにあるようでいて、壊れやすく、なくなりやすいもの。

 だから大事なんだね、家族って。

「秀太ね、今度お兄ちゃんになるんだってさ」

 翔弥さんが思いがけないことを教えてくれた。

「え、そうなんですか?」

「うん、二人目ができたんだってさ。今までなかなかできなかったのにって、叔母も驚いてたよ」

「へえ、よかったですね」

 私の腕の中で秀太君が両手を上げて叫ぶ。

「たっちぃ、ふたっちぃ」

「ああ、そっか。そうだね、ふたっちだね。あはは」

 ひとりめ、ふたりめ。

 もしかしたら三人目。

 家族は続いていく。

 つながっていく。

 いろんな形はあるけれど、どれもみなそれぞれの家族なんだ。

 笑いながらちょっとだけ涙が出た。

 行く人来る人、どこにいても心がつながっている。

 道端の小さな神様が結んでくれた私たちだから。

 ね、おばあちゃん。


                                   了

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ゆく人来る人結びます 道端の小さな神様のお話 犬上義彦 @inukamiyoshihiko

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