月よりも。

音無 蓮 Ren Otonashi

君の話。

 ――祭囃子が遠くで木霊している。人ごみに無縁の僕らは、真夏の灼熱を一身で受け止め、まだその温さが残っている屋上でブルーシートを広げた。

快晴の夜色を浴びた僕らは、仰向けになって、肩と肩は触れ合わせた。

 彼女の浴衣は開けていて、月光を乱反射する真っ白な肩がちらちらと見え隠れしている。僕は唾をゴクリと大袈裟に呑んでやった。

「月が綺麗ですね、せんぱい」

「月は、綺麗だな」

「……助詞をすり替えて意味を勝手に変えちゃわないでくださいよ、愛しの後輩が泣いちゃいますよ?」

「愛しの後輩? はて、誰のことだろうな」

「しらばっくれないでくださいよ。傷つきますからね私」

 ぶすーっ、と唇を尖らせた後輩の女の子が足をばたつかせた。おかげで浴衣の裾が左右に分けられていき、彼女のほっそりとした、けれど病的ではない、黄金比の両足がもう少しで全貌を露わにしてしまいそうだ。

 目に毒だ。女性経験が薄すぎる僕にとってはなおさら。

 こちらの目線に気付いたのだろう、彼女は小悪魔スマイルを浮かべながら、衣をゆっくり剥がしていく。

 落ち着いた、蒼の布地によって梱包されていた少女の少女性を象徴する瑞々しいそれが僕の両目に毒を塗りたくる。そう、彼女はまさに僕にとっての毒物だった。

 猛毒だった。

「ほらほら、せんぱいの好きな、私の脚ですよ。それも、両脚です。おさわりしても、いいんですからね? ぜひぜひ堪能しちゃってくださいよ」

「やーめろ生足を見せつけるな押し付けてくるな、足の指を僕の上で踊らせるな、こそばゆいからさあ」

 ふふっと、吹き出した彼女は、器用に両脚の指をわきわきと蠢かせた。彼女の脚の先についた繊細なパーツが、ブルーシートの上に投げ出した僕の素足をつぅ、と滑っていった。背筋に走る電流が口元に表れてしまいそうだったから、必死に唇を噛み締めて無表情を貫こうとした。

「せんぱいったら顔に出てますよ。くすぐったがってるのがバレバレですって」「君なぁ、からかうのも大概にしてくれよ」「いいじゃないですか、少しくらい。せんぱいなんて、どうせ私以外の女の子とはろくに話せないんですから。それにせんぱいに見られたところで減るものじゃないですし」「裏を返せば僕以外に見られたら減るってことなのかええおい」「深読みし過ぎですよ、私の言葉を真っ当に受け取ってくださいってば」

 後輩の、呆れたような溜息が耳元を柔く塞いだ。電流がほとばしるような、甘い痺れに脳味噌が焦がされるような心地だった。

「せんぱい以外に見せたら、きっとわたしの可愛さは半減しちゃいますよ。半減どころじゃない、たちまち虚無が残りますから」「……行き過ぎた卑下だな」「これこそ正しい論理です。だって私はせんぱいの――、」

 後輩が何かを言いかけたところで、背景がたちまちパっ、と晴れ渡った。

 祭りといえば、

「花火、だな」

「花火、ですね。こういうときって、『たまや、かぎや』って煽るのが定説なんでしたっけ。鍵を売ってるわけでもないのにどうして鍵屋なんでしょうね」

「昔々に花火市場を独占していた二つの店のことなんだよ。元々あった玉屋とそこから暖簾分けした鍵屋で、花火大会にて両店を応援するために掛け声を挙げたのが始まりらしい」

「……せんぱい、もしかして直前に調べてきました?」

「ご名答。ちょっとでも後輩に慕われるようにな」

 素知らぬ顔してうそぶいた。

 宙へ跳ねた火薬の球が燃えて弾けて、散開する。

「それ、隠さなきゃ無駄じゃないですか」

「君相手に隠せると思ってねえよ、後輩」

「へへ。だって、私ったらせんぱいの考えていること全て、手に取るようにわかってあげられるんですから」

 いつからか。

 彼女はそんなことを口にするようになった。

 口にするようになってから、後輩の身体はふわっと軽くなった。まるで、捉えどころのない雲、のように。

「じゃあ、おかえししましょうか」

「何も君にくれてなんかないけどな」

「返報性の原理なんて知ったこっちゃないですよ」

 そういう意味だったかしら、返報性の原理って。

 誤用だったとしても、後輩の彼女にとっては些事に過ぎないらしい。ゆえに、僕が疑問に深く悩むより前に、彼女は口火を切っていた。

「夏祭りって何のためにやっているんですか?」

 その蘊蓄は、僕にとっての予定調和だった。

 ブルーシートの上に、影一つ。僕は腕を空に伸ばして。

 遺す。

「――君のためだ」

 月を掴んだ。耳元で、彼女の微笑と微かな吐息が艶めかしく滞留していた。

 薄い雲間に隠れていくおぼろ月は、僕らの影を薄くしていく。一つだけだった影を薄く、ぼかしていく。


 まるで。

 僕と君とが、一つになるような、そんな薄暗く湿っぽい、甘美に舌はふるりと震えていた。唾液を舐め回すと、かつて僕の現を淀ませていた、あの匂いがした。


 恋とは毒で、愛とはきっと呪いだ。

「夏祭りの夜になると、君のことを思い出してしまう」

 何年経とうとも、ベタなモノローグを振り払うことすらできない僕はきっと、彼女の呪いを背負い続ける道化だ。

「……ねえ、せんぱい」

「なんだよ、後輩」

 ツーと、カー。聞かざる言の葉なんて僕らの仲じゃ度し難いナンセンスだ。


「 」


 鍵括弧の内側は、黄金を解き放つ、大輪の柳に上書きされてしまった。

「ああ、そうだな」

 空白を都合のいい愛の囁きに変換して、呼応さえすればよかった。たったそれだけの演技で僕は、彼女は救われるのだから。

 伸ばした腕で何かを掴む。

 それはきっと、虚空を握っただけに過ぎないけれど。

 掌に不確かな誰かの温もりがあったのなら、今はきっとそれでよかった。

「月よりも、」

 また来年。

僕は、愛すべき後輩の呪いを背負っていく。

「 ――綺麗だ」

 応酬なんて。

微笑を浮かべる彼女の虚像くらいしかないのだけれど。

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