桜花は一片の約束~DREAM SOLISTER~

猫柳蝉丸

本編



――わたし、忘れないよ! 絶対、絶対に! ずっと好きでいるから!



 五年前、日本を離れる数日前、桜の花が舞い散る下で杏子ちゃんにそう言われた。

 杏子ちゃん、僕の一つ下の幼なじみ。

 絹のような長い黒髪、桜色のリボンがよく似合う可愛い女の子。

 僕と杏子ちゃんは中学生の頃から三年間ずっと交際していた。

 その日は、そう、桜花が舞い散る桜の樹の下で、日本での最後のデートをしていた。

 高校三年生にして早過ぎるかもしれないけれど、将来的には杏子ちゃんと結婚して家庭を築きたいとさえ考えていた。そのくらい僕は杏子ちゃんが好きだったし、杏子ちゃんも僕の事を好きでいてくれたはずだ。

 だけど、僕には杏子ちゃんの側には居られない事情があった。

 別に僕が浮気をしたわけでも、許されない恋愛関係だったわけでもない。

 自分で言うのも何だけれど、僕にはピアノを演奏する才能があったんだ。

 日本で勉強し続ける事も出来たけれど、僕はどうしても本場の音楽を学びたかった。僕のピアノで世界中の人々に音楽を届けたかったんだ。それで高校卒業を機に、フランスに留学に行く事になった。

 悩んだのは、勿論、杏子ちゃんの事。

 杏子ちゃんは幼なじみで、恋人で、将来を誓い合いたい相手だったけれど、流石に留学先まで付いて来てもらうわけにはいかなかった。杏子ちゃんには杏子ちゃんの生活もあるし、そんな杏子ちゃんの交友関係まで奪ってしまうわけにはいかなかった。

 僕は悩んだ。ピアニストとしての夢と杏子ちゃん、どちらを選ぶべきなのかと。

 長い付き合いなんだ。僕が悩んでいたのを杏子ちゃんも感じ取ってくれたのだろう。

 高校三年生のクリスマスの日、杏子ちゃんは僕の背中を押してくれたんだ。



――知ってると思うけど、わたしね、真司くんの弾くピアノ、大好きなんだ。だから、フランスで本格的な勉強をして、真司くんの目指すピアノを聴かせてほしいな。



 正直、涙が出るほど嬉しかった。そこまで僕の事を考えてくれるのかと思った。

 杏子ちゃんの期待に応えるためにも、精一杯、思い切り、本場のピアノを学ぼうと決心した。

 そうして、留学が終わって帰国したら、プロポーズして温かな家庭を築くんだ、きっと。

 見上げると桜が舞い散っていた。フランスにも少しは桜くらいあるだろうけれど、日本で見る桜はこれで見納めだ。目に焼き付けながら、僕は杏子ちゃんを抱き締めた。僕は、忘れない。僕の幼なじみで恋人の杏子ちゃんを忘れない。絶対に大切してみせる。ピアニストとしての夢を叶えて、きっと迎えに日本に戻る。

 そう決心しながら、杏子ちゃんの桜色のリボンを撫でていた。

 ずっとずっと、撫でていた。

 僕達の素敵な未来を叶えてみせると胸に一つの約束を刻んで。





 そうして五年、僕は日本に戻ってきた。

 一流のピアニストとまではとても言えないけれども、それなりの規模の公演程度なら席を埋められるくらいの実力を身に着けて。

 見上げると桜が待っていた。五年前、杏子ちゃんと最後にデートしたのと同じ公園。幸い、僕達が未来を約束した桜の樹は行政や災害に切り倒される事もなく、その場で咲き誇っていてくれた。

 桜が舞っている。桜花が散っている。妖艶に、美しく輝いて、あの日と同じように。

 僕は待っている。杏子ちゃんを待っている。今日は別に待ち合わせはしていない。それでも杏子ちゃんはこの場所に姿を見せてくれるはずだと確信している。この公園はとても桜が綺麗に咲く場所だから。だからきっと、桜が好きな杏子ちゃんは約束なんて関係無く、桜を見上げに来るはずなんだ。

 それくらいは分かっている。将来を誓い合いたいくらい好きだった幼なじみなんだ。それくらいは分かっている関係なんだ、僕達は。

 そして、この公園に足を踏み入れて一時間も経っていないのに。

 ほら、やっぱり。

 あの日と同じように、

 トレードマークの桜色のリボンを結んで、

 笑顔の杏子ちゃんが、

 桜の樹の下に。

 その腕に。

 可愛らしい赤ちゃんを抱いて。

 ………。

 ……。

 …。

 でしょうね!

 後輩の山本くんから聞いて知ってたけどね!

 杏子ちゃんがその腕に抱いているのは、当然ながら僕の子供じゃない。杏子ちゃんとは五年前にあの桜の樹の下で別れてから会っていない。メールのやり取りくらいはしていたけれど、一年も経つ頃にはいつの間にか途切れていた。忙しいんだろう、と勝手に決め付けて放置していたけど、やっぱりこういう事になっていたわけだった。

 ずっと好きでいるから! とか言ってたんだけどなあ……。

 早かったよなあ……。

 いや、別に責めているわけじゃない。妙に納得してしまっているだけだ。

 大体さ、五年待たせるって、幼なじみの恋人とは言え自分でもどうかと思うわ。五年どころか、一年メールを続けてくれていただけ杏子ちゃんはむしろ誠実とさえ言える。ただ待ち続けるという時間は非常に長い。僕もフランスに居た頃、コンクールの順番が回ってこなくて辛い時期があったから痛いほど分かる。

 そもそも将来的に結婚するつもりだったのなら、無理矢理にでも杏子ちゃんをフランスに連れていくべきだった。何なら杏子ちゃんと子供を作っておいて、フランスで子育てしながらピアノを習ったってよかったんだ。

 どうしてそれをしなかったのか?

 正直に言おう。面倒臭かったんだ。僕はピアノが好きだった。大好きだった。愛していると言っても過言じゃない。そのために余計なものを切り捨てる必要があった。それだけの事だったんだな、本当は。

 夢と恋人。両立させるのは難しい。いや、難しいというより面倒臭い。両立出来ている人だっていくらでもいる。それでも、両立出来ない人だってたくさんいる。僕が両立出来ない人間だったってだけだ。

 でも、それって珍しい事でもないと思う。普通に付き合っていても面倒臭いと思う事はいくらでもある。やりたい事を我慢してデートを優先するなんて、極普通の恋人達の間でも日常的に行われている事だと思う。恋愛だけが人生の全てである人種以外は。

 そして、僕は恋愛だけが人生と言い切れる人種じゃなかった。夢と恋人。両者を天秤に掛けて、即座に恋人を選ばずに選択を保留にした時点で、こうなる未来は決定していたようなものだった。

 後悔は無い。杏子ちゃんを選ばなかったおかげで、僕は五年間もピアノに邁進出来た。自画自讃かもしれないけれど、このピアノの腕前のおかげで一生衣食住に困る事は無いだろう。結婚だっていつかはそれなりに好きなそれなりのビジネスパートナーと出来ると思う。世間一般的には成功の部類に入る人生を送れるはずだ。

 ただ思う。桜の舞い散る下で幸せそうに微笑む杏子ちゃんを見て思う。

 女の恋は上書き保存らしい。当然だ。女の旬は短いのだから。杏子ちゃんはその短い旬を逃さないために僕ではない誰かを選んだ。過去の思い出のひとかけらに過ぎない約束よりも、新しい幸福を選んだんだ。

 僕と杏子ちゃん、どちらが幸福なんだろう。

 ピアノと杏子ちゃん、どちらを選ぶのが本当の意味で幸福だったのだろう、と。

 浅ましい未練だった。考えてみたところで僕が杏子ちゃんを選ばなかった過去は変わらないし、もう二度と杏子ちゃんの笑顔が僕に向けられる事もない。僕達の関係は五年前には既に終わっていたんだから。

 ただこの目に焼き付けておきたかった。杏子ちゃんに見つからないように桜の樹の後ろに隠れて、僕の選ばなかった未来を焼き付けておきたかったんだ。そのために帰国した。大切なものを切り捨てて身に着けたピアノの腕を実感するために。

 後悔は無い、決して。過去の約束に縛られもしない。

 僕は明日またフランスに戻る。思い出の桜と幸福そうな杏子ちゃんを目に焼き付けて戻る。またピアニストとしての忙しい日常に戻る。圧し潰されそうな重圧と向き合いながらも、音楽という戦場に戻っていく。自分の選択したピアニストという職業を全うする。公演が終わったらいつか杏子ちゃんと飲もうと思って五年前に購入しておいたワインの封を開ける。全て飲み干してしまう。翌朝には二日酔いで目覚める。そうして朝日に照らされて少しだけ泣いてから――






――またピアノという夢の道を歩いていく。



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