君の手を離すとき

月之 雫

君の手を離すとき

「お兄ちゃん、いる?」

 静かなリビングに向かって話しかける。私の世界は闇。自分で兄を探すことさえ難しい。

「おう、モモカ、おはよう」

 キッチンの方から聞きなれた兄の声が聞こえた。それだけで安心する。何も見えずとも14年間暮らしてきた自分の家の中なので別に何をするにも一人で大丈夫なのだけれど、兄がいるとなんとなく気分が上がる。

「朝飯食うか?」

「うん。お母さんは?」

「なんか出かけてったわ。今日は俺が送ってく」

 兄とは年が12離れている。生まれてすぐに病気で視力を失った私を両親と共に育ててくれたといっても過言ではない。両親は目の見えない私でもちゃんと生きていけるようにとわりと厳しいのだが、兄には随分甘やかされている。年の離れた妹は可愛いとよく言われるが、その上目が見えないとあっては、俺が守ってやらなきゃみたいな思いも上乗せされているのだろう。

「ねえ、お兄ちゃん、今日の夜お祭りに連れていってほしいの」

 私のお願いには大体何でも即答でOKする兄だが、一瞬の間があった。理由はわかっている。今夜行われるのは毎年行なわれている地元でもわりと大きなお祭りだ。今年は彼女を誘っていることを私は知っていた。電話で話しているのが聞こえてきたからだ。

「いいよ、わかった。仕事なるべく早く終わるようにするから、待ってて」

 兄の逡巡はほんの一瞬だった。返事はいつもと変わらず快い承諾だ。

(いいんだ…)

 彼女よりも私を優先する。それは正しいことなのだろうか。兄にとって不利益なのではないか。わかっていてしたことだけれど、複雑な気持ちになる。

「モモカと祭り行くの久しぶりだなあ。人混み嫌いなんじゃなかったか?」

 祭りのようなたくさんの人が不規則に行き交う場所は、目の見えない私にとっては非常に行きにくい場所だ。白杖だって邪魔になるし、人に迷惑しかかけない。

「お兄ちゃんがいれば平気だし、私だってたまにはお祭り気分味わいたいもの」

「だけどさすがにもう抱っこできないしな、大丈夫か?」

「そんなこと望んでないから!手を繋いでくれればいい」

「そうか」

 残念そうな声で兄は呟く。小さい頃は抱っこでどこにでも連れていってくれたことを思い出す。多分祭りに行くのはそんな年頃以来だ。兄の脳内ではその時の思い出と直結しているのだろう。私が3つ4つで兄が高校生ぐらいの頃、あの時の祭りのいつもとは違う空気感にドキドキした思い出が私の中にも微かに残っている。楽しいところだと知っている。けれど怖さが優ってしまって足が遠のいていた。それを知っていたからこそ兄は彼女を誘ったのだろうけれど、今年はどうしても行きたかったのだ。




 帰宅した兄は私のために浴衣を買っていた。普段より随分早い帰宅なのに買い物までしたとなると、いったいどんな早さで退社してきたのだろう。彼女との約束を断ってまで妹のわがままに付き合うにしては、楽しみにしすぎである。

 浴衣なんて着た記憶がないからどんなものなのかもよくわからないけれど、母にされるがままになって着せられる。一つ一つ、形状や色や柄を母が説明してくれるので徐々に頭の中で想像が形になった。髪も結ってくれてこれで完成よと送り出される。崩さないようにそっと頭を触ってみるが、どうなっているかはいまいちよくわからない。

「可愛いよ、モモカ。ちょっと写真撮らせて」

 兄の嬉しそうな声と共にシャッター音が何度も響く。自分がどんな風に兄の目に映っているのか私にはわからないけれど、喜んでくれるなら嬉しい。けど写真は撮りすぎである。

「行こうか」

「うん」

 兄の手が私の手を優しく包み込んでそっと引く。それだけで外の世界も怖くなくなる。



 会場までは普通に手を引かれて歩いたが、ざわめきが近づいてくると腰を抱くようにして引き寄せられた。

「離れるなよ?こうしてたらほら、ただのいちゃつくカップルだろ。だれもモモカのことを特別な目で見ない」

 喧騒にかき消されないように耳元で兄が囁く。

 どうしていつも、何も言わなくても兄には私の気持ちがわかるのだろう。年の差ももちろんあるのだろうけれど、いったいどれだけ兄は私のことを見てくれているのだろうか。私には兄の表情すら見えないのに。

「お兄ちゃん、何か食べたい。いい匂いがいっぱいする!」

 人もたくさん、出店もたくさんでいろんな音と匂いが混じり合っている。カオスだ。だけどそれが妙にワクワクする。何も判別がつかなくても怖くはない。隣に兄がいる。

「何がいい?えっと、ここから見えるのは、たこ焼き、焼きそば、りんご飴、チョコバナナ、からあげ、イカ焼きってところだ。人がいっぱいで奥の方はわかんねえな」

「わあ、どれも惹かれるなあ。じゃあね、イカ焼きとチョコバナナ」

「よし、順番に行くぞ」

 人混みを移動し始めると、普段接しないような距離を他人がすれ違っていくのを感じる。だけどぶつかることのないよう兄は巧みに私の体を導いていく。14年間目の見えない妹を連れて歩いて身についた感覚なのかもしれない。

 なんとか目的の物をゲットすると、メイン通りの人混みを離れ、人の少ない場所に抜ける。喧騒が次第に遠くなり、何だかもの寂しいような妙な気持ちになる。

「ここ、座れるから」

 ペチペチと兄の掌がベンチを叩く音がする。石でできた椅子かなと音で判断し、自分の手を伸ばす。綺麗に平らに磨かれた石の冷たい手触りがした。そこに腰を下ろし一息つく。

「疲れたか?」

 目の前に兄がしゃがんだ。座るところは一人分しかないようだ。

「平気。楽しい。お祭りってこんなだったんだ。小さい時のうっすらした記憶しかなかったから」

「イカ焼き食うか?」

「うん」

「串に刺さってるからな、気をつけてかぶりつけ」

 ワクワクしながら口を開けると醤油の香ばしい香りが近づき、弾力のあるイカが口内に飛び込んでくる。思ったより大きくて驚きながらぎゅっと噛み切った。

「ん、おいひい」

「俺も食っていい?」

「いいよ」

「何でか祭りの食いもんってうまいよなあ。多分普通に食ったらたいしたことないやつなんだろうけど」

「雰囲気?空気?そういうのは私にもわかるよ」

「連れてきた甲斐があったな」

 兄の手が私の頭を撫でる。

「口、醤油ついてる」

 そう言って笑うと、兄の指が私の口元を拭った。ペロリとその指を舐める音が聞こえる。

 いつまでも子ども扱いだ。実際まだ子どもなのだけれど、そういうことではなく、扱いが幼児のままな気がする。

(でもね、私だってもう中学生なんだよ。いつまでもお兄ちゃんがいなきゃ生きていけないわけじゃない)

「お兄ちゃん、ありがとね。来年からは彼女と行ってあげて。私はもうお祭りの記憶ちゃんとできたから満足」

 幼い頃の微かな記憶しかなかったから知りたかったのだ。兄と祭りに行った思い出が欲しかった。

「モモカ…?」

「だってもうお兄ちゃんも26でしょ?結婚とかも考えるようになる年じゃん。いつまでも私が独り占めするわけにいかないってわかってるんだからね」

 家であまりそういう話はしないけれど、これまでにも何人か兄にも彼女がいたことは知っている。兄には兄の人生があるのだ。いつまでも父母兄妹の家族ではいられない。中学生にもなればそれぐらいはわかる。兄の青春を私は奪ってしまったのかもしれない。最近そんなことを考える。

「俺は別に無理なんかしてないし、お前のために犠牲になってるとか微塵も感じたことないぞ。俺がただシスコンなだけだ。変な遠慮するな」

 兄はそう言って私の手を握る。それは多分兄の本心なのだと思う。けれどそれではいけない気がするのだ。

「それが駄目なんだって。今日だって私のために彼女との約束キャンセルしたでしょ。知ってるよ?彼女より妹優先させてたら逃げられちゃうよ」

「そんなことない」

「だってお兄ちゃん、私と彼女と3人でいたとしても、彼女じゃなくて私と手を繋ぐでしょう?」

「当たりまえだ」

「ほらぁ、そんな男絶対嫌だって」

 妹は目が見えないからと言われて嫌だと言う人は少ないだろう。けれど心の中では思うのだ。妹と私、どっちが大事なの?って。あなたは私のものではないの?と。人の独占欲とはそういうものだ。私が彼女に対して抱いてしまう嫌悪と同じだ。

「それを嫌だと思うような女とは付き合わない。今日だってモモカがって言ったら笑って許してくれた」

「それ本心?もうちょっと考えてあげなって」

 兄はわかっていない。そういう女心を。多分兄は優しいし気が利くし、見た目に関しては私にはわからないが、恋人として最高だと思うのだ。妹が最優先なところを除けば。

「くっそ、モモカが女みたいなこと言う」

 私の膝の上に兄の額が乗っかる。

「女だからね」

 甘えるみたいな兄の柔らかな髪をそっと撫でる。



 パンッと大きな音が突然響いて私は体を強張らせた。

「おお、花火始まったな」

 兄が立ち上がり、足元で砂利が擦れる。

「花火!見える?どんな?」

「いや、ここからは見えないな。花火が見えるところはすごい人だから。音ならここでも十分楽しめる」

 私には、花火が見える位置に行く必要はない。見えなくても楽しめる。家にいるよりずっと近く、肌で感じるような音が私を包み込む。腹の底から響くような大きな破裂音は次第に上空に移動してやがてパチパチ弾けるように細かく広がる。それがとても心地良かった。目の見える人の花火がどういうものなのか知らないが、この音が私の花火だ。

「私はいいけど、お兄ちゃんは見なくていいの?」

「別に花火とか興味ないし、モモカの顔見てる方が楽しい」

「趣味わる」

「モモカ、楽しい?」

「最高だよ!」

 手を伸ばし、触れた兄の体を抱きしめる。思ったより鍛えられている腹筋が、ぶつかった額を軽く弾ませた。



「俺は彼女がいてもモモカの手を引くけどさ、いつかモモカに彼氏ができたらモモカの手は彼氏に取られるんだよな。理不尽〜」

 手を繋いで歩く帰り道、兄は寂しそうにポツリと呟いた。



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