第1章

第2話 春の森


   「くすぐったい……ふふ…… もう、ちゃんと大人しくしなさい」



身体を洗ってもらうことは好きじゃない。

だけど大好きなエミリアがいっぱい触ってくれるのがうれしい

アルゴは、千切れんばかりに尻尾をふり、隙あらばとエミリアの頬を

舐めまくる。


   

   

   「もう、アルゴ! ちっとも綺麗にならないでしょ」




エミリアが怒った口調で言っても、アルゴには彼女が本気で

怒ってないとわかっていたが、それでも彼は大人しくなり、

真っ黒の真んっ丸な目でエミリアを見上げた。


いつも頭の周りで渦をまいている薄茶の毛が濡れてますます

もしゃもしゃで、その上ちょっと出っ張り気味の黒い黒光石のような

大きな目で見上げらて……

可愛さは、もうMAX、無限。


   

   

    「アルゴ! 可愛い!!!!」




服が濡れるのもおかまなしで、エミリアはアルゴに抱きついた。


こんなに可愛いアルゴ。

だけれど彼はふつうの犬ではない。

このガラニア大陸では少なくなってしまった、古い血の流れを

引き継ぐ生き物だ。


” ほら、頭の周りとお尻のところの渦を巻く毛が、ビオス・ドゥーグ

 の血を引くあかしだがね、

 残っているのはそれだけで、長い間に普通犬の血と混じり合い、

 今はもう、その辺の犬と変わりないさ “


エミリアにアルゴをプレゼントしてくれたヴィオラールはそう言ったが、

エミリアが五歳のときにこのムリノーの館にやってきたアルゴは、

その時はもう三十歳をこえていて、それからさらに十年はたったから…… 。


   

   

   「でも、全然、おじいちゃんには見えないわね」




アルゴの頭を撫でながらエミリアはつぶやく。

彼はやっぱりふつうの犬とは違うのだ、なぜなら彼は大切な、

唯一の友達だから。


エミリアはロンドミル国でも数少ない高位貴族、ノーズ公爵家の一人娘。


彼女の父は議会議長をつとめるほどの人物だが、宮殿のある都に

居を構えず、都から離れたこの辺鄙な土地に館を構えている。

近くに家はなく、森と草原と田畑ばかり。

五マール(約6キロ)ほど離れたところにちいさな村があり、

同じ歳頃の子達はいるが出逢う機会などないし、館で暮らす数少ない使用人も

高齢のものばり。


父、ノーズ公爵はもともと無口な人だったが、妻 ……エミリアの母が

亡くなってから、ますます誰とも親しくつきあわなくなってしまった。

数少ない古くからの友人以外は。

だからエミリアの話し相手はアルゴと、時々、館にやってくる治療師の

ヴィオラールだけ。




石鹸をおとし古いタオルでよーく身体をふいてもらったアルゴは、

ぱたぱたと尻尾をふって喜びをあらわし、エミリアのドレスの裾をひっぱって

散歩に行こうと訴えた。



   

   「はいはい」




館の裏の森がいつもの散歩コース。

エミリアはにっこりとアルゴに笑いかけると、早々に駆け出した

アルゴの後を追って歩きだした。




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