69.息子



それは静かなものだった。

ヴィッティングが光属性になることを決め、一学期の総合成績がお嬢より上回るよう課題が出された。まだ属性が定まらず実技で評価点を得るのが難しい状態で、僅かとはいえ順位が上になった彼女は努力したことだろう。

お嬢が手を抜くはずもないから、本当に凄いことだと思う。上位五十位までが張り出される掲示板で、ヴィッティングは、お嬢たち友達と一緒になって喜んでいた。

成績が発表されたその日のうちに、お嬢とレオは婚約解消の手続きをした。準備していた書類にサインするだけ、というあっさりしたものだった。

密やかにするでもなく、かといって大々的に披露するでもない婚約解消は、生徒会室で静かに終わった。俺がその場に立ち会ったのは、お嬢が先に退出する口実のためだった。

元婚約者同士が微笑んで別れの挨拶を交わす。それが二人らしい、と眺めていた俺はそんな感想を持つ。

帰りましょう、と凛と微笑むお嬢を格好いいと感じつつも、俺は何もできなかったんだな、と頭の片隅で思った。



期末テスト明けに、競技大会が待っていた。

魔導学園敷地内に併設されている騎士訓練校との交流試合をする。勉強で疲れた学生のストレス発散を目的とした体育祭のようなものだ。

騎士訓練校の奴らは実力を示すいい機会だと燃え、魔導学園の一部の生徒も自分の魔力の強さを自慢できる、とやる気になっている。騎士訓練生には、委員長たちみたいに女子もいるが競技大会に参加できるのは男子だけだ。女子は実力を知られない方が色々やりやすいのだとポメが教えてくれた。


「なぁ、ほんとに俺も参加しないとダメか?」


「エルンスト家の者が戦わずして逃げるなんて、言語道断よ」


「そうだ! ハインツさんの弟子なら優勝を狙うぐらいの気概を見せろ!」


いや、確かにエルンスト家の使用人だけど、俺ただの庭師見習いだし。

お嬢の護衛の委員長やポチにかけられる圧を理不尽に感じる。二人ともスポ根モードにスイッチが入っている。やっぱり騎士訓練生は体育会系が多いらしい。

俺に体術を教えてくれた執事のハインツさんこと師匠は、歴代優勝者の一人で無傷で優勝した伝説が残っているらしい。だから、委員長たちは師匠に憧れていて、俺が稽古をつけてもらっていることを知ったとき、無茶苦茶羨ましがられた。

ポチからすると自分の方が強いと証明できる絶好の機会だ、というのもあるんだろう。けど、俺からしたら、最初からポチの方が強いと知っているから今さらだ。

ポチが俺に変に対抗心を持ったままなのが、これを機になくなるなら参加する意義があるかもしれない。


「げ」


とりあえずなるべく怪我しないように頑張ろう、とトーナメント形式になっている初戦の相手を見て、無理かもしれないと思った。

競技場は円柱のすり鉢型になっていて、前世の記憶がある俺にはローマ帝国が舞台の映画に出てくる円形闘技場にしか見えない造りだった。ドーム型の屋根がないのは魔法の威力によっては邪魔になるからかもしれない。

円形の試合台の中央に、審判を担当する教師が立っている。その審判が第一試合の開始を宣言し、対戦者の名前を呼んだ。内一方は俺の名前が呼ばれる。

試合台にあがり、対戦相手と向かい合う。観戦席の生徒の歓声が湧いているのは、目の前の相手が原因だろう。なにせ、今年の優勝候補だ。


「まさか、こんな機会に恵まれるとはな」


嬉々とした光で輝く快晴の空と同じ瞳。嬉しそうだなぁ。


「割と本気で、お手柔らかに頼む」


「寸止めは上手いから安心しろ」


審判に構えるように号令を出され、レミアスは抜いた刀身にあおい炎をまとわせる。それ、寸止めされても、俺火傷やけどしないか。

何年も前、勝負を挑まれたときに断ったレミアスと対戦することになるなんて、思わなかった。これを使う日が来るとも思わなかったなぁ、と俺は、いつもズボンのポケットに入れているナックルを両手に嵌めた。

ニコがせっかくくれたものだから、お守り代わりに持っていたものだ。サイズが合わなくなる年には、改めて誕生日プレゼントとして贈ってくれるものだから、今もばっちり指に嵌る。素手だったら拳打ったときに、手を痛めかねないから防御のためのナックルだ。

レミアスは気合充分に剣を構え、俺は形だけの構えをとる。

審判が合図をした瞬間、俺の首があったところに蒼い一閃が入った。


「やはり避けるかっ」


「いや、おまっ、首……っ」


居合い並の速さで首を狙われたら、誰だって避けるだろ。レミアスは避けられたことを面白そうに笑うが、俺は全然可笑しくない。

言葉を交わしている間にも、間髪入れずに突きやら払いやら斬り上げやらで攻められて、かわすのに精一杯になる俺は言葉を途切れさせるしかなくなる。なんだこの格ゲーでコンボ決めたみたいに流れるような攻撃は。すきがない攻撃ってこういうことをいうんだと、実体験した。

レミアスの炎刀が熱いから、普通の刀身より、どうしても避ける動きが大きくなりやすい。俺の魔力量で出せる程度の水魔法じゃ、目眩めくらましにもならずにレミアスの蒼炎に消される。思い切り不利だ。

無傷で負けるのはレミアス相手じゃ難しそうだ。レミアスみたいに魔力量が多い奴は、騎士候補だったとしても主に席を置くのは魔導学園側になる。授業量は騎士訓練校で訓練する時間が持てるように調整されるから、体育コースのようなカリキュラムだ。

そんな普段から鍛えている奴に、勉強してるだけの学生が勝てる訳がない。

俺の方が身長があるから、上段狙いの攻撃が多い。それを逆手にとって、レミアスが突きをした瞬間に身を低くして、下段からの蹴りで剣を持つ手首を狙う。剣を落として、せめてリーチを短くしたい。


「甘い!」


俺の狙いに気付いたレミアスは体勢を急に変えられない代わりに、手首だけで剣を持つ向きを変え、柄で俺の靴裏を殴ることで相殺した。

その衝撃の反動で、俺は体勢を崩し、レミアスの腕は持ちあがり剣を振り降ろせる体勢になる。押し返された脚を後方に振ることで勢いをつけて身体の位置をずらし、どうにか剣戟を躱す。

躱して即座に距離を取った俺を見て、剣を構え直したレミアスは楽しそうに笑う。


「本当に逃げに徹した体術だな」


「そー言ったじゃん」


馬鹿にしたような嘲りではなく、称賛のような響きをもった感想に、俺はただ疲れた声で返す。

俺は、逃げる隙を作るために必要であれば攻撃する。けど、それは奥の手の方だ。こっちから攻撃しないといけないくらい隙がなくて強いレミアスと闘うのは、だいぶ疲れる。

騎士を目指すレミアスにとっては、実際に殺し合う訳じゃないこの競技はスポーツみたいなもんだろうけど、俺にはどっちも痛い目見るだけの喧嘩だから楽しくない。

テスト明けに運動して、ストレス発散すること自体は賛成だ。けど、内容が合わない。前世みたいに騎馬戦とかする体育祭だったら、俺だってもっと積極的に参加したのに。野球とか流行はやんねぇかな。ここ、それぐらいの広さあるし。

間合いを取り直しているうちに、少し荒れた呼吸を整える。レミアス相手だと、少しの疲れが隙となり負けるだろう。レミアスにこの後も対戦が控えていることを考えると、逃げ続けて無駄に時間をかけない方がスタミナ的にもいいだろう。

それは解っている。解っているんだけど……


お嬢が心配しそうなんだよなぁ。


レミアス相手に無傷で負けたいとか無茶だ。けど、ついそれをしようとしてしまって、妙に長引かせてしまっている。

もう一度、攻撃してまで隙を作るか悩んでいると、先にレミアスからの下段からの斬り上げが迫って、上半身だけで横に避けると今度は下段に足払いされそうになる。払われる前に、俺は足を浮かせ、床に手を突きそれを軸に薙ぐように横蹴りを返す。

だが、その脚はレミアスが剣を握っていない方の腕を盾にすることで塞がれた。すかさず、容赦のない剣突きが迫る。

さすがに、今の体勢では避けようもなかった。


「……安心しろ、と言っただろう」


「っは、ほんとに上手いな。寸止め」


瞬きの間に刀身を纏っていた炎は消え、剣の切っ先が喉元からあと数センチでぴたりと静止していた。

競技場に数秒の沈黙が落ち、審判が勝敗の結果を宣言した瞬間、どっと歓声が湧いた。レミアスに対する称賛の渦だった。

勝者のレミアスが剣をさやに納め、敗者の俺に手を差し伸べる。


「付き合わせて悪かったな。だが、楽しかった」


「そーかよ」


いい試合だった、とにかりと笑うレミアスの手を借り、俺は立ち上がった。レミアスは、俺が負けようとしていることに気付いていて、少し手合わせに付き合わせたいがために俺が焦るぐらいに容赦のないギリギリの攻撃をしてきたんだろう。何気に、勝負することを諦めていなかったんだな、と知る。

けど、まぁ、レミアスが強いおかげでどっちも怪我なく勝敗が付いたからよかった。結果的に、相手がレミアスでよかったのかもしれない。

最初に会った頃の、ただ負けず嫌いだったレミアスなら俺みたいな戦い方する奴は許せなかっただろうし、寸止めなんて手加減もすることはなかっただろう。さっきの勝負をいい勝負だと爽やかに笑うなんて、コニーの言うみたいに、レミアスはレミアスで成長してたんだなぁ。

そんな感想を持ちつつ、退場した俺は観戦席へと向かう。お嬢が友達の分のついでに俺の席も確保してくれている。おおよその場所は聞いていたから、割とすぐに見つかった。


「……何だ、コレ??」


観戦席にたどり着いた俺が眼にしたのは、仁王立ちするお嬢と懐中時計を手に控えるポチ、そしてその前に項垂うなだ平伏ひれふす五人ぐらいの騎士訓練生。なんだ、この構図。


「六分だ」


「は?」


経緯が把握できずにいる俺に、ポチが懐中時計の長針の手前の位置を指差した。


「最低でも十分は持たせたらどうだ」


「いや、レミアス一撃が重いから、んな余裕ねぇって」


負けるのが早すぎると指摘されたが、躱すので精一杯だったし、俺からしたら持った方だ。


「あの……、お金……」


「勉強代として差し上げますわ。己の節穴具合を思い知りなさい」


「「「「「はいぃ!!」」」」」


騎士訓練生の一人が恐る恐る差し出そうとした硬貨をお嬢がにべもなく断り、彼らは直立で姿勢を正して返事をした。そして、逃げるように去っていった。お嬢はカツアゲでもしていたんだろうか。いや、逆にあげたっぽい。なんでだ。

俺が訳も解らずにいると、柔らかい感触の布が首にかけられた。


「ザクが賭けのネタにされてたのよ」


「賭け?」


汗を拭くための伊織を貸してくれたニコが、教えてくれた。

タオルみたいな伊織は、数年前から貴族に普及しはじめたものだ。ニコは暑苦しくて嫌だ、と競技大会に不参加だから、わざわざ用意してくれたんだろう。ありがたく借りて、汗を拭う。


「あの青頭に五分持つかどうか」


騎士団長の息子のレミアスに、魔力量の高が知れている庶民の俺がどれぐらいで負けるか、とさっきの騎士訓練生たちが面白がっていたらしい。訓練ばかりの日々だろうから、ちょっとしたことで賭けて娯楽を増やそうという気持ちは解る。俺も前世でダチと百円単位かアイスやジュースで賭けていた。

狂犬なんて噂だけ独り歩きしてる俺と違い、レミアスの実力を訓練で眼にしてる彼らは、全員五分持たない方に賭け、賭けにならないと笑い合っていたそうだ。後ろの席にお嬢がいるとも知らないで。

それでキレたお嬢が、彼らに賭け金の上限を訊ね、最後には俺が眼にした結果になったらしい。


「上限いくらだったんだ?」


「一万」


「一万!?」


騎士訓練生たちは下限の千で賭けていたらしいから、その十倍だ。庶民の俺からすれば千でも高いのに、お嬢は一万を彼らにやってしまったのか。


「お嬢、ごめん。俺が返す」


「わたくしは勝ちましたのよ? いりませんわ」


「でも……」


「彼らから金銭を巻き上げるほど不自由なんてしていませんわ。それに、ザクはわたくしの勝利に見合う闘いをしたのだから、誇りなさい」


お嬢があまりにも格好いいものだから、俺は笑った。俺は負けたのに褒められるなんて。勝つためじゃなく、怪我しないための努力をした俺を笑わないお嬢は優しい。嬉しさがこそばゆくて、俺の笑った顔は変かもしれない。


「それで、怪我はしてませんわよね?」


「ああ。ちょっと熱かったぐらいで、平気だ」


「なら、いいですわ」


念押しで確認され、頷くとお嬢は自分の席に座り直した。隣の席のうさぎ、じゃなくアウグストがよかったですね、と微笑みかける。もう一人仲がいい娘は婚約者と見るらしく、ヴィッティングは属性のこともあってレオと一緒だろう。他の二人とも仲がいいだろうけど、最初の友達なこともあってかお嬢はアウグストと一番仲がいい気がする。きっと二人は親友なんだろう。

ニコがひとつ空けてお嬢の隣に座ったから、必然的に俺はお嬢の隣に座ることになる。俺が戻ったのを確認して、ポチが一回戦の出番のために一時席を外した。お嬢に応援の言葉をかけられて、意気揚々と向かうポチはきっと勝って帰ってくるだろう。上位入賞もあり得そうなやる気だった。

ポチを見送り観戦しようかと思ったら、声がかかる。


「イザーク」


「ベル、お前も参加してたのか?」


俺と同じ実技用制服を着ているベルを見て、少し意外に感じる。魔導学園は魔法の実技用に耐久性があり汚れてもいい制服が別にある。いわゆるジャージだ。だから、魔導学園側の生徒は、そのジャージを着ているか、いつもの制服かで大会に参加しているかが判る。


「ああ」


首肯するベルの様子は、緊張した面持ちだ。それに違和感を覚える。

ベルが、魔法バカといっても過言じゃないほど魔法を見るのもやるのも好きだと知っている。だから、戦闘も含むとはいえそのどちらもできる競技大会に参加したがるのは、そう奇怪おかしいことじゃない。けど、それならベルはもっと興味に表情カオを輝かせているはずだ。


「あら、もう負けてお得意の魔法が試せなくなったのかしら?」


「いや……、一回戦は勝った」


「なら、どうした?」


ニコが茶化して訊くと、ベルはゆるりと首を横に振った。俺が、声をかけた理由を訊くと、躊躇ためらいがちに口を開いた。


「……次、勝ったら、レミアスと試合をすることになる。イザーク、僕が勝っても負けても、そのあと付き合ってくれないだろうか?」


レミアスが勝ち進むことは当然として話すベルは、昔から知っている相手の強さを知ったうえでその勝負に挑むんだと判った。決意の灯った瞳と、頼む相手が俺ということで、ベルが競技大会に参加した理由を何となく知る。


「わかった」


「じゃあ、退場口で待っていてくれ」


「ああ」


その約束だけ取り付けて、ベルはきびすを返してしまった。きっと、今は余裕がないんだろう。去っていくベルに、ニコはただ肩を竦め、お嬢は心配そうにしながらも何も訊かずにいてくれた。

ベルの二回戦の勝負は数分でかたが付いた。開始直後に相手の頭部を水球で覆い、視界と呼吸を奪い、詠唱を封殺する。できるだけ魔力を温存させ効率よく倒す方法に、ベルが本気でレミアスと闘うつもりなんだと実感した。

レミアスはレミアスで、相手に全力で挑み一瞬で勝っていた。相手が負けを認めれば、すぐに剣を鞘に納めるから、随分と落ち着いたものだと感心した。

そうして迎えた三回戦。火と水、それぞれの魔力量が多い者同士の勝負ということもあり、全生徒の注目を浴びて、レミアスとベルは向かい合った。

生徒たちが固唾かたずを飲んで見守るなか、開始の合図がされ、瞬間、試合台一面に複数の魔法陣が出現する。それを意に介さず、踏み込んだレミアスの足元や前方に間欠泉かんけつせんのように水柱が吹き出した。相手の動きに反応して発動するトラップ型の魔法陣だった。

レミアスは、足元のは避け、進行方向の水柱は炎刀で一閃して視界を斬り開いた。

勢いを殺されつつも迫る剣戟を、ベルは氷の盾を出現させて防いだ。盾はレミアスの一撃で崩れはしたが、防御の役割は充分に果たした。

一旦、距離を取り剣を構え直すレミアスの表情カオはとても楽しそうだ。これまで、ベルが本気で勝負をすることなんてなかったんだろう。

体術ができない分を魔法と知略でカバーするベルは、息を吸うように魔法を発動させているが、水と風の複合魔法である氷盾の精度の高さといい、彼の魔術技能が高いからできていることだ。自動発動するタイプの複雑な魔法陣を複数同時展開できる人間はそういないだろう。

対するレミアスも、蒼炎を剣に常時纏わせたまま不利なはずの水魔法を斬る魔力量と精度は凄いし、かなりの水圧で迫る水柱を瞬時に避ける身体能力の高さはずば抜けている。この闘いぶりを見て、騎士団長の息子だから、なんて七光りな評価をする奴はいないだろう。レミアスだから強いんだと皆が思い知る闘いだった。

ベルが水球で動きを封じようとすればレミアスがそれを蒸発させ、レミアスが水柱を一閃して距離を詰めようとすればベルは氷の槍を宙で操り応戦する。

息をするのも忘れそうになる闘いがどれだけ続いたのか、試合台は水浸しで滑りやすい状態になっていた。足場が悪くなっていることが遠目にも判り、観客の生徒たちはレミアスが負ける可能性を危惧し始める。

そんなときだった、レミアスが不敵に口角をあげたのは。


「足場が悪いなら、乾かせばいい!」


宣言した瞬間、熱風を帯びた白いもやに会場が包まれる。いきなり視界が真っ白になり、あちこちから悲鳴のような狼狽した声があがった。


「っもう、ウザい!」


レミアスが蒸発させた蒸気を鬱陶うっとうしがったニコが、風魔法で会場から吹き飛ばした。ニコ湿気とかすごい嫌いだからなぁ。試合中の第三者の魔法の介入は厳禁だけど、誰も状況が判らない状態だったしセーフだろう。すでに勝負は着いていたし。

視界が晴れた試合台のうえでは、レミアスの剣がベルの喉元に当たる一歩手前の状態で静止していた。

しん、と静寂が落ちたあと、審判が勝敗を宣言し、どっと歓声が湧く。その大きさは、これまでの試合の比じゃなかった。

魔力をほとんど使いきったのか、気力が途切れたのか、ベルはその場にへたり込む。そんなベルに、剣を鞘に納めたレミアスは手を差し出した。


「お前の本気、確かに受け止めた」


「……でも、僕は負けた」


レミアスの手を借り立ち上がるベルは、悔しそうに呟いた。周囲の声に掻き消えそうなそれに、レミアスは歓声をも貫く声量で宣言する。


「貴殿の決意は本物だ。ゆえに、イェレミアス・フォン・シュターデンの名の下に俺は約束を果たそう!」


宣言した視線の先には、観客席にいるコニーの姿があった。

ほどなくして、退場口に下がった二人のもとにコニーが駆けつけた。


「レミアス、ベル君、怪我してない? どうしてあんなこと……」


「ベルは無傷だ。俺はかすり傷程度だが、舐めれば治る」


「顔の傷は舐められないでしょ」


コニーは少し呆れた声音で、レミアスの頬にうっすらとできた赤い線をハンカチで押さえた。あとで消毒をしないと、というコニーの言葉に、しみるから嫌だと子供のような文句をレミアスは返した。


「それで、ベル君はどうしてあんな無茶を?」


普段のベルならしないであろうことに、コニーは怪訝に訊いた。


「レミアスに賭けを持ちかけたんだ」


負けたけど、と苦笑するベルに、コニーは更に首を傾げる。二人が賭けをする理由が、コニーには思い至らない。


「僕が勝ったら、コニーのことをどう思っているか正直に言えって」


賭けの内容を聞いて、コニーは瞠目する。余程予想外だったんだろう。


「どう、して、そんな分りきったこと……」


「コニーが分かってないから」


力なく微笑むベルは、コニーの意見を真っ向から否定した。


「さっきの闘いで、ベルの本気が伝わったから、俺は勝ち負けに関係なくその条件を飲むことにした」


「え。ちょ、ちょっと待って……」


あっけらかんと言うレミアスに、心の準備ができていないコニーは流石に動揺する。しかし、そんなコニーに対して、男の約束を果たすためレミアスは無慈悲に告げた。


「俺は、コニーのいる未来を疑ったことはないぞ」


「…………え」


コニーは思考が停止したように固まる。


「親の決めた婚約者だから、だけで俺がコニーと一緒にいると思ってたのか」


「だって……」


「誰でもよかったら、コニーと遊んでいない。それに、コニーは俺が分らんことも分かるように教えてくれるだろう。ベルも見捨てるのに」


「それ、は」


「俺にはコニーが傍にいることが当たり前だったから何も言わなかったが、それがコニーを不安にさせているとベルに叱られた」


すまなかった、と直角に身体を折って頭を下げるレミアスに、問いかけたい様子でコニーはベルを見遣った。


「ベル君」


「ずっと見てきたから、分かるんだ。いい加減、気付こう。こんな馬鹿の相手ができるの、コニーだけだよ」


状況と言われた言葉を理解して、コニーは困惑いっぱいの表情を浮かべ、眉を下げる。どう受け止めたらいいのか測りかねるように。コニーはずっと自分が言う通り、形式上だけの婚約者だと思い込んでいたんだろう。


「で……でも、私、陰キャで、しかも腐女子だし、それに見た目だって……、レミアスも女と思えないだろうって……」


「欲情したら駄目だったか?」


ゴスッ、とベルが間髪入れずにレミアスの側頭部にこぶしを入れた。


「言葉を選べ、馬鹿!!」


もっと他に女の子として意識していたとかあるだろう、とレミアスの語彙の足りなさをベルが説教する。真面目な話をしていたのに、空気のぶち壊し感がすごい。レミアスからすれば大真面目だろうから、余計だ。


「なんでだ、コニーは随分前から女の身体になってたぞ!」


「だから、どうしてそう動物的な表現しかできないんだ!! これだから脳筋は! コニーに引かれても知らないぞっ」


「コニーがこれぐらいで引くか」


「お前、その自信が嫌味だって気付けよ!?」


「……っふふ」


いつも通りのやり取りに思わず可笑しくなったコニーが笑いだす。つい少し前に真剣勝負をしていたはずの二人が、よく知る顔でコニーの前にいるものだから気が抜けたのかもしれなかった。


「うん。これがレミアスだもんね」


引かないよ、とコニーは少女らしく笑った。


「ベル。魔力使いすぎただろうから、先生が念のため医務室寄れって」


「ああ、わかった」


退場口に続く廊下の角で待機していた俺は、気配を薄める影の膜を解いてベルに声をかける。呼ばれたベルは、頷いてレミアスとコニーと別れた。


「ベル君、心配かけたみたいで、ごめんね。ありがとう」


「長い付き合いだから」


去り際のコニーの感謝に、ベルはくしゃり、と笑う。それが少し痛みを堪えるようにも見えた。

廊下の角を曲がったところでベルが少しよろけたから、俺は二の腕を掴んで支える。


「タイミング、アレでよかったか?」


「ああ。助かった」


あれ以上はあの場にいるのは限界だった、とベルは情けない表情カオになる。呼び出す口実で言っただけだったが、割と本気で魔力消耗が激しいようでベルの足元はおぼつかない。口実通り医務室に向かおうと、肩を貸して歩き出す。

もう気を張る気力も尽きたようで、ベルの眼からぼろぼろと涙が零れる。見られて困る相手はもういない。


「……あいつ、視力いいから、僕より先にコニーを見つけるんだ。いつも、必ず」


「うん」


広い多くの人がいる会場ですぐにコニーを見たレミアス。これまで、お茶会や王族の誕生パーティーなど、レオの護衛で付き添っていても、最初に見つけて場所の確認だけしていたらしい。


「一番にコニーを探してるの気付いてないんだ。ほんと、馬鹿だろ」


「そうだな」


「コニーも興味ない相手には本当に無関心で。でも、なんだかんだレミアスの世話焼いてるんだ。なのに、ずっと自分なんて目もくれないって……」


自分ですら彼女を見ていたのに奇怪しいだろう、とベルは嘲笑あざわらう。嘲笑に見せかけようとしたそれは、やるせないものだった。


「レミアスは馬鹿だからどうでもいいけど、コニーは幸せにならなきゃ駄目だ。だから、これでよかったんだ」


納得して望んだ結果だとベルは言う。俺もそれを疑いはしない。


「けど……、痛いな。すごく」


「好きだったもんな」


「うん」


頷いて、ベルはまた涙を零した。

胸の痛みの分だけ涙を流すベルを情けないとは思わなかった。その痛みを受け止める覚悟で勝負をしたベルは凄い。そんなベルを尊敬した。

数日に分けて行われた競技大会の決勝戦は、第二王子で雷属性のヴォルフと騎士団長の息子で火属性のレミアスというビックネーム同士の白熱した勝負となり、結果その年の優勝者はレミアスとなった。

表彰されるレミアスに、眩しいものを見るような眼で拍手を送るベルを俺は忘れないと思う。



終業式の日、俺は呼び止められた。


「ザクさん」


「コニー」


声をかけてきたのはコニーだった。用件は、ベルが元気になったことの報告と医務室へ送ったことのお礼だ。レミアスとの勝負のあと、ベルは医務室のベッドで魔力枯渇と泣き疲れでぐっすり眠った。校医にあとは任せるように言われたので、俺は送ったきりでその後の様子は知らなかった。

ベルは翌日の昼まで眠り込んだらしいが、食欲もあり、今日も元気に登校しているという。傷心で飯が食えなくなるタイプじゃなくてよかった。


「教えてくれて、さんきゅ」


「いえ」


ふわり、と微笑んだコニーを見て、俺は少し眼を丸くする。それに気付いたコニーが首を傾げた。


「どうしました?」


「前より表情筋柔らかくなったな、って」


俺が自分の頬を軽く突いてみせると、コニーも片手で頬に触れて確認した。

自分の顔に触れて少し考え込んだコニーは、原因に思い至ったようで自分に呆れたように笑う。


「前は……、割と諦めてましたから」


「何を?」


「モブ令嬢だって」


自分がゲームのモブで、それ以上の価値などないのだと。簡単に婚約解消できる程度にしかレミアスは思っていない、と知らず決めつけていた。そうコニーは言う。


「コニーはコニーじゃん」


「はい、それを最近気付きました」


ずっとレミアスの中でコニーと認識されていたと知って、自分が前世の知識があるせいでモブという役割に囚われていたことに気付けたらしい。


「そういや、エルナも似たようなコトで悩んでたな」


サポートキャラなのに何もできない、とエルナが、前世の記憶を役立たせようと一時期躍起やっきになっていたことを思い出す。あのときは、兄バカなのもいい加減にして、少しは自分のことを考えろとつっこんだ気がする。


「ザクさんもですよ」


「へ? 俺、モブでもないぞ?」


「それです」


コニーはよく知る平坦な表情に戻って、俺に向けて指を差す。


「ゲーム外の存在だ、という認識のせいでイザークさんは自身を過小評価される傾向にあります。私も他人ひとのことを言えた義理ではありませんが、きっと何かを見落としていますよ」


「そう、か……?」


「はい。経験者は語る、というやつです」


神妙に頷かれて、俺も指摘されたことを考える。モブでもないから、という前提で考えることが何度かあったから、関係ないと思いながらも、少なからず俺も乙女ゲーに思考を毒されていたのかもしれない。


「ちょっと考えてみる」


俺の答えに満足したコニーは、よい夏休みをと別れの挨拶をして去っていった。

そんな課題を抱えつつ迎えた、夏休み。家に帰った俺は、エルンスト家の庭作業を手伝う日々を久しぶりに送る。

家には俺が帰ってきたときに読むと判ってか、先に手紙が届いていた。俺はその手紙の返事を、メルケル教会の神父様に言伝を頼むことで返事をした。

数日後、休日のその日、俺はヴィート侯爵家を訪ねていた。手紙の主はダニエル様で、シーズンオフで帰郷する前に、一度一緒に食事をしたいというものだった。入学以前も、定期的に会っていたから、帰郷予定がずれないよう一番早い休日を知らせた。


「久しぶりだね、イザーク。大きくなったなぁ」


「お久しぶりです。それ、前も言いましたよ。ダニエル様」


「そうだったかな?」


「言ってたわ。けど、お父様に似て本当に大きくなったわね」


「親父を抜けてないのが、少し悔しいです」


「それは大きくなりすぎよ」


ころころと可笑しそうに笑うアニカ様に釣られて、笑い合う。ダニエル様もアニカ様も、二人が笑ってくれるとなんだか安心する。

アニカ様が用意してくれた服を着て、ヴィート家の食卓でする食事会は何度目だろうか。孤児院の帰りに奢ってもらう屋台の飯も美味いけど、慣れればマナーに則った食事も楽しいものだ。何より、食事会を重ねるごとに二人が笑うことが少しずつ増えていったから、余計にそう感じるのかもしれない。

食後のお茶が入る頃、ダニエル様が打ち明けた。


「私たちもこれからのことを考えてね。そのうち、家督を弟に譲って領地に下がろうかと思っているんだ」


ダニエル様の弟夫妻には男子の子供もいて、ヴィート家を継いでいけるらしい。エリアスを亡くし、あえて養子を取らないダニエル様たちには、いつか決断しないといけないことだった。


「そうですか……、それは寂しいです」


王都から引っ越すということは、こうして会う機会がなくなるということだ。すぐでなくとも、簡単に会えなくなることが純粋に寂しかった。

寂しがる俺を見て、ダニエル様は少し眼を細める。


「それで、最後に友人へ恩返しがしたくてね」


優しく微笑むダニエル様の言葉の意味が判らず、俺は首を傾げた。


「イザーク、私たちの養子にならないか?」


「え」


子供を失う辛さを知っている二人からとは思えない提案に、俺は頭が真っ白になる。どうしてそんなことを言われたのか、解らない。


「もちろん、私たちにとってイザークは大事な友人だ。家族になろうと思っての提案じゃない」


「なら、どうして……」


「そうすれば、同じ立場になれるわ。告白する権利をあげたいの」


アニカ様の言葉に俺は固まる。そして、ティーカップを避けて、マナーが悪いと解っていたが、両腕をテーブルに置いてその中に顔を埋めた。


「……そんな、分かりやすかったですか?」


「まぁ、ね」


「リュディアちゃんのことばかり話してたもの」


うわ。バレてた。恥ずい。


言葉を濁してくれる優しいダニエル様に、少し可笑しそうにあっさり言うアニカ様。二人には気を許してたせいか、無意識にお嬢のことを話しすぎていたらしい。特に隠していた訳じゃない。けど、いざバレバレだったと言われるとかなり居た堪れない。そんなに露骨だったのか、俺。

赤くなった顔を見られるのは嫌だったけど、顔を埋めたままじゃ話が進まないと、我慢して顔をあげる。


「気持ち、は嬉しいです。でも、俺に返される恩なんてないし、貴族になるってそんな簡単にしていいハナシじゃないと思います」


「君とこうして過ごした日々が私たちにはとても素晴らしいものだ。君がそうは思ってなくても、私たちには返したいほどの恩なんだよ」


「それにね、イザーク君。貴方ほどの年齢の子を養子にするなんて、相応の資格を持っていなければ持ちかけないわ」


「え、でも……」


「文字はとても綺麗だし、勉強も頑張って、学年で三十位になったと聞いたわ。私たちと食事をするために覚えたマナーや、エルンスト家で受けた従者に必要な教養も、貴方が覚えてきた全部は貴族になっても通用するものよ」


俺が、興味本位やその場の流れで身に着けたことがそんな価値に繋がるなんて思ってもみなかった。降って湧いた貴族になれる資格に、俺は戸惑いを隠せない。

今までなかった選択肢が増えて、ただただ困惑する。どうしよう。そればかりが頭を占めてうまく考えが纏まらない。


「俺は、庭師、に……」


そうだ。親父の跡を継いで庭師になりたいんだ。俺が造った庭で、お嬢を笑顔にしたいから。けど、お嬢が他の奴に嫁いだらそれも見れなくなる訳で……

考えれば考えるほど、言葉がうまく出てこない。


「イザーク、お茶が冷めるよ」


言われてティーカップの存在を思い出した。ダニエル様に促され、紅茶を一口飲むと、ほっと吐息が洩れる。一息ついたおかげか、喉に言葉が詰まる気持ち悪さが、随分和らいだ気がした。

今、一つだけ言えることを二人に伝える。


「俺、ダニエル様たちを利用するようなことは、嫌です」


「うん、利用しなさい」


「そうよ。私たちがいいって言ってるんだから」


「そんな……っ!?」


「貴族になる、というのはそういうことも必要なんだよ」


優しい微笑みを浮かべていてもダニエル様も侯爵という貴族だと理解する。二人の提案を受けるには、相応の覚悟がいるとダニエル様は暗に教えてくれた。


「とは言っても、すぐに決めなくていい。イザークが卒業するまでは待てるから、しっかり考えなさい」


「ご両親にもちゃんと相談しないと駄目よ。家族なんだから」


「はい」


猶予があと三年弱と知らされ、期間が長いのか短いのか俺には判断が着かなかった。将来のことだから親父たちにも話すようにと、アニカ様に釘を刺され、俺は固く首肯した。

けど、家に帰るとどう話せばいいのか解らなくて、結局その日は親父たちに話せずに終わった。



それから二日後、俺はまだ親父たちに話せずにいた。

星屑が集まったように咲く草山丹花くささんたんかや明るい色の包葉のなかに小さな白い花を咲かせる九重葛ここのえかずらの花壇に水をやりながら、ぼんやりと考える。意識をはっきりさせそうなほど鮮やかな花たちは水に濡れてその鮮やかさを増す。なのに、俺の思考はどこかふわふわとしていた。

十八のこの歳になって、何になりたいのか解らなくなった。

ダニエル様たちの提案をすぐに断れなかったってことは、俺はどこかでお嬢に告白したいと思っていたんだろう。けど、庭仕事が好きなのも事実で、ずっとこの仕事をするんだとこれまで疑ってこなかった。

貴族になれる自信がない件は置いておいて、ダニエル様たちに保証してもらったから一旦なれる前提で考える。そこにまで悩みだしたら切がない。

前世の太一はどうしてたっけ。そうだ。頑固親父に反発して、大学行ってちゃんとした企業に勤めようとしたんだっけ。今思うと、豆腐屋だってちゃんとしたまっとうな仕事だ。父親に反発することだけが頭にあって、具体的に何がしたいとか夢はなかった。

よく内定もらえたなぁ、とつい苦笑が零れる。

前世と違って、庭師と貴族、どっちが偉いとか比べようなんて思わない。どっちも大変だし、それぞれ責任が伴う立派な仕事だ。

なりたい仕事、の基準でいえば庭師だけど、俺は本当にそれで後悔しないんだろうか。


お嬢は、どうするんだろう。


レオと婚約解消したお嬢は、学園では少なからず傷心だろうと同情されている。仲睦まじいと評判だったから周囲はお嬢が失恋したと思っているようだった。しかし、そういったのが落ち着けばお嬢に言い寄る男も出てくるんだろう。

お嬢がレオと婚約しているのが当たり前だったから、レオ以外の奴がお嬢の隣にいる図がうまく浮かばない。


しかし、本当に好きじゃなかったんだなぁ。


お嬢から直接レオが恋愛対象じゃないと聞いてはいたけど、小さいときの話だったから年頃になってからはどうなのか判らなかった。年頃になってからは、俺が自覚したから普通に恐くて訊けなかった。したことがない恋バナ振って、お嬢の口から直接聞くなんてハードルが高すぎる。


しかし、あんな顔も中身も完璧野郎が近くにいて惚れないなら、お嬢の男のタイプってどんなだ??


公爵様も眩しいぐらいにイケメンだから、顔がいい奴がタイプかと思ってたけど、違うんだろうか。お嬢のことが、よく解らない。

恋愛関係の話をあえてしてこなかったから、お嬢は俺の傍でも安心して笑ってくれていたんだ。一応男と女だって意識された日には、俺の下心バレてお嬢に逃げられそうだしなぁ。いや、自覚してからお嬢どんどん可愛くなるし、色々成長して、こっちとしては何度も大変だったけど。


「ザク」


そう、こういう白いワンピースみたいなの着て来られると、肩とかすねの線が夏の陽射しのせいで判って、心臓に悪い。夏服になった女子のシャツが透けてどきっとするのと同じレベルで。全部見える訳ないし、肩とかちょっとだけだけど普段服で見えないところが見えるのが年頃の男子には心臓に悪い。


「お嬢……」


夏の蜃気楼と思いたかったが、本物のお嬢だと判って、俺の心臓はすでにちょっと疲れる。それが声にも出てしまった。なんで、そういうドレス選ぶかな。暑いからだよな、解ってる。


「どうしましたの?」


俺が疲れた声を出してしまったから、お嬢が心配して差した日傘ごと傾いて顔を覗き込んでくる。


「ちょっと夏の太陽が憎かっただけ」


「雑草抜きが大変でしたの?」


「そんなトコ」


俺の適当な答えに納得したお嬢の純真さが恐い。下心持っていることに良心の呵責を覚えて仕方がなかった。

水やりを終え次第、自習用の庭に行こうと誘われ、俺は頷く。あと少しで終わるところで、元々休憩に入る予定だった。親父は正面側のトピアリーの作成で、ヤンは正面玄関に続く石畳の水撒きをしているはずだ。二人も自分たちのタイミングで休憩をとってくれるだろう。一人で任せてもらえる作業が増えたから、最近はこうして分担で庭作業が進められている。

歩き慣れた木々の間を二人で歩く。俺が鼻歌まじりに少し先を行き、後ろをついてくるお嬢がたまに俺の鼻歌に釣られてハミングする。濃い木陰のなか、通り過ぎる木漏れ陽が眩しかった。たまに吹く風が葉擦れの音を伴って、しばしの清涼を感じさせてくれた。

垣根を潜ると、見慣れた、けれど少し懐かしい光景が広がっていた。

ふくろうの石像が鎮座する小さな噴水だけぽつんとある芝生だけが広がった小さな広場。俺が入学したあとは、季節関係なくヤンの自習に使っていいと言っていた。だから、この最初の状態になっているとは思わなかった。


「小さかったんだなぁ、ココ」


「わたくしたちが大きくなったんですわ」


俺が沁々しみじみと呟くと、お嬢は小さく笑った。


「そーだけどさ」


数歩で噴水に辿り着いたのを確認して、やっぱり小さいと感じる。親父にここを与えられたときは、もっと広く感じたのに。


「けれど、わたくしも噴水が可愛らしく感じますわ」


今はお嬢の視線の少し下にある高さの梟の石像と見つめ合う。昔は俺もお嬢もこの梟を見上げていた。

最初はお嬢と二人の秘密の庭だったけど、気付けば色んな奴とここに来た。お嬢の妹のフローラもよくここではしゃいでいたし、ニコとは打ち合いをした。お嬢の護衛たちにも造った庭を見せたな。最後には俺だけじゃなく、ヤンもここで庭を造るようになった。

ここだけでも色んなことがあって、色々変わっていったことに気付く。


「変わってないけど、変わったんだなぁ」


「そうですわね」


なんだか不思議で、少し可笑しい。どちらかともなく、笑みが零れた。

不意に強い風が吹いて、お嬢の持つ日傘があおられた。日傘が飛ばされそうになったお嬢は、取っ手を持つ腕を引かれ、体勢を崩す。けかけたお嬢がそうならないように、俺は咄嗟にお嬢の手ごと日傘の取っ手を掴み、一方の手で胴を支えた。


「っぶね」


「少し驚きましたわ。ありがとう、ザク」


転けそうになったのが恥ずかしいのか、暑さのせいなのか少し頬を染めて、お嬢ははにかんだ。

支えたせいで至近距離でそれを見た俺は、心臓を鷲掴みにされたような感覚を覚える。その動揺のままに腕に力を入れないように気を付けて、お嬢を立たせてたら、一歩分空いた距離に安堵した。


「……お嬢の旦那になるヤツは大変だな」


こんないちいち可愛いお嬢が傍にいて身が持つんだろうか。


「え……?」


「あ」


思わず口に出ていた、とお嬢の反応で気付き、俺は焦る。今の言い方じゃ、お嬢の悪口言ったみたいだ。


「いや、えっと、お嬢モテるからそろそろ婚約申し出てくる奴らとかいるんじゃないかなーって……、そんな中でお嬢の旦那になるなんて、きっと」


つぅと伝うしずくに眼を奪われて、それ以上続かなかった。

お嬢が泣いている、と認識して、思考が停止する。


「……して」


静かに涙を流すお嬢は、ぽつりと呟いた。


「どうして、ザクはそうなんですの!?」


「へ?」


最後には叱咤と進化したそれに、俺は眼を丸くする。

お嬢は眼をつり上げて俺を睨んだ。そして、怒りで低くなった声で問う。


「ザク……、以前、わたくしを泣かせる者がいたら殴る、と言っていましたわよね……?」


「あ、うん」


随分前にした、けど、忘れようもない約束を確認され、俺は素直に頷いた。

お嬢の日傘の持っていない方の手が持ち上がり、次の瞬間、すぱーんっと軽快な音が小さな陽溜まりの庭を占める。俺の頬にはひり、とした痛みが張り付く。


「結構ですわ! こうして自分で殴りますからっ」


殴るというより平手打ちなことはいいとして、俺がお嬢を泣かせてしまった事実を突きつけられて俺はショックを受ける。お嬢は、なんで今、泣いて怒っているんだろう。


「わたくし、ザクのわたくしを優先して自分を無視するところ嫌いです……!」


嫌いって初めて言われたかも。俺、とうとうお嬢に嫌われたのか。


「どうして、わたくしの目の前にいる人をいないものとして話しますの!?」


お嬢の淡い青の瞳には、間の抜けた表情カオをした茶色い髪と眼の男が映っている。


「いくらザクでも、わたくしの好きな人を卑下することは許しませんわ!」


お嬢の瞳に映っているのは俺だ。

お嬢は、俺を除外して話すなって言う。けど、ただの庶民で魔力もしょぼくてイケメンでもない俺は、お嬢の眼中に入るはずなんてないだろ。

淡い青の瞳に映る男をもう一度確認する。


けど、だって、乙女ゲーのモブですらないのに……、あ。


コニーの教えてくれた見落としにようやく俺は気付く。俺もコニーと同じ勘違いをしてたんだ。俺がどんなにお嬢を好きになっても、俺はお嬢の世界にいないと思っていた。

お嬢の世界にはずっと俺がいたのに。

自分が馬鹿をやらかしたことにようやく気付いて、思わず屈み込む。両手を合わせて親指の付け根辺りで項垂れそうになる額を押さえた。

ていうか、お嬢、さっき俺のこと好きな人って言わなかったか。


「…………マジ?」


「マジですわ」


マジか。確認しておいて、俺は驚く。


「お嬢、めっちゃ無防備だったじゃん。今だって俺、心臓ヤバいのに」


「そっ、それはこちらの科白セリフですわ! 毎回心臓に悪かったのはザクの方です!!」


ついこれまでの文句を言ったら、逆にもっと非難された。いや、俺普通のことしか言ってないし。お嬢が可愛いのは普通のことだし、お嬢だって公爵様とかみんなから言われ倒しているだろ。一体、どこに俺を意識してもらえる要素があったんだ。

謎すぎるけど、お嬢が言うんだからほんとなんだろう。お嬢、冗談でもこんな嘘かないし。


「あー……、色々考えないといけないコトあんのは解ってるけど、今は一個だけ」


俺が顔をあげると、女の子がいた。

俺の世界で一番可愛い女の子。


「俺もお嬢が好きだ。すげぇ、嬉しい」


相好を崩した俺の表情カオはきっとだらしないだろう。解っていたけど、緩むのを抑えられなかった。

お嬢の顔が真っ赤に染まる。その理由を知って、可愛さが増した。



その日の夕方、家に帰ると夕飯は俺の好きなシチューだった。

いいことがあった日の夕飯は基本俺の好きなメニューになる。たぶん親父もそうで、言った訳でもなく好きなメニューが出るから不思議がっている。母さんはなんだか凄い。

夕食が終わった直後、俺は切り出した。


「二人に話があるんだ」


「何かしら?」


親父は立ち上がろうとしていたところを黙って座り直し、母さんは食器を水に浸すだけして席に戻った。

俺が話しはじめるのを待つ二人に、どこから説明したものか悩む。お嬢とも相談して、やっぱり一度親父たちに話さないと、ということになった。お嬢には、相談して決めた結果をシーズンオフが終わって帰ってきたら話す、と約束している。


「えっと……、知ってるかもなんだけど、俺、お嬢が好きで。でもって、お嬢も好きだって言ってくれて」


「そうなの? よかったわね」


母さんが本当に嬉しそうに喜んでくれるから、ありがとうと言ってそれで終わりそうになるが、本題を思い出して堪える。


「そうなん、だけど……、俺たまたまヴィート侯爵家の人と知り合いで、親しくさせてもらってたら、養子にならないかって言われて、その……、悩んでる」


俺、説明下手だ。ダニエル様たちと知り合った経緯をどこまで言ったらいいのか解らなくなって、省略したら大分展開が飛んだ。長く説明してややこしくなるよりはマシかもしれない。


「そのヴィート家の人たちっていい人なの?」


「あ、うん。すげぇいい人」


「なら、ザク次第ね」


一応、俺の説明で伝わったようで、母さんは解ったうえで、そう言ってくれた。もっと驚いたりしてもいいと思うのに、母さんはたまに大らかすぎる。


「……何を、悩んでいる」


親父に訊かれて俺は肩が跳ねた。俺は、親父に話すのが恐かった。悩んでいる時点で庭師として失格だと破門にされたら、とかどうしたって不安になる。

緊張で喉が乾いた。


「庭師に、なりたい、から……っ」


いつ否定の言葉がくるかとどくんどくんと心臓が嫌な音を立てる。庭師を目指す俺にとって、親父は目標であり壁だ。今の俺は、その壁が倒れてきたら簡単に潰されてしまうかもしれない。


「どうして庭師になりたい」


親父から出たのは、却下の答えじゃなく、更なる問いだった。俺は、眼を丸くしながらも答える。


「庭造るのが好き、だから」


俺の答えを聞き、親父は一度まぶたを閉じた。そして、ゆっくりと瞼を押し上げる。


「庭師は、本来雇い主の要望に沿って庭を造る。エルンスト家みたいに俺たちで好きにできることは滅多にない」


それは俺も解るから、首肯した。


「庭師じゃなくても、庭は造れる」


どうしてだろう。貴族になっても庭造りをすればいいと言ってくれる親父の言葉が嬉しくない。許してくれているのに。形だけとはいえ家族の縁を切るようなことをしても、好きなと一緒になっていいんだと、応援してくれている。

肯定の言葉が、否定されるよりずっと辛い。

なんだか無性に悔しくて、ぼたぼたと涙が溢れた。


「俺っ、親父の跡継ぎたかったんだ……!」


前世と違って親父の仕事に憧れているって素直に言えるのに、継ぐことだってできるのに、どうしてそれを選べないんだろう。


「でも、俺、お嬢が好きで……、ただ庭造るんじゃなくって、お嬢を笑わせたいって……っ」


欲張りで我儘な願いだと自分で解っている。どっちかじゃなくて、どっちも諦めたくないとか、俺は性質たちが悪い。


「ザク」


零れる涙に釣られて俯いてしまっていた俺は、名前を呼ばれ、弾かれたように顔をあげる。


「何がしたい」


責めるでもなく親父は訊く。ただシンプルな答えを言え、と。

俺はなんで親父の跡を継ぐことにこんなに拘っているんだ? 前世まえできなかったから? 太一の未練? 親父の跡を継ぎたかったのは太一だ。

俺は、イザークがしたいことは……


「俺が造った庭でお嬢に笑ってほしい」


「それができるのは?」


「ダニエル様の養子に、なる」


涙は引っ込んでいた。俺が答えを出したのを確認して、親父はわしわしと荒く俺の頭を撫でた。頭を撫でられるなんて、デカくなってから随分とされてなかった。


「お前は俺の息子で、庭師だ」


今までで一番嬉しい言葉かもしれない。親父が俺を認めてくれた。嬉しくてどうしようもなくて、頬が紅潮する。


「俺、親父の息子でよかった」


どこに行っても、俺はデニス・バウムゲルトナーの息子、イザークだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る