67.芽



それはほんの出来心だった。

放課後の教室には誰もおらず、入口にはメイドのペトラが控えているため不用意に人が入る心配もない。春の陽射しに包まれた教室が、自分だけの空間のように感じられた。

自身の机の前に立ち、斜め二つ後ろの席へ振り返る。そこは家の庭師見習いであり、今は同級の青年の席だ。かなり身丈があるため、選択の余地なく一番後ろの席になった彼。

ふと、彼の席からの景色はどんなものだろうと思った。

読書予定の本だけを抱え、横に学習鞄がかかったままの最後尾席に足を運ぶ。そして、誰もいないと解っていながら念のため周囲を確認し、リュディアはその席に、そっと座ってみた。

まったく同じ造りの机と椅子にもかかわらず、自身に割り当てられた席以外に着くというのは、いけないことをしているようでリュディアは緊張した。けれど、緊張で鼓動が早くなりながらも、やってやったという達成感も少なからずあった。

彼の席から教室を眺めると、全体がよく判る。クラスの教室を使うのは朝礼・終礼時と必修科目の授業のときだ。すべての授業を彼と一緒に受けることはできないが、同じ教室で授業を受けられるだけでも幸運なことだ。本来なら彼は上級生のはずだったのだから。

彼の席から、自分の席を見遣る。もう少し視線の高さは上だろうが、日常的に彼の視界のなかにいる事実がリュディアには不思議に思える。入学するまでは、むしろリュディアが彼の背中を見つめる機会の方が多かった。

授業中、ちらりと様子を窺がうとたまに窓に視線をやって、嬉しげに目元を和らげる。他の学生には数日もすれば見慣れる窓から見える校庭も、彼には見飽きないものなのだろう。真面目に授業を受けてはいるが、そういう瞬間に彼の庭バカぶりを改めて知る。

今も、学園の庭師らの手伝いにいって、ここにいない。

相変らずの彼に笑みを零し、リュディアは本を開く。読みかけのその本にはしおりが挟まれていた。四葉の押し花の栞。

かための厚紙で作ったはずのそれは、もう随分とくたびれてしまっていた。四葉のみどりもだいぶ朽ちてしまっている。それもそうだ。作ったのは、もう十年も前なのだから。

自身の一歩でできた四葉に、リュディアは眼を落とす。

あれから、自分の踏みしめてきたこの人生みちは正しいものだったのだろうか。支えてくれている家族や友人たち、仕える者たちに恥じない自分でいられているだろうか。ふと、疑問が湧き、すぐに是と内心で頷いた。

自分を見て、彼は格好いいと笑う。

それが答えだ。

素直に喜べない彼の最大級の賛辞は、確たる保証だった。自分が腑抜けていたら、彼はきっと誰よりも先に気付く。だから、大丈夫だ。

褒め方はいただけないが、誇らしげに微笑む銅色あかがねいろの眼差しはリュディアが失いたくないものの一つだ。だから、これからも頑張ろうと奮起した。

知らず、リュディアは自然と微笑んでいた。

文字を眼で追い、ページめくる。

その静かで穏やかな時間を堪能しながら、リュディアは本の世界に没頭し始める。物語に夢中になったリュディアは、陽射しの温もりがじわりじわりと微睡まどろみへ誘っていることに気付かなかった。



最初は陽射しの温もりかと思った。

だが、ゆっくりと髪の上を滑る感触に頭を撫でられていると、リュディアは気付く。夢うつつのリュディアは、その心地よさにまた微睡みに落ちようかと考えてしまう。そもそもいつ眠ったのかも、どれぐらい眠っていたのかも判らないのだ。なら、もう少しぐらいいいだろう。

このてのひらをリュディアは知っている。昔とは違う、自分の頭を包むように大きなこの手に撫でられるのは心地よい。ごつごつとした手なのに、壊れ物にでも触れるかのようにそっと慎重に撫でるから、少しくすぐったい。

くすぐったさにわずかに身じろぐと、掌の感触が消えてしまった。その喪失感に残念さが拭えない。身じろいだせいで離れていってしまったのなら、くすぐったさを我慢すればよかったと後悔する。

そこまで思ったところで、自身がいつの間にか眠っていたことにリュディアは気付いた。まぶたを開けられないまま、眠る直前の行動を思い出そうとする。自分は一体、どこで何をしていたのか。

教室で読書をしていたことを思い出し、先ほどの感触は夢か現実かどちらだろうと悩む。夢だとすれば、はしたない願望を持っていたということではないかと、リュディアは羞恥を覚える。

再度掌の感触が訪れないことからして、夢であることが確定だと、リュディアは恥じ入りながらゆっくりと瞼を持ち上げた。


「……ディア」


心臓が驚愕で跳ねた。

どれぐらい眠っていたのか時間を確認しようとしていたのに、逆に両腕のなかに顔をうずめてしまう。まだ戻ってきていないとばかり思っていた人物の声が、あり得ない音で聴こえた。一体どういうことだ。

自分はまだ夢のなかにいるのか。いや、夢だとすると自分の想像を超えすぎている。

だって、彼は自分を愛称で呼ばない。

どこまでも優しく響きながら、仄かに熱を帯びた声なんて初めて聴いた。

どんな表情で言ったのか、とても気になるが、それと同等に見るのが恐かった。見てしまったら、自分の心臓は持つのだろうか。恐ろしく自信がなかった。

声だけで頬が紅潮し、耳まで熱い。

完全に起きるタイミングを逃したリュディアは混乱の渦中にいた。落ち着こうと努めるが、一向に心臓が騒いだまま治まらなかった。真っ赤であろう顔を彼に見られたくない。

自身の脈拍と闘ってどれだけ経ったのか、ぽんぽんと軽く肩を叩かれた。


「お嬢ー、そろそろ帰るぞー」


いつも通りの声だった。先ほどが幻聴かと思うほどに。


「……なん、です、の」


眼をこするフリをしながら、顔を見られないように起きる。どうにか絞り出した声は、途切れ途切れになってしまったが、彼は寝起きのせいだと判断したらしい。

自分の席にいたことに言及することなく、彼は学習鞄を回収して、リュディアを帰路へと促した。夕暮れで遅いから、と女子寮まで送ってくれようとしたが、馬車を使うからと彼の提案を断った。それでも、護衛兼メイドのペトラが追従しているにもかかわらず、彼は馬車乗り場まで付き添ってくれた。その道中、何を話したのかリュディアは定かではない。ひたすらに顔を見られないように、彼の身長が高いのをいいことに俯いていた。

女子寮に着いてからも現実感のないままに、自身の部屋まで向かう。部屋の前までくると、ペトラがドアを開け、中へと誘った。それに従って自室に踏み入れると、パタンとドアの閉まる音が背後でした。

その外界と遮断する音に、リュディアの緊張の糸が切れる。踏みしめていた足から力が抜け、重心が後ろへずれドアと肩がぶつかる。そのまま、ずるずると崩れ絨毯が敷かれた床に座り込んでしまう。顔の熱さを両手で覆って、声にならない声を叫びたい衝動に悶絶する。


「リュディア様、どうされたのですか!?」


主人の異変に、先に部屋で控えていたメイドのエミーリアが駆け寄る。いつにない様子の主人を確認して、エミーリアは同僚のペトラを睨みあげる。


「ペトラ、あなたが付いていながら何があったのっ」


「これはー、大丈夫なやつですよー」


どこが、と同僚に怒りながら、エミーリアは主人を助け起こし、ベッドまで誘導する。事情を問い質そうとするエミーリアに、まーまー、と宥めつつ控え用の部屋で説明するからとリュディアの部屋から退室させる。納得がいかないながらもエミーリアは、何かあれば呼ぶように言って、ペトラと共に下がっていった。

自分の目の前で先ほどの話を蒸し返されたら堪らないリュディアは、ペトラの計らいに内心感謝した。

一人になりたかったから助かった。きっと自分は誰にも見せられない顔をしていることだろう。

心臓が自分のものじゃなくなったみたいだ。どくどくと血を押し出して、身体が熱い。

ちょうど彼と共に過ごせる日々奇跡に感謝したところだったのに。まだ婚約解消に至っていない状況で、自分はささやかな幸せを噛み締めるだけで充分なのだ。

だというのに、どうして……


「……っどうして夢以上のことをしますの」


軽々と夢に潜めた願望を超えてゆく彼が憎らしい。心臓に悪い彼に、文句を言いたくてしかたがなかった。明日、どんな顔をして彼に会えばいいというのか。

枕に顔を埋めて悶絶するリュディアは、明日を迎えることに怯えながら夜を過ごしたのだった。



結局、いやがおうもなく翌日となった。

ひどく緊張して通学したというのに、いつも通りの彼に拍子抜けした。聴こえていたとは知らないのだから当たり前といえばそうなのだが、リュディアは釈然としない。

朝礼開始までは友人のニコラウスが彼に話しにきていたため、リュディアはシュテファーニエたち同性の友人と歓談していた。

本来なら彼と同級になるはずだったニコラウスは、休憩時間など頻繁に彼を訪ねてくる。幼い頃からエルンスト公爵家を訪ねていたニコラウスは、王子殿下の婚約者の家に通えるのは同性扱いだから通えているのだ、という説とは別に、他の目当てがあって通っているのでは、という噂が元々あった。その他の目当てが彼ではないか、と学園に噂が広がるのは早かった。

二人にあらぬ誤解が生じていることをリュディアが忠告するも、ニコラウスは彼の虫除けになっているのだから感謝しろといい、彼は自分が誤解していなければ気にしないという。彼はその他大勢からの誤解を解くより、友人と過ごすことを優先したのだ。彼から友人を取り上げるつもりはないので、リュディアはそれ以上は強く言えない。ニコラウスと話すときの彼が楽しそうだから余計にだ。

けれど、女性よりも美人なニコラウスに抱き着かれたり、肩を組まれて平然としていられるのは同世代の令息令嬢からすれば驚愕ものである。二人とも身丈があることもあり、二人が一緒にいるときは遠巻きに注目されていることに彼はどこまで気付いているのだろうか。


「実に惜しい……」


不意に聴こえた呟きの方を見遣ると、自席で読書をしていた同級の令嬢が、本から眼を離し彼らを見ていた。眼鏡の奥の表情は平坦でとても何かを惜しんでいるようには見えない。


「コルネリア様、何が惜しいのですか?」


「いえ、物語であればどんなによい状況かと思っただけです」


「そうなんですの」


リュディアの問いに、眼鏡の位置を直しながらコルネリアは淀みなく答えた。だが、彼女の意図がリュディアには解りかね、曖昧に頷くしかできなかった。

朝礼のため、担任のハーゲンが教室に入ってきたことで、それ以上話を続けることができなかった。

リュディアの記憶する限り、コルネリアはお茶会にも最低限しかしていなかったので話す機会がほとんどなかった。今回は話題のとっかかりがなかったが同級になったのを機会に、これから人となりを知ってみたいものだと思った。

それから昼休憩になるまで、ニコラウスの来訪もあって彼とほとんど話す機会がなかった。心の準備ができていなかったから助かったと思う半面、気安く話しかけられるニコラウスを恨めしくも感じた。


「リュディア嬢、シュテファーニエ嬢、待たせたね」


「ロイ様」


「いえ、大丈夫です」


この国の第一王子のロイが、リュディアたちを迎えにきた。昼食を共にするためだ。無属性のシュテファーニエがどの属性になるか決めるまで、人となりを知ってもらうためにと授業のある日の昼食は同席することになっている。


「イザークも」


「わかりました」


煌めく微笑みでイザークにも声がかかる。彼が端的に返事したのは周囲には渋々といった風に映るが、眩しさに耐えているのとロイ相手に敬語を使うのが苦手だというだけの理由だ。それを知っているのは、リュディアとロイだけだろう。

リュディアとロイの婚約が継続状態であるため周囲への体面上、シュテファーニエだけでなく男子であるイザークも同席させ男女混合でないといけない。当初は、トルデリーゼやザスキアの同席を提案していたのだが、二人はロイが相手では緊張してしまうと断られてしまった。


「ニコと食う方が気が楽なんだけどなぁ」


「そう言うな。リュディア嬢のためだ」


ロイが苦笑して辛抱を促すと、わかってるけど、とイザークはぼやく。

シュテファーニエへの光属性以外の魔力干渉の恐れがあるので、ロイはイェレミアスとベルンハルトをつれて来ず、イザークもニコラウスを誘うことができない。


「わたくしと食事するのが嫌だとでも?」


「レオが眼に痛いだけで、お嬢と一緒は嬉しい」


「わたしの面倒な体質のせいで、ニコちゃん様を誘えなくてすみません」


「いや、だからめんどいのはレオで、ヴィッティングは気にしなくていいって」


そんな気安いやり取りを交わしながら食堂まで向かう。王子のロイがいて遠巻きになっており、声量も抑えているため周囲に聴かれる心配はない。

食堂に着き席を確保したあと、リュディアたち女性の食事の要望を確認して、イザークとロイは注文しにいく。食堂では自身で食事を取りに行く形式だ。従者を従えている貴族はほとんど従者に取りに行かせるなか、こんなことができるのは学生の時分だけだと嬉々としてロイは自ら取りに行く。なので、当初は恐縮していたシュテファーニエだったが慣れた。

男性陣が戻ってくるまで、リュディアとシュテファーニエは歓談する。


「あの、ディア様」


「なんです?」


「ずっと伺いたかったんですけど、イザークさんって、あのイザークさんですよね」


シュテファーニエの質問に、リュディアは動揺して言葉に詰まる。判りやすい肯定だった。

入学式のときは自身の身に起きたことでいっぱいいっぱいだったシュテファーニエだが、あとになってイザークの名前に聞き覚えがあることに気付いた。それから交流していくうちに、エルンスト家の庭師見習いだということを知り、リュディアの想い人の名前であることを思い出したのだ。


「同じクラスになれてよかったですね」


「け、けど、授業は選択制でずっと一緒にいれる訳では……、ニコラウス様もいらっしゃいますし」


「でも、イザークさんが邸に残られるかもしれなかったときはあんなに残念がっていたじゃないですか」


「そ、それは……」


イザークが魔力測定を受け損ねていたと知らされるまで、リュディアは傍にいれるのは入学までだと寂しがっていた。同学年で入学できると判ったときの喜びようがとても可愛らしかったので、シュテファーニエはよく覚えている。

今も恥ずかしがって口ごもる様子が大変可愛らしい。シュテファーニエは思わず笑みを零してしまう。


「ディア様のためにも、わたしは殿下のお話しを受けた方がよさそうですね」


「いけませんわ」


冗談交じりに言った言葉だったにもかかわらず、リュディアに強く異を唱えられ、シュテファーニエは驚いた。リュディアは、彼女の手を取り、真っ直ぐに見据える。


「この件は、誰かのために決めてはいけませんわ。ファニー様自身のために決断なさってください。わたくしはロイ様を応援していますが、ファニー様の意思を無視するようなら誰であっても許しません」


「ディア様……」


自身の将来のことだから大事にしてほしいというリュディアの想いを受け、シュテファーニエは眼を見開いた。

友達に幸せを願ってもらえることがこんなに嬉しいとは。シュテファーニエは、嬉しさにはにかむ。


「ありがとうございます。ディア様大好きです」


「わたくしもですわ」


リュディアが微笑み返したところに、ロイたちが食事の載った盆を両手に戻ってきた。


「リュディア嬢、先に口説くとは狡いな」


「あら、早い者勝ちでしてよ」


「僕の一番の恋敵ライバルはリュディア嬢だな」


不敵に笑んでみせるリュディアに対し、ロイは困ったように微笑んだ。

婚約者同士のやり取りに、取り合いの対象にされたシュテファーニエは恥じ入り、本当に変な婚約者同士だとイザークは呆れた。

本人の了承を得たうえで、シュテファーニエが属性を持たない魔力所持者だと学園の生徒に公表は済んでいる。国の意向で光属性へ傾倒させるためにロイとの交流が必要なことも含めて周知の事実だ。そのため、彼女は無色の君と噂され注目の的である。

婚約者に親しい異性ができるという状況は、はたから見れば修羅場だ。しかし実際はどうだ。むしろ婚約者同士で介入者を取り合っている。遠巻きに見ている生徒たちと、実情を知っている自分とでは、認識がかなり乖離かいりしているだろうことをイザークは察した。

リュディアの正面にロイが座り、イザークがシュテファーニエの正面に座る。婚約者の体面を保ちつつ、イザークが極力眩しくない配置だった。


「まったく、ロイ様までわたくしをライバル扱いして」


「ん? 他にもいたのか?」


「あんときは、ごめんって」


即座に謝罪するイザークを見て、もう一人をロイは察する。わざとむくれてみせただけで、もう謝罪は受けているからいい、と微笑む婚約者を見て、ロイは楽しそうだと感じる。それぞれと会う機会はあったが、二人が揃っている状態で話す機会は少なかった。学園に入ってから、リュディアが彼と話すときの様子を知れてよかったと思う。


「さて、シュテファーニエ嬢はどうしたら口説かれてくれるのかな?」


「はぇ!? あああの、えっと」


「容姿は良い方だと思うが、君にも魅力的に映るのだろうか?」


にこやかに訊ねられて、シュテファーニエは動揺する。こんなにまばゆい容姿の人から言い寄られ、どうしたらいいのか判らない。何度、最初の告白を嘘だと思ったことか。


「……自分で言うか」


「彼女に、地位や名声は魅力ではないようだからな。僕が売り出せるものなんて、あとはこれぐらいだ」


彼の容姿が恐ろしく優れていることは事実ではあるが、こんなに堂々と断言できる人物を初めて見たイザークは思わず半眼になる。顔ぐらいしか残っていない、という謙遜は初めて聞いた。


「どうだろうか」


「はい……っ、とっても綺麗だと思います……!!」


「それは君の好みで?」


「~~っひゃい」


「そうか。それはよかった」


シュテファーニエから言質を取ったロイは、煌々しい笑顔で喜んだ。

そんな二人のやり取りを見て、婚約者は微笑みかけているだけだというのに友人が圧を受けいじめられているようにリュディアは感じ、イザークはイケメンという暴力があるのだと知る。リュディアたちは、シュテファーニエに同情を禁じ得なかった。


「ロイ様、もう少し手加減してあげてくださいませ」


「僕も必死なものでね。すまなかった、シュテファーニエ嬢」


「いえ……」


眩いばかりの微笑みで謝罪するロイを見て、リュディアは彼の言は真実だと感じる。

とてもそうは見えないが、本当に必死なのだろう。学年が違い、会える機会も少ない。生徒会長である彼が、生徒会役員に任命すれば会う機会も増えるだろうに彼女の意思を尊重してそれもしない。限られた時間で振り向いてもらおうと思ったら余裕などないことだろう。

リュディアは、少しばかりたがが外れていることには眼を瞑ってあげてもいいのでは、という気がしてきた。

食事が済み、食後のお茶を飲んで落ち着いていたときに、ロイがおもむろに問いを投げかけた。


「意見を聞きたいのだが、平民の測定率をあげるにはどうすればいいと思う?」


紫陽花の品評会で一定以上に魔力が多い者を見つけやすくはなったが、それで学園入学相当の魔力量保持者をすべて確認できる訳ではない。

自身で力量を見限って魔力測定自体を受けない者が一定数いる。いくら属性依存しない純粋な魔力量を測定できる手段があっても、受けてもらわなければ意味がない。ロイは、それが今後の課題だと感じていた。

今この場には、貴族であるリュディア、平民から貴族になったシュテファーニエ、平民のイザークがいる。多方面からの意見が聞けると期待しての問いだった。


「ああ。お嬢がいなかったら、俺も受けなかったしなぁ」


ずぞーと音を立ててお茶を飲みながら、現状に納得するイザーク。他意はないだろう彼の発言に女性陣が動揺したのを、ロイは確認した。リュディアは顔を真っ赤にして閉口し、シュテファーニエは紅潮した頬に両手を当て二人を交互に見比べる。きっと様々な経緯を割愛し要約したのだろうとロイは気付いていたが、彼女らの解釈もあながち的外れという訳でもないだろうから、言及するのを止めた。


「リュディア嬢は、どう思う?」


「っええ、そうですわね……、受けなかった者に罰則を設けては民の反感を買いますし、自主的にすすんで測定に参加するのが望ましいですわ。何かしらの案があればよいのですが……」


動揺していたリュディアだったが、ロイに意見を求められ真剣に悩みだす。

唯々諾々いいだくだくとせず、意見を求めればこうして自身の見解を述べることができる点において、自身の婚約者として相応しい人間だとロイは思う。婚約解消したあとも、臣下に一人でも彼女のような者がいるだけで助かる。


「簡単じゃね?」


「そうですね」


悩むリュディアに対して、イザークとシュテファーニエは考える必要もないと言う。二人の言いぶりが意外でロイは眼を丸くする。容易だと断言できるほどに画期的な方法があるというのか。

一体どうすればいいのか、とロイが問うと、示し合わせた訳でもなく二人は同時に答えた。


「「お菓子」」


「お菓子?」


予想もしていなかった単語に、ロイは思わず訊き返し、リュディアは理解が追いついていない表情を浮かべた。


「魔力測定受ければ貴族の上等な菓子がもらえるって聞けば、みんな教会に行くぞ」


「ですね。わたし、貴族になってから食べたお菓子、近所だった友達に食べさせたいって思いましたもん」


「元々、貴族は教会に寄付してるし、その一部を資金じゃなくて菓子にすればいけんじゃね?」


あめやチョコレイトだと季節によっては溶けますし、焼き菓子の方がいいかもしれませんね」


すぐにでも実行できそうな手段で、二人の意見を聞いたロイは拍子抜けする。


「そんなことでいいのか……?」


「平民は現金なので、現物支給の方が分かりやすくていいですよ」


「それに、限定品に弱いのは貴族も庶民も一緒だ」


確信をもって首肯する二人に呆気にとられたロイの正面で、リュディアは以前イザークがパン一年分に釣られて紫陽花の品評会に参加したがっていたことを思い出し、妙に納得してしまった。滅多に機会のない上質の菓子を食べられる、というのは平民からすれば、かなり魅力的なのだろう。

イザークに難しく考えすぎだと指摘され、ロイは可笑しさに破顔する。


「ははっ、そうか」


測定対象者は基本的に十代の少年少女なのだから、彼らの感覚を基準にすればよいとは盲点だった。政策として運用するために大人臣下たちを納得させるにはどうしたらいいかと頭を悩ませていては、本来求めていた成果は見込めない。

下町の視察の際に、材料や手間の兼ね合いから注文数を限ったメニューを提供している食堂に客が集まり、昼の時間帯だけ限定のサンドイッチの屋台が繁盛しているのを見た。ならば、少年少女だけでなく過去に測定を受けなかった者も受けるようになり、より正確な情報を収集できることだろう。

やはりこの場で意見を求めてよかった、とロイは喜んだ。自分だけの考えではどうしても視野が狭くなりやすい。色んな立場の人間と話せると精査ができ、今回のように新しい案も生まれることもある。


「つか、飯時にまで政治っぽいハナシするなんてクソ真面目だな」


「殿下はほんとに大変そうですね」


こんな話題で可笑しそうにするロイを、イザークは不可思議に感じ、シュテファーニエは沁々しみじみと尊敬と同情を混ぜた眼差しを向けた。

二人の反応を見て、ロイは感想に近い指摘をする。


「僕のしていることを面倒だと感じているだろう」


すると、イザークは正直に頷き、シュテファーニエはぎくう、と肩を跳ねさせ気まずげに視線を逸らした。それを確認してロイはにっこりと微笑む。


「その様子だと、シュテファーニエ嬢は王妃になることが億劫なようだね」


否と返せず、シュテファーニエは視線を逸らしたまま閉口する。リュディアたちとお泊り会をしたときに、お姫様になりたくないと言ってしまっているので、大変気まずい。彼女の意見を知っているリュディアもどうしたものかと弱る。

シュテファーニエが光属性となることを選択した場合、その先には王妃となる未来が待っている。その立場を得ることに魅力を感じない。誠意をもって答えを待ってくれているロイ相手に、その場しのぎの偽りを言うことができず、シュテファーニエは馬鹿正直に沈黙で肯定をしてしまった。


「二人は、王族のどういうところが面倒だと思う?」


「お前のしてるコトは基本めんどーそう。生徒会長だって雑用っぽいし、王様なって政治すんのだって色んなヤツの不満をフォローし続けないとだし、何でそんな楽しそうなのか分かんねぇ」


「……えと、たくさんの人の人生が自分の一挙一動で変わったりするのが、すごく恐いです。わたしだって、誰かの役に立てるのは嬉しいけど、それだけじゃできないことな気がします」


「ああ。僕ほど結婚相手として面倒な男はいないだろうな」


二人の意見を認め、ロイはあっさりと自身を不良物件だと断じた。その発言に、思わずリュディアが言い過ぎだといさめる。


「ロイ様、いくらなんでもそれは……」


「リュディア嬢も、第一王子の婚約者の立場を重く感じているだろう?」


「むしろ、軽くてはいけませんわ」


「ははっ、そうだね」


リュディアが真剣に答えるので、ロイはまた笑った。彼女のこういった真摯しんしで責任感の強いところが友人として好ましく感じる。


「僕は君たちのように責任感のある者こそ、身近に置きたい。だから、今とても恵まれている」


「は?」


「へ?」


文句のような意見しかしていないイザークとシュテファーニエは、見当違いな評価に首を傾げる。二人ともリュディアが責任感が強い、と評価されることは認めるが、自分たちまでそう評価される要素はどこにもなかったはずだ。


「二人の意見は、権力を持つことの責任を理解しているから出るものだ。表面の華やかさしか見ていない者は、権力を持つことに恐怖を覚えないし、国民の雑用係な側面を指摘はできない。信頼に足るのは君たちのような者だよ」


利点のみを見ず、不利益を正しく認識し重く感じることができることは責任感の証明だと、ロイは述べた。ものすごく良い様に言い換えた、とイザークは怪訝になり、シュテファーニエはそんな捉え方もあるのかと純粋に感心した。


「だから、こんな重い男の相手は、愛情がなければ付き合いきれないだろう」


「へ」


「顔だけでも君の好みで安心したよ」


「ふぇ!?」


いつそんな話になったのか、とシュテファーニエは混乱する。しかし、彼の造作は天使と崇めたいほどのものなので、真っ向から微笑まれれば頬が自然と熱くなった。一方、彼女の良さを再認識し好意を持ってもらえる見込みがあることにロイは嬉しげだ。


「将来的に面倒も気にならないほど好きになれるようになったら嬉しいな」


「け……検討しま、す」


どうにかそれだけをシュテファーニエは答える。

煌々しい笑顔で微笑むロイと頬を染めて弱るシュテファーニエ。そんな二人を眺め、リュディアは先ほど手加減を頼んだところだったのに、という感想が浮かび、好意を隠していないのは無自覚なのか、とイザークは疑わしく感じた。

これからも友人シュテファーニエの心労は続きそうだと、リュディアは判断し、気持ちが落ち着く茶葉をメイドのカトリンに送ってもらおうと決めた。



幾日か後の昼下がり、王立魔導学園の校庭にある何ヶ所か点在している東屋の一つ、校舎からは遠く寮方面とは逆に位置するところでリュディアとロイは婚約者同士でお茶をしていた。

茶の支度と護衛を兼ねてメイドのエミーリアが控えているが、彼女は会話に介入しないので二人きりのようなものだ。時折、お互いの選択授業がない時間にこうしてお互いの相談のため場を設けている。


「いつ頃の目処なんですの?」


「できれば五月中には。延ばせて、一学期が終わるまでかな」


「それで……、あんなに必死でいらしたのですね」


「ニコラウスは今年で卒業するからな。試用期間を引き伸ばしすぎては、公平ではないだろう」


シュテファーニエからの回答をもらう期限がいつのつもりなのか確認すると、リュディアの予想よりも早い時期だった。彼の必死さは判り辛いが、予定の回答期限まで一ヶ月もなければいくら彼でも焦るだろう。にもかかわらず、多少強引ではあってもシュテファーニエを急かす素振りがないのは流石というべきか。

一学期末まで延ばせるとロイは言ったが、国側はそこまで待ってはくれないだろう。ロイが交渉して延ばせる最大の猶予がそうだというだけだ。属性が発現さえすれば、シュテファーニエはどの属性であっても有力な魔術士となる。希少な光属性が無理なら早期に見切りをつけ、充分に属性干渉を見込める期間を他の者と確保しなければならない。

恐らく、シュテファーニエが望まない限り、五月までの回答期限は動かないだろう。


「お二人には、こくに感じてしまいますわ……」


「そうかな? 彼女が覚悟するに足る好意を得られなければ、僕はそれまでの男だったというだけさ」


悲観した様子なく微笑むロイに、リュディアはどう返せばいいのか判らなかった。

リュディアが読んだことのある恋愛小説では時間をかけてゆっくりと育てる愛情もあった。けれど、未来の王が約束されたロイにその猶予はない。シュテファーニエからすれば、知り合ったばかりの異性で好きかどうかも判らないうちに、答えを出すための試用期間が終わってしまう可能性は充分にある。どちらの事情も解るがゆえに、リュディアは適切な言葉が見つけられずにいた。


「……ロイ様の誠実さはちゃんとファニー様に届いていると思いますわ」


結局、個人的な感想を述べることしかできなかった。


「情けなくはなかったかな」


「いえ、不利なところも隠さずに明かすのはとても誠実なことです」


リュディアは自身の弱みを見せることの恐ろしさをよく知っている。正直な想いを明かして嫌われたらと恐怖し、足がすくんだことが何度あったことか。その度に、自分はイザークや家族に支えられてきた。

きっとロイも彼女がどう感じるか、少なからず不安であるはずだ。自分を支えてくれた人たちのようにできないかもしれないが、友人であるロイの不安を少しでも拭いたかった。選んだ励ましが率直な感想を述べることだったのは、根拠のない励ましの言葉では伝わらないと感じたからだった。


「ありがとう」


真剣な眼差しで誰にでもできることではない、と評価するリュディアに、ふっとロイは表情を和ませる。伝わったことに、リュディアも安堵した。


「リュディア嬢の方はどうなんだ?」


「……入学してから、既に何度か叱りつけてしまいましたわ」


まるで口にした茶が渋かったかのように渋面になるリュディアを見て、ロイはくつくつと喉を鳴らす。

彼女は可愛げがない行動だと不利益に感じているが、自分のためを思って指摘していると解っている人間には長所としか映らない。彼女がイザークを叱っているところを目撃してる訳ではないが、最後には彼が嬉しそうに笑っているであろうことはロイも容易に想像がついた。


「進展なしか。あまりイザークと話していないようだったから、何かあったのかと思ったよ」


そう呟いて、ロイはティーカップを持ち上げ、茶を一口飲む。ちょうどティーカップに口を付けていたリュディアは、茶を飲みかけてぐっと詰まった。昼食の際に、会話をしていながらなるべくイザークと直接話さないようにしていたのを見抜かれていたとは。

小さく咳払いをして、リュディアは視線をそっと落とす。


「あれ、は……、わたくしが勝手に気まずくなっているだけで……」


「リュディア嬢は律儀だからな。婚約解消するまでは、そうそう踏み込めないか」


言いづらそうにしているリュディアに、ロイは自分と婚約状態の縛りが弊害の一つだと別の問題提示する。追及されないことに、リュディアは少なからず安堵した。あの黄昏時たそがれどきの動揺を他人ひとに説明できる自信がリュディアにはなかった。


「こういうときは、多少わずらわしく感じてしまいますわね……」


「ただ、僕らの場合、婚約していない方が更に煩わしいことになるからな」


溜め息をいたのはほぼ同時だった。

お互いの想い人が事情を知っているとはいえ、二人は注目を集めやすい。それゆえに、ある程度の婚約者という関係を体面上保たねばならない。周囲が遠巻きになり声が届かない範囲で対話で攻めるロイと違って、リュディアはそこまで器用に立ち回れない。

婚約状態で行動制限があるのは確かだが、第一王子のロイと公爵令嬢のリュディアは立場、容姿ともに申し分ないため、婚約していなければ言い寄る周囲をあしらうことで手一杯になっていた可能性が高い。恐らく、こんなに悠長に恋愛事に頭を悩ませていられなかったことだろう。


「……そういえば、わたくしたちが恋愛相談しているのって変ですわね」


「ははっ、今更だな。僕たちはずっと変だったよ」


「それもそうですわね」


貴族や王族である自分たちが政略結婚にあらがい恋愛を貫こうとしていることをリュディアは不思議に感じたが、そもそも婚約状態でいながらこれまで友人関係を貫いてきたこと自体が奇怪おかしいことだとロイは笑った。

ひとしきり笑い合ったあと、ロイは訊いた。


「覚悟はできそう?」


想い人ができたと報告した彼女は、相手を巻き込む覚悟がないと言っていた。あのときから数年が経ったが、リュディアは覚悟できたのだろうか。


「……わたくし、悩むのが疲れましたの。だから、聞く覚悟を決めましたわ」


決然とリュディアは答えた。

相手の意見も聞かないうちから一人で悩むことに疲れたリュディアは、自分一人ですべてを決めようとしているせいだと気付いた。だから、相手の意見を訊く決意をした。相手と話し合ったうえで決め、どんな結果になっても受け止めようと腹を括った。

ロイは一度蜂蜜はちみつ色の瞳を瞠目させ、誇らしげに笑んだ。


「リュディア嬢は溺れないんだな」


「わたくし、地に足を付けて歩きたいんですの」


それはいい、とロイは笑った。これまでの軌跡すべてを抱えて進む彼女のなんと凛々しいことか。


「それよりも、今はご自身の心配だけをなさってくださいな」


「おや、友人の心配をしてはいけないのか?」


「ロイ様」


まだ猶予のある自分より、期限の迫ったロイ自身を気にかけるよう、リュディアは忠告する。それを茶化そうとするので、リュディアが睨み据えると、ロイはすまない、と謝罪した。


「僕は、そこまで焦っていない」


「けれど、ファニー様に好きになっていただかなければ、ロイ様は……っ」


「リュディア嬢、同じでなくていいんだよ」


必死だと言いながら、焦った様子なく微笑むロイに、リュディアは首を傾げる。


「僕はもう花開いているかもしれないが、彼女の方はまだ芽もでていない状態だ。それを今すぐ花咲かせようというのは無茶な話だ」


知り合ったばかりの相手に、相手が持つのと同じだけの愛情の量を返せる訳がない。少しでいいのだ。期限は短いのだから、シュテファーニエが覚悟するに足りる分だけの想いが芽吹けばそれでいい。


「芽ぐらいでいいんだよ。彼女は賢いからきっとそれで覚悟ができるはずだ」


あとはそれを育てるだけでいい。そちらの猶予は彼女の卒業までぐらいだろう。充分だ。

てっきり同じだけの想いを返す必要があると思っていたリュディアは、ロイの言葉に彼の想いの深さを知る。自身は一目惚れだというのに、それを強要しないなんて。


「僕は、彼女の心の芽がでたときには教えてくれると信じているよ」


種を植えた芽吹く前の鉢植えをいつくしむように微笑むロイは、静かにティーカップの水面に視線を落とした。

そんなロイを見て、リュディアは願う。シュテファーニエの心に芽吹くのがロイの芽であるように。

友人二人の幸せを願うからこそ、ただただそう願うのだった。


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