66.蒲公英



春が終わろうとする頃、授業の進行にも慣れてきたので俺は学園の造園管理所を訪ねた。

学園の敷地は広いので、事務所続きに庭師たちの宿舎と用具を格納する倉庫が併設されている。長屋にも似た造りの宿舎は社員寮みたいなものだ。その長屋のうち、倉庫に一番近い一室が事務所となっている。


「すみません。誰かいませんか?」


事務所のドアをノックしてみるが、応答はない。作業に出払ってしまっているようだ。どうしようか、と少し悩み、また授業が終わったあとで来ようと踵を返す。

すると、ちょうど戻ってきたらしい庭師のじいさんが荷車を押していた。


「学生さんがこんなとこに何の用かね?」


学生が来ることが珍しいらしく、不思議そうに爺さんが首を傾げた。


「あのっ、俺、イザーク・バウムゲルトナーっていいます。今後、少しだけ作業を手伝わせてもらえませんか?」


「手伝う……? ああ、お前さんがギルドの言ってた坊主か」


話が通っていたようで俺は安堵する。

正式に入学が決まったとき、庭師ギルドに魔導学園で庭作業のバイトができないか打診をしていた。といっても、授業がどれぐらいのものか受けてみないと判らないから、授業に慣れた頃に面接に行くことだけ、事前に伝えてもらっていただけだ。


わしはヤーコプじゃ。勉強も大変だろうに、物好きだのう」


身体からだなまるのを避けたくて」


俺はへらりと笑って、自分の優先事項を伝えた。

庶民が学園で勉強するとなると、本当なら魔法発動補助に使う呪文を覚えるため、古典語の勉強も必要になって必要科目が増える。けど、無詠唱でいい俺はその時間は適性属性以外の基礎学にあてることができた。元々お嬢に文字を教わっていて、師匠こと執事のハインツさんからも入学までの間に色々教わっていたから国語科の科目はとらなくても大丈夫だったりする。

俺の興味本位での勉強に付き合ってくれたお嬢に感謝だ。おかげで、受けたい他属性の座学に参加できる。


「して、いかほどのつもりかね?」


「週三で数時間、お願いしたいんですけど……」


自分に都合のいい頼みしかしていない自覚があるから、だんだん尻すぼみになる。雑用でもいいからさせてもらえたら嬉しいけど、ヤーコプ爺さんたちには、彼らの定めた進行があるはずだ。中途半端な手伝いはかえって作業の邪魔になるだろう。

ヤーコプ爺さんは、軍手をしたままの手でひげを撫でながら、俺の足元から視線をあげ最後には顔を見上げられる。


「構わんよ」


「……ほんとですか!?」


「ああ。年寄りばっかでのぅ、高いところの作業がきつかったんじゃよ」


「いくらでもやります!」


バイトの許可をもらえて俺は表情カオを輝かせた。

それにベンノの孫なら使えるだろう、とヤーコプ爺さんは眼を細めた。どうやらうちの祖父じいちゃんを知っているらしい。バウムゲルトナーの名字で評価ハードルがあがっている気がするけど、今は学園にいる間も庭作業ができることを素直に喜ぼう。


「しかし、作業着に着替えるのは、ちと手間だのう」


制服のままでは作業ができないから事務所などを借りて着替える場合、直接作業する現地におもむけない。作業場所によっては事務所から距離があるから、いちいち事務所に寄るのは非効率だ。

ヤーコプ爺さんの杞憂はもっともだった。


「あ、それなら大丈夫です。コレ、上から着ますから」


俺は、肩にかけていた荷袋から上下がつながった長袖の服を取り出してみせた。

エルンスト家の使用人は誕生日は必ず休みで誕生月にボーナスがもらえる。俺は入学が遅れることが決まったとき、公爵様にそのボーナスを現物支給でお願いし、ツナギを作ってもらった。日本とちがってまだチャックはなくボタンで留めるタイプだが、ボタンが大きめだから軍手をしたままでも脱着が可能で便利だ。

その場で着てみせると、ヤーコプ爺さんはこれはいい、と笑った。

バイトに入れる日の作業場所の確認をして、俺はヤーコプ爺さんと別れた。他の庭師とは作業のときに順次紹介してくれるらしい。

学園の庭師に年配者ばかりの理由を訊いたところ、若い者だと貴族の少年少女がいる場所では続かないことが多いそうだ。また、奥さんがついてきてくれる場合もあるが、基本学園敷地内に単身赴任状態になるため、進んで就きたがる者は少ない。念のため、間違いが起こりようがない年齢がいいというのもあるそうだ。

色んな事情があるんだと考えつつ、校舎へ向かっていると話し声が聴こえてきた。声につられて、そちらを見遣ると、制服姿の令嬢が三人ほど話し込んでいた。着けているリボンないしハンカチの色で同じ一年生だと判る。

三年生はこん、二年生は深緑ふかみどり、一年生は深紅しんくのネクタイ・リボン・ハンカチいずれかを身に着けるようになっている。学年で色が決まっている訳じゃなく、入学したときの色をずっと卒業まで使う。だから、来年の入学生は紺になる。ローテーションで判りやすい。

俺はネクタイを締めるのが面倒になって、タイを畳んでハンカチのように胸ポケットに入れている。一応これで学年は判るから充分だ。


「彼女、少しばかり図々しくありません?」


「いくら無色の君といっても、平民の出でしょう」


「リュディア様の友人なのをいいことに、王子殿下にまで近付いて……っ」


お嬢の名前がでたことで、俺は彼女たちの会話に耳を傾ける。なんだか不穏な空気だ。無色の君って聞いたことがある気がする。なんだっけ、確か白い紫陽花あじさいのことだ。

彼女たちが気に食わないのは、紫陽花の娘がお嬢たちと一緒に昼飯を食べていることだろうか。それ、婚約者同士に女子一人だけは不味いから、と俺も一応付き合わされているんだが。デカいだけの俺は、どうやら彼女たちの眼中になかったらしい。あの眩しいレオの隣にいるのを我慢したというのに。あいつはいるだけで目立つから、それで俺の存在がかすんだなら仕方ないが。


「彼女、魔力量が多いといっても属性発現していないので、魔法が使えないようですわ」


「それなら、いくらかやりようがありますわね」


「身の程を思い知らせないと、ね……」


くすり、と令嬢たちが笑みを零したところで、どさり、と音がして彼女たちは反射的に音の方へ振り向いた。俺が荷袋を足元に落とした音だ。


「誰ですの……!?」


誰何の声に答えず、近くの木の根元に咲く蒲公英たんぽぽを一輪手折った。その蒲公英を持ったまま令嬢たちの前までいき、リーダー格っぽい一人の目の前に蒲公英を差し出す。


「この花をどう思いますか?」


「え……、か、可愛いですわ」


急な質問に動揺した令嬢は、素直な感想を零した。その答えに満足して俺は笑う。


「なら、貴女あなたには花を踏みつけるより、花を愛でる方が合ってらっしゃいますよ」


「え」


差し出された蒲公英を、令嬢は反射的に受け取った。


「それに、貴女の手は花を手折るためではなく、鍵盤から出る音を音楽に変えるためにあるのでしょう?」


「な……っ」


自身の趣味であり特技を言い当てられて、令嬢は瞠目する。


「貴女のヴァイオリンと合わせれば、さぞ素敵でしょうね」


「どう、して……」


もう一人の令嬢に視線を移すと、一歩身を引かれた。


「貴女の刺繍はとても繊細だと、当家のお嬢様から伺っています」


「まさか、貴方……」


怯えたように三人目の令嬢が、蒲公英を持つ令嬢に身を寄せ、言い淀む。この状況で家の名前を口にするのははばかられたらしい。


「当家のお嬢様を慕っていただけ、嬉しく思います。けれど、ご自身を磨かれた方がお嬢様は喜ばれますよ」


笑ってみせたけど、牽制けんせいにしか聞こえなかったみたいで令嬢たちは気まずげに口ごもって、去っていった。その去っていく後姿を眺めて、俺は嘆息する。


「お嬢はほんとモテるなぁ」


努力家なお嬢は女子にもモテるから、ファンというか親衛隊みたいなのができているらしい。王子のレオもモテるからその嫉妬もなくはないだろうが、彼女らは、憧れているお嬢を応援したい気持ちがゆがんだ方向に働こうとしていたようにみえた。その応援の仕方は、きっとお嬢が喜ばない。

友達が傷付けられたら、それが応援からくるものでもお嬢は彼女らを責めるしかなくなるだろう。できれば、お嬢が喜んで、彼女たちも自分を好きになれるやり方で応援してほしい。野草の花でも、花を見て可愛いと思えるならなおさらだ。

しかし、師匠から同学年だけでも覚えろ、と貴族の令息令嬢の名前を暗記させられていてよかった。少し頑張れば、どうにか顔を見て名前・爵位・趣味ぐらいまでは思い出せる。おかげで名前を知っているアピールができた。

別にお嬢に告げ口したりするつもりなんてないけど、相手に名前が知られていると判れば後ろ暗いことをしようなんて思わないだろう。

公爵様の条件を飲んで入学が遅れると決まったあと、師匠が入学までに覚えることが山ほどあると従者講座を再開した。

王族の成り立ちやら主力貴族について、エルンスト家については歴史だけでなく領地のことも含んだので地理の分野にまで及んだ。

苦手な暗記が多い社会系の勉強ばかりだったから、数年の猶予があってもかなり難しかった。前世では日本の歴代総理大臣とか徳川将軍すらロクに覚えられなかった俺に、お嬢と同学年になる貴族の名前を暗記するなんて苦行でしかない。受験に受かったのに受験勉強している気分だった。あの時期ばかりは、単語帳がほしかった。わら半紙とかでいいから庶民にもっと紙が普及してくれないだろうか。


「狂犬さんにしては意外な黙らせ方ですね」


いきなり背後から声がして、俺はびくうっと肩を跳ねさせた。他に人がいるとは思っていなかった。

恐る恐る振り返ると、くさむらで隠されるように眼鏡をかけた令嬢が本を手に座っていた。ゆったりと木の幹に背を預けて、明らかに読書モードだ。


「ゴンと拳で脅すとかがセオリーだと思うんですけど」


「いや……、別に俺、女子をビビらせたいワケじゃ……」


「そうでしょうね」


定番を言ってみただけだ、と平坦な声音で眼鏡の令嬢は俺の意見に同意する。噂を知っているが、彼女はそれだけで人を判断するタイプじゃないらしい。


「読書の邪魔したなら、ごめん。えっと」


「私は、コルネリア・フォン・キューンです。バウムゲルトナーさん」


俺が同級生の名前を思い出そうとする前に、本人が名前を名乗ってくれた。わざわざ立ち上がって、片手に本を抱えたままだがカーテシーまで執る。だから、俺も思わずぺこりと頭を下げて挨拶をした。確か、キューン家は侯爵位で、彼女は同じクラスだったはずだ。


「唐突で申し訳ないのですが、一つ、伺ってもいいでしょうか?」


「え、何?」


「もし違ったなら、私のことは妄言を言う変な女と思っていただいて構いません」


そう前置きをして、彼女は指で眼鏡を押し上げた。


「前世は日本人ですか?」


「うん」


隠すことでもないから肯定すると、一拍の沈黙が落ちる。


「……前世の記憶がある、ということでいいでしょうか」


「ざっくりだけど覚えてるぞ。キューンもそうか?」


「はい。ここがゲームの世界であることもご存じで?」


「みたいだな」


「では、君星と状況が違うのは、貴方の意図によるものですか?」


ゲームでは俺みたいな奴はライバル令嬢のお嬢の近くにいなかった、と怪訝に問われる。


「いや? エルナから聞かないと俺、君星の話ほぼ分らねぇもん」


「第三王女、フィリーネ・エルナ・フォン・ローゼンハイン殿下も記憶持ちなんですか」


サポートキャラが転生者とは、と呟く様子からすると、彼女もエルナ同様、前世で君星をプレイしていたようだ。思案げに呟いていた彼女は、俺の視線に気付くと、詫びて改めて自己紹介をした。


「失礼しました。私、侯爵令嬢コルネリアは、名前だけ作中に出てくるレミアスの形式上の婚約者。君星のモブキャラなんです」


「えっ、アイツ、婚約者いたのか!?」


「そっちに反応しますか」


俺が唖然とすると、彼女は少し意外そうに呟いた。

けど、黙っていれば冷静そうな青髪のレミアスは実際はただの脳筋だ。強くなることにしか興味がない熱血漢に婚約者がいるなんて初耳だったし、驚きしかない。あ。そういえば、レミアスも侯爵令息で貴族だった。


「キューン侯爵家とシュターデン侯爵家は古くから付き合いがあり、父同士が友人なんです。なので、とりあえず婚約しているだけで、レミアスとは幼馴染程度の関係です」


「そ、そうなのか」


意外すぎて俺は頷くしかできない。レミアスも貴族である以上、婚約者がいても何も奇怪おかしくないはずなのに、女っ気がなさすぎて違和感しかない。


「俺は君星に出てもいないから分らねぇけど、婚約者が攻略キャラって嫌だったりすんの?」


エルナは兄妹きょうだいだからまだいいが、もしゲーム通りになったら自分の婚約者が他の女子を好きになるかもしれないというのは、流石に複雑じゃないかと心配になる。


「いいえ。まったく」


しかし、平坦な調子ではっきりと否定が返った。俺はそのあっさり具合に拍子抜けしてしまう。


「複雑だったりは……」


「複雑なのは、CPカプの婚約者になったことですね」


「推しカ……?」


「ああ、用語をご存じないのですね。私、前世から現在進行形で腐女子なんです。BLボーイズラブが好きな人種だといえば、分かるでしょうか」


腐女子という単語を聞いたことがある程度の俺に、丁寧に補足説明までしてくれた。漫画やアニメで見たことはあるが、前世では実際に腐女子に遭遇したことはなかった。漫画で出てくる腐女子って、もっとテンション高かった気がするけど、目の前の彼女は感情が読みづらいレベルに落ち着いている。


「BL好きなのに、乙女ゲーすんの?」


「ヒロインは一人しかいません。つまり、ヒロインと結ばれる攻略対象は一人だけです。なら、ヒロインと結ばれなかったキャラ同士でつがえば万事解決でしょう」


素朴な疑問をぶつけると、とても真面目に暴論を説かれた。その理論は逆に問題が増えている気がする。平坦な調子でも、こういった考え方を持っているなら、確かに彼女は腐女子なんだろう。


「腐女子受けする乙女ゲームって結構あるんですよ。君星では青赤クラスタが王道CPで、他は……」


「ごめん。俺、聞いてもたぶん分かんない」


「失礼しました。こういった話をする機会は久しぶりだったもので、つい……」


白熱してしまった、と彼女は詫びるが、俺には平静にみえた。少し早口になりかけていたけど、もしかしてテンションあがってたんだろうか。


「話が逸れましたね。私は、腐女子ゆえに複雑な心境なんです」


「そーゆーモンなのか?」


「ええ。ナマモノは範疇外なんで」


受付範囲は二・五次元までです、と説明されたが、専門用語が多すぎてちんぷんかんぷんだった。俺の理解が追い付いていないことを察したようで、彼女はどう言えばいいか思案する。


「例えば、貴方が身近にいる同性と恋仲だと思われたら嫌じゃありませんか?」


「性別がどっちでも、俺、好きなヤツいるから他のヤツとの仲を誤解されるのは困る」


「……バウムゲルトナーさんはよい方ですね」


「? ありがとう」


何故か眼を見開いてからそんな感想を告げられた。理由は判らないが、褒めてもらったみたいだから礼を言う。


「つまりは、そういうことです。私は、現実に生きている人の性癖まで捻じ曲げたくはありません。現実に存在しないキャラだからこそ、あらゆる可能性を模索できるのです。これは腐女子なりの矜持きょうじです」


彼女は作品を曲解している自覚があるからこそ、いくつかの制約を設けているらしい。俺には解らない価値観を持ってはいるが、俺をいい奴だと言う彼女もいい奴に感じた。


「なので、レミアスやベル君と実際に知り合ってしまった以上、妄想のかてが減ってしまい少しばかり残念で……」


ふう、と彼女は溜め息をく。ごめん。その残念さは共感してやれない。


「そういや、なんで俺に前世の記憶があると思ったんだ?」


「知らない方が君星ゲームの主要キャラと親しい時点で記憶持ちイレギュラーの可能性が濃厚だというのもあるんですが、一番の要因は……」


「要因は?」


「レミアスの女の扱いが上手くなったんです」


「はい??」


余りにもレミアスに不似合な評価に、俺の思考は停止した。お嬢に無神経だと叱られてばかりのあのレミアスが女性の対応が上手いとはとても想像できない。


些細ささいなことばかりなんです。手を引く力を緩めてくれるようになったり、先に走っていかずに歩調を合わせてくれるようになったり、自分の話ばかりしていたのが少し私の意見を聞いてくれるようになったり」


幼馴染で小さい頃から知っている彼女は、レミアスに振り回されるのが当たり前の日常だったらしい。

力加減が下手で、どこかに行こうと引かれる手首は痛いことがあり、自分本位に行動するため相手に合わせることなく、彼女とベルはインドア派なのに、強引に外へ連れまわされることが頻繁だったようだ。


「ヒロインと出逢うまで改善する予定はありませんでしたし、ヒロインが現れたとしてもレミアスルートにいくとも限りませんので、割と諦めていたのですが……数年前から改善され始めたんです」


不意に、じっと凝視される。理由が判らず、俺は首を傾げた。


「ちょうど、ロイ殿下のお使いをするようになった頃からです」


「そういや最初は、思いっきり花散らしてたな」


「やはり貴方も関与していたんですね」


相手が上位の公爵家とはいえ、思い込みの激しいレミアスが女性に叱られただけでは矯正できない、と彼女は幼馴染だからこその断言をする。けど、お嬢が本気で怒ったらかなり恐いことを彼女は知らない。お嬢をマジギレさせたことがあるレミアスもレミアスだが。

彼女は、俺がレミアスに何かしたと考えているようだが、思い返してみても何かした覚えはない。レミアスはいつでもぶれずにレミアスだった。


「っていっても、俺は花が無事かチェックしてただけだぞ?」


「バウムゲルトナーさんは無自覚系のようですから」


「何ソレ?」


「根っからの善人とは、得てしてそういうものなのでしょうね」


首を傾げて俺が訊くと、返答ではなく感想が述べられた。


「そういや、エルナ以外で元日本人と話すの初めてだ。なんか、キューンは話しやすいな」


「それは、先ほどの方たちのように私を令嬢対応されていないからだと思います」


「あっ、やべ」


「いえ、その方が私も助かります」


つい前世の同級生と話すノリで話してしまっていた。そのことを詫びると、彼女もその方が楽だと許してくれた。


「俺、前世まえは田中太一ってゆーんだ」


「私は……」


俺が前世の名前を教えると、同じように返そうとして言い淀むから、小首を傾げた。


「どうした?」


「……私、今でも地味なんですが、前世まえはもっと地味顔だったんです」


「うん?」


何故か外見の申告をされた。癖の強さゆえに巻かれた濃い茶色の髪は肩に届かない長さで、一重の眼は大きい訳じゃないから、特別美人でも特別可愛くもないといえるかもしれない。けど、普通だ。地味顔の何が悪いんだろう。


「名前負けしているというか……」


「俺、ずっと見た目も名前も十人並みだけど」


前世から、よくある名前で目立つ外見でもない俺に、名前負け云々うんぬんを言われても気にしようがない。他人と被りにくい名前なら、それは俺からすると羨ましいことだ。

俺の言葉に、彼女はきょとんと眼を丸くする。それから、平坦だった表情カオがふっと緩んだ。


「そういえば、攻略対象じゃありませんでしたね」


気が抜けたように笑う様子に、彼女が笑えることを知る。感情が顔に出にくいタイプなだけらしい。


「私は、月岡杏樹あんじゅでした」


「長男だからって付けられた俺より、ちゃんと考えて付けてもらった名前でいいな」


「そうかもしれません」


名前の由来を親から聞いていないか、覚えていないだけか、思いせるように彼女は目元を和らげた。

前世で俺が小学校低学年のときは、名前の由来を訊いてくる、という宿題が出されたものだが月岡は違ったんだろうか。由来らしい由来がなかったものだから、もっと考えて名前を付けろ、と親父と喧嘩した。親と話すきっかけになるが、俺みたいに喧嘩にもなりかねないから定番化されてないのかもしれない。


「今の名字より田中さんの方が呼びやすいですが、他の人に通じませんよね」


「なら、渾名あだなのザクでいいぞ。俺も月岡の方が呼びやすいけど」


日本人の記憶があるせいか、前世の名前の方が馴染んで感じるのは彼女も同じらしい。俺の名字が長いのは同意しかないから代案をあげた。


「では、私は……」


「コニー、こんなところにいたのか」


「ベル君」


林道の方から、林道のはずれになるこちらにくる影があった。無造作にハネた赤髪のベルに呼ばれ、彼女は振り返る。


「コニーが気になっていた本が図書館に入荷していたから借りてきた」


「ありがとう、ベル君。という訳で、私のことはコニーで」


「了解」


ベルから渡された本をすかさず受け取ったと思ったら、後半は俺への言葉だった。自分以外に発せられた言葉により、ベルの視線がコニーから俺に向いた。俺が木で見えていなかったようで、驚いた表情カオをされる。


「イザーク? どうして二人が一緒に……?」


「同じクラスだもの、話ぐらいするわ」


ね、と同意を求められたので、俺は頷いた。


「私、次の授業実技だから、一旦教室に戻らないと」


大事そうに二冊の本を抱え、コニーはその本を置きに教室に向かうことを告げる。俺は、次の授業は座学だからクラスの教室から近く、コニーほど急がなくていい。


「じゃあ、ザクさんまた」


「おう」


ベルに改めて本の礼を伝えてから、コニーは足早に去っていった。

俺も校舎に向かうところだったので、ベルと連れだってコニーが去っていった道のりを追うように歩き出す。歩いてしばらくして、ベルがおもむろに呟いた。


「コニーが、僕たち以外と話しているところを初めて見た」


意外そうなベルの呟きに、遭遇時を思い出して納得がいく。人気ひとけのない林道のはずれで日向ぼっこしながら読書しているなんて、一人の時間を楽しむのが得意な奴がすることだ。

クラスの教室でも、よく自席で読書をしていた気がする。確かに、誰かと話し込んでいるのを見たことはない。俺も入学してから、コニーとちゃんと話したのは今回が初めてだった。


「何の話をしていたんだ?」


「んー、たまたま共通の話題があったから話してただけだ」


前世で同郷だったなんて説明が面倒だったから、少しぼかした。言っても信じてもらえないだろうし、信じてもらえてもベルの場合、興味を持って根掘り葉掘り質問されて次の授業をサボることになりかねない。


「それで、コニーが略称で呼ぶほどに……」


「意外と話しやすかったぞ」


これまで話したことがなかったから親父みたいに寡黙なタイプかと思っていたが、機会さえあればきちんと会話ができる奴だった。

俺に解るように言い換えたり、言葉を探して話してくれたし、意見を押し付けてくるようなこともなかった。むしろ、線引きをちゃんとして話してる感じだった。


「そ……そうか」


ベルは戸惑ったように相槌あいづちを打ち、そして気落ちしたようにまたそうか、と小さく呟いた。

見たままの感想を俺は言う。


「ベルって、コニーが好きなのか」


「なっ、なななななん……!?」


どうして判ったのか、とベルは驚愕を浮かべるが、髪と同じぐらいに顔を赤くして肯定でしかない反応を見せた。

結構判りやすかった。俺に気付くのが遅れたのは、コニーしか視界に入ってなかったからだろうし、コニーに男の友達ができることを歓迎せず、むしろ落ち込んでいた。そもそも本を借りたのだって、コニーが優先で思考が働いているからだろう。


「喜んでなかったから」


俺が確信した理由を教えると、ベルが唸りながらもどうにかバレた事実を受け入れた。そんなに恥ずかしいか。


「レミアスは気付いていないのに……」


「それはレミアスだからだ」


青い炎を出せるようになって嬉々としたり、日々筋トレに勤しむような奴だ。極端な奴だから、興味がないことへの理解が低い。恋愛なんて興味がない代表だろう。


「……不毛だろう」


ベルは自嘲するかのように、小さく笑った。

婚約者がいる相手を好きになるってことは、自分以外と結婚する未来が待っているということだ。それを解っていて諦められないのは、人によっては滑稽こっけいなことかもしれない。


「さぁ? 俺もそうだけど、分かんね」


好きになったものは仕方がないって言い訳を免罪符に無理矢理奪おうという気概もないし、かといって簡単に捨てれるなら最初から好きになっていない。

告白すれば楽になれるかもしれないが、それは単に自分の代わりに相手に負荷をかけるだけで、逃避にも思える。

振られるのが恐い。今の関係が壊れるのが恐い。そんな単純な恐さだけだったらよかったのに、相手のことを想うと色々考える。

平民だったら、惚れた腫れたは当人同士の問題で済むが、貴族だとそうもいかない。相手が貴族だとただ好きだってだけで行動ができない。無視したらいけないことが多すぎる。元から貴族のベルは、それを嫌というほど理解してるだろう。だから、ベルを臆病だとは思わない。

俺が似た立場だとは思わなかったのか、ベルは眼を見開いた。

少し思案げにまぶたを伏せたあと、得心がいったように眼がひらめいた。俺の想い人に思い至ったらしい。


「そうだったのか」


「ベルはどうにかすんの?」


「……どうすればいいか、分からない」


「だよなぁ」


「婚約者に問題があれば、よかったんだがな」


「嫌なヤツじゃないもんなぁ」


俺がへらりと笑うと、ベルも仕方ないとでもいうように笑みを零した。

好きになった相手の恋人や婚約者が人格的に問題があることなんて、現実には少ない。そんな漫画みたいに都合がいいことなんてない。

好きになった相手にはそれだけの魅力があり、そんな奴が放っておかれる訳もなく、そんな相手が好きになる相手にもそれ相応の魅力があるのが通常だ。相互の家の利益が基準の貴族の婚約もそうだ。相手の人間性に問題があれば婚約自体するはずがない。

応援していいものか判りかねたから、聞いたことだけ伝えておく。


「形式上だって言ってたぞ」


「コニーらしい」


自分のことには無頓着だからな、とベルは表情を和らげた。その眼を見て、想いの根深さを知る。

きっと俺も他人ヒトのこと言えない。アスファルトの中だろうがどんな場所にも深く根を張り、たくましく咲く蒲公英みたいなものだ。見た目よりずっと頑丈だから簡単に消えてくれない。だから、俺は付き合っていく覚悟を決めた。


「……イザーク、また話を聞いてもらってもいいか?」


魔法のこと以外で、と別れ際にベルが躊躇ためらいがちに訊いてきた。けど、そこまで話らしい話はしていない。一言二言話した程度だ。ずっと周囲に隠していて、恋愛相談なんて不慣れなんだろう。


「おう。俺も愚痴ぐちるかも」


心許なそうなベルに、俺は笑って了承した。

すると、ベルは安堵したように微笑む。堂々と宣言することじゃない、と少し可笑しそうだった。



その日の夜、俺は思い出したように白いクマの瞳に風の魔力を流した。

寮の部屋は、交流を目的として男爵位以下は基本二人部屋をランダムに割り当てられる。伯爵位以上は、従者が同伴の可能性が高いから彼らの分のスペース付きの一人部屋だ。爵位基準なのはざっくりで、どちらかというと付き人の有無とその人数で振り分けられている。けど、俺はあぶれてしまって、一人だ。図体がでかくて手狭になるからか、歳上なことで同級生が萎縮いしゅくする可能性があるからか、理由は知らないが配慮された可能性もあった。

そのおかげで部屋にクマ電話を置いたままにしても、揶揄からかってくる奴がいなくて助かっている。

送った魔力に呼応して、魔法が発動し防音の結界が展開される。結界に使われている魔力は、もちろん俺のじゃなく、クマ電話の向こうの奴のものだ。


『もうっ、やっと連絡寄越よこした! 遅すぎーっ』


「お前は受験勉強しなくていいからヒマかもだが、こっちは入学して色々慣れんの大変なんだぞ」


『私だって、来年入学だもん! ヒマくないもん!』


エルナの抗議に反論すると、さらにムキになって返された。別に俺も本当にエルナが暇だとは思っていない。一応、王女だし。王族としての勉強なり務めなりがあるはずだ。

こちらも暇じゃないことを伝えたかっただけなので、はいはい、とクマ電話ごしの文句を流す。


「お前と同じ、君星知ってるヤツに会ったぞ」


『えっ、ウソ!? 前世の記憶持ちいたの!?』


「おー」


『誰、誰??』


「コニーっつって、モブキャラらしいぞ」


『コニー? そんなキャラいたっけ??』


「レミアスの婚約者」


『キューン侯爵令嬢か!』


エルナは、コニーの渾名までは知らなかったらしい。コニーも名前が出ただけみたいなことを言っていたから、君星では本当に形式上の婚約者だったようだ。


「エルナのこと教えたから、来年会ったら話してみろよ」


『……イザーク、君星談義から逃げようとしてるでしょ』


即座に勘付いたらしいエルナが、指摘してきた。クマ電話の向こうで半眼になっていそうな声音だった。


「俺より、分かるヤツと話した方がお前もいいだろ」


『そーだけどぉー』


少し手伝っただけの俺は、どうしたって乙女ゲー好きの同志にはなれない。俺がニコたちと海賊ものを読んでどの戦いが熱かったか話すのと同じで、エルナだって同じものが好きな相手と話した方が楽しいだろう。


『どんなコ?』


「えーっと、腐女子だって言ってた」


『うぇ!? 相容れないかもしれない……っ』


腐女子って単語便利だな。それだけで、エルナにコニーの嗜好が伝わったみたいだ。君星の楽しみ方が違うことを知って、エルナは話せるか不安になったようだった。


「たぶん大丈夫だぞ。漫画みたく、なんでもかんでもBLにする感じじゃなかったから」


『ふつーにも話してくれるなら、まぁ、大丈夫かな……』


葛藤するように少し唸ったあと、エルナはそんな風に呟いた。なんでそんな攻撃力高い敵と対峙するかのように構えるんだ。手加減してもらわないと話せないほど、コニーは強いのか。


『ってゆーか、イザークは引かなかったの?』


「なんで? 普通の女子だぞ」


意外そうに訊かれたが、何がそんなに意外なのか。何故かエルナは、俺が引くのが当たり前みたいに思っていたようだ。


『なんか、太一のときより陽キャ度あがってない……?』


陽キャは、陰キャの対義語だったはずだ。陰キャって出不精な奴のことだから、その逆なら基本外に出かける奴のことか。確かに俺は外にいる方が多い。なんせ、職場が外だ。


「この世界にゲーム機ないしな」


『いや、そういう問題じゃ……、あーもう、ゲームしたくなったじゃない』


俺がゲーム機の話をしたせいで、したくなったとエルナに文句を言われた。俺もあるならしたい。前世では好きなシリーズは新しいタイトルが出るたび買ってやってたし。


「そういや、俺ら絶対、色被らなかったよな」


『趣味違いすぎてラッキーよね。交換しやすかった』


全世界人気の某ソフトだけは兄妹二人ともやっていた。必ず同時に二タイトル出て、大筋は一緒だが少しだけ内容が違うところがあった。一部の出現モンスターが異なることで、それらの交換で交流させることが目的だったんだろう。

そのソフトの話をきっかけに、対戦した格闘ゲームやら、お互いがやっているのを眺めていた据え置きゲームの話に花が咲いた。前世の記憶だけど面白かったことは胸に刻まれているから、くだらないやり取りしかしていない思い出話が楽しかった。


『……あの、さ。シュテファーニエさんって、どんな?』


ふとエルナが呟くように訊いてきた。聞き逃したら流せるような問いだった。


「聞いてんのか」


『うん』


入学式から一ヶ月以上経過している。レオが、お嬢の友達に告白したことも流石にエルナの耳まで届いているだろう。事情が事情だと解っているが、状況だけで見ると婚約者の目の前でその友達に告白するって修羅場感がすごい謎さだ。全然修羅場ってなかったけど。

隠れて告白するより正々堂々とした方が誠実だ、というより、レオの場合あの場の全員に事情を説明するのが面倒だから一括で済ませたかったんじゃないかと感じている。レオは、たまに面倒くさがりになるからな。

君星で自分の兄貴が誰かを好きになる心構えはできていただろうが、ヴォルフほどでないにしてもエルナも自分の兄貴のことだから複雑なのかもしれない。


『私……、見た目しか知らなくて、ヒロインのコト何も知らないんだよね。だから、ロイ兄様が好きになった女の子ってどんななのかなって……』


自分の名前で設定してプレイしていたから名前すら知らない相手だ。まったく未知の人間だろう。

外見を知っているなら、俺に説明できることは何だろうと少し考える。


「悪いじゃない。お嬢の友達だし」


『だよねー』


お嬢の友達である時点で評価が高いのは、エルナも同意見らしい。


『ロイ兄様のコト、好きになってくれるかな? ロイ兄様、世界一カッコいいから大丈夫だよね!?』


「俺に分かるかよ。まぁ、レオを天使だと思ってたぐらいだし、悪くは思われてないだろ」


『天、使……?』


レオがされていた誤解を知って、エルナは驚いて固まったようだった。数拍の間が落ちる。


『ロイ兄様の超絶美形っぷりは神の領域だから、そう誤解するのも仕方ないかもしれないけど、本当に神の御使いだと思うなんて……、ちょっと変わってるね』


「いや、お前の兄バカぶりも相当変だぞ」


何故そこで仕方ない、という言葉が出てくる。エルナもお嬢の友達も、俺からすればどっちも変わったところがある奴だ。


『ちょっと、何で腐女子には引かないで、私には引くのよ!?』


クマ電話ごしの声音で俺が若干引いたのを察知したらしいエルナが、文句を言った。


「だってお前、レオ褒めすぎ」


『褒めていないわ。事実よ!』


レオの顔がいいことは否定しないが、神の領域なんだは言い過ぎだと思う。それを事実を述べただけと主張されれば、エルナのブラコン度の際限のなさにビビるしかない。


『そうよ! シュテファーニエさんがそこまでロイ兄様の魅力が分かるヒトなら、絶対ロイ兄様は落とせるわ!!』


こぶしを握りこんでいるかのように力説され、面倒になった俺は適当に相槌を打った。ブレなさすぎだろ、エルナ。成長してんのか、こいつ。

確信をして燃えるエルナに対して、俺はそろそろ寝たいなぁ、と思いつつ夜は更けていった。



バイト初日の日、俺はツナギの入った荷袋を忘れず持ってきた。

一日の授業が終わったあと、荷袋以外を教室に置いていくかを少し悩んでいた。学園から支給された学習鞄は革製だ。作業中に雨が降った場合のことを考えると置いておいた方がいいかもしれない。課題や復習は空いているコマに図書館でやっているから、持って帰らなくても大丈夫ではある。なるべく日中に勉強を終わらせようとするのは、ランプの油が勿体ないから、という庶民の性分ゆえだ。


「ザク、帰りませんの?」


「あ。俺、バイト」


帰り支度を済ませたお嬢が、帰ろうとしない俺を不思議がったから、バイトがあることを答えた。そういえば、バイトに受かったことに浮かれて、お嬢に話していなかった。


「ばいと?」


「学園の庭作業を手伝わせてもらえることになったんだ」


これからは週三でバイトに入ることを伝えると、お嬢の表情カオが呆れたものになる。


「庭バカにもほどがありますわ……」


俺は余程嬉しそうにしていたのか、お嬢の感想は嘆息混じりだった。


「鞄はどうしますの?」


「席に置いていこうかと……」


「なら、見ていてあげますわ」


「へ?」


学習鞄をどうするか、訊かれたままに答えると、意外な提案をされた。


「いや、別に置きっぱにしててもいいかなーって」


「持って帰らないと駄目ですわ。自分のものはちゃんと自分で管理しなさい」


「けど……」


いくら学園内では貴賤の区別なく皆生徒だとはいえ、公爵令嬢のお嬢に荷物番させるのは忍びない。まさか、そんな提案自体されるとは思っていなかった。


「わたくしのせいで、狂犬なんて汚名を甘んじさせているんです。何かあってはいけませんわ」


俺に悪評が付いてまわっていることを、お嬢は心配してくれているらしい。絡まれたのは最初だけで、今は遠巻きにされているだけなんだけどな。ポメの噂の根回しの感じからして、エルンスト家に喧嘩売ってまで俺に嫌がらせしようという気概のある奴はもういないと思う。

それでも心配らしいお嬢に、睨むように見上げられて、俺は根負けする。


「じゃあ、お願いします」


「ちょうど読みたい本がありますの」


読書には人気のない教室の方が静かでいい、とお嬢は鞄から本を一冊取り出した。

日本みたいに掃除当番や部活がある訳でもなく、授業が選択制なせいもあるのか、生徒は教室でダベって残ることはほとんどない。貴族はダベるならサロンか校庭に点在する東屋でやるし、庶民は食堂で軽食を食べに寄ったり図書館か読書室で勉強している。

どうでもいいが、学園が広すぎて校庭って呼んでいいのかよく迷う。教師や清掃員など業種ごとの社員寮はあるし、衣食住を補助する店が立ち並ぶ区域もあるから、村レベルに生活拠点が完成している。夏のシーズンオフと冬の年末年始の帰省期間以外は、学園敷地内で暮らすから、これぐらいじゃないと駄目なのかもしれない。

ともかく、校舎内で静かに過ごせる場所となると、この学園では自分の教室が穴場だったりする。俺たちが話している間に、他の同級生は教室から出ていった。お嬢の見解は言い得て妙だった。

俺が気負わないよう、荷物番は読書のついでだと微笑んでみせるお嬢に笑いつつ、俺は荷袋だけ持ってバイトに向かった。

指定された作業場所に着いた俺は、ヤーコプ爺さん以外の庭師たちに挨拶をして、今日する作業を教えてもらう。

芝の目土入れや春花壇の植え込みは俺たち一年生が入学する前に終わらせていて、今日は木の多いエリアの病害虫の防除だった。地面をよく観察して虫の糞が落ちていないかを探すから眼を酷使する。年配者だと疲れるから、俺がそのチェックを頼まれた。

病害虫っていうのは虫が増えすぎたときに呼ぶ呼称で、生態系が安定している間はただの虫だ。暖かくなる春から夏はどうしても虫が増殖するから病害虫の対策がいる。

実際の作業はヤーコプ爺さんたちがしたから、俺はチェックと薬の荷物持ちだった。体力的にはそこまで負担はないけど、夕焼けのだいだいが濃くなる頃には眼が疲れていた。ちゃんと手伝えているか心配だったけど、見つけるのが早くて助かったと言ってもらえた。

作業が終わったあと、今後の予定を教えてもらった。病害虫の防除期間が済んだら、伸びすぎた植栽の剪定で活躍してもらうとヤーコプ爺さんが笑って言った。学園の庭園の木は背の高いものも多いから、高所作業箇所がいくつかあるらしい。役に立てるなら何よりだ、と俺も笑い返した。

ツナギを脱いで、荷袋に入れ直し、俺は校舎へと戻った。一年の教室がある廊下に差し掛かると、俺のクラスの教室の前でメイド姿の少女が立っていた。自分のサイズより一回り大きいものをあえて着ているから、袖が余って手元が見えない。お嬢の護衛の一人のポメだ。


「ポメ?」


どうして教室の外で控えているんだ、と訊こうとしたら、こちらに向いたポメがしーっと長い袖で見えない手を口元に近付けた。ちょっと盛り上がっているところからすると、人差し指を立てている。

静かにしろ、ということか。

俺は、ポメの指示に従って、口を閉ざしたまま教室の入口までいき、そこに立つポメに首を傾げる動作で訊ねた。

すると、ポメはそーっと教室のドアを開け、覗けるだけの隙間ができたことを確認してから俺に中を確認するように促した。

言われるままに中を見ると、橙に染まった教室の中で、柔らかく光る淡い金色があった。それは一番後ろ、窓際まどぎわの席の机のうえにある。珍しい光景に少し驚きつつ、中に入っていいか手の動きで訊ねると、ポメは首肯して許可をくれた。

なるべく足音を立てないように気を付けながら、俺は自分の席に近付く。そして、自分の席の前の椅子に後ろを向いて座った。

俺の席では、お嬢が眠っていた。

開いたままの本の上で、腕を枕にするようにうたた寝をしている。すごい珍しい光景だ。けど、人気のない教室が暖かい陽射しに包まれていたら、文字を追う動作だけではお嬢だって眠くなるかもしれない。

陽が沈むまえに起こさないと身体を冷やしてしまうと解ってはいるけど、気の抜けた表情カオで眠っているものだから、起こすのが忍びない。


お嬢の寝顔見るなんて、いつぶりだろ……


雨の日に、初めてお嬢から文字を教えてもらったとき以来だ。あのときもよく寝ていたから、すぐに起こせなかった。

すごく綺麗な女の子だ。眺めていて、改めて実感した。

淡い金の髪は細く柔らかそうで、夕陽を受けて温かな色合いで光輝いている。実際に温かいのか、と興味が湧いて、手を伸ばす。触れた髪は思ったほどの熱は持っていなかったが、ほのかに温かかった。

髪の感触が心地よくて、髪型を崩さないように注意しながら撫でる。くすぐったいのか、気持ちいのか、お嬢はかすかに身じろぎして小さく微笑んだ。

吐息を吐くような微笑みに、不用意に触れてはいけない気になって手を放した。

椅子の背もたれのうえに両腕を組んで、改めて眠るお嬢を眺める。こんな風にお嬢と同じ教室で学園生活が送れるなんて、とても不思議だ。今の状況がいくつもの奇跡の集大成みたいに思える。

このままいくと、目の前のお嬢はレオと婚約解消する。それは、レオの恋が実るかどうかにかかわらず、二人で決めていたことらしい。

けど、そのときがきても、俺はお嬢に告白できる立場にない。

こんなに近くにいて触れられる距離にいるのに、お嬢との距離は遠い。こうして、今傍にいれるだけで幸せな俺は、その未来がきたときにどうすればいいのか判らない。というか、どうしたいのか、が決まらない。

俺は、お嬢を望んでもいいんだろうか。

眠るお嬢を見つめて、湧きあがるのは愛しさだ。俺の世界で一番綺麗なものはこれなんだと解る。

愛しい者を指す言葉を、俺は前世から知っている。


「……ディア」


最初に呼んだら駄目だと言われた愛称。

起きているときは呼べないそれを、今だけ口にする。禁止されているのに、こんな欲求を持つなんて、だいぶ好きなんだなと自分に呆れる。

愛しさの溢れる名で呼んでいい日がくるんだろうか。

現実味のない展望をして、黄昏時たそがれときのせいかと自身の浮かれた思考具合に嘆息を一つ零した。そうして俺は、夕陽の熱が冷めるまえにお嬢を起こす覚悟を決めたのだった。


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