64.桜並木



シュテファーニエは平民だった。

幼い頃、家に貴族が訪ねてくるまでは。

五歳のある日の昼下がり、玄関のドアがノックされ、ドアを開けるとこれまで見たことがないぐらい上等な服を着た男が立っていた。貴族だ、と幼いシュテファーニエにも判った。

五歳の少女と成人男性の身長差で、必然的にシュテファーニエは貴族の男に見下ろされ、身が竦んだ。それに気付いた男は、片膝を突いて、シュテファーニエと目線の高さを合わせる。


「こんにちは。君がシュテファーニエちゃんかい?」


視線が合うと、貴族の男は微笑んだ。

同じ視点で顔を見ると、優しそうな紳士で、とても威圧や暴力に訴えるようには見えない。その柔和な笑顔に、シュテファーニエはほっと安堵の息を吐いて、身体の緊張を解いた。

それでも見知らぬ相手であることには変わりない。シュテファーニエは警戒しながらも、首肯することで肯定する。


「僕はへルマン。君と君のお母さんに話があってきたんだ。お母さんはいる?」


「お母さんは、今、お仕事です」


「そっか。一人でお留守番できて、偉いね」


初対面の、しかも貴族に褒められ、シュテファーニエはぽけっと呆ける。

大変だね、と言われなかった。

シュテファーニエの家は母子家庭だ。早くに父親を亡くしたため、母親のナディヤが働いて生活をしている。だから、近所の人もなにかと世話を焼いてくれ、手助けされている。

だが、シュテファーニエにはひとつだけ納得ができないことがあった。世話を焼いてくれる人ほど、自分のことを大変だ、可哀想だ、とまるで不幸であるかのように同情するのだ。

一人で留守番をすることも、遊びより家の手伝いを優先することも、シュテファーニエが母の助けになりたくてしていることで当たり前のことだ。生活は楽な方ではないかもしれないが、母と笑みの絶えない日々を送っている。優しさゆえの言葉だと解ってはいても、不憫であるかのように言われると承服しかね、そのときだけはぐっと反論の言葉を飲み込んだ。

なのに、目の前にいるへルマンという紳士は同情の眼を向けなかった。自分と母親に用があってきたということは、こちらの事情を知っているだろうに。

シュテファーニエが驚いている理由を知らないへルマンは、まだ警戒されているのだろうかと笑みを崩さないまま、眉を下げた。弱ったような笑い方をすると、なんだか頼りなさそうに見える、とシュテファーニエは感じた。


「お母さんは、いつ帰ってくるのかな?」


「夕方には……」


「そうか」


どうしようか、とへルマンは悩む。ここで待つこともできるが、娘一人が待つ家にいきなり見知らぬ男がいたら聞いてもらえる話も聞いてもらえなくなるだろう。数秒思案し、へルマンは決断する。


「近くに、食事かお茶ができるお店はあるかい?」


「え」


「お昼ごはんを食べ損ねてね。お腹が空いてるんだ」


空腹を訴えられ、シュテファーニエは食事ができるところを考える。食事は大事だ、と母から教えられている。それが、シュテファーニエが貧しくとも遠慮せずに食事ができるようにとの計らいであることに、本人はまだ気付いていない。


「うーんとね、屋台のサンドイッチは、もう売り切れてるし……、あっ、イングリットの酒場のご飯はどれもおいしいって!」


「酒場なのに、昼もやってるのかい?」


シュテファーニエが、こくこく、と縦に頷いて簡単に道順を教えると、へルマンは柔和な笑みで立ち上がった。


「教えてくれて、ありがとう。お母さんが帰ってくる頃に、もう一度だけくるよ。またね」


「ま、またねっ」


手をあげ、そう挨拶されたので、シュテファーニエは反射的に同じ挨拶を返してしまった。

ドアを閉めがてら、そっと見送る。少し先に従者か護衛かは判らないが男が二人待っていた。ヘルマンはどうやら一人できた訳ではなかったらしい。彼らと合流して去っていく背中を見て、自分が怯えないように一人で訪ねてきたのかもしれない、とシュテファーニエは思った。

夕暮れになり、母親のナディヤが帰ってくると、シュテファーニエはあった出来事を報告した。


「貴族の人がきたよ」


「貴族?」


「なんかね、わたしとお母さんにお話しがあるんだって」


「話……? 貴族に知り合いなんていないけど、一体何かしら」


理由が思い当たらないナディヤはしきりに首を傾げた。


「ヘルマンさん、たぶん、悪い人じゃないと思う」


少し話しただけだ。それでも、悪い人にはとても見えなかった。頼りなさそうに笑った顔を思い出して、シュテファーニエは感じた印象をナディヤに伝えた。

初めて遭遇したであろう貴族に対して抱くには珍しい印象に、ナディヤは意外で眼を丸くする。


「ヘルマンさんっていうの?」


「うん。またあとでくるって」


「そう。じゃあ、聞くだけ聞いてみようか」


ナディヤがそう呟いたのとほぼ同時に、玄関からノックの音がした。

返事をして玄関のドアを開けると、案の定貴族と覚しき上等な服を着た男がそこにいた。夕暮れのなかで、彼は、服装には不釣り合いの籠を抱えている。その奇妙な図に、ナディヤの警戒心がいくらか削がれた。


「こんばんは。僕はへルマン・フォン・ヴィッティングといいます。ナディヤ・アプトさんですか?」


「ええ」


「夕食はお済みですか?」


「? いえ」


「ちょうどよかった! 娘さんに美味しい食事処を教えてもらったんで、お礼にそちらの食事を持ち帰らせてもらったんです」


アプト家の食事がまだだと判ると、へルマンは声を弾ませ、よかったら、と抱えていた籠を差し出した。

籠にかかっていた覆い布をめくると、鶏の香草焼きの香ばしい香りが漂う。塩揉みして刻まれたキャベツが主体となった野菜のコールスローもあり、ライ麦パンもある。栄養バランスもよさそうだ。籠から伝わる熱からしてできたてを運んできたようで、そこまで冷めていない。

視線を感じてナディヤが見下ろすと、すぐそばまでシュテファーニエがきており、瞳を輝かせ、物欲しそうに見上げていた。鶏の香りで空腹が刺激されてしまったようだ。これ以上待たせるとあふれそうなつばを飲み込ませてしまうかもしれないと、ナディヤは娘の様子に苦笑した。


「では、お言葉に甘えて。正直、支度の手間がはぶけて助かりました」


安物で申し訳ないがお茶でも淹れる、とナディヤが中へ迎え入れると、へルマンは安堵したように微笑み、失礼しますとアプト家に足を踏み入れた。

アプト家母子おやこが食事をしている間、へルマンは淹れられたお茶をゆっくり飲みながら微笑んでいた。

鶏肉が切り分けられるのを待ちきれず椅子のうえでぴょこぴょこと跳ねるシュテファーニエは、ナディヤに椅子は座るところだと叱られ、座り直してからもそわそわと待機していた。皿に載せられた鶏肉を頬張っては瞳を輝かせ、コールスローをスプーンで一口含んでは嬉しさに頬を赤くする。美味しい、と喜ぶ娘にナディヤも同意して相好を崩す。そんな母子の様子を目の前に、へルマンは微笑ましい心地で満たされていた。

途中、食べることに夢中になっていたシュテファーニエは今さらなことに気付く。昼食がずれたとはいえ、へルマンも夕食がまだなのではないか。それを心配して訊ねると、彼は邸の料理人が夕食を準備しているから大丈夫だと答えた。そっか、とシュテファーニエは安心し、食事を再開した。

へルマンが二杯目のお茶を口にする頃には、アプト母子も食後のお茶となり、一息がついた。


「さて、お二人への話ですが」


話を切り出され、ナディヤは居住まいを正す。シュテファーニエはきょとんとしながら、お茶を一口飲んだ。


「第一にシュテファーニエちゃんに養子の打診。第二に、それに伴ってよかったら、の話ですが、ナディヤさんは僕と結婚しませんか?」


「よーし?」


言葉の意味が解らず、シュテファーニエは首を傾げる。さらりと告げられた要求の大きさを認識し、ナディヤはまず訊かねばならないことがあった。


「ファニーを貴族の養子にって、どうして?」


自分のことなど二の次だ。亡き夫との間にできた娘は、本当にごく普通の子供だ。貴族がわざわざ養子に欲しがる理由が解らない。


「彼女の魔力が強い可能性があるからです」


「わたし、魔法使えないよ?」


「そうよ。ファニーはどの属性も発現してないわ」


へルマンは異なことを言う。五歳になったシュテファーニエは属性発現をしていい頃合いにもかかわらず、一向にどの属性の魔法も発動させる様子がない。だから、ナディヤも周囲も、シュテファーニエは著しく魔力が弱いのだと断じた。


紫陽花あじさいです」


「え?」


「シュテファーニエちゃんの紫陽花は白いそうですね」


「ええ。でも、そういう品種ってだけでしょう?」


「ごくありふれた品種ですよ」


本来なら他の紫陽花同様に、水属性の水色みずいろか土属性のだいだいになるべき花だ、とへルマンは言う。

シュテファーニエが世話をしている紫陽花は、彼女が三歳の頃、梅雨に外に行けないことを残念がっていたから、少しでも気分が晴れるよう夫が娘のために買ったものだ。ナディヤはてっきり色素がない品種をたまたま買ったのだとばかり思っていた。


「白はどの属性にも該当しません。これは僕の勤める薬術省の仮説ですが、彼女は未分化――、魔力が強すぎてどの属性にもなれていないのでは、と」


「なら、どの属性の魔法も使えないんだから、魔力がないのと同じでしょ。貴族が欲しがる理由にはならないわ」


初めて耳にする説にもかかわらず、ナディヤが理解したうえで即座に反論してきたので、へルマンは瞠目する。ナディヤの強い眼差しには、娘を守ろうとする母親の意志を感じた。その想いの強さを肌で感じ、へルマンは柔らかく笑う。


「そうです。このままだとシュテファーニエちゃんは魔法の使い方を知らぬまま育ち、なんらかのタイミングでいずれかの属性になった場合、魔法を暴発させる恐れがあります」


そうなったとき、彼女自身がどうなるか、周囲へどれぐらい影響があるか現段階では未知数だという。


「あと、これは研究段階の話なので口外しないでもらいたいんですが……、魔術省で属性に関係なく魔力測定できる手段を研究してまして、国全体で運用開始することを考慮しても、彼女が測定を受ける頃には運用されているでしょう」


「……今断っても、ファニーが十五になったら学園にとられるのね」


母親らしいナディヤの解釈に、へルマンが苦笑した。

属性基準ではなく、純粋な魔力量で測定可能になれば、属性のないシュテファーニエの魔力の強さが判明してしまう。いやがおうでも、娘は貴族の注目を浴び、場合によっては魔力目的で求婚されるかもしれない。


「今回の提案の国側の利点は、シュテファーニエちゃんの経過観察ができるのと、魔力制御を彼女に覚えてもらえる安全面。そして、魔力の強い者と接触する機会を増やすことで彼女の属性発現を促進し、発現後は優秀な魔術士として雇える利益面が主ですかね」


適正属性の確定は先天的な才能より、後天的な環境要因が大きいとされている。

稀に強い属性魔力をもって生まれる者もいるが、基本的には周囲の人間、地域性、当人の性格などいくつかの要素が合わさって、成長過程で一つの属性に魔力の性質が偏る。適正属性の確認が生後すぐではなく、おおよその自我が確立された五歳前後で行うのはそのためだ。


「現在、平民にまで魔法を教育する環境はありません。できても、ずっと先の話でしょうね」


国民が等しく教育を受けれる学びの場を作るためには、まず識字率の格差を縮める必要がある。印刷技術を発展させ、本の普及もしなければならない。そういったひとつひとつが当たり前になって、やっと魔術という専門学を平等に教育できるのだ。


「へルマンさん、でいいかしら」


「はい、構いませんよ」


様と付けるべきか悩んだナディヤは、この場において対等な呼称で呼ぶ許可をへルマンから取る。


「へルマンさんには何が得なの?」


貴族が、魔力が強いとはいえ平民の子供を養子に迎え入れるなんて、メリットがなければできないだろう。貴族が王族の臣下で国のために献身する存在だなんて綺麗事の嘘っぱちだとナディヤは思っている。人間は綺麗事だけで生きていけない。

メリットを問われ、へルマンは弱ったように眉を下げ微笑む。


「僕、再婚したくないんですよねぇ」


「は?」


娘のついでではあるが求婚されたナディヤは、突然の矛盾に眼を丸くした。


「貴族は家名を継ぐことが大事、というより当たり前です。けど、僕は亡くなった妻を愛しているので、家のために新しく妻をとり子を成すことを拒否しています。当然、一族は再婚を迫るので、断るのが大変で……」


「……まだ若いんだから」


「ああ」


「一人は寂しいだろう、って?」


「言われますね」


「喪に服したままじゃ、亡くなった人も浮かばれない、とか」


「ありますあります」


「わかる! お前がウチの旦那を語るなっての!」


「本当に。妻以外を愛せないだけなのに、不幸扱いされるのは心外です」


うんうん、と頷き合う二人を見ながら、シュテファーニエはお茶を飲んだ。途中から難しい話になり、話をするうちに母親の声音が険のあるものに変わったので、喧嘩するのかと心配したが逆に打ち解けたようだ。

そして、二人のやり取りを聞き、母も自分と同じ不満を持っていたのだと知った。そうか、誰も可哀想がられたくはないのか、とシュテファーニエは納得する。自分が感じていた不満を肯定され、内心で安堵した。


「まぁ、そういう訳で、二人がきてくれると僕はとても助かるので、協力いただけるならできる限りのことはさせてもらいますよ」


ひとしきり共感しあったあと、ヘルマンは柔和な笑みを浮かべた。頼りなさそうな印象を受けるが、彼も貴族。存外腹が据わっているようだ、とナディヤは口角をあげる。


「ファニーを母親と離すのは忍びない、とか言われるよりよっぽどマシだわ」


「良心の呵責がない、とは言いませんが……、困っているのも本当なので」


利益を求めて求婚をする点においては貴族らしく、彼の求める利益が愛を貫くことである点は逆に貴族らしくないともいえた。


「わたしたち、どこに行くの?」


話を聞いている間にお茶を飲み終わったシュテファーニエは、解ったところだけを拾って訊き返した。要点を捉えた質問に、ヘルマンは微笑みながら答える。


「僕は、シュテファーニエちゃんたちに家で一緒に住まないか、と誘いにきたんだよ」


「ヘルマンさんのお家?」


「うん。たぶんお友達や近所の人たちと会えなくなるし、たくさん勉強してもらうから、とても大変だと思う。だから、しっかり悩んで決めてほしい」


「わたしのお得は何?」


先程から、何が得だという応酬をしていたのを聞いていたシュテファーニエがそれを真似て訊ねてきたものだから、ヘルマンは可笑しくなり眼を細める。


「んー、何かな。綺麗なドレスを着たり、ごはんに困らなくなって、お菓子も食べられるようになるのは、お得かな?」


「お得っ」


そっか、とヘルマンは元気のよい返事に笑う。亡くなった妻と子供ができたらどんな子だろうかと話したことがあったが、こんなに元気な女の子は想像できなかった。子供とはこんなに元気で表情豊かなものなのか。なら、子供が生まれていたらきっと妻と二人で困っていただろう。

二人で困ってみたかったな、とシュテーファニエを見てヘルマンは思った。


「じゃあ、僕はそろそろおいとまするよ。シュテファーニエちゃん……」


「ファニーでいいよ。みんな、そう呼ぶの」


呼びかけに、略称で呼んでいいと返されヘルマンは小さく眼を見開く。今日会ったばかりの貴族自分に略称で呼ぶ許可をしてくれたことに嬉しさを感じ、表情を和ませ感謝を述べる。


「ありがとう。ファニーちゃん、お母さんとよく話して決めてね」


「わかった」


約束、とシュテファーニエが小さな小指を差し出すので、ヘルマンは膝を突いて、その指に自身の小指を絡ませた。

あとから不明点も出てくるだろう、とヘルマンは定期的に会う日取りをナディヤと決める。

それから一か月後、アプト母子は話し合い、ヘルマンの話を受けることにした。こうしてシュテファーニエ・アプトは、シュテファーニエ・フォン・ヴィッティングになったのだった。



桜並木を歩きながら、シュテファーニエは自分が貴族になったときのことを思い返していた。

あのとき、へルマンの話を受けていなかったら、自分はどういった心持ちでこの桜並木を歩いていたのだろう。

王立魔導学園の校舎へ続く桜並木を、制服を身につけ、初めて歩く。今日は入学式だ。平民のままだったらもっと緊張していたかもしれない。

平民のままでもシュテファーニエは幸せだっただろう。けれど、へルマンという同志と話す母の表情を見て、彼と共にいた方が母が息をしやすいと気付いた。苦労の種類が変わるだけなら、母が楽な方がいい。

当初、そう思ったのだが、母のナディヤは伯爵夫人としての役目は片手間程度にメイドとしていきいきと働いているのが狡いと思う。ヴィッティング伯爵家にきて程なくして、働けないのが辛い、とナディヤはへルマンに訴えた。鬼気迫る勢いで贅沢は身を滅ぼすとまで主張するものだから、へルマンは可笑しさに笑い、邸内限定でメイドとして働くことを許可した。

自分は伯爵令嬢としての教養を身につけることでいっぱいいっぱいの時期だったので、母だけが平民らしさを残して過ごすことができている状況が狡いと感じた。まさか母の方が楽しそうで不満を言う日がくるとは、シュテファーニエも思っていなかった。

へルマンもへルマンで、一緒に暮らしてみると思った以上に心配性で、こちらが遠慮していては駄目だとシュテファーニエはしっかり主張するようになった。

貴族のお嬢様とは、もっと清楚で可憐なイメージを持っていたシュテファーニエだったが、伯爵令嬢になった自分は平民のときよりたくましくなっている気がしてならない。

けれど、今の自分が嫌いではない。

平民の頃の友達と気安く会えなくなったが、その代わり貴族令嬢の友達ができた。綺麗で可愛らしく令嬢として芯をもった彼女らと肩を並べたいと思い、これまで努力してこられた。

彼女らと同じクラスだったらいいな、と桜並木を抜け、クラス分けが掲示されている掲示板まで向かう。昨年からクラス分けの基準が属性ではなくなったので、友達と同じクラスになれる可能性がある。

校内の地図の隣にある掲示板は、きっと普段は行事などの報せに使われるのだろうが、今日ばかりはクラスごとに氏名の一覧が並ぶ大きな紙が占領していた。

クラス分けの前は、既に人だかりができていた。自分のように直接見に来る者もいれば、従者に確認させているのか周囲のベンチでゆったり待っている令息や令嬢も見受けられた。どちらにせよ、女性平均身長のシュテファーニエには後方から確認するのは困難だった。

跳ねはしないものの、どうにか自力で確認できないものかとつま先立ちなどしてみるが上の方しか見えない。姓のアルファベット順で並んでいるようだから、ヴィッティングは下の方だろう。

ぐぬぬ、と唸りたい気持ちでいたところに不意に声がかかった。


「代わりに見ようか?」


「あ、助かりま、す……」


助けの声に振り向くと、相手と眼が合わなかった。男性の声だったので上の方に視線を上げたにもかかわらずだ。

相手のタイの辺りから、更に視線を上げるとようやく銅色あかがねいろの瞳とかち合った。彼の身長なら、後方でも余裕で確認できることだろう。


「なんて探せばいい?」


「えっと……、ヴィッティング、です」


わかった、と頷いて探す青年は、どう見てもシュテファーニエより歳上だ。何故、上級生が一年生のクラス分けの掲示を見にきているのだろう。


「……っと、あった。同じクラスだな」


「へ?」


青年の呟いた感想に、シュテファーニエは首を傾げる。自分のクラスを教えてもらい、礼を言うシュテファーニエの不思議そうな視線を感じ取ったのか、青年は苦笑する。


「仕事にかまけてたら、測定受け損なって遅れて入学してんだ、俺」


だから歳上だが同学年だと彼は言う。そんなこともあるのか、とシュテファーニエは頷いた。魔力測定を受ける対象年齢は、平民なら見習いか下働きになっている可能性もある。後からでも、測定が受けられるとは知らなかった。

背丈もあり同学年なのに歳上なことも珍しく、シュテファーニエはついまじまじと相手を見てしまう。なんだか見たことがあるような気もするが、よくある髪色と瞳の色のせいかもしれなかった。しばらくして、相手も自分を凝視していることに気付く。


「あの……、なんでしょう?」


「……もしかして、白い紫陽花のコか?」


青年は言ってから、覚えている訳ないか、とぼやく。だが、シュテファーニエは覚えていた。いや、正確には今思い出した。


「天使様つれてたお兄ちゃん!」


「は?」


言葉の意味を理解できず青年は固まった。青年がどう解釈すべきか悩んでいる間にも、シュテファーニエは青年の周囲をきょろきょろと確かめる。


「今日は、守護天使様はいないんですか? わたしが大きくなったから視えなくなっちゃったんでしょうか」


そうだったら残念だ、とシュテファーニエは気落ちする。

あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。家でいつものように留守番をしていたら、窓辺にキラキラと光るものを見つけ、なんだろうと興味を惹かれてドアを開けた。すると、とても綺麗な天使をつれた少年が自分の育てた紫陽花を眺めていたのだ。

彼といる天使は、今まで見たことがないほど煌めいた金髪で溶かした蜂蜜のような瞳をしていた。肌も透き通っていて、手も荒れていない。とても同じ人間には思えなかった。

先日、教会の礼拝にいったときに、い行いをする者は守護天使が見守ってくれる、という説話を聞いたばかりだったシュテファーニエは、少年の守護天使だと断じた。

こんなに綺麗な守護天使の加護を受ける少年に紫陽花を褒められるなんて、とても凄いことだ。その日の夕方、帰ってきたばかりの母にもちろん報告した。母のナディヤは、なら紫陽花を大事にしないとね、と言ったので、シュテファーニエは大きく頷いた。


「それとも、褒めてもらった紫陽花が枯れちゃったから視えないのかな……」


「あー……、いや」


大事に世話をしていたが、数年後には寿命で枯れてしまったのだ。それが原因かと落ち込むシュテファーニエを見て、青年は顔の上半分を片手で覆い、どうしたものかと唸った。盛大な誤解が発生している。


「やあ、イザーク。一人とは珍しいな」


青年の背後に声がかかると、人だかりが一斉に距離をとった。おかげで、シュテファーニエでもクラス分けの掲示が見えるようになる。唐突に遠巻きになった周囲に何があったのかと、シュテファーニエは見回す。見回しついでに、視界に入ったクラス表から友達の公爵令嬢リュディアと同じクラスであることを確認した。


「先にお嬢の分もクラス確認しとこうと思って。レオ、ちょうどよかった」


「何がだ?」


「お前、人間だと思われてなかったぞ」


「ん?」


青年は身長がある分、肩幅や体格もしっかりしているため、シュテファーニエからは背後の人物が見えず声しか聴こえない。

声の正体を確認しようと、シュテファーニエは青年を避けるように上体を横に傾けた。

ようやく見えた声の主に、シュテファーニエは瞠目する。


「天使様!?」


「ほら」


シュテファーニエが驚きのあまりに叫ぶと、青年は天使に理解を促し、天使は理解が追いつかず固まった。

数秒置いて天使から苦悶の言葉が漏れた。


「…………何がどうしてそうなったのか」


「イケメンって大変だな」


周囲の生徒たちが声の届かない範囲にいるため、青年は率直な感想を述べた。美形も極まると人外と認識されてしまうとは、純粋に驚いた。


「あのとき、ロクに言葉を交わせなかったことを悔やむよ」


「え、どうして天使様が学園の制服を着て……?」


「こいつ、天使様じゃなくて王子様」


「へ?」


「でもって、二年先輩


「ええ!?」


天使だとばかり思っていた金髪の少年が、まさか人間だとは。しかも、この国の王子だなんて。ということは、友達のリュディアの婚約者ではないか。今までお茶会で同じ空間にいても遠目にしか見ていなかったので、眩しいことしか知らず顔をちゃんと見れていなかった。

どう体裁をつくろえばいいのか判らず、あわあわと挙動不審になるシュテファーニエに、アーベントロート国の第一王子ロイは天使かと見紛みまがう慈愛の微笑みを浮かべた。


「ヴィッティング伯爵令嬢、名は耳にしたことがあるかもしれないが、僕はロイ。この国の王子だ。人間だ、と認識してくれると嬉しい」


その微笑みに、シュテファーニエは凄まじく良心の呵責かしゃくさいなまれ、この瞬間にも地面に手を突いて謝罪したくなった。しかしながら、一応令嬢であるため、それはできない。カーテシーを執り、挨拶と謝罪をする。


「あぅ、シュ、シュテファーニエ・フォン・ヴィッティングと申します。大変失礼な誤解をしてしまい、誠に申し訳ありませんでした……っ」


「驚きはしたが、褒められたようなものだから構わないよ。それで、ヴィッティング伯爵令嬢」


「はい」


「入学式のあと時間はあるだろうか。話があるんだ」


やっぱり怒られる。

そう、シュテファーニエは思った。流石に貴族になっておきながら、自国の王子の顔も覚えていないなんて失礼にもほどがあるだろう。それに、人間じゃないと思っていたのも大変よろしくない。説教確定だ、とシュテファーニエは自身の失態を猛省した。


「イザークも、あとでリュディア嬢に同伴してくれ。その方が説明がはぶける」


「わかんねぇけど、わかった」


猛省の真っ只中だったシュテファーニエは、二人のやり取りを聞いていなかったため、自身の想定と確実に違うことに気付けずにいたのだった。その後、生徒会長挨拶で壇上に立つロイの姿を認め、シュテファーニエは一人、気まずい入学式に耐えた。



入学式が終わり、教室で授業選択方法など諸説明を受けたあと、シュテファーニエは担任の教師に案内され生徒会室を訪れた。

入学式の挨拶で、今朝会った王子のロイが生徒会長であることは判っている。案内された先が生徒会室であることに納得した。入学したばかりで校舎の構造を把握していないので、担任が案内してくれることはありがたいが、怒られると思っているシュテファーニエは逃げられない、という感想を抱いた。

担任がドアをノックすると、中から入室を許可する声が返り、担任がドアを開け中へ誘導する。


「失礼します……」


緊張しながらシュテファーニエが生徒会室に足を踏み入れると、意外な光景が眼に入った。


「ニコラウス様! いい加減、ザクから離れてくださいませっ」


「いやぁよ、ずっと立っててしんどいんだもの」


「なら、座ればよろしいでしょう!?」


「だって、ザクは立ってるじゃない」


「いや、ベルたちが立ってんのに、俺が座るワケには……」


「……ディア様に、ニコちゃん様?」


いると思っていなかった人物に、シュテファーニエは眼を丸くする。リュディアは、ロイの婚約者なので共にいても奇怪おかしくはないのだが、たまにお茶会で一緒になるニコラウスまでいるとは思っていなかった。そして、彼は何故かシュテファーニエが今朝会った青年にもたれかかっている。一体どういう状況なのか。

よく見ると、リュディアたち以外にも想定以上の人がいた。生徒会長用であろう机に向かって座るロイの背後に、青い髪と赤い髪の男子生徒が控えており、視線を移すと小休憩用と思しきソファーで銀髪の生徒が紅茶を飲んでいた。


「やあ、きてくれて、ありがとう」


「ファニー様!? いらっしゃったんですのね」


ロイが立ち上がりシュテファーニエを出迎えると、彼女の来訪に気付いたリュディアがソファーに座したまま後方に振り返っていたことを恥じて、居住まいを正し咳払いをした。

リュディアの向かいのソファーに座るように促され、シュテファーニエが座るとメイドが紅茶を前のテーブルに置いて下がっていった。凛々しい目元の彼女は確か、リュディアのメイドの一人だ。リュディアの隣にロイが座ると、同様に紅茶が用意された。

案内してくれた担任やメイド含め、現在生徒会室に十人いるが、半分以上が立っている。自分は座っていてよいものか、とシュテファーニエは若干の居た堪れなさを感じた。これだけの人数がいても狭く感じないのは、それだけ広いということだろう。役職ごとの業務机の他に、シュテファーニエたちが座っている会議用ソファーとは別に銀髪の男子生徒が現在一人で占有している休憩スペースも設けられているのだ。生徒に貴族が多い学園だからこその造りといえよう。


「さて、呼び出した件だが……」


「は、はい」


「君の魔力についてだ」


「……へ?」


こんな大人数のなかで叱られるのか、と身構えていたシュテファーニエは思ってもみない内容に、思わずきょとんとしてしまう。

シュテファーニエの反応に多少首を傾げるも、ロイは話を続ける。


「星の花は今、何色かな」


「白、です」


星の花とは、シュテファーニエが薬術省から支給された新種の紫陽花だ。年中咲く宿根草に品種改良されたもので、いつシュテファーニエが属性発現しても判るようにと養父のヘルマンを通して受け取った。現在は寮の自室で世話をしている。花弁はなびらの形が星に似ていることから星の花という名前になったらしい。

今朝も部屋を出る前に確認したが、白いままだった。


「つまり、貴族の中でも魔力の強いリュディア嬢に影響されないほど、君の魔力が強いということだ」


「そう、なんですか……?」


「ああ、魔力測定の結果だと君の魔力量を上回る者は数えるほどだ」


魔力が強い、と言われてもシュテファーニエにはピンと来なかった。どの属性にもなれていないので、これまでどんなに練習しても魔法が使えなかったのだ。それなのに、魔力があると言われても実感がまったくない。

なので、親しくしている友達より魔力量が多いと教えられても、信じられないのが本音だ。


「リュディア嬢で無理なら、君より魔力の強い者の側にいれば属性発現が見込めるのでは、というのが魔術省と薬術省が立てた推論だ」


「はぁ」


ただ友達と仲良くしていただけだったが、そんなところを経過観察されていたとは知らなかった。シュテファーニエは自身に自覚のない魔力があることが前提の話を聞き、曖昧に頷く。


「ということで、この場にいるのが君より魔力の強い者だ」


「え」


「火ならイェレミアス、水ならベルンハルト、風ならニコラウス、雷は弟のクラウスだ。光なら僕で、闇属性だけならリース先生の方が僕より強い。土属性は……留学中のシュテルネンゼーの王子殿下だが、他国に持っていかれる訳にはいかないんでね」


「えっと……、わたしがどの属性になるか選べるってことでしょうか?」


「一応はね」


「一応?」


自分の魔力値より上らしい人物の紹介を受けたのに、選択肢があるのかと確認すると、ロイは曖昧な肯定を返した。暗に選択肢がない、といっているそれにシュテファーニエは首を傾げる。


「国としては、やはり貴重な光属性持ちが一人でも増えた方がいいからね。なるべく僕と行動を共にしてもらいたい」


「でも、それは……」


国の意向を聞いて、シュテファーニエは言い淀む。希少価値の高い光属性を求める点は、シュテファーニエも理解できる。けれど、その手段はロイと共にいることだ。それは色々と不味い。

一番の問題であり、気がかりな人物をシュテファーニエは見遣る。視線に気が付いた相手は、小さく首を傾げて友人を見返した。

シュテファーニエの視線の先を確認し、ロイは微笑む。


「君は、僕とリュディア嬢が恋愛関係にないことを知っているだろう」


問い、というより断定され、シュテファーニエは瞠目する。知っている。むしろ、リュディアに他の想い人がいることも知っている。

こんな大勢の前で明かしていいのか逡巡したが、リュディアが落ち着いた様子で紅茶を飲んでいるのを見て、シュテファーニエははい、と首肯した。


「リュディア嬢との婚約は、魔力が強く家格も釣り合うから成されたものだ。君は家格以上の教養を身につけているから、光属性持ちになれば彼女以上の利益を提示できる。そうなれば、僕とリュディア嬢の婚約解消は容易いだろう」


「ロイ様、そんな簡単に……」


「もう国王陛下父上含め話はつけているから大丈夫だよ。あとは、彼女次第さ」


そんな簡単にはいかない、とリュディアが言及しようとすると、ロイは既に根回しは済んでいるとあっさり答えた。準備万端で交渉の場についている事実に、リュディアは呆気にとられる。彼は、何をどこまで読んで、一体いつから準備をしてきたのだろう。

シュテファーニエの方も理解が追い付かず、困惑する。さらりととんでもない提案をされた気がする。


「……待ってください。よしんば、王子殿下とディア様が婚約解消して、光属性になるために殿下の側にいても平気になったとして、それって今度はわたしが婚約したりなんかしませんか?」


「光属性になった場合、王族になってくれた方が護衛がしやすいからそうなるだろうね」


「殿下の意思は!?」


ロイはあっさりしすぎではないのか。国のためにそんな簡単に婚約解消したり、すぐ次の人と婚約できるなんて、自身をないがしろにしすぎていないかと心配になる。王族が恋愛結婚できる方が稀だと理解はできても、元平民のシュテファーニエには納得しきれない部分がある。

彼女自身のことより先に、自分の心配をされ、ロイは蜂蜜色の瞳を見開く。それから、吹き出した。やはり自分の眼に狂いはなかった。


「はははっ、大丈夫だよ。僕の意思だから」


「え、でも……」


「僕は君が好きだから問題ない」


満面の笑みでされた宣言に、シュテファーニエは固まる。彼女の背後で、彼の弟のクラウスが紅茶を吹き出してせていた。他一同は閉口するしかなかった。

周りの動揺をものともせず、ロイは微笑みながら提示する。


「僕が君に望むのは、一つは僕を好きになってもらうこと。そして、もう一つは婚約に足る価値を証明してもらうことだ。それに応えられないなら、国益を気にせず僕以外を選んでくれていい。あまり時間の猶予は与えられないが、よく考えて答えを出してくれ」


最後の一言にシュテファーニエははっとする。幼い頃、ヘルマンに言われた言葉と似ている。あのときもよく考えるように言われた。それは、シュテファーニエ自身の意思を尊重したいという想いからくるものだ。


「わかりました」


考えます、とシュテファーニエは頷いた。

まだ混乱はしていたが、きちんと答えを出さなければならない。そう、こぶしを握り、シュテファーニエは覚悟したのだった。


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