side07.ドア
いつもは母親にねだってしてもらっていた三つ編みを自分でしてみようと思ったきっかけはなんだったか。
蝶々結びができるようになったから調子づいた勢いかもしれないし、単に他人頼りにしていたことへの反抗心が芽生えただけだったかもしれない。いずれにせよ、自分でやりたいと思ったことは確かだった。
編む手順を母親が教えてくれ、少し太めの紐で練習した。紐で編めるようになり簡単だと思ったら、自分の髪で編もうとすると指で掴んだ部分より下しか見えず、角度といい随分と勝手が違い悪戦苦闘した。
見栄えよく編めるようになった時の達成感といったらなかった。母親に褒められて気持ちが高揚し、他の人にも見せたくなった。
そして、浮かんだのはいつも遊んでいる人たちだった。
そのときは相手が全員男だとかは気にならず、きっと出来栄えを褒めてくれるに違いないと思っていた。その予想は、一方で当たり、一方で外れた。
三つ歳上のイザークや一つ歳下のパウルは、可愛い、上手だ、と褒めてくれた。けれど、一つ歳上のヨハンは何が気に入らないのか、似合わないと言って、三つ編みをした髪を引っ張ったのだ。
一瞬、何が起こったのか判らなくてマリヤは放心した。そして、完全に
その感情のままヨハンを睨み、責める声を発するはずだった。
「ヨハン」
けれど、自分より先に怒気を孕んだ声音がヨハンを呼んだ。ヨハンだけでなく自分までビクり、と固まった。彼がここまで怒る様子をマリヤはその日初めて眼にした。驚きで涙も止まる。
「本当に、似合わないと思っているか?」
「あ、う……」
怒鳴られると構えていたヨハンは、静かに問われ、言葉を詰まらせる。
感情を向けられたら、それをそのまま返す準備はできていたが、冷静な質問に反応する準備は何もできていなかった。
「どうなんだ?」
そうだ、と反発して答えられたらどんなにいいだろう。嘘を言えば、見破られるとヨハンは本能で感じた。
「なんで髪を引っ張ったんだ?」
手を出した理由を訊かれてもヨハンは答えられない。咄嗟のことで、その行動に至る感情を説明する言葉をヨハンは持たない。マリヤが悪い、と答えるような反発心はとうに
ただ押し黙るしかできず、ヨハンは押し黙る。
イザークは、ヨハンの背後に回り肩を押して、マリヤと向き合わせる。
「これが、ヨハンの見たかった
零れてはいないが涙で滲んだマリヤの瞳を見て、ヨハンは胸中で違う、と否定した。途端に後悔が押し寄せる。けれど、どうしたらいいか判らない。胸中はこの場から逃げたいくらいに感情が暴れるが、両肩にある手がそれを許さない。
押しつぶされそうな気持ちに耐えられず、数拍して、ヨハンはどうにか首を横に振った。
「じゃあ、謝れるな」
促されて、謝罪をすればいいのだ、とヨハンは気付く。それでも、さっきのマリヤの怒ったような傷付いたような表情が思い出されて、許してもらえないのでは、と思った。既に嫌われているかもしれない相手に謝る、という行為にヨハンは怖気づいてしまった。
相手の顔を見ていられなくて、顔を逸らし俯く。顔を逸らしたことで、心配そうにこちらを見守るパウルが眼に入った。堪えたマリヤと違って、パウルは自分のことでもないのに涙を流している。それでも泣き叫ぶことなく拳を握っていて、こんなに小さいパウルに心配かけたことをヨハンは情けなく感じた。
イザークの次に自分が年長者だというのに、とヨハンは自身を叱咤し謝る勇気を振り絞る。
「ごめ、ん」
その割に口から出てきた言葉は、言い慣れていないとてもぎこちないものだった。恐くて相手の顔も見れないままの謝罪だった。
ヨハンの謝罪を確認して、イザークは彼に向けていた視線をマリヤに移す。苦笑するような眼差しを受け、マリヤは受けた謝罪の処遇を考える。
「……もうしない、なら、許す」
少し悩んで、マリヤは結局許すことにした。
二人の頭に、ぽん、と手が置かれ、称えるように撫でられる。
「ヨハン、よく謝った。偉いぞ。マリヤも許してやって、優しいな」
注意されると思っていたヨハンは、褒められてむずがゆい心地になる。マリヤも、渋々許したことをそんな風に褒められると思っておらず、照れ臭くなる。二人とも頬が熱くなるのを感じた。
「それに、ヨハンはもうしないよな。マリヤが女の子って分かったんだから」
「なっ」
ヨハンは、自分ですら理解していなかった感情の正体を言い当てられて、慌てた。
自分の行動が、マリヤを異性と自覚したことで起こったことだとどうして自分じゃない彼が知っているんだと混乱する。自身で髪を整えたことを誇らしげにするマリヤを見て、なんだか別物になったような戸惑いと、置いて行かれたような焦りのようなものを感じた。それを壊したくて、元に戻したくて、衝動的に身体が動いた。
言葉にされると余計に恥ずかしくなって、バラしたイザークを力いっぱい殴ることで八つ当たりする。イザークは、痛いと口だけの抗議をしつつ、その八つ当たりを享受していた。
女の子、という単語に驚いたのはマリヤもだった。これまで幼い自分たちには性別の線引きなんてひどく曖昧で、あってないようなものだった。だから、イザークが自分を女の子として扱ってくれていたことを初めて知った。
「ごめんな。俺じゃ、うまくできないかもしれないけど」
そう言って、イザークはマリヤの前に膝をつき、崩れた方の三つ編みを一度解いて、編み直していく。マリヤ自身が、また編み直せばいいとまで気持ちが持ち直していないことを察してのことだろう。
三つ編みをするときの手が、自分が痛がらないように恐る恐る大事に扱ってくれているのが判った。マリヤは、そのくすぐったさが嬉しくて堪らなかった。三人平等に扱われていると思っていたが、もしかするとこれまでも女の子扱いされていたときがあったのかもしれないと思うと、胸が熱くなった。
編み終わると出来栄えを確認して、イザークはマリヤの方が上手だ、と申し訳なさそうに笑った。それを否定するようにマリヤはぶんぶんと首を横に振った。
マリヤにとって、イザークは初めて女の子扱いをしてくれた男の子だった。
それからは、女の子扱いされている点に気付いては嬉しさに頬を染める日々を積み重ねて、彼に優しくされるたびに胸が熱くなり想いが増していった。そんな恋だった。
恋心を大事に抱えて数年が経ち、マリヤは、パン屋を営む家の手伝いが増えるようになり、一緒に遊んでいた三人もそれぞれが家業の手伝いないし見習いとしての時間が多くなった。いつも遊ぶ三人と、いつもは遊べなくなってきた頃だった。
久しぶりに休日が被ることが判り、その日の朝、マリヤは勇んでイザークの家へ向かった。
ちょうど数日前に新作のパンの成形を任されたところだったから、訪ねる口実も充分だった。証拠のパンもちゃんとイザークの家族分用意している。実際、出迎えたイザークはパンの出来を褒めてくれた。彼の母親とともにしばらく談笑したあと、話の流れで一緒に植木屋へ向かうことになった。二人で出かけられることをマリヤはとても喜んだ。
向かう道すがら、植木屋の用事が済んだら、そのまま帰るのではなく少しでもイザークと一緒にいれないか、と考えつつ、マリヤは世間話を交わす。食品区域に入ったあたりで、イングリットの酒場があと少し行けばあることを思い出す。冒険者も通う店だから、と父親に反対されていた店だ。けれど、夜と違って昼時は酒の提供はなく、単なる食堂と変わらないと聞いている。下町の女性の井戸端会議で美味しいと評判なのでとても気になっている店だ。
イザークと一緒なら父親も怒らないだろうと、マリヤは誘おうと決意する。だが、彼の方から昼食を奢る話を持ちかけられ、そのうえ行きたかった店を最初に提案され、マリヤは二つ返事で頷いた。イザークは家の手伝いを頑張っている報酬だと言う。マリヤは家の手伝いを頑張っていてよかった、と心から思った。
マリヤは、植木屋でイザークにすすめられた
「ザク……」
「なんだ?」
「んーん、なんでもないっ」
自分が持つ、と言おうと思ったが、イザークが何も気にした様子がないのでマリヤは言うのを止めた。きっと、一緒にきたのがヨハンやパウルだったら、本人が頼まない限り自身に持たせただろうと解る。また女の子扱いされた、とマリヤは嬉しさに頬を染めた。
そのあと、約束通り寄ったイングリットの酒場で食べたシチューとグラタンは、更にマリヤの心を温めた。とても幸福な時間だった。
あとは帰るだけになり、イザークは鉢植えを抱えてパン屋の方向へと向かう。家まで送ることが前提なことが、マリヤにはくすぐったい心地だった。
マリヤはちらり、と隣を歩くイザークを見上げる。いつまで経っても縮まらない身長差だ。これから更に視線を合わせる距離が遠くなることはあっても、きっと縮まることはない。
背が伸びた。声が少し掠れてる。きっと声変わりだ。
どんなに大人になろうと努力しても、三つの歳の差の分だけ先に大人になる彼には追い付けない。
「ザクはいつ教会に行くの?」
ふと気付いた、彼の魔力測定の時期が近付いていることに。だから、マリヤは訊いた。
「誕生日になったら忘れないうちに」
イザークの答えにマリヤは愕然とする。つまり結果が出るまで半年ほどではないか。
どうせ受からない、と
彼の努力を見てきた以上、受かる可能性をどうしても考えてしまう。そして、受かった場合、魔法に興味がある彼は迷わず入学をするだろう。念のために訊いてみたら、予想通りの答えが返ってきた。
その先を想像して、マリヤは幸せな気持ちが吹き飛んだ。
「じゃあ、受かったら……同じ歳のコにいっぱい会うよね」
これまでイザークの周囲に歳の近い女の子がいなかったから、マリヤは自分さえ頑張ればいつか振り向いてもらえると思っていた。だが、イザークが魔導学園に入学できてしまったら、自分が意識してもらえる年齢になる頃、彼に既に恋人ができてしまっている可能性がある。最悪結婚されてしまうかもしれない。
振り向いてもらえるまでの猶予が二年程度しかないと気付き、マリヤは青
マリヤは気持ちだけが焦り、混乱する。どうすればいいのか解らず、思考が渦巻くままに焦りをイザークにもぶつけてしまった。彼はどう解釈したのか、異性に恋愛的な意味で関心を持たれるはずがないようなことをいうが、正に目の前に自分がいる。いくら貴族が多い学園だろうと、女性が彼の優しさに触れて好意を持つ可能性は零じゃない。
イザークから、以前一度だけ遭遇した美の究極体ではないかと疑った美少年が同学年になると聞いて、マリヤは少しだけ考えが落ち着いた。貴族の可能性もあるレオも続いて入学するだろうから、ほとんどの女性はそちらに意識がいくことだろう。なら、自分が女性的に成長するまで猶予がある可能性がでてきた。
「それじゃ、ザクは受かっても受からなくても婚期逃すかもだね」
「かもな」
是非そうであってほしいと願って口にすると、同意の言葉がイザークから返った。
マリヤは気付く、今がチャンスではないかと。混乱していたとはいえ、イザークと恋愛に関する話題を話している。普段はヨハンやパウルがいるのだ。こんな機会、そうそう訪れない。
恋愛へイザークの意識がある間に、少しでも自分を恋愛対象として意識してもらうとっかかりを作らなくては。
冗談でもいい。むしろ、冗談がいい。
自分の気持ちに気付かなくてもいいから。ちらりとでもその可能性を考えてくれさえすれば……
「ザクが婚期逃したら、私がお嫁さんにいってあげようか?」
上手く軽口の調子で言えた。耳に届いた自身の声音に、マリヤは内心喜んだ。
けれど、イザークが返しの言葉を途切れさせたことで、成功ではなく失敗したことに気付く。上手く装えたのは声だけだった。彼の反応が恐くて足元しか見れないし、緊張で顔が熱い、軽口でも自分の気持ちを本人に伝える勇気が必要で両手は力が入ったままだ。
どうしてもっと冗談っぽく振舞えなかったのか。
真っ赤な顔を見られてしまったことに、マリヤは後悔でいっぱいだった。自分が思っていたよりも器用じゃなかったことに愕然とする。
イザークの沈黙が恐かった。
何と返されるのか。
きっと振られる、と絶望して叫ぶ心と、もしかしたら、と期待する浅ましい心が反発し合って、答えを聞きたいかどうかすら不明瞭になってゆく。
ただただ自分の心臓の音が
しばらくして沈黙に耐えかねたのはマリヤの方だった。無理やり別れの挨拶をし、迷迭香の鉢植えを奪うように受け取る。いつものように笑う努力をしてみたが成功していただろうか。
「かっ、考えといてね……っ」
今聞くのは恐いくせに、期待を捨てたくなくて、そう言い逃げる。
家に向かって駆ける間、恐くて振り返ることができなかった。家に着くと、とりあえず視界に入った一番近いパン屋側のドアから入った。バタン、と閉まる音で先程の場所から逃れられたと認識できて、マリヤは安堵する。緊張の糸が切れ、マリヤは客がいるにもかかわらずドアの前にへたり込んでしまった。
「私のばかぁ~」
泣きたい気持ちでマリヤは大声をあげた。
少しずつ、意識してもらう予定だった。ちゃんと女性らしく成長したときに、一番綺麗な姿で想いを伝えるのだと決めていた。こんな寒空で、防寒服で丸く膨れているような状態で、あんな無様な告白をするはずじゃなかった。
直後、営業妨害をするな、と怒った母親に担がれて、マリヤは自分の部屋に放り込まれた。
その日は、マリヤにとって人生最悪の日となった。
無様な告白の返事を延長したあと、マリヤはイザークから逃げた。
休みが被っても会いに行かず、ヨハンやパウルから誘われたとしても用事があると断った。イザークがマリヤのパン屋に客としてくることも何度かあったが、入店前に休憩すると言って母親と交代した。
これまで、会う機会を増やすために培った好きな人をいち早く見つける能力が、避けるのにも使えることをマリヤは知った。
一度避けて、二度避けて、と繰り返すうちに、イザークに会うことがどんどん恐くなった。
避けたことに気付いて、嫌われていないだろうか。そもそも、告白したときの不格好さに呆れられているのではないか。彼はそんな人間ではない、と解っているのに、反論の言葉は会えない分だけ膨らむ未知の不安に押し流されてゆく。
告白する勇気を辛うじて絞り出せたマリヤは、答えを聞く勇気が持てずにいた。臆病になっていく自分が悔しかった。
イザークに好きになってもらいたいから、こんな自分では駄目だ、と思うのに、自身を叱咤して奮い立たせることができないでいる。悔しいくせに、情けない。
頑なに会おうとしないことを心配して、パウルが時々イザークの様子を教えてくれた。パウルたちと会うと、マリヤがどうしているか訊くそうだ。それを聞いてマリヤは、心配してくれているのだ、と彼の優しさに喜びもし、次会えば返事を言われると怯えもした。
複雑な表情を浮かべるマリヤに、パウルは何があったかと訊くことはなかった。パウルに心配をかけているのも、マリヤは申し訳なく感じていた。ヨハンは一度誘いを断ってから、なら知るものか、とイザークと会う日に自分に声をかけることはなくなった。パウルが誘って、ヨハンと三人で会ったときなどは出合い頭に睨まれるが、イザークの話題を出すことはなかった。
そうして年末になり、年越し用の堅パンの販売で忙しくしているうちにマリヤは新年を迎えた。初日の出に勇気が欲しいと祈ったのも
こんなに会うことがなかったのは初めてではないか。新記録だ、と店番をしながらマリヤは空しく笑った。
あんなに一緒だったのに、こんなにも簡単に離れることができてしまうのか、と自分の行動が招いた結果にショックを受ける。
客がいないのをいいことに、マリヤはぽつりと呟いた。
「忘れられたら、どうしよ……」
それは悲しい。自分から距離を取っておいて、忘れられるのは辛いと思う。
「バッカじゃねぇの」
そこにカラン、とドアベルの音と共に聞き馴染みのある声で
「なっ、ヨハンなんでいるのよ!?」
意外な人物の登場に、がたり、と音を立ててマリヤは立ち上がる。
「オレ、客」
パン屋側のドアから入ってきてもヨハンだけは客としてきたことがなかった。それは、ヨハンの家が製粉業を営んでいるからでもあり、休日に遊びに誘う以外に彼がこのドアを使ったことがなかったからでもある。
初めて客として訪ねてきたことが釈然とせず、マリヤはいらっしゃいませ、とヨハン相手に言いたくなくて、押し黙る。
「食パン」
買い求める商品を言われ、マリヤは背後の棚から食パンを一斤取り出して、ヨハンに手渡した。代わりに代金を受け取り、マリヤは会計用の袋からお釣りの硬貨を取り出す。
すると、お釣りを握った手首を掴まれた。
「おばちゃーん、おまけでコイツ借りてっていいー?」
「いいわよー」
奥の厨房に届くようにヨハンが声をあげると、即座に母親の了承の返事が返り、マリヤは眼を
「なっ!?」
強引に手を引かれ、連れ出されそうになったマリヤはパン屋のドアを掴み抵抗する。
「イーヤー!!」
「んなっ、抵抗すんな!」
「だって、ザクのところにつれてく気でしょ!?」
「オマエ、往生際が悪いんだよ!」
パン屋のドアにへばりつくマリヤとそれを剥がそうとするヨハン。ヨハンは購入した食パンを脇に抱えているため、ほぼ片手でマリヤを引き離さなければならず、悪戦苦闘する。いつもなら営業妨害と怒るはずのマリヤの母親は、店番として会計机に頬杖をついて二人の様子を眺めていた。
「……二人とも、何してるの?」
そこに通りかかったパウルが、店先で騒いでいる二人を見て首を傾げる。幼馴染の登場に、二人それぞれに助けを求める。
「パウル、ちょっとコレ代わりにオレん家持って帰ってくれ」
「パウル、助けて!」
「え? え?」
同時に別の要求をされ、パウルは困惑する。それでも、ヨハンから投げられた食パンは慌てて受け取った。
両手が自由になったヨハンは、本腰を入れてマリヤをドアから引き剥がす。マリヤは抵抗するものの、力で負けドアから剥がされ、ずるずると引きずられていく。
「やぁーだぁー!」
自分を引きずるヨハンに力いっぱい抵抗しているマリヤに、パウルはおろおろしながらも声をかける。
「マリヤちゃん、頑張ってねっ」
パウルの応援は、抵抗することに対してではなかったが、必死に抵抗するマリヤに届いていたかは怪しい。それでもパウルは食パンを抱きかかえながら、二人が見えなくなるまで見送った。
パン屋のドアから引き剥がしたあとも、マリヤの抵抗は激しく、暴れるから
「いい加減、観念しろっ」
「やだぁ、こわいぃ」
マリヤの口から憎まれ口を聞いたことはあっても、弱音らしい弱音を聞いたことがなかったヨハンは動きを止めた。しかし、掴んだ腕は離さない。
「そんなのザクの前だけかと思った」
意外さに、思ったことが零れた。
「ザクにこそ言うワケないでしょ!」
弱音を吐くから泣いているのかと思ったが、怒りの籠った眼で睨まれてヨハンは泣かせていないことに内心安堵する。自分に弱音など見せないと思っていたが、マリヤはむしろ好きな相手に弱音を吐く姿を見せたくないと言う。その勇ましさは彼女らしいと感じた。だからこそ、自分に弱音を見せるのが意外でもあった。
「……自業自得」
「分かってるわよ! 自分でもこんなに臆病だなんて知らなかったんだもん……っ」
マリヤは悔しそうに歯を食いしばる。その表情を見て、ヨハンは訊いた。
「いつまでもこのままでいいのか」
沈黙することで、マリヤは答える。このままでいいなんて、マリヤも思ってはいない。だが、ヨハンにそれを
マリヤがむすっと、正直な感想を表情に載せると、ヨハンはヨハンで不機嫌をあらわにした。そして、腕から手が離れ、マリヤの手首が掴み直される。
「なら、行くぞ」
マリヤはまたずるずると引かれて歩く。だが、先程のように暴れることはなく抵抗は随分弱まっていた。それでも、彼女の足取りがひどく重いのは抵抗ではなく、臆病からくるものかもしれなかった。
普段の何倍も時間がかかったが、イザークの家の前まで辿り着き、ヨハンがドアをノックした。その音にびくり、と怯えたマリヤの震えは、手首を握るヨハンの手にも伝わった。だからこそ、ヨハンはしっかりと彼女の手首を掴んだ。
「ケン、カでもしたのか……?」
出迎えたイザークは戸惑った様子で、それでも二人の心配をした。久しぶりに聞く声に、怯えていながらマリヤの胸は熱くなり震えた。偽りようのない気持ちを再確認し、余計に彼と眼を合わせられなくなる。
そんなマリヤの切ない気持ちなど無視をして、ヨハンがザクへ二人きりになるように指示するものだから、思わずいつものように口論をしてしまう。ヨハンと口論するときの自分が可愛くないと解っているから、イザークの前でしたくないと思うのに、お互いムキになるのはいつも彼の前でだった。だから、よく彼が仲裁をした。けれど、今回に限ってはそれができずにイザークは弱っている。
結局、ヨハンが強行突破をしたせいで、イザークに二人で話したいと乞われてしまう。マリヤはそれに対して、死刑宣告を受けるような心地で辛うじて頷いたのだった。
イザークの家の中庭は裏庭と言ってもいい位置にある。陽当たりは確保されているが、高い柵で覆われ隣の家からは見えず家の中の者だけが見える造りになっているため、中庭と言っているようなものだった。防寒対策さえすれば、二人きりで話すにはちょうどよい場所だった。
イザークは一口、二口、とゆっくりとマグカップのお茶を飲む。隣に座るマリヤはお茶には口を付けず、マグカップ越しに伝わる熱で暖を取っていた。
そうして静寂が続き、おもむろに考えた、とイザークが話を切り出す。
ひざ掛けとマグカップのお茶で暖が取れているいるはずなのにマリヤの心の臓は凍ったように錯覚を覚えた。マリヤの恐れていた通り、彼の答えが断るためのものだったからだ。
好きな人がいないなら、と追いすがろうとしても、それを彼が許してくれなかった。自分を大事に思うが故に。自分の幸せを願うが故に。
「マリヤには幸せになってほしい」
残酷な祈りを彼は口にする。
「でも、それは誰か、とだ」
彼以外に自分を幸せにできる人はいない、とマリヤは思うのに、彼はそうではない。彼以外の人と幸せになる未来など、今のマリヤには想像ができない。それは彼も同じだと思い知らされる。彼は、自分との未来を想像できないのだ。
マグカップのお茶に口にすると、飲んだ分だけの水分が眼から零れた。
「…………っザク、ひどい」
誰かと比べてくれたら、自分だけを見て考えてほしいと非難できた。
「ずるい」
別れ際に頼んだ通り、ちゃんと考えてくれた。自分が望んだ通り、女の子として意識できるかを真剣に悩んでくれた。選びながら慎重に紡がれた言葉たちで、それが判る。だから、彼が誠実じゃないと責められない。
彼の気持ちを、言葉を、受け取るしかないじゃないか。すべて自分のための言葉だ。
彼の手は、もう自分の頭を撫でてくれない。その事実が寂しくて、また涙が零れる。
彼の胸に甘えることができないのが辛くて、涙が止まらない。
自分にもう触れない彼の、拙い非難の言葉に頷く声がひどく優しくて、流した涙の分の水分を補うためマグカップのお茶を飲み干した。
それは、まるで決別の儀式のようだった。
けれど、そんなことはなく、これからもお互い顔を合わせるのだろう。その覚悟が必要だと理解して、マリヤは立ち上がる。
「リエおばさん、お茶のおかわりを……」
イザークへ宣戦布告を残し、家の中に入ると、中でくつろいでいたヨハンと眼が合う。
「ひでぇ顔」
「知ってる」
ヨハンに見たままの感想を言われるが、マリヤも鏡を見なくとも解っていた。
お茶のおかわりは、濡れた手拭いで泣き腫らした眼を冷やしながら、家の中で飲んだ。
イザークの家を出たあと、二人は来た道を戻る。今度は手首を掴まれなかった。
いくらか歩いたところで、ぽつり、とヨハンが呟く。
「……さっさと振られちまえってずっと思ってた」
「なっ」
「けど、なんも面白くねぇな」
最低だ、とマリヤは言いかけたが、ヨハンの不機嫌そうな表情に呆気にとられる。何故、ヨハンまでそんな痛みを堪えるような表情をするのか。
一瞬沸いたはずの怒りが萎む。ヨハンが乱暴にも手を引いてくれなかったら、ずっと踏ん切りが付かなかったかもしれない。きっと、感謝すべきなんだろう。けれど、これまでの関係が素直にお礼を言うことをできなくしていた。
進む先を見て、横目でヨハンの顔を見ると自分の付けた傷が眼に入る。ひっかき傷は塗り薬を塗られていたが、顎などの打撲痕はそのままだ。
「痛い?」
「オマエ、ほんとオレには容赦ねぇよな」
念のため確認をすると、悪態を吐かれ、マリヤはうぐっと言葉を詰まらせる。謝るべきタイミングだが、相手がヨハンだとうまく出てこない。
マリヤからの謝罪を期待していないらしいヨハンは、数歩先を歩いていった。
「ザクには負けねぇ」
「ヨハンがザクに勝てる要素なんてないわよ」
聴こえないと思った呟きをマリヤに拾われて、さらに断言され、ヨハンはかっとなり振り返る。
「……っ一コは、勝つ!」
「一コって何?」
一体何に勝つつもりなのか、とただ訊いただけだというのに、ヨハンは一瞬怯んだ。マリヤが首を傾げるが、ヨハンは彼女を見たまま口の中で言葉を泳がせた。
「ゆ……、譲れない一コだっ」
「ふぅん」
ヨハンが何に拘っているかに興味がないので、マリヤは曖昧に頷いた。大方、
マリヤの家のパン屋に着くまで、二人の会話は珍しく少なかった。
ドアの前にきて、マリヤはあることに気付く。途中で別れてもよかったはずのヨハンがここまで一緒にいるということは、もしかしなくても自分を送ってくれたのだろうか。
そんな馬鹿な、と思っていると、頬の肉を抓まれる。
「……何よ」
痛くはないが、頬を軽く引っ張られている意味が判らなくて、マリヤはヨハンを半眼で見る。
ヨハンは何故かそのまま、マリヤを眺め、嘆息を零すように笑った。
「こんな顔でも可愛いと思うんだから、どうしようもねぇよなぁ」
「は……?」
マリヤの理解が追い付かないうちに、ヨハンの指が頬から離れた。
「風邪ひいてそれ以上顔が崩れないよう、さっさと入れよ」
自分の上着をマリヤの頭の上に被せて、じゃあな、とヨハンは帰っていった。
もう家の前に着いてしまっていては意味がなく、気遣うならちゃんと肩にかけるべきだ。泣き腫らして赤くなった
一応、上着を肩にかけなおし、その端をマリヤはぎゅっと握る。
「遅すぎ……っ」
悪態の相手はもう見えなくなっていた。
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