53.ティーカップ



窓から入る風を涼しい、と感じるようになった。

ニコラウスは、自分好みのデザインで晴れ雨兼用の傘を作ったので、去年より気分よく夏を迎えられそうだ。これも友人であるエルンスト公爵家の庭師見習いの少年が、案をくれたお蔭だ。日傘に女性向けのものしかないのなら自分好みのものを作ればいい、などと考えるのは彼ぐらいなものだろう。

時折、斬新な発想をする友人は、自身の着眼点が一般的ではないことに気付いていない。エルンスト家の公爵令嬢だけではなく、ニコラウスも彼に指摘をしたことがあるが、彼はそんなに変なことだろうか、と首を傾げるだけだ。しかしながら、そんな彼の価値観ゆえに現在友人関係が築けているのだから、公に問題にならなければいいか、とニコラウスは寛容に構えている。

今度エルンスト家を訪ねるときには、天候にかかわらず傘を持っていこうと決めて、ニコラウスは食後のお茶を飲み干した。


「で。何よ?」


目の前には、この国の宰相を務める父親のオイゲンが手元のティーカップを凝視したまま、黙り込んでいる。

今日はオイゲンが珍しく早く帰ってきたので、ルードルシュタット家では家族全員揃って夕食を迎えた。そして、食後に話がある、と彼から声がかかったにもかかわらず、その本人が沈黙してしまっている。性格の生真面目さが表れた顔立ちが、険しい表情をしているものだから空気が重い。

もう紅茶を飲み干そうかという時分になり、痺れを切らせたニコラウスが、用件を問い質したのだ。久しぶりに家族全員が揃ったことをのほほんと喜んでいる母親のエルヴィーラや姉のヘロイーゼでは、らちが明かない。

ニコラウスを一瞥したオイゲンは、気まずげに視線を逸らし、それから重そうに口を開いた。


「お前たちに……、知らせないとならないことが、ある」


「まぁ、何かしら」


「だったら、さっさと言いなさいよ」


早々に飲み切ったニコラウスと違い、ゆったりと紅茶を楽しんでいるエルヴィーラは一度、ティーカップをソーサーに置いて、小首を傾げる。夫の漂わせる空気を知ってか知らずか、彼女は楽しみだとでもいうように瞳を輝かせる。そんな母親に小さく嘆息しつつ、ニコラウスは続きをかした。

オイゲンは眉間みけんにぐっとしわを寄せ、部屋の壁に控える男を見遣った。そこに立つ男は、姿勢を正して立っているにもかかわらず、へらへらと弛んだ口元をして何とも頼りない印象を与える男だった。


「思うところがあってインゴに調べさせた」


インゴとは、壁にいる男のことであり、宰相直下の監査部の一人の名前だ。監査部のなかでもインゴは諜報活動に長けたダマー家の者で、確実な物証や証言を取ってくる。見た目に反して優秀な彼を、父親が私的な調査に使ったことに、ニコラウスは小さく驚いた。

視線を受けインゴは、オイゲンの放つ重々しい空気など知らぬ素振りで書類の束をルードルシュタット家の者たちの前のテーブルに置いた。

いつ見ても感情の読めない笑みを浮かべているこのインゴという男が、ニコラウスは苦手だった。エルンスト公爵令嬢の護衛をしている彼の娘も、常にへらへらと笑っているものだから、ダマー家の血にぞっとしたものだ。


「ハーゲン・リース。今年で十八歳。現在、王立魔導学園に在籍している学生です。母と二人暮らしでしたが、入学前に母親が病死しています」


書類の一番上にはその学生と思しき写真が一枚添えられていた。渋面のオイゲンと対照的に、軽率に映る笑みでインゴが説明する青年の名前に、ニコラウスをはじめ、誰も聞き覚えがなかった。

なので、ニコラウスが代表して訊ねた。


「誰よ」


「…………お前たちの兄だ」


お前たち、が自分と姉のヘロイーゼにかかっていると判り、ニコラウスは一瞬思考が停止しかけた。一度閉口し、その表情のまま呟く。


「そんな度胸あったのね」


まず何より、その意外さに感想が零れた。

隠し子、つまり父親に愛人がいるということだ。まさか、この堅物の父親に愛人を作れるとは思わなかった。

息子の呟きに、オイゲンは口を開きかけた状態でびきっと固まった。余程、衝撃だったのか、それとも怒りによるものか定かではない。

上司に対して、部下のインゴは腹を抱えそうな勢いで可笑しげに笑いだした。


「違いますよ、坊っちゃん。奥様と結婚される前に、付き合っていた方との子です」


自身で説明しようとしていたことを、インゴに先んじられたことでオイゲンは正気を取り戻し、調査目的を説明した。


「ニコラウス、お前がそのような言葉遣いをするようになったものだから……」


「ああ。跡継ぎが心配になって、念のため調べたのね」


あっそう、とにべもなく息子に頷かれ、オイゲンは釈然としない心地になった。

数年前まで、息子はこうではなかった。男子にしては内向的で主張こそ少ないが、令息らしい振る舞いのできる従順な息子だった。だが、ある日帰ってみればいきなり現在の調子に豹変していたのである。あまりの変わりようにオイゲンは愕然がくぜんとした。

息子本人に、豹変の原因を問いただしても何もないと言うし、自分より共にいる時間が多い妻や娘へ訊いても、楽しそうで何よりだ、と的外れな解釈でまったく要領を得なかった。自分の教育の何が間違っていただろうと、何度悩んだことか。

未だ息子の現状を受け入れられずオイゲンが内心で葛藤している間に、エルヴィーラとヘロイーゼが声を弾ませる。


「まぁまぁ、家族が増えるのねぇ」


わたくし、お兄様が増えるなんて嬉しいわ」


「そうね。今からお兄ちゃんは作ってあげられないものね」


「母様も姉様も、早合点してはしゃがないのっ」


まったく呑気なんだから、とニコラウスは嘆息を零した。ニコラウスに注意され、二人ははーい、と返事をして発言を控えた。


「それで? どうするのよ。魔力は高いみたいだけど、平民でしょ」


ニコラウスは、父親を睥睨へいげいして問う。資料に眼を通していないが、フォンが付いていないことから平民であること、そして魔導学園の入学資格を得るだけの魔力量を保持していることはインゴの説明から判る。

つまり、没落貴族ないし平民の娘と恋人となり、母親と婚約する前には別れたのだろう。そして、別れた相手が妊娠の事実を父親に伝えていなかった、ないし別れてから妊娠に気付いたために、今更事実が露見したのだ。

両親が政略結婚だと知っているニコラウスには容易く事情が理解できた。だが、オイゲンの方は、息子が感情的にならずに妻と娘をたしなめ、冷静に訊き返してくることに驚きを禁じ得なかった。

しかしながら、話を促してくれたこと自体は助かったので、オイゲンは自身の意向を伝えた。


「養子に迎えようと思う」


断定の響きを持った言葉に、ニコラウスは僅かに眉を寄せた。


「……相手はどう言ってるのよ」


「彼の今度の休みに邸に招待している」


そこで話す、とオイゲンが答えると、ニコラウスが長い溜め息を吐いて、立ち上がった。


「ほんと貴族らしい人ね」


息子の呟きに、オイゲンは不可解を示すように片眉を上げた。


「どういう意味だ」


「バッカじゃないの? そんなの自分で考えなさいよ」


ニコラウスは父親にそう言い放って、部屋を辞した。

息子に、そんな冷たい眼差しと言葉を受けるとは思わなかったオイゲンは衝撃で固まる。穏やかな妻によく似た美貌が怒気に染まると、胸をえぐるほどに迫力があるのだと、オイゲンは身をもって知った。

その一方で、エルヴィーラとヘロイーゼは、会うのが楽しみだ、と朗らかに談笑していた。



翌日、ニコラウスはエルンスト公爵邸に訪れた。


「げ。今日は、アンタなの」


公爵令嬢のリュディアに出迎えられ、彼女に追従する護衛の少女を眼にし、ニコラウスは苦い声を洩らした。


「ペトラがどうかいたしましたか?」


「別に。ただ、連日でその顔を見たくなかっただけよ」


「なるほどー、父に会ったのですねー」


小首を傾げるリュディアに、ニコラウスが答えると、納得したペトラがにへら、と笑ってみせた。胡散臭いと思われると解って浮かべるその笑みが、彼女の父親に重なってニコラウスは苦い感情が湧くのを隠さず、眼をすがめた。


「そういえば、ダマー伯爵家は宰相直属だったわね」


「はいー」


父親似なのね、と微笑むリュディアに、そうなんですー、とペトラは呑気に頷いた。その真意は窺い知れない。ニコラウスには、幼いうちに笑顔の仮面を仕込まれる家系の親子関係が良好であるようにはとても思えなかった。


「まぁ、いいわ。さっさとザクのところに案内してよ」


ダマー家の詳細を知らないリュディアの前で、これ以上言及して藪蛇やぶへびをつつきたくはないニコラウスは嘆息一つで片付け、本来の目的である友人の許に向かうことにした。

リュディアの案内で陽射しの下に出ると、彼は花壇で彼の父や兄弟弟子でしと土を掘り返していた。そしてまだ蕾が付くか付かないかの緑が茂る苗を植えている。


「相変わらず、土いじりばっかしてるのね」


「ニコ。夏花に植え替えてるんだ」


陽射しを避けるため傘を差して声をかけると、陽光の熱に似た笑顔が振り向いた。ニコラウスには、いつ見ても同じ作業をしているように見える。だが、友人の彼にはそれぞれが違う作業のようだ。


紫馬簾菊むらさきばれんぎく松明花たいまつばなだ。どっちも、色も多くて品種もたくさんあるから、咲いたら綺麗だぞ」


「あっそ」


まだ咲いてもいないのに嬉々として語る友人の表情に、ニコラウスは気が抜ける。花の種類にニコラウスは関心がないので、返事こそ素っ気ないものだが、口元は自然と笑みの形を作っていた。


「もうちょいで切り上げるから、待ってろ」


「あら、待つわよ。ディア嬢をからかって」


「なっ、わたくしは退屈しのぎですの!?」


ニコラウスの軽口に、リュディアが思わず食ってかかる。リュディアが怒ろうとしかけたところで、友人の声が差し入った。


「すぐ、終わらせるから」


銅色あかがねいろの瞳に真っ直ぐに見上げられ、ニコラウスは閉口し、リュディアも彼のいつにない様子に湧いた怒りが静まった。


「別に、そんな急がなくても……」


「だって、ニコ、イラついてるだろ」


だから急ぐ、と言って、彼は作業に戻った。集中するその背中を、ニコラウスとリュディアはただ見つめる。ニコラウスはむず痒さを感じ、ちらりと隣を窺うと、リュディアがむぅと剥れていた。文句を言いたそうにしているのに、彼の言葉を聞いたためか自分を気遣って押し黙っている横顔が、そこにある。

申し訳なさより可笑しさが克って、口角があがりそうになったのを、ニコラウスは軽く咳払いをすることで誤魔化ごまかした。

なんだって、すぐに気付くのだろう。

どうして、文句を押し込めてしまうんだろう。

気付かなくていいのに。構わず、文句を言えばいいのに。まったく優しすぎる。

本当にどうしようもない二人だ、とニコラウスは思った。

ほどなくして、作業に区切りがついたらしく休憩に入った友人は父親に断って、練習用の庭へとリュディアとニコラウスを誘った。ペトラは、いつものように、境となる垣根の外で待っている、と木漏れ陽の降る森の中へ残った。


「ほい」


入って早々、ぱすっと構えた革袋をはたいてみせる友人に、ニコラウスの方が躊躇ちゅうちょする。リュディアは、ふくろうの石像の鎮座する噴水のふちに座し、彼が耳元にかけた風の膜によりこちらの音が届かない状態で、こちらを眺めていた。

最初の頃は、彼女の頭部全体に張っていた風の膜を、本当に耳に栓をするように耳の周囲のみに範囲を狭めることが可能になっている。彼は魔力量が少ない分、工夫が上手く、年々魔法の精度をあげている。だというのに、何故こうも活用場所が地味なんだろう。

ニコラウスは内心、そんな事実に呆れながら、待ち構える彼を見据える。いつものように、自分の鬱憤うっぷんを受け止める気満々の顔だ。

はっ、と息を吐き出すように笑い、ニコラウスは拳に力を込める。長い睫毛まつげから覗く藤色ふじいろの瞳が炎のようにゆらりと揺らめいた。


「っうるあぁあぁぁ!!」


どす、と重い音が一度、陽溜まりの円の中に響く。その音が耳に届いた瞬間、ニコラウスは吹っ切れた。

そのあとは、ただひたすらに拳を打ち込む。重い音が耳に届くまえに、次の拳を革袋へと埋め込む。

無心になり、しばらくして、呼吸が乱れたことで打ち止めとなる。ニコラウスの腕がだらり、と下がったことを確認して、友人の彼も構えていた革袋を外した。見ると、彼も息があがっていた。

確認するように彼は晴れやかに笑い、ニコラウスは答えるように吐息に近い笑みを零した。

音が届かずとも判った、その言葉のないやり取りを前にして、リュディアは些かの妬ましさで眼を眇めてみせた。友情だと知っているそれに、入り込めないものを感じる。恐らく、自身が絶対に得られない関係性だからこそ、羨ましく思うのだろう。


「お嬢、お待たせ。ありがとな!」


終わった瞬間、弾かれたようにリュディアの方に駆けてきた彼は、彼女の両耳に手をかざして風の膜を解除する。そして、待っていてくれた感謝をリュディアに伝えた。

防音を解除した途端に飛び込んだ彼の感謝と笑顔に、リュディアは怯む。彼の手が触れてもいないのに、耳が熱く感じた。


「んで、話すか?」


リュディアが言い淀んでいるうちに、彼は振り返り、ニコラウスに訊ねた。


「聞いてくれる?」


汗をかいた髪を掻き上げつつ、ニコラウスが諦観ていかん混じりに口角をあげると、二人は顔を見合わせて当然のように頷いた。ニコラウスには、それがなんだか可笑しかった。

噴水の縁に、二人に挟まれる形でニコラウスは座り、一息つく。兄弟弟子の番に回すためか、先日まで点在していた鉢植えの庭は片付けられ、噴水を中心に芝生だけが広がっていた。


「父親に隠し子がいたのよ」


「かく……!?」


さらり、と打ち明けた事実に、リュディアは動揺し、友人は少し眼を丸くしてみせただけだった。なんと返せばいいのか判らず、おろおろとしている様子のリュディアが可笑しくて、ニコラウスは喉を鳴らした。

ニコラウスも、本当は彼女のように動揺すべきなのだろうが、先程の打ち込みで苛立ちを発散したので、今は随分と冷静に自身の感情を整理できた。

二人に、昨夜聞いた概要を説明した。話が進むほどに、どんどん深刻な表情になるリュディアの素直さがニコラウスには面白かった。友人はちゃんと耳を傾けて聞いていたが、貴族事情に詳しくないからか平静の表情で、どこまで理解しているか判らなかった。


「それで……、その方にお会いになりますの?」


「母様たちが会うよりはアタシの方が話が早いでしょ」


「ですが……」


リュディアが心配そうに俯くので、ニコラウスは苦笑を零す。

ニコラウスがいるにもかかわらず男の養子を迎える、ということは、父親から彼が跡取りとして認められていないことと同義だ。また、半分血の繋がりがあるとはいえ、突然知らない人間が家族になるのだ。その心中は複雑だろう、とリュディアには思えた。


「ニコはいいヤツだな」


そんなリュディアと反して、朗らかに笑う友人の言葉に、彼女だけでなくニコラウスも閉口した。どこからそんな感想が出るのか、とリュディアとニコラウスが彼を凝視すると、きょとんとした眼で見返された。


「え。だって、会ってもいない兄貴の心配して腹立ててたじゃん」


「どういう、ことですの??」


「ニコが親父さんに腹立てたのって、その兄貴の都合聞かずに一方的に会う予定立てて、将来も決めてたからだろ。さっきの話、俺、ニコの兄貴がどんな人か全然分かんなかったもん」


「あ……、確かに、ニコラウス様たちのお兄様の立場しか存じ上げませんわ。その方も、突然のことに驚いていらっしゃるでしょうね」


「呼び出しただけみたいだから、どこまで説明しているか怪しいものね」


ふん、とニコラウスが鼻を鳴らすと、リュディアがじっと見上げてきた。


「……何よ」


「本当に、ニコラウス様はお優しいのですわね」


「だよな」


リュディアに温かに微笑まれ、友人も首肯して笑うものだから、ニコラウスの頬に羞恥の熱が灯る。悪態じみた言葉を、どうしてそんな受け取り方をするのか。


「べ、別に、兄と認めている訳じゃないわ」


「そりゃ、そうだろ。会ってもいないし、ニコ、親父さんともまだじゃん」


「え……」


急に父親の話題を追加されて、ニコラウスは戸惑う。彼の声にならない戸惑いを代わって零したのは、リュディアの方だった。


「親父さんのコト話すときだけ、他人行儀な言い方じゃん。ニコって、親父さんのコトめったに話さないけど、それって普通に知らないからだろ。んで、親父さんも、ニコのコト知らなさそう」


友人の言葉に、ニコラウスは否定する言葉を持たなかった。父親という立場の人間だと認識こそしているが、あの男と家族らしい交流をした記憶がない。将来のために、と定期的に貴族の茶会につれられる程度だ。


「宰相のルードルシュタット伯爵はご多忙な方だと、お父様から聞いたことがありますわ」


「根っからの仕事人間なだけよ……」


父と交わす会話は事務的な内容だけ、食事も昨夜より前は、いつ共にしたか思い出せない。両親が政略結婚と知っている。伯爵の地位で宰相に就くこととなり、周囲を黙らせるために侯爵家の母を宛がわれたのだ。だから、大切にするのは母と姉だけで充分だ。


「何。あの人とも仲良くしろっての?」


平民で温かい家庭を持っている友人と自分の家は違う。同じ感覚でものを言われては困る。彼の尺度に当て嵌めないでほしい。


「いや、嫌いだって直接言えばいいのにって思っただけ」


ニコラウスは眼を丸くした。まさか、好感を持っていない事実を伝えるよう、勧められるとは思ってもいなかった。


「ニ、ニコラウス様がお父様を嫌っているとは限らないじゃありませんのっ」


「でも、どー見ても、好きではなさそうだろ」


「そっ、それは……」


彼の意見に少なからず同意のリュディアは、反論できずに口ごもってしまう。ニコラウスの話し振りから、リュディアも父親と距離があることを感じた。


「っふ、はははっ、やだもー!」


突然、ニコラウスが吹き出したものだから、リュディアは肩を跳ねさせた。しかし、ニコラウスは可笑しすぎて、そんなリュディアに構っていられなかった。友人はこういうところが妙なのだ。一瞬でも、彼の家族と同じ枠に当て嵌めていると誤解したことを、内心恥じた。ひとしきり笑ったときには、笑いすぎて少し涙も滲んでいた。

滲んだ涙を指で掬いとり、ニコラウスは念のために確認する。


「それ、アタシにどんな得があるのよ」


「えっと、なんつーか……、お嬢もさ、身分の高い貴族だからやっかむヤツとかいるんじゃね?」


「え。それは、まぁ……」


「それ、こそこそ陰口言われるのと、正面きって嫌いだって言われるの、どっちがマシだ?」


自分に話題を振られて困ったものの、リュディアはお茶会のときのことなどを思い出し、真面目に考え込む。どちらも気分がよいものではない。しかし、どちらの方がわだかまりがないかを基準に考えると答えは自然と出た。


「わたくし、陰口自体があまり好ましくありませんから……、直接言っていただいた方が対処がしやすいですわ」


言われた瞬間は確かに、傷付くか腹が立つことだろう。だが、相手が自分を嫌っているという事実が明確になれば、リュディアもその後の対応ができる。聴こえるか聴こえないかのささやきで悪意をぼかされて、もやもやとした感情を引きずるよりずっといい。


「つまり、無理に好きにならなくても、はっきり嫌いだって言ってもらった方が相手もすっきりするよな、って話」


お互いの持つ感情を明確化して、ちょうどよい距離を保てばいいのだ、と。和解しなくてもいい、なんて解決策を提案されるとは。


「……好きでも、嫌いでもさ、家族だからって甘えて伝えないのはきっと後悔する。たぶん」


そう言って笑う友人の表情が、一瞬寂しそうに見えた。次の瞬間には、見てるこちらの気が緩む、温かな笑顔に戻っていたから、ニコラウスは錯覚かと疑った。


「そうね。はっきりさせた方がアタシも楽だわ」


言っても無駄だと諦めた分だけ、不満は募る。これまで感じた不満が消えていなかったからこそ、昨夜の件で自分は苛立ったのだ。これからも、苛立つ機会を増やすのは不毛でしかない。

これからも不満を溜めて父親と必要最低限の付き合いを続けるなんて、今の自分らしくない、とニコラウスは感じた。


「今度の話し合いの結果がどうなるか分からないけど、アタシも言いたいこと言うことにするわ」


「おう」


「頑張ってくださいな」


「聞いてくれて、ありがとね。二人とも」


二人の応援を受けて、ニコラウスは艶然えんぜんと微笑む。

陽溜まりの庭に、初夏の清涼な風が吹いて、紫丁香花むらさきはしどいを思わせる柔らかな髪がふわりと揺れたのだった。



数日後の昼下がり、ルードルシュタット伯爵邸に一台の馬車が訪れた。

門を抜け、玄関に停まった馬車から一人の青年が降り立つ。出迎えた邸の使用人が玄関の扉を開け、それに促されるままに彼は扉を潜った。

中では、オイゲンとニコラウスが待ち構えていた。


「招待に応じてくれ、感謝する」


「いえ、お目通りが叶い光栄です。ルードルシュタット伯爵」


どちらも真顔で交わす挨拶は、形式だけのものとよく判る。愛想笑いもできないところは父親の血のせいだろうか、と眺めていたニコラウスは思った。

挨拶を済ませて応接室へ向かい、それぞれが別々のソファに座す。オイゲンは青年と向かい合うように座り、ニコラウスは二人の間の一人用ソファに落ち着いた。

メイドの出した紅茶を青年が飲む様子を、ニコラウスも同様に紅茶を口にしながら窺う。青年は黒縁の眼鏡をかけ、レンズ越しに杜若かきつばたの瞳が静かに伏せられていた。黒に近い青漆せいしつの髪は邪魔にならない長さで整えられ、身に着けた王立魔導学園の制服も相俟あいまって清潔感があった。

一見すると真面目そうな青年、ニコラウスからすると表情が硬くてつまらなそうな男という印象だった。髪や瞳の色以外は、父親に似ていると感じる外見だった。

青年が一口飲み終わった頃合いで、オイゲンが確認するように訊ねた。


「君が、ハーゲン・リースか」


「はい。伯爵、本日お呼びいただいた理由はなんでしょう」


やはり言っていなかったのか、とニコラウスは内心舌打ちした。招待の手紙に事情を書かない理由は、他の者の眼に触れて情報が漏洩ろうえいしないようにだろう。それでも、いきなり理由も解らず呼び出される者からすれば不審でしかない。ハーゲンという青年が来たのも、貴族相手で呼び出しを断れなかった可能性が高い。


「実はクラーラ……、君の母は以前この家に務めていた」


「そうだったんですか」


「その際、君の母と……」


「この親父ができて、別れたあとにアンタが生まれたらしいのよ」


「ニコラウス!?」


「何よ。さっさと話しなさいよ、まどろっこしいわね」


身も蓋もない言い方にオイゲンは愕然とする。そのうえ、息子は普段の言葉遣いを隠していない。


「ってゆうか、先に言うことあるでしょ」


「なん……」


「謝りなさいよ、クソ親父」


「クソ!?」


突然の謝罪要求より、そのあとの妻似の息子の顔からとは思えない暴言にオイゲンは固まる。


「そこのアンタ! 学園から来たなら昼食も取れていないんじゃないの? その歳で、馬車酔いして食欲ないなんて言わないわよね」


「え。ああ、確かに腹は空いているが……」


ハーゲンは問われるままに自身の状態を答えた。

ニコラウスの指摘通り、寮制の王立魔導学園の敷地から、貴族の住宅区までは距離があるので道の関係もあり、朝から昼過ぎまでかかった。小休止しか挟んでいないため、食事を取る時間はなかった。


「母様が用意させた軽食があるからとりあえず、それでも食べなさい。話なんて食べながらでもできるでしょ」


言うなり、ニコラウスは指を鳴らし、音に従って使用人がサンドイッチの載ったカートを押してきた。サンドイッチは軽食にしては肉などが挟まれている。エルヴィーラが話し合いに参加できない代わりに、きっと食べ盛りの男の子だから、と料理人に頼んで作らせたものだ。

ハーゲンは目の前に出されたサンドイッチを、食前の祈りをしたうえで、素直に食べることにした。


「ったく、こういうところは母様の方が賢いわよね。平民相手だろうと、ちったぁ相手の都合考えなさいよね。無神経」


「む……っ」


「だって、そうでしょう。アンタ、今日ほんとは予定入ってたんじゃないの?」


ニコラウスに訊かれ、ハーゲンは咀嚼そしゃくしていた一つ目のサンドイッチの最後の一口を飲み込んだ。


「ああ。図書館で蔵書整理の仕事をする予定だった」


「学費と最低限の生活費は国持ちでしょ。稼ぐ理由は女?」


「いや、卒業後の生活資金は少しでも多い方がいいから……」


「このクソ親父が一応手切れ金渡してたらしいけど、どうしたの」


「それは、たぶん母の治療費でほとんど使い切った」


「ふぅん、今年で卒業でしょ。就職の宛はある訳?」


「入学時に家を引き払ったから、帰る家もない。世話になった学園の教師になろうと思っている」


そこまでハーゲンが答えると、ニコラウスは二口目の紅茶を口にした。それを確認して、ハーゲンは食事を再開する。

ニコラウスは、事前に眼を通していた調査資料に記載のなかった当人の事情と意向を確認し、呆れたように溜め息を吐いて、ティーカップをソーサーに戻した。


「こういうことも聞かずに、一方的に養子の話を持ちかけるのが、無神経じゃなかったら何だってゆうのよ」


睥睨へいげいするニコラウスに、オイゲンは返す言葉なく押し黙る。突然呼び出されただけのハーゲンは、事情がよく飲み込めないため大人しくサンドイッチを食んで静観することにした。現状、ハーゲンに解るのは、呼び出される前に身辺調査をされていたらしいことだけだ。

沈黙したオイゲンは、両手を組んでそのひじ両膝りょうひざの上に置いて考え込む。現在の状況が予定していたものと違いすぎて、多少、いやかなり混乱をしていた。息子のニコラウスから辛辣な言葉を浴びたのが、最大の要因だろう。

衝撃ではあったが、息子の言った内容は正しいものだ。事前に確認すべきことが不足していた事実をオイゲンは冷静に受け止めた。

そして、謝罪すべきと叱咤されるのは当然だ、と握った両手に力を込めた。

数秒のことだっただろうが、何から謝罪するかや、その姿を息子に晒す覚悟などのさまざまな葛藤を経てオイゲンは顔をあげ、正面のハーゲンを見据えた。


「……私が父親だと、クラーラ、君の母から聞いたことは?」


「いえ。けれど、病に伏してからは貴方あなたへの恨み言をよく口にしていました」


サンドイッチを食んでいた手を一度止め、ハーゲンは答えた。

父の名を呼ぶことはついぞなかったが、病気となり日に日に弱っていく母は心までもろくなった。愛していたのではないか、何故自分を選んでくれなかったのか、と呪詛のように恨みを零し、これが気丈だった母かとハーゲンは絶望した。


身籠みごもっていたと知らなかったとはいえ、君たち母子おやこを放置してしまって申し訳なかった」


「知っていても、同じだったでしょう」


ハーゲンは皮肉げに表情をゆがめた。今、オイゲンに彼の息子が同席していることだけで判る。彼は、愛する母より身分を選んだのだ。そんな男が金銭の支援以上のことをするはずがない。


「ねぇ、アタシがこんなだから、マトモな息子が欲しいみたいなんだけど。アンタ、貴族になりたい?」


「そ、れは……」


ニコラウスに問われ、ハーゲンは答えにきゅうする。こんな、が何を指すのかはこれまでの彼の言動で、ハーゲンにも理解できた。

今更、家族として認めると言われても即座に決断できるものではない。

幼い頃、両親がいる周囲が羨ましかった。どうして自分には父親がいないのか、と母に一度だけ責めるように訊いたことがある。そのとき、悲しげに微笑んで謝る母を見て、これはもう訊いてはいけないことだと悟った。

確かに、幼少は父親の存在を渇望した。けれど、今となっては遠い昔のことだ。それに、家族の情によるものではなく、貴族のお家事情による理由で、家族になることを望まれている。

やるせなさに手に力が籠り、サンドイッチからトマトの種が押し出される。


「手」


ニコラウスに端的に指摘され、手を伝うものに気付いたハーゲンは、慌てて食べかけのサンドイッチを皿に戻し、ナプキンで手を拭いた。

気まずそうにだが、オイゲンは今後の手続きに関する説明をするため、言葉を続ける。


「今回、君の都合も確認せず呼んだことも悪かった。だが、私の血を引く君にも、この家を継ぐ資格がある。体面上、君の魔力を買って養子縁組したことになるだろうが、必要な教養は充分に授けよう」


オイゲンの深緑の視線を受け止め、ハーゲンの杜若の瞳が暗くにごった。


「お、れは……、父親、なんて……」


ぐわん、と母の恨み言が脳に響く。どうして、どうして、と自分の顔を通して責める声が今も耳に残っている。

意識が定かでないときによく間違えられた。それで、自分は父親によく似ているのだろうと知った。母の恋人に間違えられるとき、その眼差しがどれだけおぞましかったか。何度も自分の名前を一生懸命教えて、正気に戻した。

一年以上続いた、あの看病の日々。周囲の人は同情こそするが助けてはくれない。皆、自分たちの生活で手一杯だ。母の貯金で薬代や医者の診察代が賄えたところでなんだというのだ。

あのとき助けてくれなかったじゃないか。

今更、父親面するなんて虫がよすぎる。

俺は、母さんが死んだとき、ほっとなんてしたくなかった。ちゃんと悲しみたかった。

気付けば、ハーゲンのナプキンを握る手が、力を入れすぎて白んでいた。


「ぐじぐじしてんじゃないわよ!」


ばきっと音がしたかと思ったら、ハーゲンの視界に星が飛んだ。次いで、頬が熱いことに気付く。

熱を持った頬を手で押さえ、いつの間にか横を向いていた首を正面に戻すと、腕を振り切った体勢のニコラウスが近くに立っていた。その向こうで唖然とするオイゲンが見える。

どうやら自分は殴られたらしい。その事実にハーゲンは気付いたが、ニコラウスの行動の意図までは理解できなくて怒りも湧かず、呆然としてしまう。


「アンタ、いい歳して何ぼさっとしてんの。目の前に諸悪の根源がいるんだから、本人にぶつけなさいよ」


その口と拳は飾りなの、と歳下の少年に叱咤される。随分と整った顔立ちで睫毛も長い。彼は母親似なのだろう、とハーゲンはそんなことを思った。


「……拳で、なんて貴族なのに物騒なことを言うんだな」


「アタシ、クソ親父みたいな貴族らしい貴族嫌いなのよ」


「貴族なのに、貴族が嫌いなのか……?」


意外に感じながら、ハーゲンは殴られたことでずれた眼鏡をかけ直す。すると、何を言っているんだ、という眼で見られた。


「生まれる場所なんて選べないじゃない。当たり前でしょ」


誰もが皆、生まれた境遇に満足できる訳ではない。生活水準さえ高ければ幸せというものでもない。頭では解っていたはずの事実が、自覚していなかった自身の不遇を嘆く心で曇って、理解しきれていなかったとハーゲンは気付く。


「で。らないの?」


自分の父親が殴られることを推奨するなんて、随分と変わっている。初対面の自分のためではなく、本当に父親が殴られても一向に構わないのだろうと判る涼しい顔をニコラウスはしていた。


「君に殴られて、忘れたよ」


気が抜けたように笑うハーゲンの言葉に、ニコラウスは肩を竦めてみせる。


「あら、これでも加減したのよ」


忘れたのなら仕方がない、とニコラウスは残りの紅茶に手を付けた。ハーゲンも残りのサンドイッチに手を伸ばす。

ハーゲンの頭に響いていた母の呪詛の言葉はもうどこかへ消えていた。きっと言いたい文句も殴りたいほどの怒りもあった。けれど、自分より先にその相手を罵る少年がいたせいで、どうでもよくなってしまった。

それに、折角の美味しいサンドイッチを、そんな気分で食べるのはいただけない。今は、これまでのことを忘れて、食べることに専念しよう。

二人の一連のやり取りを見ていることしかできなかったオイゲンは、妙に暢気に映る光景に眩暈めまいを覚えて、頭を抱えた。


結局、ハーゲンはその日のうちに養子縁組の話を断り、オイゲンもそれを了承した。


学園へとハーゲンが帰るとき、彼の乗る馬車をニコラウスはとても晴れやかな表情で見送っていた。その隣では、頭痛を堪えるようにこめかみを指で押さえるオイゲンが、顔色悪く立っていた。

次にエルンスト邸を訪ねた際、すっきりしたわ、ととてもいい笑顔でニコラウスは友人に報告したのだった。


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