43.写真
初夏になると、暖かな陽気が強くなり、吹く風が涼しく感じるようになった。
俺は、親父に指示された寄せ植えをヤンさんと一緒にしていた。まず先に俺が植えてみせて、配置の具合を教えると、ヤンさんは疑問で眼を丸くした。
「どうしてまだ咲いていないのまで一緒に植えるんっすか?」
「その方が長く楽しめるでしょう。この花は梅雨から咲くから、空が曇る頃に地面が
長く咲くから
白の中に紫が滲んだり、青紫の中に濃い紫が滲んだ
説明を理解して、ヤンさんが眼を輝かせる。
「凄いっす、アニキ!」
「……そのアニキっての止めてもらえませんか」
俺は何とも言えない
「何でっすか?」
「だから、俺の方が歳下だし」
「アニキの方が先にデニスさんに
純粋な黒い瞳を向けられて、俺は脱力する。ヤンさんが経験値優先主義なせいで、この話題はいつも平行線だ。
「アニキの方こそ、自分の方が後輩なんすから敬語なんていらないっすよ」
これまた何度目かのヤンさんからの要望に、俺は悩む。
ヤンさんは十二歳になったのをきっかけにバウムゲルトナー家に弟子入りにきたらしいから、もうすぐ誕生日の俺とは一歳差だ。
俺は、下町のチビたちからも、一つ下のレオからもタメ口だが気にしていない。むしろ、敬語とか使われたら気持ち悪い。けど、歳の近い歳上が今までいなかったから、俺には歳上イコール敬語を使う相手だ。
そうは思っても、一ヶ月近く平行線のやり取りをして疲れたのも事実。ここは俺から折れた方がいいのかもしれない。
「じゃあ、ヤン。これでいいか?」
「はいっす、アニキ!」
「その呼び方止めてほしいんだけど……」
「無理っす」
ヤンが喜んだついでにもう一度頼んだが、元気よく断られた。
なんだろう。刷り込みされたひよこを見ている気分だ。ヤン、よく無事だったな。
「作業に戻ろう。ヤンもやってみて」
「はいっす」
俺は諦めた。これ、無理なやつだ。ヤンはこの件では絶対折れないと悟った。
まだ一ヶ月弱だが、ヤンは飲み込みがいい。故郷では元々野菜主体の農家だったらしく、土いじりに慣れていた。野菜向けの知識だったが肥料や植物の病気、雑草の見分け方などを最低限だが知っているのも役に立っている。
寄せ植えの作業が終わり一休みしているときに、ふと気になって訊いてみた。
「ヤンはどうして庭師になりたいんだ?」
「あっ、それはコレっす」
志望動機を訊くと、ヤンは軍手を脱ぎ作業着の胸ポケットから一枚の写真を取りだした。宝物だと言って見せてくれたセピアのそれは、エルンスト家の庭の写真だった。
この世界で写真はモノクロかセピアだ。撮影機も高いから、人物以外を撮るなんて金持ちな貴族の道楽でしか無理なこと。
公爵様の父親である先代公爵様の趣味が確か写真だったはずだ。その先代からもらったと、
ヤンが見せてくれたのは、祖父ちゃんの写真の一枚だった。
「自分が何度も見せてもらってたんで、ベンノさんがくれたんす」
いつでも見れるように、でも大事に、ハンカチ代わりの手拭いに包んで持ち歩いているそうだ。
「
ヤンの意見に、そうだろうと納得する。植物を生計を立てるため以外に使う余裕なんて、庶民にはない。王都周辺は生活水準が高いから、庶民でも鉢植えで草花を育てる趣味を持っている人もいるが、自然が当たり前にある地方では珍しいことだ。
ヤンの実家が農家をしているなら尚更、植物を不自然に扱う違和感を知っていたことだろう。その不自然さを強要する行為を、農家は生きるためにし、庭師は眼を楽しませるためにする。食料がないと人は生きていけないが、庭がなくても人は生きていける。その差は大きい。
「ベンノさんに思った通りに言ったら、すっげぇ恐い笑顔でこの写真を見せられたんです」
知らないとはいえ、祖父ちゃんによく喧嘩売ったなヤン。いやー恐かった、と明るく笑って笑い話にできるヤンの肝っ玉は強い。
「自分、それまで綺麗とか全然分からなかったんすけど、庭の写真を見て、こんな綺麗なものが世の中にあるんだって、びっくりしたんす」
セピアの写真からでも、どれだけ色鮮やかに花が咲いているか伝わるようだった、とヤンは興奮気味に語る。写真を見せてもらってから夢に見るほど、行ったことのないエルンスト家の庭がヤンの脳裏に焼きついたらしい。
「あんな綺麗なもんが人の手で造れるなんてすっげぇって」
ヤンの言うことが解る。俺も初めて親父の仕事をみて魔法みたいだと興奮した。
「だから、親父に勘当されてここに来たっす」
「は?」
あっけらかんと言われたオチに俺は固まる。
庭師になりたいと言ったところ、長男のくせに家業を継がないでふざけた仕事に就くなら親子の縁を切る、と父親に殴られた。再度確認すると、ヤンは笑顔でそう詳細を教えてくれた。いや、詳細に聞きたかった訳じゃないんだが。
俺もよく親父に拳骨食らったり、母さんに叱られたりするが、それは俺が反省しないといけないときだけだ。俺は、親と喧嘩をしたことがない。けど、前世では頑固親父と喧嘩ばかりだった。もし、田中太一だった頃の俺が病気にもならず、事故にも遭わなかったら勘当されていたかもしれない。きっと勘当される理由はヤンと違ってくだらないものだろうけど。
「ヤンは、それでいいのか……?」
親と和解できないままだったことが前世の後悔の一つだった俺は、心配になる。ヤンは明るく笑っているけど、前世の俺みたいに後悔しないだろうか。
「大丈夫っす。絶対庭師になって、親父に俺の造った庭の写真を送ってやるんで!」
「そっか」
屈託のない笑顔のヤンを見て、俺は安堵する。ヤンはまだ家族との縁を諦めていないようだ。
「いつか親父さんに認めてもらえるといいな」
「はいっす!」
父親を見返してやる、と意気込むヤンを眩しく感じる。
「さて、次は雑草抜き、を」
「ザクー!」
一休みが終わったから、作業に戻ろうと立ち上がろうとしたら、背後からタックルの勢いで肩からのしかかられた。俺は思わず膝を突く。
「……ニコ」
「やぁん、もう会いたかったわー。最近、姉さんの
「わかったから、ちょっと待て」
ストレスが溜まっているから早く殴らせろ、と暗にせがむニコをどうにか宥める。
ニコの姉貴のヘロイーゼ様が元気になって以降、彼女の婚約者が通うようになったらしい。ニコからすれば、間接的にとはいえ家族が呪われた元凶だから未だに許せないそうだ。けど、ヘロイーゼ様本人は、婚約者と話せるようになって喜んでいるから、ニコはなるべく我慢している。
作業があるから待つように頼むと、剥れたフリをしながら首に回す腕を緩めてくれた。
「誰よ、コイツ」
ようやくヤンの存在に気が付いたニコが訊ねる。
「ああ、まだ会ってなかったな。ヤンは……」
「ニ、ニコラウス様っ、ザクはまだ作業中だから後で、と言ったでしょう!?」
「アニキの彼女っすか!?」
どうやら俺を見つけて急にニコがこちらに向かったらしく、お嬢が小走り気味で追いかけてきた。ちょうどお嬢が到着したタイミングで、驚いた様子のヤンが妙なことを口走った。
俺は意味が解ったからこそ、その誤解に閉口し、ニコは片眉をあげた。
「何言ってんの、コイツ」
「あー……、言っておくが、ニコは男だ」
「え!?」
心底驚くヤンに対して、ニコが苛立ち気味に胸に手を当てる。
「このアタシのどこが女に見える訳?」
「だって、こんな綺麗な顔の男がいる訳ないっす。それに喋り方だって……」
「ざっけんじゃないわよっ、胸もなければ声も高くないでしょ。アンタ、本当に眼と耳付いてんの!?」
「すっ、すみませんっす!」
ニコの気迫に負けて、ヤンが勢いよく謝る。ニコの言うことも
「……彼女、とはどういう意味ですの?」
ヤンの唐突な発言に固まっていたお嬢が、ぽつりと呟くように訊いた。どうやら言葉の意味が解っていなかったらしい。
「平民では婚約すること自体が珍しく、恋愛をし恋人となり、それから結婚をするとのこと。女性の恋人のことを彼女、と呼称することが多いようです」
護衛として追従してきた委員長が、お嬢の問いに懇切丁寧に説明をした。説明を聞き、理解したお嬢は頬を膨らませた。
「貴方は、新しく入ったバウアーでしたかしら」
「へ? あっ、自分のことですっすね。慣れていないんで、ヤンと呼んでください。お嬢様」
ヤンは就職手続きの書類を作る際に、やっと自分の名字を思い出したらしい。田舎すぎて村の人は皆、下の名前で呼び合い、名字を利用する機会がほとんどなかったそうだ。
「では、ヤン」
「はいっす」
「ニコラウス様がザクの恋人だなんて誤解をしては、二人に失礼でしょう。それに、質問が
「すみませんっす。抱き着くくらい仲がいいからてっきり……」
「はっ、そうですわ! ニコラウス様、ザクから離れてくださいっ」
反省するヤンの言葉に、俺に張り付いたままのニコに気付いたお嬢が叱る。
「やぁよ、久しぶりに会ったのに」
「久しぶりだからって、抱き着いていいものではありませんわっ」
お嬢が止めるように言っても、ニコはどこ吹く風だ。実際、ニコとは一ヶ月以上会っていなかった。ニコの姉貴の婚約者がいつ来るか判らないから、二人きりにさせないように警戒する、と事前に理由を教えてくれている。今日来れた、ということは、先触れをするよう婚約者に釘を刺せたのだろうか。
先程の様子から、妨害を止めた訳ではなさそうだ。
「ザクって
「わ……っ」
「にお……!?」
ニコの鼻先が俺の髪に触れて、俺はくすぐったさに身じろく。確かに陽の下によくいるからそんな匂いがしても
ニコの行動と発言に、顔を真っ赤にしたお嬢が先程より更に頬を膨らませた。ストレス発散できるまで時間がかかるからって、お嬢を
「ザクの作業の邪魔をしてはいけませんわ!」
「あら、本当にそれだけで怒っているの? ディア嬢」
「なっ、なな……」
「……ニコ」
「はぁい」
俺が長い溜息を
「お嬢、助けてくれてありがとな」
「わたくしは、別に……」
注意はしたがニコを止められなかったお嬢は、俺が礼を言っても謙遜しようとする。
「うん。でも、助けようとしてくれたのが嬉しかったから」
公爵令嬢で走れないのにお嬢なりの全速力で駆けつけてくれたし、俺が作業に早く戻れるようニコに注意をしてくれた。効果のあるなしにかかわらず、その気持ちがありがたい。
俺がへらりと笑うと、お嬢は頬を染めてそっぽを向いた。
「……っニコラウス様、戻りますわよ!」
「仕方ないわね。ザクの体が空くまで、ディア嬢で我慢してあげるわ」
「ニコラウス様、リュディア様に失礼ですよ」
「アンタ、いつまで経っても頭が固いわね」
「エミーリア、ニコラウス様の言は演技なのですから目くじらを立ててはいけませんわ」
「はい……」
「さっきまで一番反応してたのは、誰かしら?」
過敏に反応する委員長を窘めるお嬢を見て、ニコはくすくすと喉を鳴らした。結局言い合いをしながら、お嬢たちは
俺たちも作業に戻ろうとするが、ヤンは何故か俺と去っていく三人の方向を交互に見た。どうした、と俺が首を傾げると、呆けたようにヤンが呟く。
「アニキは、ニコ姐さんと彼女じゃなかったら何なんっすか?」
何故、ヤンがニコを姐さん呼びをするのか。確実にさっきのやり取りで何かを察したのだろう。何気に乙女ゲーの君星での呼称だ。前世の妹以外でそう呼ぶ奴は初めてだ。
「ダチだけど?」
「貴族とダチになれるなんて、アニキぱねぇっす!」
「いや、たまたまだから……」
本気で偶然知り合っただけだ。貴族同士の方が友人を作りにくいニコだからこそ、仲良くなれただけだ。それに貴族だからダチになった訳じゃない。
俺の答えに、ヤンは偶然でも凄い、と眼を輝かせて言ってくる。俺は苦笑いを返すしかできなかった。どうやら俺は手放しで褒められるのが苦手らしい。これまで、努力したことを認めてくれる人がほとんどだったから気付かなかった。
早く作業を終わらせて、ニコとストレス発散をしよう。その方がずっと気が楽だ。
自分の苦手なものを知ってから数日後、夕焼けに染まる市場通りはほとんどが店じまいをして帰路に着く人がほとんどだ。そんな中、
「ヤンはいいヤツなんだけどさぁ」
「父さんも、ヤンくんのそういうところが苦手みたいね」
「えっ、親父も?」
可笑しそうに笑う母さんの言葉に、親父の方を見ると渋面になっていた。他の人が見たら、更に顔が険しくなって怒っているように見えるだろうが、単に弱っているだけだ。
ヤンの尊敬の念を一身に受けている親父は、俺よりも大変らしい。親父に同情を禁じ得ない。
しかし、純粋に褒められているのに、素直に喜べないのはどうしてだろう。
「そういう不器用なところは、
俺が首を傾げていると、母さんが微笑みながらそんな感想を述べた。すると、親父が僅かに眉を寄せて、母さんを見た。
「……リエは?」
そういう自分はどうなんだ、と親父が問うと、母さんは話を振られるとは思っていなかったのか眼を丸くした。
「私? そうねぇ、そんなに嬉しくはないわね」
全員似た者家族だ、と母さんはあっけらかんと笑った。けど、母さんなら笑って礼を言って受け流すことはできそうだ。やっぱり、母さんの言う通り、俺は親父似なんだろう。
「なんでだろ?」
俺は鶏の香草焼きを口に入れながら、疑問を口にする。
「簡単よ。ヤンくんと私たちはちゃんと知り合ってないもの」
「あー、そっか」
母さんがポテトサラダを取り分けながら、回答を返す。俺はやっと納得した。ヤンと会って一ヶ月ぐらいしか経っていないのに、ひたすらに肯定ばかりするから受け入れられないんだ。庭師という憧れの職業に対するフィルターがかかって見られている気がする。
理由が解って少しすっきりした。
「んじゃ、気長にやってみる」
「そうそう」
すぐには無理でも、いつかちゃんとヤンと付き合えるようになりたい。等身大の俺がそんな大した奴じゃないと知ってがっかりされても別にいい。
「ほら、父さんも気を取り直して食べましょ。折角、ザクの
励ますように俺の肩をぽんと叩いたあと、母さんは親父の二の腕辺りをばしばしと叩いた。親父のはどちらかというと気合を入れるような感じだった。
俺たちは今、イングリットの酒場という食事処にいる。冒険者向けの料理や酒を多く取り扱っているから酒場とついているだけで、ランチもしている普通の食事処。前世でいうファミレスみたいなものだ。昼食時は行列ができ、夕食時も基本満員で混むぐらい庶民に人気の店である。
前世の日本だと五月が母の日、六月が父の日だから、それぐらいの時期に何か判りやすい親孝行をしようと、俺は決めていた。給料をもらうようになったから、滅多にしない外食に両親を誘ったのだ。
母さんが美味しそうにコーンポタージュを一口飲み、微笑んだ。
「ザク、ありがとね。ここ、一度来てみたかったのよ」
「そうだったの?」
「最近、可愛い子が入って余計繁盛しているって噂だったから」
「可愛いコ??」
主婦の間でも看板娘ができると話題になるのだろうか。女性からも人気があるなら、余程気立てのいい女子なのかもしれない。
俺は単に、一度だけでも食事の支度や片付けのない日が母さんにあってもいいだろうと思って、美味いと評判の店を選んだだけだったんだが。実際、家では作りづらい手の込んだメニューなどを頼んで母さんは嬉しそうだった。
「鮭とほうれん草のパイの包み焼き、お待たせしましたっ」
コトリ、と他の皿を避けて頼んでいた料理が置かれた。声の方に眼を向けると、飲食店向きのさっぱりとした短髪の少年が人好きのする笑顔でいた。俺とそう変わらない歳に見える。
「ありがとうございます」
「いえ。お食事はお揃いでしょうか? デザートは食後に持ってきますので」
「ええ、大丈夫よ」
「それはよかった。イングリットおばさんの料理はどれも美味しいので、楽しんでください」
自分のことのように誇らしげに笑う少年は、柔らかそうな薄茶の髪も相まってゴールデンレトリバーを彷彿とさせた。彼の言う通り、食べた料理はどれも美味かったし、まだ手を付けていないものも美味いだろうと見た目と香りで判った。
「フランク、次あがったよ」
「はーい!」
それでは、と軽く会釈して厨房の方へ向かう少年を、何気なく俺は見送る。若いのに随分と礼儀正しいと感心してしまった。
「あの子よ」
「え」
男だったのか。そりゃ、主婦の井戸端会議では恰好の的だったことだろう。看板娘じゃなく、看板息子だったことが意外で俺は驚いた。
「一生懸命働くいい子なんですって」
「へー」
そういう意味の可愛いだったのか。女子だったとしてもあまり興味がなかったから、母さんが聞いた情報を流し聞く。
なんでも、家が大家族で仕送りをするため、一人で王都に上京してきたらしい。独り立ちするには未熟な歳頃にもかかわらず単身で出稼ぎにきている、というのがなかなかに同情を誘う話だった。
食事をしながら眺めていると、フランクと呼ばれた少年はきびきびとよく働いていた。笑顔を絶やさず、人とぶつからないように動き、空いている皿はすぐ下げるし、注文を取りにいくのも早い。きょろきょろと露骨な動きをしていないのに、全体を見る力と状況判断力が随分高い。
純粋に凄いと感じた。俺には真似できない。
師匠こと執事のハインツさんに体術の稽古を受けているせいか、人の動きへの着眼点が変わった気がする。そんなことに今更気付いた。
「おばちゃーん、手洗いどこー?」
「右の奥だよ」
大声で訊くんじゃないよ、と言いながらも、恰幅のいいおばさんが客に手洗いの場所を教えた。訊いた客はちょうど隣のテーブルだったから、客の食事が粗方終わっているのが眼に入る。
その客は手洗いの方には行かず、じわりと存在感を濁らせた。
降って湧いた闇魔法の気配に、俺は食事を喉に詰まらせそうになる。母さんが差し出してくれたお茶を飲んで落ちつけている間も、闇魔法の気配を放つ客から視線を離さない。気配を消す、というよりはたくさんの人の気配に混ざるような感じだった。魔力量が少なく完全に気配を消せないからこその魔法だろうが、俺にはモザイクを見ているような違和感しかなかった。
手洗いの方向ではなく、店の出入り口の方に向かっていることに気付いた俺は食器を置いて、席を立った。声をかけたら余計逃げられそうだ。どうするか悩んでいると、その客の前を配膳を終えたフランクが通った。
「すみません。あ、お手洗いならあちらですよ」
軽くぶつかって客を認識できたのだろう。フランクは謝罪をしたあと、にこやかに案内をした。
「どけっ!」
客の腕がフランクを払おうとした瞬間、俺は五メートル弱の距離を助走し、勢いをつけて跳び客の肩に脚をかけた。
「っな!?」
脚で客の首をホールドしたまま、俺は後ろに倒れるように重心をかけ身体を
「おいっ、お前も
「えっ、う、うん!」
下が自由だと足技がくるかもしれないから、
「コイツ、食い逃げだ!」
俺が大声をあげると周囲のテーブルの客たちの視線が集まった。見ると酒気を帯びているが、屈強な筋肉をした冒険者がほとんどだった。
「イングリット姉さんの飯をタダで食おうたぁ、いい根性してんじゃねぇか」
「おい、魔物捕縛で余った縄持ってこい!」
おお、頼もしい。
食い逃げ犯を屈強な冒険者たちが取り囲んだのを確認して、俺は食い逃げ犯の上から退いた。
「兵士さん、呼んできますっ」
同じく退いたフランクが即座に店の外に出る。彼も対応が早い。
これで大丈夫だと安堵していると、背後に気配を感じた。振り返ると、親父と母さんが立っていた。何か怒っている気がする。
「ザク」
「何?」
「何じゃないでしょう! 前に約束したでしょ、黙って危ないことはしないって」
「え。だって、食い逃げの隙を突かないと捕まえられな」
俺が言い終わるより先に、ゴツン、と親父の容赦ない
「危ないだろ」
「……っうー、ご、ごめんなさい」
一瞬でも隙を作れば、最初から周囲にいる大人に助けてもらう気だった。冒険者が多い店だから腕の立つ人が一人か二人はいると思ったし。だから、危ないと思わなかったと言っても言い訳にしかならないだろう。
両親に心配をかけたことは変わりないので、素直に謝った。このときの俺は、己の力量を過信するな、と師匠にまで説教を食らうことになるとはまだ知らなかった。
少しどたばたしたものの、無事食事を終え支払いを済ませた。両親と美味かったと感想を交わしながら店を出たところで呼びとめられる。
「お客さんっ」
「あれ? 何か忘れ物したか?」
呼びとめたのは、フランクだった。
念のためポケットなどを確認する。財布はちゃんとあるし、それ以外は何も持ってきていないはずだ。
「いえ、今日はありがとうございます。助かりました」
ぺこり、とお辞儀をするフランクに俺は首を傾げる。
「捕まえたのはあっちの兄ちゃんたちだぞ」
まだ中で楽しそうに騒いでいる冒険者たちを指さすと、そちらを一瞥してからフランクは俺に笑いかける。
「一番最初に気付いてくれたのはお客さんですから」
「? お前が最初に気付いてただろ」
何を言っているんだ、と俺が首を傾げると、フランクは僅かに瞠目した。
俺は対象を注視していたから気付いたが、フランクは全体を見て気付いていたから先回りできた。あの食い逃げ犯が手洗いの場所を訊いた客だと判っていたところからすると、客の顔と位置関係を把握していたのかもしれない。
「兄弟が多かったから、こんなことばかり得意になって……でも、俺じゃ足止めにもならなかったし」
恥ずかしそうに苦笑するフランクを見て、俺は不思議がる。
「なんで? すげぇじゃん」
俺は人の顔や名前を覚えるのが苦手だから、真似できる気がしない。凄い能力だと思うし、少しでも食い逃げ犯を足止めしようとした度胸だって立派なものだ。
正直な感想を言ったら、フランクは照れたように笑って礼を言った。
「ありがとう。次きたときはサービスするよ」
「さんきゅ」
今度は素直に礼を受け取った。さりげなくまた店にくるように仕向ける辺り、商売上手だと思った。フランクにはこの店が性に合っているのかもしれない。
家への帰路に着きながら、またあの店に行こうと両親と約束をした。
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