40.雪解け



その日は唐突にきた。

月に一度のヴィート侯爵邸へ、ダニエル様の奥さんのアニカ様と話すバイトにきていた。

俺を息子のエリアスと思っているアニカ様が用意した服を着て、三人で一緒に昼食をして、食後のお茶を飲みながら成立しているようでちぐはぐな会話をする。アニカ様は相変わらずだったが、その日は雪解けもしたからと俺のバイト代こと庭の見学にアニカ様も同伴した。

アニカ様にとっては散歩のついでだったのだろう。ダニエル様がまだ乾いていない足元を心配して、自分の腕に掴まるようアニカ様に促した。彼女はごく自然にダニエル様の腕に手を添えた。そうして歩く二人は、ごくありふれた夫婦で、エリアスの件を除けば夫と普通に話せるようになったアニカ様を見て、俺はよかったと感じた。

だから、俺は二人に構わず、雪解けのつゆに濡れて瑞々みずみずしさを増した常緑樹の葉をしげしげと眺め、一人嬉々としていた。


「イザークは、変わり映えのしない家の庭によく眼を輝かせられるね」


ダニエル様は感心と可笑しさを混ぜて微笑んだ。俺は目の前の丸い葉が密集した木を見ながら答える。


犬黄楊いぬつげの配置や剪定が違って面白いです。椿つばきの葉もいい色してるし」


犬黄楊は、形を整えて剪定するかどうかだけでも雰囲気が変わるので、庭師にとって使い勝手がいい。エルンスト家でも来客用のエリアのトピアリーに使っている。だからこそ、使い方で庭師の特色が表れるから面白い。

ヴィート侯爵邸の庭は、西洋水蝋木せいよういぼたのきや椿など常緑樹が多い。何度か見せてもらって気付いたが、もしかしたらヴィート家の庭師がエリアスの健康を祈り、験担げんかつぎで落葉樹を避けていたのかもしれない。犬黄楊をかたどるような剪定をしていないのも、のびのびと育つよう願っての気がする。俺の憶測だから、一度、本人に会って訊いてみたい。

今はどうなんだろう。俺には、ちゃんと季節で移り変わる庭だが、人によっては時が止まったように変わらない庭に映るかもしれない。この庭が、アニカ様にとっていいものか、俺には判らなかった。


「お前だってちゃんと季節感あるのにな」


ちょんと犬黄楊の枝を摘まんで呟く。犬黄楊だって小さく白い花を咲かせて初夏を知らせる。

ちらりとダニエル様たちの方に眼を遣ると、アニカ様と眼が合った。

眼が合った瞬間に違和感を感じ、俺は内心、首を傾げる。違和感の原因を探るように、アニカ様の俺と同じ色の瞳を見返した。

アニカ様は不思議そうに俺を見て、口を開いた。


「……貴方は、誰なの?」


俺は瞠目する。違和感の正体が判った。いつもなら焦点が合っていても俺じゃない面影を被せていた眼差しが、今はちゃんと俺を見ている。


「お、れは……」


心の準備ができていなくて、言葉がつっかえる。思ったより驚いている自分がいた。

一度、深く息を吸う。


「俺は、イザーク・バウムゲルトナーです」


「そう、イザークというのね」


誰何され、答えるとアニカ様は初めて俺の名前を口に乗せた。そのことに、俺だけでなく、ダニエル様も眼を見開いて驚く。きっとダニエル様の驚きは俺の比じゃないだろう。

ぽたり、としずくが落ちる音がした。まだどこかで溶けていない雪が残っているのかと思ったが、アニカ様が僅かに瞠目して、ダニエル様もこちらを見ていた。

視線の意味が解らず、俺は首を傾げる。


「あれ?」


頬にぬくいものが伝い、それが涙だと気付いたときには、ぼたぼたと眼から溢れでていた。ダニエル様の眼が心配そうなものに変わって、俺は慌てて涙をぬぐう。


「ち、違うんです。よかった、と思ったら……」


「イザーク……」


「違うんです!」


ダニエル様の嬉しそうな眼差しに耐えかねて、俺は即座に与えた誤解を否定した。


「アニカ様が、俺を見てくれたコトを、よかったと思ったんです」


アニカ様が治ったことを喜んだんじゃない。俺は、自分のことで喜んだ。ダニエル様が思うような善人じゃない。

バイトのときはいつも、焦点が合っているのに亡くなったエリアスの面影を探すアニカ様に、俺だと認めさせようと挑む気持ちでのぞんでいた。ずっとテニスの壁打ちをしているような心持ちだった。それが初めて人に打ち返してもらえた。その手応えがただただ嬉しかった。

今、アニカ様に俺が見えていて、俺の声が届いている。それだけのことに、ぼたぼたと涙がでた。

俺がひたすら涙を拭っていると、アニカ様が前にきて目線を合わせるために屈んだ。


「今まで、ごめんなさいね」


「違……っ」


アニカ様を責めたい訳じゃない、とかぶりを振る。誤解させたくないから、どうにか涙を止めようとするがうまくいかない。

そんな俺の様子を見て、アニカ様はふっと微笑んだ。


「ありがとう」


そう言って、アニカ様は俺を両腕で包んだ。


「私からもありがとう」


よく頑張ってくれた、とダニエル様が優しい眼差しで頭を撫でてくれた。

きっと俺がたまたまアニカ様が正気に戻るタイミングに遭遇しただけで、何かができた訳じゃない。だから、二人に礼を言われることはしていないと口にしたかったが、今口を開くと嗚咽しか零れないから、黙って頭を振った。

治ったばかりのアニカ様を優先するべきなのに、居合わせただけの俺を気遣ってくれる二人の優しさに、なかなか涙が止まらなかった。



そのあと、正気に戻ったアニカ様は、多少記憶が混乱しているようで自室で休むことになった。俺は眼の腫れが引いてから、ヴィート侯爵邸を出た。アニカ様が落ち着いたら連絡をしてくれると、ダニエル様が言ってくれた。

来月からバイトがなくなる実感がなくて、俺は不思議な心地だった。まっすぐ家に帰る気にならず、寄り道をする。

見知った塀のある通りまでたどり着き、その塀にあるドアを開けて中に入る。ドアの鍵はダイヤル式なので、その番号を知っている邸の使用人なら自由に出入りできる。入ったあと鍵をかけ直して、森のように木々の多い区域を目指す。

休日だけど自習用の庭の様子を見るぐらいならいいだろう。雪解け具合を確認して、春に向けて種植えの時期を考えたい。

垣根を潜り抜けると、何かが淡く陽光を反射するのが視界に入った。


「……ザク?」


それがお嬢の髪だと気付いたのと、お嬢がこちらに振り返ったのは同時だった。

何でいるんだ、と不思議そうに見返すお嬢に、俺は相好を崩した。


「お嬢は凄いな」


俺の唐突な言葉に、お嬢は首を傾げる。


「? どうしましたの? 今日は休みじゃ……」


「お嬢に会いたくて」


会って気付いた。俺は、嬉しいことがあったから、お嬢に話したくてここに来たんだ。俺が行ける場所で、お嬢に会えそうなのがここだけだから。

けど、そんな都合よくいる訳ないとも思っていた。だから、ちょうどいたお嬢は凄い。

今日は俺にとって奇跡みたいなことが起こる日だ、と感じ入っていて気付くのが遅れたが、お嬢の反応がない。眼を見開いたまま固まっているようだ。


「お嬢?」


どうしたのか、と近付いて顔を覗き込もうとすると、お嬢の顔が一気に赤くなった。


「なっ!! ど……っ!?」


たぶん俺を叱りたいんだろうが、何故か言葉が途切れてうまく出てこないようだ。特に何かを食べていた様子もないし、唾を喉に詰まらせたのか。それなら背中をさすってやるべきだろうか。

俺が手を貸そうとするより先に、制止を示すようにお嬢は掌をあげて、ちょっと待ってほしい旨を伝えてきた。なので、言われるまま待つ。待っている間、お嬢は胸を押さえて何度か深呼吸を繰り返した。


「そ、それで、わたくしに会……、用とはなんですの?」


ようやく落ち着いたらしいお嬢が、視線をらしながら訊く。


「いいコトがあったんだ」


「いい、コト?」


「うん。ちょっとだけ頑張ってたコトがあって、今日やっとそれが認められたんだ」


「それは……よかった、ですわね」


「ああ」


俺が端的に説明したからか、お嬢は首を傾げながらも言祝ことほぎを返してくれた。それが嬉しくて、俺は笑う。すると、何故か治まりかけていたお嬢の頬の紅潮が増した。


「…………それだけ、ですの?」


俺が笑顔のまま、それ以上言わないから、お嬢がまさか、という表情カオで訊いてきた。俺は普通に頷く。


「嬉しかったから、お嬢に言いたくなった」


「そ……っ、う」


お嬢は顔を赤くしたまま、ぎぎぎときしむような動きで、また俺から視線を逸らした。いつもなら俺が作業で耳だけ貸すことはあっても、話しているときにお嬢から眼を逸らされることはない。今日のお嬢は珍しい。

耳まで赤いお嬢を見て、まだ冷える時期だから熱でも出たのかと心配したら、逆に休日まで職場に来るなと叱られ、追い返された。確かにこのことがバレたら母さんにも同じように叱られるから、俺は大人しく帰った。

家に帰ったら、晩飯が俺の好きな具だくさんシチューで本当にいい日だった。



それから、一ヶ月してダニエル様から連絡があった。

俺がヴィート侯爵邸を訪ねると、そのままの格好で応接室に通された。出されたお茶に手をつけるか悩んでいたところで、ダニエル様がアニカ様と一緒に部屋に入ってきた。


「本日はお招きいただきありがとうございます」


俺が即座に席を立ち挨拶をすると、ダニエル様が苦笑して若葉色の瞳を和らげた。


「そんなにかしこまらなくてもいいんだよ。確かに、今日は客人として呼んだが、君はもう私の小さな友人だ」


だろう、とダニエル様に確認されて、俺はなんだか面映おもばゆくなる。素直に頷く訳にもいかなくて、ありがとうございます、と呟いた。

ふと、アニカ様と眼が合い、彼女は微笑んだ。


「ちゃんと挨拶できていなくてごめんなさい。アニカ・フォン・ヴィートよ。ダニエルにこんな可愛らしい友人ができて羨ましいわ」


「えっと、イザーク・バウムゲルトナーです。エルンスト公爵家で庭師見習いをしています」


初めまして、と言うべきか判断がつかず、俺も自己紹介をし直した。

立ち話もなんだから、とダニエル様に促され、全員ソファに座る。ダニエル様たちの分も紅茶が用意されると、メイドさんは部屋の外に下がっていった。

アニカ様は淹れられた紅茶に手をつけず、おもむろに口を開く。


「イザーク君、私は貴方に酷いことをしていたのね。亡くなったエリアスの代わりを……」


「いえ、俺はダニエル様に許可をもらってお見舞いに来ていただけです」


アニカ様にフィルターをかけられてはいたけど、俺はエリアスのフリなんかしていないと断固として告げると、アニカ様は少し眉を下げて微笑んだ。


「そうだったわね」


こうしてアニカ様と普通に話せているのが不思議な感じだ。俺が呆けた表情カオをしていると、ダニエル様とアニカ様が顔を見合わせて小さく苦笑した。


「けど、私の中ではエリアスの記憶と混ざってしまって、区別がつかないところがあるの」


「そうなんですか」


申し訳なさそうにアニカ様は言うが、それは仕方がないことだと思う。アニカ様は、先月俺と知り合ったばかりだ。俺が俺として接していても、アニカ様にはそうじゃなかっただけ。それに、まったく届いてなかった訳じゃないと俺は知っている。


「イザーク、これまで本当にありがとう。君の協力のお陰だ。なんと礼を言ったらいいか……」


「いえ、バイト代報酬は都度もらっていましたから。俺なんかで、少しでも足しになったならよかったです」


ダニエル様に礼は充分だと、へらりと笑って伝える。何故か、ダニエル様は感極まったような表情カオをして、ぐっと拳を握り込んだ。


「……そういえば、以前ジェラルドの感謝の示し方に困ってると言っていたね」


「へ? 公爵様のハグ攻撃のことですか? そうなんですよ、ちょっとは背伸びてると思うのに子供扱いされるんですよね」


「そう、か……」


「でも、なんで急に?」


「いや、友人へ敬意を払わなければと思ってね」


いきなり振られた話題に首を傾げるが、ダニエル様は弱った微笑みを返すだけだった。しかし、公爵様の奇襲方法は変わらないものだろうか。男にハグされても嬉しいものじゃない。労いも感謝も、言葉だけで充分なのに。

貴族にそういう風習があるのかと思ったが、ダニエル様たちと交流するようになって、公爵様が特殊だと判った。土がついても、師匠こと執事のハインツさんがちゃんと着替えの手配をしてくれるから、最近はそういう人なんだ、と諦めている。

何かを堪えるように拳を握ったままのダニエル様の手を、アニカ様が慰めるように撫でた。それから、俺の方を見遣る。


「イザーク君、私ね、メルケル教会の孤児院で読み聞かせを始めたの」


メルケル教会といえば、俺の家から一番近い教会だ。下町区域で孤児院の子供たちの識字率は低いから、読み聞かせはいいと思う。アニカ様はエリアスが好きだった冒険譚などを寄付しているようだ。聖書の堅い話より子供たちが喜ぶだろう。


「私がエリアスを亡くして絶望したように、親で辛い想いをした子供たちもいて……、彼らが生きてゆく手伝いをしたい、と思ったの」


アニカ様は、今後は慈善事業に力を入れていくつもりらしい。なんだか海外のセレブみたいな話だなぁ、と思ったが、ヴィート侯爵家は上位貴族だから普通にセレブだった。ともあれ、アニカ様が生き甲斐を見つけたようで何よりだ。やる気に満ちた瞳を見て、ダニエル様も嬉しそうに微笑んでいる。


「よかったです」


「それで、なんだけど……」


アニカ様はじっと俺を見る。妙に緊張した面持ちだから、俺まで変に身構えてしまう。


「孤児院の子たちとうまく話せるように、時々相談に乗ってもらえない、かしら……?」


「俺なんかでよければ、いいですよ」


何だそんなことか、と俺は安堵し頷いた。けど、アニカ様は俺があっさり了承すると思っていなかったのか、眼を丸くする。


「アニカ、ちゃんと言わないと」


ダニエル様が優しい声音でアニカ様に促した。さっきまで拳だった手で、今度は彼女の手をそっと包んだ。


「あの……、イザーク君」


「はい」


「虫のいい話だってのは分かっているわ。けれど、私に答え合わせをさせてくれないかしら?」


「答え、合わせ……?」


「私の記憶のどれがイザーク君のものなのか、これからも会って教えてほしいの。貴方のことを、ちゃんと知りたいわ」


バイトが終わったら、ダニエル様たちとは疎遠になると思っていた。アニカ様が現実を見るようになったら、俺の見舞いは要らないから。

だから、そんなことを言ってもらえるとは思わなくて、俺はびっくりする。


「嬉しいです」


自然と表情カオが緩んだ。

もし俺に負わなくていい負い目を感じているのなら、謝ってけじめさえつければいいだけの話だ。それでアニカ様が気にしなくて済むなら、協力もする。けど、アニカ様はこれから俺と知り合ってくれるという。しなくていい謝罪をされるより、ずっといい。

ダニエル様たちと今日で終わりじゃないことが、嬉しい。

アニカ様は安堵が滲んだ微笑みを浮かべ、ダニエル様はよかったね、と笑いかけた。

いい人たちだ、と思う。ただの庶民で乙女ゲーのモブですらない俺にまで真摯に向き合ってくれる人たちだ。ダニエル様たちが、これからもこうして笑い合ってくれればいい。


「そういえば、これからも会うのはお嬢たちに内緒ですか?」


「いや、私から改めてジェラルドに依頼するから、リュディア嬢たちに隠さずとも大丈夫だよ」


「よかった。お嬢にあんまり隠し事したくないんで」


「……イザーク君は、リュディアちゃんとどういう関係なの?」


俺とダニエル様のやり取りを聞いて、アニカ様が不思議そうに訊いた。確かに、ただの庭師見習いが仕える家のご令嬢を気安く呼んでいたら変だもんな。

ただの使用人と令嬢とは答えられなくて、俺は少し悩む。友達、でいいんだろうか。でも、ニコみたいに何でも話せる感じじゃないし、前世のクラスメートの女子ほどふざけ合ったりもしない。

少年漫画によくあるよな。弱味はあんまり見せたくなくて、けど相手のことは認めていて、頑張ろうと触発されるような……


「あ。ライバルです」


「ライバル……?」


「はい。お嬢を見てると、負けてられないなぁって思います」


そうだ。お嬢は元々、乙女ゲーのライバル令嬢になる予定なんだ。前世の妹も正々堂々勝負を挑む系だったと言っていたし、人を頑張らせる素養があるのかもしれない。

俺の答えに、ダニエル様たちはきょとんと眼を丸くし、しばらくしてアニカ様の方が小さく笑い出した。


「そう、素敵な関係ね」


「はいっ」


言葉に表すことができてすっきりした俺は、元気よく首肯した。

こうして、俺はバイトからダニエル様たちの友人に昇格した。まだ庭師見習いのままだけど、少し成長できたみたいで嬉しい。

お嬢とは身分とか色々違うから同じ土俵で競えないけど、早く一人前になると宣言した以上、これからも庭師を目指して頑張ろう。本格的に春になろうとする頃、萌える新芽とともに俺のやる気が更に芽生えた。


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