side02.銀梅花




赤・青・黄、そして緑と色とりどりの糸の束を前に少女が一人、腕を組んで唸っていた。


「うーん……、どうしよう」


悩みながら糸束を凝視し続ける。まるで、見続ければそこから何かが出てくるかのように。けれど、一向に変化のないまま時間だけが過ぎる。

そこに、ドアベルの鳴る音がした。その音に反応した少女は、糸束から視線を外し、店の方へと向かう。


「あら、デニスちゃん。いつも悪いわね」


母親の声だけが聞こえ、返事らしき声はしない。店に続くドアを開けて、客が入ってくる方のドアへ眼をやると、同じ歳にしては大柄な少年が花の鉢植えを持って立っていた。


「裏から入ってくればいいのに」


頼んだ鉢植えは店用ではないので、裏口から運び込む方がいい。そう思って言ったら、デニスの眉間が僅かに寄った。不機嫌になったように見えるその表情の正しい意味を、少女は知っている。これは弱った表情だ。

けど、と呟くデニスに近付き、見上げるとぼそりと彼は理由を説明した。


「陽当たりが……」


確かに商売上、店側の方が陽当たりがいい。そのため、できれば店側に置いてほしいのだろう。


「そっか」


「いいのよ、デニスちゃん。好きな場所に置いて。見本がないと縫えないこのの都合に、なんでも合わせなくていいわ」


からからと笑う母親に痛いところを指摘され、少女はカチンとくる。拗ねた表情になる少女をそのままに、デニスは礼の意味を込めて軽く頭を下げてから、鉢植えを置いても差し支えのない場所を探す。デニスは知っている。少女は自分が助け船など出さずとも、自ら不満をぶつける、と。


「本当のコトでも言っていいコトと悪いコトがあるでしょう!? ちょっと傷付くのよっ。どうせ私はお母さんみたいに想像力豊かじゃありませんよーっだ」


「手先は器用なのに、ほんと変なところ不器用ね。ナターリエは」


わざとらしく残念がる母親に、ナターリエはむくれる。自覚があるから悔しいのだ。

裁縫屋の娘、ナターリエは刺繍ができる。だが、得意かと言えば難がある。母親は鳥の刺繍を得意とし、見たこともない鳥でも話に聞いただけで本物かそれ以上のデザインに仕上げるが、ナターリエは見たことがないものを縫えない。

ナターリエの家は、布や糸などの裁縫道具を売る傍ら、実際にそれらを使った刺繍入りのハンカチなどを売っている。自分が作ったものの売上の一部がお小遣いになる制度のため、下手なものは作れない。見本がないと縫えないナターリエは静物である植物で刺繍をする。そのため、毎回庭師をしているバウムゲルトナー家に題材を借りている。本は高価だし、実物の方が様々な角度から見えていい。


「ここ」


この場所に置いてもいいか、とデニスが商品を飾っている窓際の空いているスペースを指す。構わないと母親が了承すると、デニスはその場所に鉢植えを置いた。

毎度の指摘に剥れていても仕方がない、と気持ちを切り替えたナターリエは、鉢植えの位置を調整するデニスの隣に行った。その手元を見ると、小さい赤い花が集まって咲いていた。


「このコ、なんてゆうの?」


「紅弁慶」


咲いている様が幾何学模様のようで刺繍の柄には持ってこいだ。濃い赤と緑の配色は冬らしくていい。


「へぇ、小さくて可愛い。いつもありがとう」


「ん」


首肯する代わりにデニスは短く呟く。口数の少ない彼からすれば、まだ喋っている方だ。例え、花の名前を言うのが一番長くても。


「言うだけじゃなくて、ちゃんとお礼しなさいよ」


「う……、わ、わかってるってばっ」


冬のこの寒い時期に咲いている花は少ない。にもかかわらず、年中題材となる花を貸してもらっている。ナターリエはバウムゲルトナー家の方角に足を向けて寝られない立場だ。

ナターリエと母親のやり取りを聞いているのかいないのか、デニスは静かに頭を下げて失礼する旨を告げて、踵を返した。ドアベルを鳴らして去る彼を、ナターリエは財布と籠を持って慌てて追いかける。


「買い出しに行くから、途中まで一緒に行こう」


ナターリエの呼び掛けに、立ち止まり振り返ったデニスはこくりと首肯した。そして、歩調をゆっくりとしたものに変えた。

隣に並び、歩きながらナターリエは幼馴染みの少年を見上げる。また身長が伸びたのか、肩越しに見える横顔が少し遠くなったように感じた。

小さい頃から周りより一回り大きく表情の乏しいデニスは、父親譲りの顔立ちもあって同世代や年下に遠巻きにされがちだった。けれど、近所で母親同士の仲が良かったため、兄妹のように育ったナターリエには怖くもなんともなかった。


「デニス、欲しいもの何かない?」


これでも小遣いは結構貯えているから、と日頃の礼は何がいいか訊くと、デニスは静かに首を横に降った。あかがね色の瞳が、じっとナターリエを見下ろす。


「リエの稼ぎ」


だから何かを奢る必要はない、と。その答えに、ナターリエは不満を隠さず表情に出す。


「なんでよ。私が作ったものはあげれないし、何かさせてよ」


花の刺繍が入ったハンカチや布袋やストールなどは女性向けの商品ばかりで、男のデニスには渡せない。ハンカチぐらいなら、と一度試みたが汚すのが嫌だと、受け取りを断られた。

デニスは何も言わず、宥めるようにナターリエの頭を撫でた。雑な撫で方なので、彼女の鳶色の髪が乱れる。その文句を言おうと顔をあげると、微かにだが笑うデニスがおり、ナターリエは言う気をなくす。嬉しいときに見せる僅かな変化だ。


「俺の方が稼いでる」


「嫌味ー」


自分が気にしないように言われた言葉に、わざと皮肉で返す。事実、公爵家の庭師であるデニスは、まだ見習いとはいえ下町ではなかなかの高給取りだ。もっと取っ付きやすい人相と態度なら、と惜しむ友人たちの意見をよく聞く。

早い者は二・三年もすれば結婚する年齢のため、最近は恋愛話に現実味が帯びてきた。曰く、会話が続かず息が詰まりそうだから、デニスは恋人としても結婚相手としても遠慮したいらしい。幼馴染みなせいか、ナターリエには息が詰まるという感覚が解らない。

乱れた髪を手櫛で直しながら、隣を窺うと穏やかな色を滲ませた瞳に見返される。彼ほど穏やかな人をナターリエは知らない。幼い頃など、同世代の男子に喧嘩を売られてもやり返さないものだから、ナターリエが代わりに怒っていた。そして、怒るナターリエすら宥めようとするのだから呆れてしまう。


「あ」


思い出し、ナターリエが思わずあげた声にデニスが首を傾げる。その動作を問いととり、ナターリエは答える。


「そういえば、昔一度だけ喧嘩したことあったよね。あれ、なんで?」


一度、デニスが喧嘩したと静止要員にナターリエが呼ばれたことがあった。だが、到着したときには、もうけりが付いていた。デニスが一発殴り、彼の気迫に相手がすぐさま謝罪した、という。ナターリエは相手が謝っているところしか見ていないので、未だにデニスが怒った事実が信じられないでいる。

当時、理由を訊いてもデニスは憮然ぶぜんと黙っていた。今なら過去の話だし聞けるのではないか、とナターリエは思った。

が、考えが甘かったと彼の顔を見て気付く。あの時と同じ、憮然とした表情があった。

言わない、と表情が物語っている。


「…………デニスって頑固だよね」


そこまで意固地になられると、余計に気になる。だが、彼が一度言わないと決めたら絶対に口を割らないとナターリエは知っている。


「ガキのクセに可愛げねぇだろ」


低い声が聞こえたと思ったら、デニスの頭が後ろから押さえ込まれる。体重の一部をかけられ前屈みになったまま、不機嫌そうにデニスは後ろを見遣った。


「親父……」


「ベンノさん」


「よう、ナターリエちゃん」


にかりと快活な笑みを浮かべるベンノは、本来の顔立ちを表情で相殺していた。デニスも彼の父親のように表情筋が柔軟だったなら誤解をされにくくなるだろう。

明らかに父親譲りの顔をしているデニスだが、仮に父親と並ぶほどに成長しても誰もが簡単に見分けられると、ナターリエは確信が持てる。恐ろしく似ているのに似ていない父子おやこだ。


「どんだけ愛想を仕込もうとしてもこの仏頂面だからな」


「デニスは無表情じゃないですよ」


真面目に仕事をしていると聞くし、今のままでも問題ないように思う。喜怒哀楽は慣れるまで見分けづらいやもしれないが、若いから、と相手に舐められることがない点は交渉などには有利に思える。

ナターリエの感想に、ベンノは可笑しそうに眼を細めた。


「ナターリエちゃんもデニスに甘ぇなぁ」


「も?」


ある程度、デニスの喜怒哀楽を読み取れるからこその感想かもしれないが、他にも擁護するような発言をする者がいたかのような口振りだ。デニスの母親だろうか。


「公爵家の坊っちゃんもな。この仏頂面でも気にしてねぇんだ」


「へぇ」


ベンノとデニスが勤めるエルンスト公爵家に歳の近い令息がいるとは聞いていたが、デニスと普通に話せる同世代がいるとは珍しい。

庭師仕事で力がついているだけだが、体格のよいデニスは怒らせてはいけない相手だと、下町の男子から一線を引かれている。話さない訳ではないが、馬鹿話をして笑い合うような相手はいないようだ。なので、貴族とは物怖じしない胆力のある人種なのだろうか、とナターリエは思う。なんにせよ、同世代で平気なのが自分だけでなくてよかった。


「周囲に甘やかされちゃ、一人前にゃまだまだ程遠いな」


「わかってる……」


揶揄からかうように言われた指摘に、デニスは渋面になりながら、乗せられたベンノの腕を払い除けた。ぱっと見は、怒っているように見えるが、少々拗ねている程度である。


「……いつから」


話題を変えたいのか、元々気になっていたのか、いつから居たのかをデニスは父親のベンノに訊いた。


「さっきだ。んな、野暮じゃねぇよ。お前が遅いから迎えに来てやったんだ」


揶揄う空気を漂わせたままの自分の父親を、半信半疑でデニスは眼を据わらせて睨む。植木などの買い出しの前に、ナターリエの店に寄ったので待たせたのは悪いとは思うが、親切で迎えに来たとも考えにくいので、素直に詫びる気にならない。


「ベンノさん、ごめんなさい。私が途中まで一緒に行こうって付き合わせたの」


すると、ナターリエが代わりに謝罪をした。

ベンノは笑いながらナターリエの頭を撫でた。デニスより大きい手で撫でられ、先程より髪が乱れた。


「ナターリエちゃんが謝ることねぇさ。しっかし、女から誘わせた上、謝らせるたぁ、情けねぇなぁ」


ベンノの言葉に、デニスの渋面が更に険しくなった。何について揶揄っているのかナターリエには判らないが、デニスが仏頂面になるのはベンノのせいではないかと感じた。ベンノが可笑しげに笑うほど、反比例してデニスの表情が険しくなることが今のように間々ある。


「デニス、買い付けに行くんでしょ。ここまででいいよ」


市場通りの食品区域まであと少し、というところだったのでナターリエが別れを切り出すと、デニスは数秒間を置いてから無言で首肯した。喋れ、とベンノに小突かれたが、それを無視してデニスは、ナターリエに向かって軽く手をあげた。そして、ベンノより先に歩き出す。


「ったく、あいつは……」


頭を掻いて、ベンノもナターリエに別れを告げる。


「じゃあな、ナターリエちゃん。また家にも遊びに来いよ、マクダが喜ぶ」


「はーい」


ベンノに憎めない笑みで去られて、ナターリエも思わず笑って軽く手を振り見送った。

食品区域に足を向けながら、いつバウムゲルトナー家に行くかを考える。些細な口約束だが、ナターリエはそれを破ったことはない。そうやって今までもバウムゲルトナー家と交流をしてきたのだ。

これからもこの何気ない日常が続いてゆくのだと、ナターリエは思っていた。







いくつかの季節と年が過ぎ、また冬がやって来た。

その日、ナターリエは珍しく上位貴族の住宅区域を訪ねていた。


「おっきー……」


広い、と表現すべきかもしれないが、あまりの規模の大きさに思わず口に出た。門から正面玄関は見えているが、遠い。口を半開きにしながら、正面玄関まで下町の家何軒分だろうと考えてしまう。

ナターリエの裁縫屋の客層はよくて中流貴族までだ。その中流貴族ですら、物珍しさに庶民向けの刺繍を買っていく程度なので、この区域まで出向くことがなかった。

届け物があってやって来たので、ここでまごついている訳にもいかない。だが、門番もおらず、ベルらしきものも見当たらないので、ナターリエは立ち往生していた。使用人用の出入口もあるだろうが、この恐ろしく長い塀をどれだけ辿れば見つかるか、まったく見当がつかない。


「おや、お嬢さん。我が家に何か用かい?」


右往左往していたナターリエが、馬のひづめの音に反応して振り返ると白馬に乗った金髪の青年がいた。


「あ……、はい」


とりあえず、反射で頷いたが、ナターリエは深緑の瞳を丸くして驚いていた。貴族とはこうも煌々しいものなのか。絵に描いたような文字通りの美形が、物語の王子のように白馬に乗っているなんて、何の冗談だろう。


「庭師のバウムゲルトナーに届け物がありまして……」


「ああ。では、貴女はナターリエ嬢かな?」


怪しい者ではないと証明するために用件を告げると、青年は花の蜜が香るように笑んでナターリエの名を言い当てた。

またも驚いて二の句が継げないでいると、青年は馬から降りて庶民の娘相手に礼をしてきた。


「不躾に失礼したね。私はジェラルド・フォン・エルンストだ。デニスから聞いた通りに可憐だったものだから、思わず嬉しくなってしまった。どうか非礼を許してくれないだろうか」


流れるような動きで、ナターリエが籠を提げているのとは反対の手を取り、片膝を突いてジェラルドは彼女の手に額を近付けた。


「ゆっ、許すも何も気にしてませんっ」


大袈裟な詫び方に、ナターリエは慌てる。彼女の言葉に、顔をあげたジェラルドが安堵したように微笑んだ。


「よかった。デニスに用だったね。案内をしよう」


言うが早いか、ナターリエを浮かせるように持ち上げて自身の馬に乗せると、手綱を持ってジェラルドは徒歩かちで門をくぐり正面玄関へ向かう。

息を吸うように、一連の動作を自然にするものだから、ナターリエは抵抗する間もなかった。


「……あのう」


「なんだい?」


馬に揺られながら状況についていけないナターリエは疑問の一つを口にした。


「どうしてジェラルド様は馬に乗らないのですか?」


貴族に歩かせて、庶民が馬に乗るなんて前代未聞だと思うのだが。普通は逆だ。


「デニスに悪いだろう。それに、私は心に決めた女性としか相乗りをしない主義だ」


「はぁ、それは素敵ですね」


晴れやかな微笑みで当然のように言われて、ナターリエは他に返す言葉が浮かばなかった。ジェラルドはありがとう、と笑顔を見せる。


「馬車ならナターリエ嬢に気を遣わせずに済んだんだが、帰るのを急いてしまったのが悪かったな」


ちょうど今日から通っている学園が冬休みに入り、荷物を従者に任せて単身で一足先に帰宅したところだったという。

それで乗馬だったのか、と納得したナターリエだったが、たとえ馬車であっても萎縮したはずだとはジェラルドの笑顔を前に言えなかった。

ジェラルドという青年は、強引なはずの行動をさらりと笑顔で流してしまう。なんとなく逆らえない。当然とばかりの態度なので、変に思う方が奇怪おかしいように感じてしまう。


貴族って、なんだか凄いんだなぁ。


そんな感想でナターリエは片付けてしまった。

ジェラルドの案内を素直に受けることにしたナターリエは、応接室に通されてお茶で持てなされた。しばらくして、急いた足音が近付いたと思ったら、バンッと勢いよくドアが開いた。


「久しぶりだな、デニス」


「そんな荒く開けてドアを弁償することになったらどうするのよ、デニス」


にこやかなジェラルドとドアの心配をするナターリエが、朗らかにお茶をしている様子を見て、険しい顔をしていたデニスは脱力しそうになり片手で顔を覆った。


「…………ジェラルド様、何をしているんですか」


「デニスが来るまで、ナターリエ嬢の退屈しのぎになろうかと思ったんだよ」


「お戻りになられて早々にすることではないでしょう」


「何を言う。女性レディを一人で待たせるなんて非道が、私にできる訳がないだろう」


「お気持ちはありがたいのですが……、一介の使用人の知人を公爵令息がわざわざ持てなす必要はありません」


「友人の大事なお嬢さんでもか?」


「ジェラルド様……」


ジェラルドとの問答に、デニスは疲れた溜め息をいた。彼を説得できる気がまるでしない。

彼のフェミニストの精神がくつがえることはないし、自身の正しいと思ったことは相当の持論で解かねば曲げない。一般論を説くだけ無駄だと理解はしているが、口下手なデニスが説けるのはごくごく普通の一般論だ。

少し話しただけだが、ジェラルドとの会話には労力を使う。疲れきったデニスが、ふと眼をやると、あんぐりと口を開けたナターリエがいた。


「リエ……?」


どうしたのかとデニスが首を傾げると、ナターリエは叫んだ。


「デニスがいっぱい喋ってる!?」


驚愕の籠った発言に、自分を何だと思っているんだ、とデニスは呆れた。そして、ジェラルドは声をあげて笑いだす。


「はははっ! 酷い言われ様だな、デニス」


心底驚いているナターリエと、心底可笑しそうなジェラルドに挟まれて、デニスはただ憮然と黙り込んだ。

二人が落ち着くのを待って、当初の用事を確認する。ジェラルドは役目は終わったとあっさり応接室を出ていった。


「……で、どうしたんだ」


デニスが問うと、ナターリエは剥れた。


「どうしたじゃないわよ。早く出るなら前以て教えてよね」


ナターリエは持っていた籠を突きつける。デニスはそれを受け取り、中身を確認するために被せてあるナプキンを少しめくった。中にはライ麦パンやキッシュなどが入っていた。そういえば、弁当を持ってくるのを忘れていた事実に、デニスは今更気付いた。

以前、母親が風邪で寝込んでナターリエに家事を手伝ってもらったことがある。以来、時折ナターリエが母親の代わりに弁当を作っている。ようやく刺繍の題材を借りている礼をすることができる、と最近の彼女は意気揚々としていた。

今は三色菫さんしょくすみれを貸している。


「悪い」


申し訳ない、とデニスが謝ると、ナターリエは簡単に剥れた表情を解いて笑った。


「いいよ。なんだか面白かったし。まさか、ただお弁当を届けに来ただけでこんな部屋に通されるとか思わなかった」


ナターリエの意見に、内心同意する。庭作業をしていたデニスに、使用人からナターリエが応接室にいると呼びつけられたときは何の冗談かと思った。ジェラルド自ら持てなさなくとも、使用人に預ければ使用人控室などに案内されたはずだ。

彼の奔放さが邸の中だけで済んでいることを、デニスは切に願う。学園などの外でも発揮されれば、自分以外にも振り回される人間が増えてしまう。


「面白い人だね、ジェラルド様って」


初めて聞く感想にデニスは首を傾げる。デニス自身はエルンスト家への忠義とは別に、彼を変わった貴族だ、と思っている。だが、彼への女性からの評価は今まで一律同じだった。直接はメイドたちの反応しか知らないが、噂では外でも変わりはないようだ。なのに、ナターリエだけが今までにない反応を示した。

そういえば、ナターリエはいつも通りだ。先程までジェラルドと一緒にいたのに頬を染めた様子もない。特に訊いたこともなかったが、ジェラルドはナターリエの男の趣味から外れているのだろうか。


「…………何??」


珍しそうに黙って凝視をされたナターリエは居心地が悪くなり訊いた。

デニスはどう自分の疑問を説明するべきか考える。どう言うのが適当なのか。


「……いや、綺麗だろう?」


ジェラルドが出ていったドアの方に視線をやって訊くと、ナターリエも彼のことを言っているのだと解ったらしい。


「うん、凄い美形。あんな人、現実にいるんだねぇ」


ナターリエは肯定したが、感心したような反応はデニスの想定外だ。


「……それだけ、か?」


「それだけだけど??」


きょとんとした表情で見上げられて、嘘がないとよく解った。意外なことを言っている自覚のない様子がなんだか可笑しく、デニスは眼を細めた。


「リエ、変」


「なんで!?」


唐突に失礼なことを言われ、ナターリエは眼を丸くする。若干不満には感じたが、デニスの笑った顔に怒りが削がれた。面白いことをした覚えはないが、貶すつもりで言った訳ではなさそうなので、まぁいいかと思ってしまう。

デニスが使用人用の出入口まで案内してくれるというので、ナターリエはついて行く。使用人控室の近くの廊下のドアを開けると、細い道が塀まで続いており遠目に扉も見えた。


「じゃあ……」


ここまで来れば大丈夫だ、と思いナターリエは別れを告げようとすると、デニスが背を向けて屈んだ。


「へ?」


意図が判らず首を傾げると、端的に答えが返った。


「送れないから」


わざわざ貴族の住宅区域まで来たナターリエを仕事で送れないから、少しでも負担を減らしたいらしい。利用する時間帯ではないからか、人気もないので気にする必要もないのだがナターリエは躊躇ちゅうちょする。

確かに兄妹のように育ったし、幼い頃はよく背負ってもらった。だが、十六のこの歳になって子供染みたことをするのは、些か気恥ずかしい。デニスにとっては気遣いの一環であり、子供扱いをしている訳ではないと解っている。

しばらく悩み、念のため周囲に人がいないか確認してから、ナターリエはデニスの背に体重を預けた。

デニスが立ち上がると一気に視線が高くなる。普段より足元との距離が遠いのが不思議だ。

ふと心配になり、歩くデニスに訊く。


「あのさ、重くない?」


「木より軽い」


木。比較対象が樹木では自分が重くないのかが判らない。もっとマシな比較対象はないのか、とナターリエは思った。だが、それだけのものを普段運んでいるためか、デニスの腕は力強く、しっかりとナターリエを支えていた。足取りも不安定な様子など欠片もなく、普通に歩いている。

広い背中もそうだが、全体的に思ったよりも筋肉質で固い。実際より細く見えるのは身長が高く、手足が長いからだろうか。そういえば、近頃見上げる角度が変わった気がする。ジェラルドと並んだときの差は、一つ年上だからだけでは済まない。彼だってナターリエより背が高いのだ。


「背、伸びたね」


改めて気付いた事実を零すと、背中越しに声が返る。


「時々、痛い」


「えっ、まだ伸びてるの!?」


成長痛が終わっていないことに驚く。もう百八十も近いだろうに、まだ伸びるのか。彼の父親のベンノも身長が高いが、このまま行くとそれを抜くかもしれない。

伸びすぎだろう、とナターリエは唖然とした。


「デニスの彼女かお嫁さんになる人は、眼を合わせるの大変だねぇ。私でも少し首疲れるのに」


ナターリエは女性にしては背が高い方だ。それでも見上げないといけないのだから、普通の女性はデニスと眼を合わせようとしたらかなり首が疲れることだろう。

ぴたり、とデニスが立ち止まった。どうしたのかとナターリエが思っていると、こちらに振り向いて一瞥して、ふいと前方に向き直った。


「……そんなの、いない」


ぼそりと少し不機嫌そうに呟いて、デニスはまた歩き出す。

ナターリエ自身、何故今まで触れたことのないデニスの女性関係を話題にしたのか、と自分でした質問が意外だった。最近、友人の何人かが結婚したからだろうか。

一度話題にあげてしまい、引っ込みがつかなくなったので、もう少し話す。


「でも、庭師継ぐんでしょ。デニスも身を固めないといけないんじゃないの?」


「……しなくても、できる」


「そうだけどさぁ」


バウムゲルトナー家は公爵家専属庭師が家業といえば家業だが、世襲制ではない。だが、デニスは家事が不得意だから、家のことをしてくれる人が必要だろう。稼ぎはあるから人を雇ってもいいだろうが、デニスはそういうことは苦手そうだ。それに、他人よりは身内が家にいた方が安心できるだろう。

そんなことを危惧していたら、デニスが口を開いた。


「…………リエは」


「え」


「するのか?」


デニスがそういうことを考えないといけない歳になったということは、同じ歳のナターリエもそうだということだ。だが、デニスに訊かれた事実を青天の霹靂へきれきのように感じる自分がいた。まったくそういったことを考えたことがなかった。

家の裁縫屋は姉が結婚し、その旦那が婿養子に入ったのでナターリエが継ぐ必要はない。そのため、次女のナターリエは結婚してもしなくても構わない。だが、よくよく考えると、姉に子供が生まれたら手狭になるから、家を出ることも視野に入れなければならない。


「……もしかしなくとも、私、誰かに嫁いだ方がいいの?」


今更気付いた問題に愕然とする。そんなことを急に気付いても、周囲はもう粗方結婚済みか恋人がいる。相手がいない。

誰に訊くでもないナターリエの問いにデニスは答えず、黙ったままだった。

どうしようと悩んでいるうちに、扉まで着き塀の外に出るとデニスが下町までの道を教えてくれた。

弁当の籠を持ち上げて、デニスは礼を言う。


「ありがとな」


「うん……」


悩みを抱えたまま気もそぞろにナターリエは頷いた。その様子に、デニスは嘆息し彼女の頭を撫でた。


「わっ」


思わず声をあげ、ナターリエが見上げると銅色の瞳とかち合う。


「……好きな奴としろ」


鳶色の髪から手が離れ、扉が閉まり、デニスは塀の向こうに消えた。

だが、彼の助言が胸に残り、ナターリエはしばらく立ち尽くした。


「好きな、人……」






現実の問題に直面したナターリエは、自分がいかに幼いままだったかを思い知った。

しかし、どんなに悩んでも結婚したいという欲が湧かない。母や姉にどうしたらよいか相談したら、今更何を言っているんだと呆れられた。


「あんた、デニスちゃんのところで花嫁修行してたんじゃないの?」


お弁当あれは、花のお礼だもん! それに、マクダさんの料理が美味しいから教えてもらってるだけだしっ」


「家の料理に不満でもあるのかい?」


「そ、そういうことじゃないって!」


藪蛇な発言をして母親の不興を買ったナターリエは慌てて否定する。自分の家の味も好きだが、バウムゲルトナー家の味も好きなだけだ。両方作れるならそれに越したことはない。


「あーあ、デニス可哀想ー」


「なんで、ここでデニスの話になるの?」


姉の言葉に首を傾げると、姉の眼がとても残念なものも見る眼になった。


「…………あんた、ずっとデニスと一緒だったでしょ」


「うん」


「その気があろうとなかろうと、あんたが傍にいたからデニスは今まで彼女の一人もいなかったのよ」


「へ……?」


姉曰く、デニスと普通に接することができる異性が既にいた状況ゆえに、デニス自身が他の異性と打ち解ける努力を怠り、ナターリエ以外に話せる異性が現在もいないのだという。

そう言われるとナターリエが悪いような気がしてくる。自分はデニスが結婚相手を作る邪魔をしていたのだろうか。


「責任取りなさいよ」


「そ……そんなこと言われても……」


ナターリエは弱る。自身の結婚相手も見つけられないのに、幼馴染みの分もなんて見つけられる気がしない。責任は感じるが、できることとできないことがある。


「他に相手を見つけるなら、春祭りで探したら?」


気のない様子で、姉がもうすぐある祭りの名前をあげた。

五月の初めにある豊穣の女神の祭りだ。市場通りが賑やかになり、ステップがベースの踊りを伝統衣装を着て女性が踊る。その祭りが出逢いの機会となり、他の地域の者と結ばれる話も珍しくない。

ナターリエにとっては、踊りに参加する女性の依頼を受けて花の刺繍をする締切の翌日だ。

伝統衣装のえりや、頭に被るスカーフなどに好きな花の刺繍を入れるのが常だ。また髪などに季節の花を飾る。そうして花の乙女となり、豊穣の女神を踊りで喜ばせ夏の豊穣を祈願する。

思えば参加者の準備を手伝うばかりで、ナターリエ自身が花の乙女として参加したことはなかった。道理で出逢いも何もない訳だ。


「今年は花の乙女に参加する!」


「あっそ」


気合いを入れるナターリエに、姉は半眼になって適当な相槌を打ち、母親は気にとめた様子もなくお茶を啜っていた。

早速衣装作りに取りかかり、日が少なかったものの祭りの前日には花の乙女の衣装ができあがった。裁縫屋の娘でよかったと、今回ばかりは沁々と感じた。デニスにも祭りの日が休みになるよう調整してもらい、出逢いの機会を設けた。

これで準備万端だ、と満足したナターリエだったが、まだ見ぬ誰かとの出逢いへの期待ではなく、完成した衣装を披露できる楽しみに胸躍らせてその日は眠りに就いたのだった。

翌日は晴天で、祭り日和だった。

ナターリエが自作の伝統衣装に身を包み、待ち合わせ場所である王都の中央広場に行くと噴水の近くには多くの人がいた。他の人も考えることは同じようで、判りやすい噴水前を待ち合わせ場所にしているらしい。

他の人々が相手を探して見回している中、ナターリエは簡単に相手を見つけた。他の人より煙草たばこ色の頭が出ているので一目瞭然だ。


「デニスっ」


「リエ」


見つけて駆け寄り、デニスを見てナターリエは瞠目した。


「デニスも着たの?」


「お袋が……」


眉を寄せて、ナターリエの視線から逃げるようにデニスは眼を逸らした。

デニスも春祭りの伝統衣装を着ていた。男性も伝統衣装があるのだが、アクセントがカラフルで可愛らしい印象もあるためか近年は着る人数は少なくなっている。

彼が進んで着るとは思えなかったが、彼の母親が用意したらしい。黒いフェルト帽にベスト、だいだいと緑のひもしまのようにしたジャバラが帽子の腰にあり、同じ色の縞の腰布とズボン、そして黒いブーツを履いている。


「デニスが着ると可愛いっていうより、格好いいね」


長身なせいか、鮮やかな柄のアクセントがあるにもかかわらず可愛らしさは一切なかった。ナターリエの感想に、デニスは視線どころか顔を逸らした。

その際に、デニスのシャツの襟に細やかな君影草きみかげそうの刺繍を見つけてナターリエは表情を輝かせる。


「あっ、お揃い! 私も君影草の刺繍にしたの。可愛いでしょっ?」


ブラウスの襟やスカーフの隅、スカートの裾周りなど控え目にだがアクセントとして映えるように君影草で模様をつけた。豊穣の女神の象徴とする花なので一般的なものだが、全体的に統一感が出るように頑張ったナターリエの渾身の刺繍だ。

頑張りを褒めてほしくて、くるりとその場で回って見せた。これでスカートの君影草の柄が綺麗に一周しているのが判るはずだ。

どうだ、と正面で止まって腰に手を当てると、いつの間にかデニスの手にあった花金鳳花はなきんぽうげを髪の両サイドに挿された。ナターリエの耳元に淡い色の大輪の花が咲く。


「可愛い」


花にそう言葉をかけるのを耳にしたことはある。

花にそう表情を綻ばせるのを眼にしたことはある。

だが、自分にそれを向けられたのは初めてだ。

ナターリエは一瞬固まり、顔に熱が集中するのを感じた。思考が定まらず、とにかく熱い。自分で言わせるように仕向けたはずなのに、何を言うのかと責めたくなり、また逃げ出したい衝動にも駆られた。言われた言葉が脳内を占め、動けない。


「リエ……?」


どうしたのかと問うデニスに、ナターリエはこちらが訊きたい状態だった。一体自分はどうしたのか。解らないが、この動揺をデニスに知られたくないと思った。


「あり、がと……」


どうにか感謝の言葉を絞り出す。平静を装いたいが、顔がずっと熱いままだ。


「行くか?」


心配してデニスは手を差し出す。ナターリエは促されるままにその手を取り、頷いた。


「うん……」


その後のことを、ナターリエはよく覚えていない。気遣わしげな眼をデニスがよく向けてきて、珍しく彼の方から何度か声をかけられた。なんと答えたかは覚えていない。花の乙女として他の女性たちと一緒に踊っている間も、何度かデニスの様子を窺うと必ず優しい眼差しがそこにあった。

夕暮れ時になり、祭りもお開きとなったのでデニスがナターリエを家まで送った。


「……どうした」


ナターリエの家まであと少し、というところでデニスが訊いてきた。難しい表情をしているが、ただ自分を心配しているだけと判る。

気付けばずっと繋がれていた手に少し力が込められる。普段と様子の違うナターリエがはぐれないようにと繋がれていた手だ。

体調が悪いのならすぐ帰らせようかとデニスは思っていたが、どこも悪くないとナターリエが言うので我慢していた。自分で衣装を作るほど春祭りを楽しみにしていたようなので、とりあえず祭りが終わるまでは様子見をしていた。

心配をかけているのが申し訳なくなり、ナターリエはなるべく冷静になれるように努める。だが、手の温もりが妙に気になって、うまく思考がまとまらない。


「ちょ……ちょっと、待って」


落ち着くのに時間がほしい旨をナターリエが伝えると、デニスは首肯した。

猶予をもらえたことでナターリエは思考に専念する。そもそも、どうしてこんなことになったのか。春祭りの当初の目的はなんだったか――


あ。デニスの結婚相手。


ないし、恋人を作る機会を設けようとしたのだった。ついでに、自分も同様に。しかし、自分が混乱している間に祭りが終わりそれどころではなかった。


何をやってるんだろう、私。


不甲斐なさを感じて、ナターリエは肩を落とす。結局デニスに一日心配をかけて終わってしまった。

気を落としているのが判ったのか、デニスが空いている手でナターリエの頭を撫でてる。髪が乱れそうな荒い手付きなのに、優しさを感じるから不思議だ。

慰めてくれる手を享受していて、大事なことに気付く。デニスが今後をどう考えているかを確認していない。

今回の企画はナターリエが独り善がりにしてしまったことで、デニスは何も知らない。デニスの意向も訊かずに勝手にしたことだから、失敗してよかったのかもしれない。もしかしたら、自分が知らないだけでデニスに既に想い人がいる可能性もあるのだ。

その仮定が浮かんだ瞬間、ナターリエの胸に重いものが落ちた。今まで浮かされていた熱も一気に下がる。

この間も思ったが、デニスとは恋愛関連の話をしたことがなかったので、彼の女性の好みすら知らない。その時点で、ナターリエが恋愛絡みの協力をするのは無謀というものだ。


「…………デニスって、どういう女の子が好み?」


協力したい、というより単純に興味があって訊いた。

デニスは脈絡のない問いに首を傾げながらも、答えた。


「ない」


答えを待って緊張する間もなく、あっさりと答えられ、ナターリエは眼を丸くする。


「ない、の……?」


デニスは静かに首肯した。


「なんで??」


何故女性の好みがまったくないのか。普通なら、髪の長さなど何かしらの特徴があがるものだ。


「リエが好きだから」


端的な解答だった。

だが、固まるには充分すぎる衝撃だった。彼が冗談などでこんなことを言う人物ではないと、ナターリエはよく解っている。話の流れで好きの意味を間違えようもない。こんなの初耳にも程がある。

意味を理解したせいで、ナターリエの思考が停止した。

デニスはしばらく待ってみてから、一向に動く様子のないナターリエの眼前で手を振った。それでも反応がなかったため、彼女を担いで家まで送り届けたのだった。







眼が覚めると朝だった。

いつ自分は寝たのか。判らないが、寝間着だった。自分で着替えたのだろうか。それすら覚えていない。

壁に眼を遣ると昨日の花祭りで着た衣装が掛かっていた。ベッド脇のチェストの上には、小さなボウルに水が張っており、少し元気をなくした花金鳳花が二つ浮かんでいる。


「夢じゃ、ない……っ」


その事実に打ちのめされ、ナターリエは頭を抱えた。夢だったら夢だったで、のたうち回りたくなるから大して変わらない。頭ではそう解っているが、現実と受け止めるにはナターリエの許容容量が足りなかった。

服を着替えて、台所に行くとまだ誰もいなかった。ナターリエの家では、先に起きた者が朝食を作る決まりなので、フライパンを取り出し、卵やベーコンを焼く準備をする。

こうしていつも通りの作業をしていると落ち着く気がした。

が、何も考えないように意識を無にしても、不意にデニスの言葉が思い出されて、体温が急激にあがる。


「わーーっ!!」


「朝からうっさいわね」


思わず叫んだところに姉が来て、即座に苦情を言われた。


「お姉ちゃん……」


ナターリエの赤くなった顔を見て、姉は事も無げに言う。


「何。やっとデニスから告白されたの」


「なん……っ!?」


「目玉焼き焦げる」


言い当てられて驚くナターリエに、食卓に着いた姉は容赦なく料理の指示をする。食材を無駄にする訳にはいかないので、ナターリエは素直に料理に戻った。


「……なんで、判るの」


できた料理を皿に盛る段になってからナターリエが訊くと、サラダを作るのを手伝っていた姉が呆れた声を返した。


「全然、隠してなかったもの」


気付いていなかったのはナターリエだけだ、と姉は言う。昨日から初耳なことが多い。


「……でも、そーゆーのでからかわれたことない」


だから、周囲が兄妹のように自分たちを扱っているとばかり思っていた。下町の女性は恋愛絡みの話題にはすぐ飛び付く。姉や母も比較的その人種なのに、今まで話題にされなかったのは奇怪しい。


「口止めされてたから」


「え」


「そうなのよ。ほんとは言いたかったんだけどねぇ」


「お母さん!?」


いつの間にか来ていた母が、当たり前のように話に入ってきた。一体いつから聞いていたのか。


「あんたたちが小さかった頃、マクダと、二人が結婚したらいいのにって言い合ってたら、駄目だってデニスちゃんに怒られたのよ」


ナターリエの未来を勝手に決めつけてはいけない、と。ちゃんと自身で将来の相手を決めるべきだ、と幼いデニスが、言葉少なに二人の母親に注意したのだと言う。デニスがあまりにも真剣だったので、母は残念に思いながらも折れたそうだ。


「ちゃんと自分から言うから誰も言うなって言うんだもの、仕方ないじゃない」


知らされた新事実に、ナターリエは言葉をなくす。そんな箝口令かんこうれいが敷かれていたなんて。


「あたしたちはそれが原因じゃないわよ」


「まだあるの!?」


既に情報過分なのに、まだ新事実があるというのか。もう聞くのが怖い。

そんなナターリエを無視して、姉は牛乳をコップに注ぎながら世間話のように話す。


「デニスが殴ったの覚えてる?」


「う、ん……」


彼が怒るなんて後にも先にもあの時だけだ、忘れようがない。


「あれ、あんたがブスだって言われたからよ」


「へ」


「たぶん言った子もあんたにちょっと気があったと思うけど、更に上がいたからすぐに引き下がったわ。あの歳で、あんたが可愛いと認めさせようとするんだもの」


以来、ナターリエの容姿を揶揄う者も、二人の仲を邪推する者も同世代から消えたそうだ。結果そうなっただけだが、拳一発で周囲を黙らせたため、デニスが怖がられる要因にもなったらしい。


「なによそれぇ……」


テーブルに突っ伏すナターリエに、姉は容赦なく止めを刺す。


「あんた、愛されてるわねぇ」


「もう止めて……」


ナターリエは涙目になりながら耳を塞いだ。情報の過剰摂取で気を失いたくなった。ショックで倒れない健康な自分が恨めしい。

これからどんな顔をしてデニスに会えばいいのか。

心底悩んだが、すぐに会うことになった。お弁当を届ける日だったからだ。

会って早々、ナターリエは固まる。バウムゲルトナー家の前でノックする勇気を出せずにいたら、気配に気付いたのかまだ来ないので確認しようとしたのかデニスが玄関のドアを開けたのだ。

対峙したまま、いくらかが過ぎる。


「ぁ、お……」


おはようの一言もうまく言えない。

明らかに自分相手に緊張するナターリエを見て、デニスは苦笑して彼女の提げていた籠を受け取った。


「ありがとな」


「…………ぅ、ん」


デニスの顔を見ていられなくなり、ナターリエは俯いて、どうにか頷いた。

自分に萎縮する様子を眼にして、デニスはナターリエが可哀想に思えてくる。元々言っても言わなくてもデニスはどちらでもよかった。ただ嘘を言う必要もなかったので認めただけだ。

これまで意識されなかったから、気持ちを伝えたところで特に彼女の態度は変わらないと踏んでいたが、予想外だった。


「なんだぁ? やっと男と認めてもらえたのか、遅ぇなぁ」


「黙れ」


背後からナターリエの様子を窺った父親の顔面を押さえようと手を伸ばすが、すんでのところで防がれる。父親のベンノは放っておくとロクなことを言わないので、強行手段を取るが毎回一手及ばない。まだ力では敵わないらしい。

取り押さえるかどうかの攻防をしている間にも、ベンノは余計なことを言う。


「ちみちみ手前てめぇの金で花贈るなんて、みみっちぃことばっかしやがってよぉ。そんなんだから……」


「煩い」


「…………え……?」


言わなくていい事実を露呈されて、デニスは渋面になる。ナターリエに聞こえてなければよかったが、そうはいかないらしい。ベンノは無駄に声の通りがいい。


「でも、あれは借り物じゃ……」


「次の開花時期には混ぜて使っちゃいるが、コイツ毎回刺繍向けにって植木屋で悩んでるぞ」


いっそ殴って黙らせようと思うが、その拳もベンノに受け止められ、デニスは悔しい思いをする。

ナターリエは呆然とする。何故気付かなかったのだろう。花が咲いている期間ずっと借りていたら、庭に利用できないことぐらい考えなくても判る事実だ。デニスが気を遣わないようにしていたとはいえ、自分は馬鹿だ。


「行くぞ」


これ以上、ベンノに喋らせてはいけないと判断したデニスは出勤を急かした。

にやつく父親の背を押しながら、デニスはナターリエの方に振り向く。


「リエ、無理するな」


言った言葉は取り戻せないし、デニスはなかったことにするつもりもない。だが、彼女の負担になるなら自分から遠ざかるなりしても構わないと思う。今日のように、これまで通りにしようとして彼女が困る方が嫌だ。

少しでも彼女の気が軽くなるようにと言った言葉は、相手を更に弱った表情カオにさせた。しかし、数秒後、今度は怒ったような表情カオになる。


「してないっ。また、来るからね!」


「……ああ」


挑むように宣言されて、デニスは思わず頷いた。

一体ナターリエが何に奮起したのか、デニスには判らなかった。







その後、明らかに緊張した面持ちではあるもののナターリエはデニスと会う頻度を変えなかった。少しずつだが、会話も問題なくできるようになった頃には、季節が一つ巡った。

ゆっくりでいいと急かさないデニスのお陰で、ナターリエは自分のペースで気持ちの整理ができた。

そうして整理して気付く、自分がここまで鈍かったのはデニスが要因ではないかと。


「デニスが甘やかすから悪い」


いきなりの苦情にデニスは首を傾げる。散歩で通りかかった遊歩道のベンチの一つに木陰がかかっており、その下で涼んでいた時だ。


「事あるごとに頼ってた私も悪いけど、ほとんど聞いてくれるデニスも悪いと思う!」


ナターリエの言う甘やかす、という意味がデニスには解らない。彼女は無茶なことを頼まないし、少し手伝う程度のことしかした覚えがない。第一、弁当の差し入れなど彼女のできることで、頼った分だけ律儀に返しているのを甘えているとは言わないだろう。相手が甘えないのに、どう甘やかすのか。

首を傾げたままのデニスに、理解させようとナターリエは説明を試みるが、ほら、あの、と具体例を口にするのが恥ずかしくなり結局断念した。


「とっ、とにかく、私を妹扱いしてない!?」


昔から知らないところでまでナターリエを優遇してきたデニス。褒めたりするときに頭を撫でるクセなどは、子供扱いというか妹のように思っているからするクセのようにナターリエは感じる。

思ってもないことを言われたデニスは、僅かに瞠目した。


「したことない」


「じゃあ、なん、で………………、あ。いいです。言わないでください」


「敬語……?」


急に真顔で敬語になったナターリエを、デニスは不思議がる。春祭り以降、よく質問されるようになった。主にデニスがどう思っているのかについて。

今までは口に出さなくても表情を読まれていたが、彼女曰く解らなくなったらしい。デニスの方は彼女の考えを見ただけで解ることなどなかったので、同じになっただけだと言ったらその時ももういい、と静止をかけられた。

ナターリエに止められずとも、訊かれたら答えるだけのデニスにそれ以上言うことはない。彼女の様子を窺うと、前方を見て夏の暑さに頬を上気させていた。


「……あつい」


「ああ」


ベンチで隣に座るデニスも、同じ方向に眼を向ける。向かいの緑が風でそよぎ、落ちる木漏れ陽が煌めいた。湿気を孕んだ風だけだと暑さが増すだけだが、視界に映る光景で涼しく感じる。

ナターリエは、視覚的に涼んでいるデニスへ、一度視線をやってから前方に戻す。絶対に解っていないと内心嘆息する。解られても困るのだが、言わなくても伝わればいいのにと思うぐらいには言葉が出にくくなった。言葉に気持ちを込めるとこんなにも重くなるものなのか。

逆にデニスは変わらずの口数なのに、伝わるものが多すぎて時々ナターリエはもて余す。


「……あのさ」


「なんだ?」


お互い前方の緑を眺めながら言葉を交わす。


「……都合がいいから、とかじゃない?」


どうしても気になる。彼と話せる歳の近い異性が自分だけだからではないか、と卑屈な考えが拭えないでいる。


「都合がいいと、好きになったら駄目なのか?」


疑うような問いに対して、デニスは怒るでもなくただ静かに訊いた。隣で強張こわばる気配が見るまでもなく伝わる。


「だ……、駄目じゃ、ない……です」


「リエには……?」


訊かれてしばらく考えてから、ナターリエは呟く。


「都合いい、かな……?」


知っている歳の近い異性の中で、相手がいないのはもうデニスだけだ。そして、物心つく頃から一緒にいるから、一番親しいのは彼だ。


「そうか」


「あのっ、だけど……!」


ただ頷いただけのデニスに、ナターリエは焦って彼の方に振り向くが言葉が続かない。この先を言うには勇気がいる。

どうにか自分を奮い起たせようとしていると、大きな手に頭を撫でられた。


「都合が悪いよりいい」


「…………うん」


無理に相手に合わせるより、最初から付き合いやすい相手であることに越したことはない。だから、気にしなくていい、と言外に言われているようにナターリエには思えた。否定する要因が消えて、気持ちがすとんと胸中に落ち着いた。

安堵にも似た穏やかな気持ちでいっぱいになり、ナターリエは自然と微笑んだ。デニスもつられて眼を細める。


「そういえば、今日何を買うの?」


休日の散歩のついでに植木屋に寄りたいとデニスに言われていたので訊いた。少し考える素振りを見せて、デニスは答える。買うものを決めていなかったのだろうか。


「……銀梅花ぎんばいか


「え?」


花も咲き終わり、実が成るにはまだかかる、今はただ葉が繁るだけの木だ。次に咲く花を買い付けに行くと思っていたナターリエは、意外さに眼を丸くする。


「毎日側にあっても飽きないだろう」


花は香り、葉はハーブになり、実は食べられる。常緑なので年中眼を楽しませることができる実用性の高い樹木の一つだ。


「都合がいい木……?」


先程までの話題を思い出してそう表現してみると、デニスは微かに笑みを零した。


「ずっと一緒にいれる」


「そうだね」


ベンチから立ち上がり、歩き出すためにデニスは手を差し出す。その手を取り、ナターリエも立ち上がった。


「受け取ってくれるか?」


「私だと枯らさない?」


「世話する」


「そっか」


二人は同じ速度で歩く。

しばらく歩いてから、ナターリエがもう一度そっか、と繰り返した。


その後、バウムゲルトナー家の玄関先に一本の銀梅花が置かれた。

銀梅花がもう一本増え、一対になるのは、またその数年後である。



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