06.雨上がり
万年筆でインクを滑らせる音だけが占めるはずの書斎に場違いな声が響く。
「それで、最近は出掛けに満面の笑みで見送ってくれようになってそれはもう可愛らしいんだ。最初の頃の照れて控えめなのも、それはそれで可愛らしいんだが……」
部屋の主、ジェラルド・フォン・エルンスト公爵自身が書斎本来の静寂を壊している。歌うように愛娘の惚気をいつまでも続けようとするジェラルドを諫める声が降る。
「ジェラルド様、口ではなく手を動かしてください」
「手も動かしているだろう」
確かに目線は手元にあり、右手はインクを滑らせている。届いた書簡への返信を
「では、黙れば更に速やかに進みますね」
「いや、私は溢れる家族への愛を吐き出さねば死んでしまう。ハインツは私を殺す気か」
真剣に抗議をする内容に執事のハインツは閉口する。呆れるべきか叱るべきか判断に迷う。
「第一、ハインツが家以外で話すなと言うから、私は職場では我慢しているんだぞ」
「貴方は御家族のこととなると際限がなくなるでしょう」
「当然だ。私の家族への愛は尽きることがないからな」
「だからこそです」
一音ずつ区切って発音し、ハインツは主に言い聞かせる。
いくら主が話しながら仕事をこなせるほど有能でも、周囲がそうとは限らない。職場の人間の業務を妨害するなどあってはならない。
「ジェラルド様はもう少しお立場と周囲にどう映っているかを意識なさってください」
愛妻家で有名にも関わらずその甘い容姿と振る舞いで、社交界で言い寄る女性は結婚後も減っていない。職場では甘い微笑を刷いたまま常に冷静な判断で裁量を下す。そういった評判から、彼の適性魔力も相俟って、周囲は氷の貴公子と呼ぶ。
その隙のない氷が、家族を前にするとデレデレに解けるのだから困ったものだ。相好が崩れても整った顔立ちは損なわれないが、他が崩れることになる。
「私はヴィアたちさえいれば、周りなどどうでも……」
「よろしいのですか? 先日、ジェラルド様の仕事振りを耳にされたリュディア様がとても敬ってらっしゃいましたよ」
暗に幻滅されてもいいのか、とハインツが脅すと、ただでさえよい姿勢がしゃんと伸びた。考えを修正できたことに、ハインツは内心嘆息する。定期的にこうして活を入れなければ、家族第一の公爵は誰もが羨む役職をあっさり放棄しかねない。
万年筆を走らせながら、ジェラルドは小さく笑う。また娘のことかとハインツは思ったが、違った。
「私は本当によい後輩を持ったな」
「……今は執事です」
もう立場が違う、とハインツは諫める。学生時代、一学年下にいた縁でハインツはエルンスト家に仕えている。だからといって過去の関係に甘んじて職務怠慢になるなど、自分も主もあってはならない。職務中に馴れ合い染みた話題を持ち込むのを、ハインツは好まない。
諫める言葉が横から降ってくるのをジェラルドは嬉しげに聞き入れる。公爵は王族の次位にあたるため、物怖じせず諫言を寄越してくる相手は貴重だ。
「ハインツは堅いな」
昔から、と枕詞は伏せる。
「ジェラルド様が奔放すぎるのです」
学生時代もそう返したことを彼は覚えているだろうか。表情を変えない男から考えは読めないが、懐かしくもあるやり取りにジェラルドはまた笑う。ハインツにはさぞ不可解なことだろう。
不意に扉を叩く音がした。二人が扉に視線を向けると、小鳥のように愛らしい声が凛と響く。
「リュディアです。お父様いらっしゃいますか?」
声が言い終わる頃にはハインツが扉まで移動し、扉を開く。開いた先にいた幼い少女は何かを手に持ったまま、ハインツに促され書斎へと一歩踏み入れた。
「おや、天使が舞い降りたかと思ったら私のディアだったか」
「お父様、お世辞が過ぎますわ……」
本気で言っているとハインツは知っているが、執事として黙して控える。それよりも、幼い娘にまで照れるより
「私は真実しか口にしないよ。書斎にまで来るなんてどうしたんだい?」
「今日はお父様がお休みだと聞いたので、フローラのところに一緒にお誘いしようと……お邪魔でしたか?」
万年筆を手に書斎机に向かう父を見て、申し訳なさそうに眉を下げるリュディア。その憂いを晴らすような笑顔を向けてジェラルドは立ち上がる。
「それは素敵なお誘いだ。是非お姫様とご一緒したいな。それに、ちょうど手紙の返信を書き終わったところだから、まったく構わないよ」
ハインツが書斎机の上を一瞥すると、既に封蝋までされた封筒があった。いつの間に、と手品のような仕事振りに内心驚愕する。家族に対して発揮される能力に異常さを感じてしまう。
ジェラルドは、ハインツが驚いている間に流れるような動きで愛娘の手を取り、書斎から出ていった。執事は優秀だから任せておけば手紙の手配を済ませてくれることだろう。
「すまなかったね、休みの日を削ってしまって」
妻の部屋に向かいながら、ジェラルドはリュディアに申し訳なさそうに謝る。休みの日を家族のためにすべて使いたい彼としては、至急の案件であっても家族と過ごす時間が減って残念でしかない。ただでさえ多忙で、甘えたい盛りの幼い娘に構ってやれないのだ。
「いえ、お父様が仕事されている姿を少しでも見れて嬉しいです」
愛娘から尊敬の眼差しで見上げられ、空いている方の拳を思わず握り込んだ。
仕事を頑張ってよかったと思う瞬間だ。これからも仕事を頑張ろう、と内心喜びにうち震えながら決意する。こんな歓喜、王からのお誉めの言葉を賜っても得られない。
デニスもこんな気持ちだろうか。
父親への憧れと尊敬の眼差しは、初めて会ったときの庭師見習いの少年を思い起こさせる。あの眼差しを毎日受けていられるとはなんとも羨ましい。自身と愛娘に状況を置き換えて考え、ジェラルドは専属庭師を羨む。
歳も近いので機会があれば、酒でも交わしながらお互いの子供の話をしてみたいものだ。
「そういえば、それはフローラにかい? 少し早いんじゃないか?」
ジェラルドと繋いでいない方の手で厚みのある装丁の本らしきものを抱えるリュディア。愛娘が持つものが童話かと思い訊いた。
「いえ……、これは違いますわ。後で、その、お見せしますわ」
「そうか。楽しみにしているよ」
僅かに焦り、手にあるものについての言及を避ける愛娘に、ジェラルドはそれ以上追及はしなかった。
妻の部屋の前まで着くと、先回りしていたハインツが扉を開ける。息が切れた様子も一切なく、表情も水面のように静かだ。幼い娘の歩く速度に合わせていたとはいえ、仕事に隙がない男だとジェラルドはつくづく思う。
「やあ、ヴィア。変わらず女神のような美しさだね。私たちの宝石はどうしてるかな?」
「お母様、ご一緒してもよろしいですか?」
「あら、ジェラルドにディア。二人とも一緒だなんて、フローラも喜ぶわ」
ふふ、と微笑みながらソファに座り赤ん坊を抱く淑女。二児の母とは思えぬ陰りのない美しさはジェラルドが称えるに値するものだった。
幅の広い豪奢なソファにリュディアとジェラルドも座る。ちょうどリュディアが両親に挟まれる形になった。
「オクタヴィア様、何か温かいものをお持ちいたしましょうか」
ジェラルドは女性かつ家族を優先し、リュディアも妹を産んで間もない母を優先させると判っているため、最初から公爵夫人のオクタヴィアに意見を聞いた。
「そうね、ディングラのミルクティーをお願いするわ」
「かしこまりました」
数日続いた長雨で夏が間近にしては冷え気味の空気に配慮し、ハインツがメイドに紅茶を用意させる。
紅茶の支度がされる間、二人はオクタヴィアの腕の中を覗き込むと、彼女と同じ桃色の瞳とかち合う。二人を映して、あうあうと言葉になっていない声をあげ、とても小さな手が伸びる。リュディアが思わずその手に指を近づけると、きゅっと自分より小さな手が握り締めた。その力の強さにリュディアの表情が綻ぶ。
「かわいい、フローラ」
仲睦まじい姉妹の様子に、両親の眼差しが温かみを増す。ジェラルドなどは、いつぞや庭師見習いが花を咲かせたと疑った満面の笑みを湛えている。
「来るのが遅くなって済まない」
「あら、どうせまたお仕事されていたのでしょう?」
「手紙を返していただけだよ」
癖のないプラチナブロンドを撫でながらジェラルドが遅刻を詫びると、オクタヴィアは態と剥れた素振りを見せて夫の苦笑を誘う。責めるつもりのないオクタヴィアは、申し訳なさげな夫に怒ったフリを解いてわかっている、と微笑む。
夫がどれだけ多忙かつ重要な役職にいるかを彼女は理解している。それでも家族との時間を最大限に作ってくれているのだ。
「三省長って本当におモテになられるんですのね」
妬けますわ、と冗談を受け、ジェラルドはまた苦笑する。
「仕事にモテても嬉しくないよ。私は君以外にモテたくはないからな」
「これ以上、私にモテても仕方がないでしょう?」
「そんなことはない。愛情はどこまでも深まるものだよ」
仕事を労うはずの会話すら睦言へ変える両親に挟まれる娘たち。この光景が子供の教育上よいのか、扉の側にメイドたちと控えているハインツには甚だ疑問だ。ただ、これがエルンスト家のごくありふれた光景である。
「お父様が、その若さで三省長をされているのはとてもすごいとハインツから聞きましたっ」
「ただ二属性持ちだから持ち上げられただけだよ」
娘からの尊敬を謙遜で返すジェラルド。確かに彼は稀な二属性持ちだ。だが、その魔力量も常人以上で彼の才能の一つと認識されており、指揮系統の長としての手腕も買われた上での人事である。
魔術省・薬術省・医術省の三省は、教育や医療などで連携が必要なため各省長の更に上に三省長を置いている。国を支える重要な役職であるため、権力目的の人間には荷が重く、公爵だからと胡坐をかけるものでもない。
その座に二十四の若さで平然と座るジェラルドは、公爵家や二属性持ちなおかげだ、という陰口を黙らせるだけの業務をこなしている。その為、ハインツは事実をリュディアに伝えただけだ。
「そんなことないです! お父様はすごいです!」
「ありがとう、ディア」
まだ政治などの難しい話は解らないだろうに、父が素晴らしい人物だと疑わない純真なニゲラの花を思わせる瞳。自身と同じ色の瞳にどうしようもない愛しさが湧き、ジェラルドは愛娘を抱き締める。
自分の言葉がちゃんと受け入れられて、抱き締められたリュディアも嬉しげに微笑んだ。
「雨も上がったし、みんなで庭を散歩しましょうか」
「ヴィア、体調はいいのかい?」
「もう、あなたまで病人扱いして、三ヶ月も邸の中の方が不健康ですわ」
「わたくし、紫陽花が見頃の場所を知っていますわ」
オクタヴィアの提案に、出産後にどれだけ女性の体力が回復するのか解らないジェラルドは気遣い、リュディアは庭を案内することに意気込む。二人それぞれの反応にオクタヴィアは柔らかく微笑んだ。
「あら、素敵ね。ディアは随分庭に詳しくなったのね」
「あ……っ、えと、最近散歩が趣味で……」
母の指摘にリュディアは勢いをなくし、しどろもどろになる。その原因を知っているジェラルドはむしろ不思議がる。
「おや、イザークのことをまだヴィアに話してなかったのかい?」
「お父様っ!」
何故そんなに焦るのかジェラルドには解らない。疾うに妻に話しているとばかり思っていた。彼にはあった出来事をつぶさに話していると聞くのに。
「そういえば……、噂で私の可愛いディアが庭師見習いの少年と一緒にいるのを見かけたと聞いたことがあるけど……」
母の言葉にリュディアはびくりと怯える。
「ディアの口からは全然聞かなかったのよね。私、寂しかったわ……」
「え……」
悲しげに頬に手を添えるオクタヴィア。怒られると思っていたリュディアは意外な反応に驚き、そして母を悲しませた事実にショックを受ける。
「お母様、違うのですっ! あの……、お母様が嫌がるんじゃないか、と思、って……」
しゅんと心許無げに俯くリュディアは、優しい桃色の眼差しが降るのに気付かない。
「どうして?」
「わたくしが、ザ……平民風情と一緒にいるなんてはしたない、と……」
公爵夫人として気高く美しい母はリュディアの自慢で憧れだ。そんな母に身分の分別ができていないと軽蔑されるのでは、と怖くてイザークの話題だけ避けていた。
「そのコはディアの大事なお友達なの?」
躊躇いながらもリュディアは頷いた。彼のことを恥じているわけではない。ならば、その点だけは偽ってはならない、とリュディアは思っていた。
「そう……、ディアのお友達なら私も是非会ってみたいわ」
驚いて顔をあげる娘に、オクタヴィアは慈愛の微笑みを向ける。
母の笑みの意味を理解して、リュディアは安堵と嬉しさを滲ませた笑みを零した。
「ザクがお母様に失礼を働いたら、わたくしがきっちり叱りますわ」
「あら、愛称で呼ぶほど仲良くなったのね」
「あぃ……!? 違いますっ!!」
「私はイザークに妬くべきかな?」
「あなたが悩むなんて、よいコなんですね」
「私にとっても小さな友人だからね」
「あの違いますよっ、お母様!」
焦る愛娘にあたたかく微笑み合う両親。オクタヴィアは以前から娘の変化の原因に気付いていたし、ジェラルドもその変化がよいものだと見守っていた。
よく解らない羞恥を感じて焦るリュディアに向けて、母の腕からあうあうと妹がまた手を伸ばす。その手に指を握らせるとなんだか少し落ち着いた。
しばらく談笑した後、散歩に出ようとしてリュディアは失念していたことを思い出す。
「……っお父様」
ぎゅっと厚みのある装丁の本を抱いて、続く言葉を躊躇うリュディア。
「なんだい?」
急かさず微笑みながらジェラルドは言葉を待つ。
「その……、私、もう少しお父様とお話ができれば、と……、それでザ……イザークが日記を交換してはどうかって……お父様がお忙しいのは解っているんですけど」
おずおずと差し出された本をジェラルドが受け取り開くと、中はまっさらな白紙だった。
リュディアは父の仕事の話などを聞いてみたいし、母に話すのと同等に日々の出来事を話したい。けど、時間が許してはくれないからわがままだと断じて諦めていた。それを思わず庭師見習いに零してしまい、なら交換日記すればいいと簡単に返された。女子は好きだろ、とよく解らない理論も言っていたが、家族間で手紙をやり取りするよりは理に適っていると思ったのだ。
「字の練習にもなりますし……あの……だめですか……?」
「……っ!!?」
言い訳を足して頬を染め、恥ずかしがりながらも上目遣いでお願いする愛娘を目の当たりにしたジェラルドは膝を崩し床に伏した。内から湧く感情を堪えるように、その体勢のまま打ち震える。
「お父様!? 具合でも悪いのですか!?」
「むしろ、とてもよすぎるのよ。ディア」
「……神よ、私の前にこの天使を遣わしてくださったこと感謝いたします」
床に伏した状態で神に祈りを捧げる父を心配するリュディアに対して、驚きもせずたおやかに微笑んで娘を安心させるオクタヴィア。
「それではこちらは私がお預かりしましょう」
自分が持っていたはずの日記帳が落ちていないと思ったら、執事が所持していた。顔を上げ、ジェラルドは執事に抗議する。
「それは私とディアのものだぞ」
「ずっと持っている訳にはゆかないでしょう。ジェラルド様の手が空かれた時にお渡ししますよ」
「そうね。お父様もお忙しいでしょうし、橋渡しはハインツにお願いしてもいい?」
「かしこまりました。リュディア様」
執事に
「さぁ、散歩に行きましょうか」
「はいっ、お父様行きましょう。わたくしが案内しますわ」
笑顔で手を差し出す愛娘を眩しく感じながら、ジェラルドはその手を取り立ち上がる。娘が微笑んでくれるだけで憂いが晴れるようだ。
「ああ、行こうか」
愛娘に手を引かれ、微笑む妻に抱かれ無垢な瞳を向ける下の娘が傍らにいる。
こうして穏やかな休日を過ごせる幸せをジェラルドは噛みしめた。
その後、ちょうど紫陽花の手入れを手伝っていた庭師見習いは公爵に抱きあげられ、執事の制止が入るまで回される被害に遭ったのだった。
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