05.便箋
「来てあげましたわよ」
玄関を開けたら、どや顔のお嬢がいた。
雨避け用のフード付き外套を着たメイドのカトリンさんが、後ろでお嬢が濡れないように傘を差している。
「何してんの、お嬢」
令嬢が雨の日に使用人の小屋に奇襲するなんて、誰も思わない。公爵様といい、エルンスト家は奇襲をする習性でもあるのか。敷地の中央にある公爵邸から端の方にあるこの小屋まではいい運動になる距離だ。お嬢のスタミナが俺のせいで令嬢の域を超えている気がする。
「雨の間、暇だと言っていたでしょう。だから、わたくしが文字を教えにきてあげたのですわ」
どうやらお嬢の方も雨で家庭教師が来ないらしい。
立ち話も何なので、二人をリビングに案内する。タオルなんてないから洗濯済みの手拭いを二枚渡すと、カトリンさんはお嬢の髪やドレスの裾の滴を拭ってから自分の濡れた箇所を拭いた。
お嬢の家に比べると小さいソファに二人とも座るように促したが、カトリンさんは断りお嬢の斜め後ろに立って控えてしまう。
それは職業柄仕方ないと俺は一旦諦め、お嬢に改めて声を掛ける。
「よく来たな。こんなところまで歩いてこれるなんて、お嬢は凄いな」
令嬢にスタミナを褒めるのは変かもしれないが、雨なのにお嬢が頑張ってきてくれたのが判るからぽんぽんと頭を撫でた。両親が褒めるとき頭を撫でてくれるから、俺も同じようにしてしまう。
「……っ大したことありませんわ」
ほんとは威張りたかったんだろうけど、頬染めて俯きながら言うから照れているのがバレバレだ。
「ちょっと待ってて、お茶淹れてくる」
「それなら私が」
俺の言葉にすかさず申し出るカトリンさん。
「今日はカトリンさんもお客さんだからいいです」
それをきっぱり断って俺は台所のある一階に降りる。ついでに、用具のメンテナンスをしている親父のいる倉庫に寄る。
「親父ー、お茶淹れるけど飲む?」
ドアからひょっこり顔出して訊くと、親父は縄の解れがないか確認している状態で僅かに頷いた。
「わかった」
台所につくとお湯を沸かして、マグカップを四個出す。
一番新しい茶葉にするか。
家の茶葉は基本ハーブティーだ。仕事のおまけで採れたハーブを母さんが茶葉にする。手作りの茶葉しかないから、お嬢相手でも賞味期限などを気にするぐらいしかできない。
密閉型の瓶の蓋をはずすとレモングラスの香りがした。沸いたポットの火を止め、そこに茶葉を適量直接入れる。最低限しか調理器具がないからこういう淹れ方になる。ポットの蓋をしてしばらく蒸らしてから、茶漉しを通してマグカップに注ぐ。
木の盆にマグカップを載せ、親父に一つ渡してから二階に戻る。ドアを開けると、きょろきょろ周りを見回していたお嬢が身を竦めた。エロ本探していた訳でもあるまいにそんなビビらなくてもいいんじゃないだろうか。前世の俺なら焦っただろうけど。
「お待たせ。別に怒んないから好きに見ていいぞ」
「そんなはしたないこと……」
していない、と言いたかったようだが、俺の許可を得たから興味が勝ってお嬢の視線がまた周囲に移る。年相応に好奇心が強いから、知らないところに来てわくわくしてしまってるのだろうか。
確か
狭い以外に何が物珍しいのか解らないが、お嬢が楽しそうで何よりだ。
お嬢の前のテーブルに一つマグカップを置いて、立ったままのカトリンさんにもう一つを手渡す。
「ありがとうございます」
カトリンさんが受け取ったのを確認して、俺は残りのマグカップでお茶を飲もうとした。けど、視線を感じて止める。
「何か?」
物言いたげなカトリンさんを見上げると、躊躇いながらも口を開いた。
「座られないのですか……?」
「お客さんが立ってるのに座れませんよ」
このままでも飲めるし、と笑うと、カトリンさんは困った顔になる。お嬢の方を見ると、ソファの背から、眼を据わらせて顔を出している。明らかに仲間外れ状態に拗ねている。
目線だけでどうします?とカトリンさんに訊くと、お嬢がぽんぽん叩いているソファの隣に恐縮しながら座った。それを確認して、俺も向かいの一人用ソファに座る。庶民の家で主人が気にしてないのに畏まるなんて馬鹿らしい。一応、公爵家敷地内だけど誰も見てないしいいだろう。
お嬢は満足そうな表情でお茶を飲み始める。カトリンさんも続いてマグカップに口を付け、ほっと安堵したように小さく吐息を吐く。緊張が少しでも解けたならよかった。
「美味しいですわ」
お嬢が表情を緩めて呟いた言葉に、カトリンさんもはい、と同意する。舌が肥えている二人の肯定に俺は安心する。
「よかった。母さんが喜ぶ」
俺の言葉に、お嬢は引っかかったように少し眉を寄せた。
「……確かにイザークのお母様が作られた茶葉のよさもあるとは思いますが、お茶は淹れ方が重要ですのよ」
何故、自分に送られた賛辞を素直に受け取らないのだと叱られた。そんなお嬢に俺は嬉しくて笑う。
「そりゃ光栄だ」
「カトリンの足下にも及びませんけどねっ」
「プロと比べんなよー」
つんと取り澄ますお嬢に苦笑いで返す。引き合いに出されたカトリンさんは、僅かに照れながら静かにお茶を飲んでいる。
一息ついてから、どうやって文字を教えてくれるのか訊いた。雨の中、濡れるから本などは持って来れないし、そんな荷物になるような物を、訪ねてきたときカトリンさんは持っていなかった。
お嬢は、二の腕の絞りから広がって白いレースが覗いている袖から、封蝋のされていない封筒を取り出した。
「これですわ」
俺は中身より、着物の袂から出すみたいに出てきたドレスの末広がり袖の構造が気になった。何、内ポケットでも仕込んでんの?
一向に俺の視線が封筒ではなく、出てきたところから離れないものだからお嬢が痺れを切らせて、俺の眼前まで封筒を突き出してくる。
「早く開きなさい」
「おう」
突き出された封筒を、白刃取りで受け取って封から中身を出す。中には二枚の便箋が入っていた。開くと手書きの文字が並んでいる。
アーベントロートの第一言語のアルファベットだ。確か周辺国で使われているのが第二言語で、あとラテン語みたいな古典語があったはず。庶民で第二言語が話せるのは、国を渡る商人か国境地域の住人だけだ。普通は第一言語だけ知ってれば問題ない。古典語は聖歌ぐらいでしか聞かないから今はいいだろう。
一枚目が大文字で、二枚目が小文字みたいだ。
「お嬢、字綺麗だな」
七歳児の俺も手が小さいが、五歳のお嬢なんてもっと小さい。ペンが持ちにくいだろうに、線につっかえた様子がない。お稽古に習字もあるのだろうか。純粋に感心する。
「公爵令嬢として当然の嗜みですわ」
当たり前だ、と胸を張るお嬢の頬は少し赤かった。嬉しいらしい。
今日はこのアルファベットの読みを教えてくれるそうだ。
「じゃあ、ついでに書き方も教えて」
「え……、でも」
「大丈夫」
お嬢は紙もペンも持ってきていないので戸惑う。俺は少し待つように言って、一階の倉庫に必要な物を取りに行く。一式準備して、親父に貸りる許可をもらって二階に戻る。
底の浅い木箱に棒のような物を入れて戻ってきた俺を見たお嬢は全く解らないといった表情で、カトリンさんも不思議そうな
テーブルの上に置くのは何なので、横の床に置いた。二人は覗き込んで中身を確認すると、余計に解らなくなったみたいだ。底の広い盆のような木箱には土が敷かれ、ただの木の枝が二本とT字の木の道具が添えられいるだけ。土があるからお茶のあるテーブルと一緒に置けなかった。
「それでどうしますの?」
「こうする」
枝を持って、枝先を土に付けて動かすとその部分が
お嬢は画期的な物を見たように無言で驚く。カトリンさんは成る程、と納得して頷いた。
大したコトしてないんだけど……
そこまでの反応されることじゃないはず。けど、思い付かない人からするとこんなに驚くものなんだろうか。なんだっけこういうの、コロンブスの卵? 目から鱗?
見た方が早いから実践しただけなのに、一芸披露したみたいな空気になって、俺はなんだか居たたまれない。
「イザーク……実は頭いいんですの?」
「実はってなんだ。つか、ただの庶民の知恵だぞ」
ある物で賄ってなんぼだ。
舗装された石畳の道や大理石の床、整えられた芝生しかお嬢は見慣れてないから、まず地面が候補になかったんだろう。かえって俺ん家の近所は土や砂利の道で、チョークみたいに白く書ける石だって探し放題だ。きっとお嬢はけんけんぱっとかしたことないんだろうなぁ。
俺ん家に遊びに来れたらいいのに……
お嬢なら、俺や近所のチビたちと一緒に遊んだら絶対楽しんでくれる。色々喜んでくれそうな遊びが浮かぶが、提案は口にできない。
子供の俺では、安全が保証できなからだ。
令嬢がお忍びで生活水準が低い下町に行くなんて、護衛必須だ。お嬢は可愛いし、薄い金の髪も淡い青の瞳も目立つから、身分がバレなくても誘拐の危険性はついて回る。
俺がいるから大丈夫、とかカッコいいこと言えたらどんなにいいか。そういう根拠のない見栄を張りたい気持ちもありはする。が、前世の記憶がそれを寸でで押し止める。あんな平和だった日本ですら消えなかった危険性を軽視できない。
お嬢に子供らしいことをさせたいだけがこんなに難しい。
自分の無力感に少し悔しくなる。
「どうしましたの?」
「ん。何でもない」
変に黙った俺に首を傾げるお嬢。それにへらりと笑って内心を誤魔化す。
「とりあえず、この手本見ながら書いてみりゃいいよな」
お嬢に何て読みと音か聞きながら一文字ずつ書いて消してを繰り返してゆく。
書き始めてすぐに指摘が入る。
「書き順が違いますわ!」
声に出しながらの方が覚えるから、と言われ文字を読みながら書くと、
「発音が違います! その発音はもっと舌を……」
また指摘が入る。アドバイスともいうが。
「そこはもっと丸みをだして……」
「お嬢、スパルター」
「なっ!? ひっ、人がせっかく……っ!」
冗談で言ったが、一生懸命教えてくれてたお嬢はかっと朱に染まって怒る。
やべ。このままだと泣く。もしくはリアル雷が落ちる。
「ごめんって! 俺馬鹿だから言われるだけじゃ解らなくってさ。お嬢、一緒に書いてよ」
それ見ながら書くから、ともう一本の枝を差し出す。お嬢は一度判るように頬を膨らませ俺をじとりと睨んだあと、枝を取って俺の隣に屈んだ。
「本当に馬鹿ですのね」
「うん。賢いお嬢がいてよかった」
「当然ですわ」
残念な扱いを受けてへらりと笑う俺はやっぱり頭よくないんだろう。
二人でああだこうだ言い合いながらやると、勉強というより遊んでいるみたいで楽しかった。お嬢も土の上に字を書く感覚が楽しいようで、瞳がきらきらしていた。
お嬢から及第点をもらい一通り俺が文字を書けるようになると、後は慣れるだけの反復練習になったから、俺は二人にお茶を入れ直して一人で練習する。
お茶を飲みつつ俺の様子を眺めていたお嬢は、うつらうつらと瞼が落ちそうになっては意識的に瞼を持ち上げようと頑張っている。部屋に満ちているのは、土を削る断続的な音と、しとしとと外から漏れる雨音だけだ。じめじめと不快に感じるはずの雨音が今は心地いい。
「お嬢ー、寝てもいいぞー」
帰る時間になったら起こすから、と文字の練習をしながら声をかけると、お嬢はゆるく嫌々をするように首を横に振る。
「せん、せいの、わたくしが寝るわけに、は……」
そう意思表示をするが、カトリンさんが零さないようにそっとお嬢の手からマグカップを離すのに抵抗する様子がない。カトリンさんが、コトリとマグカップをテーブルに置いた音と一緒にお嬢の瞼が完全に閉じる。
そして、カトリンさんがソファに座り直した振動で、お嬢が彼女にもたれ掛かる体勢になった。少し弱るような素振りを見せた後、カトリンさんは寝やすいようにそっとお嬢の頭を自分の膝の上に誘導する。一度、わずかにお嬢が身動いたのでカトリンさんは心配するが、数拍おいて健やかな寝息が聴こえてきたので安堵した。
小さく丸まる様子は猫みたいだ。
俺が笑みを零すのと、カトリンさんが小さく笑ったのは同時だった。お互いに眼を見合わせて、声に出さないように笑う。
俺はお嬢を起こさないように気をつけつつ、文字の練習に戻った。
「あの……」
しばらくして、囁く程度の音量でカトリンさんが声をかけてきた。
「はい」
雨音よりは大きいので問題なく俺の耳に届く。俺も同じぐらいの音量で返事をする。
「あのときはありがとうございました」
あのとき、がいつかなんて解りきっている。
「いえ、俺の行動は場合によってはかえってカトリンさんの立場を余計悪くしてました。考えなしですみませんでした」
「そんな……私は怖くて自分で弁解もできませんでした。だから、見ず知らずの貴方が、私のためにリュディア様に指摘されたこと、とても嬉しかったです……」
言葉にはびっくりしましたけど、とカトリンさんは可笑しそうに口元を手で隠す。
「親父から拳骨食らいましたからね」
めっちゃ痛かった、と苦笑すると、思い出したらしいカトリンさんが更に可笑しそうに肩を震わせた。
あの件が、笑い話にできてよかった。
一頻り笑ったカトリンさんは俺に笑ったことを謝罪して、ぽつりと話し始める。
「……私、姉たちと違って器量がよくないので父が嫁に出すにも困る始末で……、兄と違い家を継ぐ訳にも行かず……、あのとき仕事を失っていたら家に迷惑をかけるところでした」
そう自嘲するカトリンさん。
お嬢に以前聞いたが、カトリンさんのレハール家は男爵家だそうだ。つまり、所領がない。だから、家督を継ぐ子供以外は外に出すのが普通。娘は嫁がせるか、上の身分に仕えさせるか。人脈を広げるため政略結婚が優先されるが、カトリンさんはそばかすがあるだけで父親から見放されたようで、自分から仕える道を選んだらしい。
ひどい父親だと俺は思うが、貴族の世界で子供が道具扱いされるのは珍しいことじゃない。カトリンさんがその扱いを疑問に思っていないことからも、それが窺える。
仮定の話だが、あのときクビになっていたらどうなっていたか。公爵家をクビになった評判で次の就職先は見つからず、平民に落ちる訳にもいかないから修道院へ厄介払いされていただろう。優しい公爵様がどうにかしてくれたかもしれないが、カトリンさんの性格からしてそうなっても自分から去りそうだ。
カトリンさんはお嬢の五つ上だと聞いた。そんな歳で結婚か就職か出家か、と頭を悩ませないといけないなんて、貴族は大変にもほどがある。
「……だから、私は今、リュディア様にお仕えできて幸せです」
膝の上の少女を映して、翡翠の瞳が柔らかく緩む。黒い髪に縁取られて、花が咲いたみたいだ。
そっと壊れ物に触れるように薄い金の髪が撫でられる。見た目のまったく違う二人の姿が、まるで姉妹のように見えた。
あの後、お嬢が頑張って変わった成果が目の前にある。
あのときだけを切り取れば悪い出来事かもしれないが、今の二人になるには必要なきっかけだった。
よかった。
俺は何もしてないが、二人が頑張って歩み寄った結果を見れて嬉しく思う。
「
「え……?」
「俺、カトリンさんが笑ったところ初めて見ました。笑うと雛菊が咲いたみたいですね」
品種が広くあるありふれた花だが、咲いた姿は人を安心させる優しい色を出す。
「嫁の貰い手がないなんて、カトリンさんとこの親父は見る目ないなぁ」
癒し系でモテそう。前世では肉食系女子なるものが流行していたから、俺たち男はがつがつした様子に怯えたものだ。あの時代、大和撫子は絶滅していたと言っても過言ではない。二次元に走る奴が多いのが仕方ないと感じるぐらいに男のメンタルは弱い。
日本ならかなり需要がある。きっとこの国でも癒しを求める男は多いはず。
「そんな……」
ことないですよ、とどんどん声が消え入るカトリンさん。本心だと誤解ないように伝えたが、俯いたカトリンさんは雨音よりも弱い声で否定らしき言葉を囁く。聞き取れなかったが、お世辞だと思われてしまったようだ。
こういうのを奥ゆかしいって言うのか。前世ではこういう女子の反応を見たことがなかったから、やっと言葉の意味を納得する。まぁ、前世の自分の態度もふざけてばかりで、相手がそんな様子を見せるはずもなかったが。
カトリンさんはそれ以上話す気はないようだったので、俺は字の練習に戻る。時折様子を窺うと、触り心地がいいのか髪を撫でるカトリンさんと気持ち良さそうに眠るお嬢がいた。穏やかな時間が流れる。
「よく寝てるな」
そろそろ起こさないと、と練習を切り上げたが微笑みながら眠る表情を見て、なんだか起こすのが忍びなくなる。
「昨夜はいつもより遅かったですから……」
仕方ない、と苦笑するカトリンさんに、俺は首を傾げる。何で夜更かしなんてしたんだろう。子供は睡眠が命なのに。俺なんて飯食べて風呂入ったら電池が切れたみたいに寝るぞ。
俺の疑問を感じ取ったカトリンさんは、視線で教えてくれる。視線が俺の手にある便箋で止まる。
「満足ゆかれるまで諦められなかったんです」
綺麗に書かれたアルファベットたち。こんなにたくさんの文字を、小さなお嬢が一度の失敗もなく書ききれたら奇跡だろう。見てなくとも、一生懸命ぜんぶ綺麗に書こうと頑張るお嬢が想像できる。
頑張ってくれたんだなぁ。
「大事にします」
嬉しくて俺は笑った。大事な宝物にしよう。
しかし、俺のせいだと知ったら余計起こしにくいな。どうしよう、と起こすのを躊躇っていると、背後から呼ばれた。
「ザク」
「あ、親父」
親父にどうしたのか訊くと、親父は窓の外に眼をやる。もうすぐ陽が落ちるから帰さなくていいのか、と言うことだろう。うん、それは俺も解っている。
「……ザク?」
すると、起こす前にお嬢が寝惚け眼で身体を起こした。
「おはよう、お嬢」
「おはようございます、ですわ……、ザクって……?」
瞼を擦りながら半覚醒状態でお嬢は聞きなれない音のことを訊いてくる。
「俺の
誰からだっただろう。たぶん口数の少ない親父が最初だったと思う。気付けば俺は両親や近所ではザクで通っていた。
「ザク……」
確かめるみたいに繰り返すお嬢。
「お嬢もそう呼んでいいぞ」
「ほんと……?」
「うん」
お嬢の近くまで行き、うずくまって下から眼が合うようにして頷くと、花が咲き綻ぶみたいに笑った。
と、思ったら、はっと覚醒して固まる。そして、ぶんぶんと首を横に振る。
「ちっ、違いますわ……っ!!」
何が??
何かが手違いらしいが、どれがそうなのか判らない。今のやり取りで変なところでもあっただろうか。
さっきの笑顔はちょっとびっくりしたけど。
よく解らないが、一頻り狼狽えたお嬢はカトリンさんと親父の存在に気付き、平静を取り戻した。
お嬢は親父に挨拶と邪魔した礼を言いに近寄ったが、体格差が熊と赤ずきんだった。親父を目の前にして、ちょっとだけお嬢の肩が跳ねたのは仕方がない。子供の角度で見上げると威圧感が半端ないから。俺以外の近所のチビどもが、通過儀礼のようにことごとく親父を見て泣いた経験がある。俺の親父はなまはげじゃないんだが。
とりあえず、公爵令嬢だからかちょっとビクついただけのお嬢は称賛に値する。
怖がられるのが不本意な親父は、膝を付いて目の高さをお嬢に近付ける。
「お嬢様、愚息がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
え。俺、迷惑かけてんの?
心外だ、と親父を見るがスルーされた。親父は、
いや、でも今日はお嬢に無理させたから迷惑かけたことになるか。親父の決め付けもあながち間違いってなかった。
「これぐらい大したことではありませんわ」
取り澄ますお嬢。
さっきまで疲れて寝てたじゃん、とは言わない。たぶんこのタイミングで言ったら、親父とお嬢どっちからも雷食らいそう。
邸まで送ろうとしたがカトリンさんがいるから大丈夫だとお嬢に断られた。せめて玄関先まで見送る。
「じゃあ、失礼しますわ」
お嬢の言葉に合わせてカトリンさんが静かに一礼する。
「おう。足元気をつけて帰れよー」
ひらひらと手を振る。
お嬢が踵を返す前に、声をかける。
「お嬢、コレありがとな」
封筒に入れ直した便箋を持ち上げて礼を伝えた。そして即座に踵を返される。
「粗末に扱ったら許しませんわよ。ザク」
声だけ投げ掛けられ俺は苦笑した。大事にするに決まってるのに、信用ないなぁ。
傘の影が雨の向こうに消えるまで見送る。
すぐに傘に隠れたから気のせいかもしれないが、お嬢の耳が少し赤かった気がした。
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