第三幕 逢瀬


 父と母の縁は、私が花房はなふさにお守りを譲り受けた年の春、ぷつりと切れました。


 桜が雪のように花びらを散らし、新しい季節に向けて緑をのぞかせる五月のことでした。それまで隈が色濃く、唇を噛み締めた傷が治らなかった母の顔は、父との縁が切れた折から、見違えるように艶やかに、若々しくなりました。


すず、もう大丈夫よ。もう大丈夫だからね」


 潤いを取り戻した母はそう言い、いくども私を抱きしめました。


 そして実際、全てが母の言うように「大丈夫」にことが運んだのです。母は誠実な男性と再婚し、つつがない結婚生活を送りました。罵声も、嫉妬も、涙も無い、平凡で尊い生活を。

 

 どうしてそうしたかは分かりません。私は母が新しい父に屈託無く微笑んでいるのを見て、あの御守りに――花房がくれた、美しい金の藤に口づけました。


(花房に会いたい。お礼を言いたい。御守りをどうか返してあげたい)


 幸せで平凡な日々が続くごとに私のその想いは膨らんでいきました。


 名前の付けられないその想いが、私の手のひらで抱え切れなくなる頃、私と花房は再会しました。





 新しい父の姓は、長谷はせといいました。

 

 長谷の家は、古い父の家とは比べものにならないほどの資産家でありました。私はそこで、同級の長谷キヨと遠い親戚になったことを知りました。

  

 本家の彼女と分家以下の家である私では立場が違いましたが、彼女は女学校で「鈴と家族になるのね」と嬉しそうに言ってくれました。

 

 そのキヨが言うには、長谷の家はしきたりに厳しく、正月には必ず本家の当主に挨拶に参らねばならぬそうです。その時までは、キヨと両親の顔に泥を塗らぬようにせねばと、そんなことしか考えておりませんでした。

 

 私が高等女学校五年となる年の正月、分家筋の並ぶ畳に座る花房を――夫を伴い、萎れた野草のように輝きをなくした彼女を見た時、一瞬すべてが吹き飛んでしまいました。


 必死で頭に詰め込んだ礼儀作法も、秘めていた花房への憧憬も、かつての藤色の思い出も、全てが。


房子ふさこ――」


 そう呼ばれる彼女に、あの艶やかな藤の面影はありませんでした。


 後から考えてみれば、私の藤色が滲んだ生に、初めて憎しみに似た墨色が落ちてきたのはその時でした。


 分家筋以下の女は台所仕事につとめます。私はその合間に花房を――長谷房子の細く骨ばった手首を掴みました。彼女の腕からは抵抗は感じられませんでした。


 そのまま、どこへ行くとも分からず二人で邸宅を駆けました。人気のない廊下の和室の戸を開けた時には、私の息も彼女の息もそろって上がっておりました。


「花房――」


 言葉を言い終えない内に、彼女の手が私の口を塞ぎます。


「長谷の家では、分家筋より下の人間が分家以上の人間と話すのも、分家の人間が本家の人間と話すのも、いい顔はされない。私と人の目があるところで話すと、鈴、あんたの立場が悪くなる。だから、話せるのは今だけ」


 そう私に宣告する彼女の目は、あの思い出の中の彼女と同じでした。私は彼女の手の平の下で、顔が笑みくずれるのを止められませんでした。


花房は、やはり花房のままで、私はそれがたまらなく嬉しかったのです。


「嫌」


 私の言葉に、彼女が絶句します。そんな彼女の表情は初めて見たものだから、私はおかしくてしょうがありませんでした。  


「あなたにお礼が言いたかった。あなたのことを知りたかった。だから、今だけなんて嫌」


 私は、その時たまらなく幸せでした。


 その時死んでおけば、私は幸せなまま生涯を終えられたことでしょう。


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