第二幕 御守り
私の白い生にできた藤色のしみは、その時はそれ以上広がることはありませんでした。ただ、美しく恐ろしい記憶として、私の中に残るだけでした。
それがより一層濃く、鮮やかに広がったのは、翌年の春のことでした。
私の母と父が、ある日人が変わったようになったのです。屋敷の階下からは毎晩、父と母の別人のような声が漏れ聞こえます。
私は耳を塞ぎます。布団を被ります。神に祈ります。それでもその声は止まず、毎晩私の耳を刺し貫くのでした。
「あの女――」
「違う――」
「使用人ごときに手を――」
その時、ふと、忘れかけていたあの藤色の記憶が蘇ったのです。あふれるほどの形代、強すぎる願いを託された絵馬たち、そしてむせ返るような藤の香りと、縄目のあとを首に残したたおやかな女性。
『あんた、十四でこんなところに来るほど苦しいのかい』
頭の中で、名前も知らない女が問いかけます。重たい洗い髪で、顔は明瞭ではありません。恐怖を覚えてもいいはずなのに、私にはその問いが安らぎでした。
(十五の私は、苦しいみたいです)
唇だけでそう呟けば、ほとびる視界に自分が泣いていることを自覚します。
枕の湿り気だけを供に、私は眠りに落ちました。
*
再び私が安井金比羅宮を訪れたのは、花冷えとなった四月の終わりでした。
凍えるほどの寒さのせいか、記憶にあるほどの参拝客はおらず、心なしか寂しそうに藤が垂れておりました。冷気の沈殿するなか、かつて恐れを抱いた絵馬たちは、変わらず――いえ、さらに数を増やしてそこにありました。
もうその強すぎる願いの言葉たちを見ても、私の中に恐れは生まれません。
その感情は、願いは、もう未知のものではないのですから。
今ならわかります。この絵馬たちに願いを込めた人が、どれだけ苦しく、切なく、すがる
(祈りとは、信仰とは、そんな苦しみのためにあるのだろう)
絵馬を頂き筆をとったところで、ざり、と何かを踏むような音がしました。
「あんた、ねえ、また会ったね」
それは藤でした。まごう事無く、藤が人の形をしておりました。
冷えた空気を裂くように、
「あの、お姉さんは」
「
「……?」
「私の名前だよ。花房というんだ」
私は、とっさに下を向きました。花房があまりに淑やかで、匂い立つような女性だったからでしょうか。私は自分の履き古した履物を、ただ見つめていました。「あんたの名前は?」と問う声に、顔が、耳が火照ります。
「す……
小さく、震えた声は、花房の耳に届いたようでした。すず、すず、と噛みしめるように何度も呟く花房に、小さくなって消えてしまいたいような心地になりました。
(恥ずかしい)
私の内心など知らない花房は、私の頰に触れました。彼女の指先にとっては、私の頰は折れそうな植物で、繊細な細工物でした。それほど優しく触れられたことは、後にも先にも、この時限りでした。
「あんたも、苦しくなっちゃったんだねえ」
声に、これほどの哀しみと、苦みがにじむことがあるということを、私はその時初めて知りました。そしてその哀しみは私のよく知る感情で、苦みは私のよく知る味でした。
「私」
「うん」
「苦しいのです。私は何もできません。できないことが、たまらなく苦しいのです。願うしかできないんです。だから、だから私は、ここに」
言葉が、音だけの叫びになり、冷気を震わせます。「できないんです。できないんです」と叫びの合間に繰り返す私に、花房はただ私の涙を拭って応えました。
そうして、声が枯れ、涙が枯れた頃、花房は何か柔らかいものを私の手に握らせました。潤んだ視界を袖で拭えば、それが御守りだと分かります。白地に金糸で縫い取られた藤は、それが安井金比羅宮の御守りであることを示しています。
「あげる」
それが、その年に聞いた花房の最後の言葉でした。
後から思えば、私は幼すぎたのです。
泣き、叫び、慰められるばかりで――花房が御守りを渡す時に一瞬見えた、鞭でぶたれたような腕の痕について、聞くことすらできなかったのですから。
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