第四幕 つがい殺し
「
私は、目の前で茶をすする彼女へと言葉を投げました。
その笑う口元を抑える手の、爪の形のたいそう良いことに見ほれました。
「あんたの年齢じゃあ知らないのも無理ないね」
「私は、昔役者をやっていたんだ」と呟く彼女の視線ははるか遠く、どこか過去を見ているようでありました。
「だいぶ昔、花房っていう芸名で――」
そこまで言って、彼女は「あんたにはこんな昔の話はつまらないだろう」と、ちらりとのぞいた過去の彼女を隠してしまいます。
雨がしたたかに降り注いだ六月から、寒風が暖気を奪う十二月まで、私と花房はたびたびお互いの家の外で会うようになりました。それほど彼女と会っているにも関わらず、私が彼女について知っていることは、片手の指の数ほどでした。
同性の友達が私だけであること。
笑うと少しだけ、目尻に優しい皺ができること。
安井金比羅宮の藤が何よりも好きなこと。
彼女がかつて女優であったこと。
そして――彼女が、夫に暴力を振るわれていること。
柳のような彼女の手には、月ごとに様々な傷が刻まれます。腕には
そのことにそっと私が触れようとすると、花房はいなすように話題を変え、まるでその傷などなかったかのように振る舞うのでした。
「花房、年が明けたらまた安井金比羅宮の藤を見に行きましょう」
「四月の終わりが盛りだから、そのあたりがいいね」
花房の笑顔とともに、彼女との約束が私の胸に明かりを灯します。言葉にできないそれは、私の頰をいつも淡く染めさせるのでした。
(来年、藤の花の下であのお守りを返そう)
口に出さない自分への約束を胸に、花房とその日は別れました。
*
「とろとろするんじゃないよ!」
分家筋の、名前をまだ覚えきれていない老女が、私に檄を飛ばします。
年が明け正月、私は二度目の長谷本家の屋敷にご挨拶に伺っていました。当然、昨年通り台所仕事もこなさねばなりません。夕刻の宴会時の忙しさは、特に目を回してしまうほどです。一年目の「この子は初めて来たのだから」という周囲の優しさもすでになく、長年台所仕事をこなしてきた人と同等に動かねば、たちまち言葉の鞭がとびます。
「これ、離れのお屋敷に運んであげて」
あまりの私の愚図さを見かねたのでしょうか。「あんたの仕事は私がやっとくから」と言い、同じほどの歳の子が私に徳利と、お猪口がひとつのった盆を渡しました。
(助かった)
私はこれ幸いと、徳利の中身(おそらく日本酒か何かでしょう)をこぼさぬように、離れへ屋敷への渡り廊下をそろそろと歩きました。
屋敷の塀ぎわの廊下は静かでした。時折本邸での宴会の笑い声が聞こえる他は、私の足が廊下を擦る音しか聞こえません。
その弓を張ったような静けさを、離れからの小さな人の声が裂きました。何を言ったかは定かではありませんが、私にはそれは悲鳴のように聞こえました。
(どなたかお困りなのかな)
足早に廊下を渡り、離れ屋敷の戸の前に立ちます。
「失礼いたします。冷やをお持ちいたしました」
返事の代わりに、中から何かが割れる音と、くぐもった悲鳴が響きます。
思わず戸を開ければ――そこには顔を無残に切りつけられた花房と、彼女の夫が居りました。
夫の手に血管が浮くほど握りしめられた刃物には、花房の血液がぽたぽたと滴っています。よほど深く切りつけたのでしょう。物音に振り向いた彼の顔には、返り血がはねておりました。
「な――なにを、なさって」
「娘、手伝え。この女を座敷牢に入れる」
その言葉に、花房がはっと顔を上げます。その顔は唇の端からむごいほど裂け、白い肌を血が濡らしていました。
「どうか、どうか聞いてください。私は、
着物の裾にすがりつく花房を彼は見下ろします。その蛆でも眺めるような目つきに、情のかけらは見当たりませんでした。
「こそこそと外に出て、なにをぬかす」
その言葉で、気づいてしまいました。
(私の、私のせいだ)
私と花房との、たわいのない遊びが、このような流血を招いたのだと。
「違います。聞いてください。違います」
「まだ……、まだ認めないのか!」
その時、どうしてそんな風に体が動いたのか、自分でも分かりません。
彼が刃物を振り上げる瞬間、私は手元の徳利を、その中身を彼の目にぶちまけました。そして彼が取り落とした刃物を、自分の手に握りしめたのです。
何度刺したか、覚えてはおりません。
ただ、刃物に骨がぶつかる感触だけが、手にねっとりと残っておりました。
刺して、刺して、花房の――房子の夫だった人間がただの物になったころ、私はやっと顔を彼女の方に向けました。私のまつ毛から、瞬きをするたび血がぽつりぽつりと垂れます。
私も花房も、もう誰のものかわからない血にまみれておりました。
しかし彼女の目には、私が恐れていた怯えも恐怖も浮かんでいませんでした。
「鈴、鈴、もう駄目。駄目だ。逃げてしまおう」
彼女がその言葉で私の背を押し、私が彼女の手を引きました。
人殺しの女と、夫を殺された女は、互いの掌だけを頼みに走りました。
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