第四幕 つがい殺し


花房はなふさは、まるで女優さんみたいに綺麗です」


 私は、目の前で茶をすする彼女へと言葉を投げました。


 すずの前では花房、鈴以外の前では房子と、仮面のようにくるくると言葉づかい、表情、振る舞いを変える彼女は、まるでほんとうの女優のようです。指の先まで今は花房として振舞っている彼女は、私の言葉を冗談を聞いたかのように笑いとばします。


 その笑う口元を抑える手の、爪の形のたいそう良いことに見ほれました。


「あんたの年齢じゃあ知らないのも無理ないね」


 「私は、昔役者をやっていたんだ」と呟く彼女の視線ははるか遠く、どこか過去を見ているようでありました。


「だいぶ昔、花房っていう芸名で――」


 そこまで言って、彼女は「あんたにはこんな昔の話はつまらないだろう」と、ちらりとのぞいた過去の彼女を隠してしまいます。


 雨がしたたかに降り注いだ六月から、寒風が暖気を奪う十二月まで、私と花房はたびたびお互いの家の外で会うようになりました。それほど彼女と会っているにも関わらず、私が彼女について知っていることは、片手の指の数ほどでした。


 同性の友達が私だけであること。


 笑うと少しだけ、目尻に優しい皺ができること。


 安井金比羅宮の藤が何よりも好きなこと。


 彼女がかつて女優であったこと。


 そして――彼女が、夫に暴力を振るわれていること。


 柳のような彼女の手には、月ごとに様々な傷が刻まれます。腕には烟草たばこを押し付けられた火傷が、くるぶしには竹刀で殴打したような青痣が、彼女が自分のものであると主張するように顔をのぞかせます。


 そのことにそっと私が触れようとすると、花房はいなすように話題を変え、まるでその傷などなかったかのように振る舞うのでした。


「花房、年が明けたらまた安井金比羅宮の藤を見に行きましょう」

「四月の終わりが盛りだから、そのあたりがいいね」


 花房の笑顔とともに、彼女との約束が私の胸に明かりを灯します。言葉にできないそれは、私の頰をいつも淡く染めさせるのでした。


(来年、藤の花の下であのお守りを返そう)


 口に出さない自分への約束を胸に、花房とその日は別れました。

 

 



「とろとろするんじゃないよ!」


 分家筋の、名前をまだ覚えきれていない老女が、私に檄を飛ばします。


 年が明け正月、私は二度目の長谷本家の屋敷にご挨拶に伺っていました。当然、昨年通り台所仕事もこなさねばなりません。夕刻の宴会時の忙しさは、特に目を回してしまうほどです。一年目の「この子は初めて来たのだから」という周囲の優しさもすでになく、長年台所仕事をこなしてきた人と同等に動かねば、たちまち言葉の鞭がとびます。


「これ、離れのお屋敷に運んであげて」


 あまりの私の愚図さを見かねたのでしょうか。「あんたの仕事は私がやっとくから」と言い、同じほどの歳の子が私に徳利と、お猪口がひとつのった盆を渡しました。


(助かった)


 私はこれ幸いと、徳利の中身(おそらく日本酒か何かでしょう)をこぼさぬように、離れへ屋敷への渡り廊下をそろそろと歩きました。


 屋敷の塀ぎわの廊下は静かでした。時折本邸での宴会の笑い声が聞こえる他は、私の足が廊下を擦る音しか聞こえません。


 その弓を張ったような静けさを、離れからの小さな人の声が裂きました。何を言ったかは定かではありませんが、私にはそれは悲鳴のように聞こえました。


(どなたかお困りなのかな)


 足早に廊下を渡り、離れ屋敷の戸の前に立ちます。


「失礼いたします。冷やをお持ちいたしました」


 返事の代わりに、中から何かが割れる音と、くぐもった悲鳴が響きます。


 思わず戸を開ければ――そこには顔を無残に切りつけられた花房と、彼女の夫が居りました。


 夫の手に血管が浮くほど握りしめられた刃物には、花房の血液がぽたぽたと滴っています。よほど深く切りつけたのでしょう。物音に振り向いた彼の顔には、返り血がはねておりました。


「な――なにを、なさって」

「娘、手伝え。この女を座敷牢に入れる」


 その言葉に、花房がはっと顔を上げます。その顔は唇の端からむごいほど裂け、白い肌を血が濡らしていました。


「どうか、どうか聞いてください。私は、房子ふさこは不貞など働いていません」

 着物の裾にすがりつく花房を彼は見下ろします。その蛆でも眺めるような目つきに、情のかけらは見当たりませんでした。


「こそこそと外に出て、なにをぬかす」


 その言葉で、気づいてしまいました。


(私の、私のせいだ)


 私と花房との、たわいのない遊びが、このような流血を招いたのだと。


「違います。聞いてください。違います」

「まだ……、まだ認めないのか!」


 その時、どうしてそんな風に体が動いたのか、自分でも分かりません。


 彼が刃物を振り上げる瞬間、私は手元の徳利を、その中身を彼の目にぶちまけました。そして彼が取り落とした刃物を、自分の手に握りしめたのです。


 何度刺したか、覚えてはおりません。


 ただ、刃物に骨がぶつかる感触だけが、手にねっとりと残っておりました。


 刺して、刺して、花房の――房子の夫だった人間がただの物になったころ、私はやっと顔を彼女の方に向けました。私のまつ毛から、瞬きをするたび血がぽつりぽつりと垂れます。


 私も花房も、もう誰のものかわからない血にまみれておりました。


 しかし彼女の目には、私が恐れていた怯えも恐怖も浮かんでいませんでした。


「鈴、鈴、もう駄目。駄目だ。逃げてしまおう」

 

 彼女がその言葉で私の背を押し、私が彼女の手を引きました。

 

 人殺しの女と、夫を殺された女は、互いの掌だけを頼みに走りました。

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