〝ありがとう〟そして〝さよなら〟(※グロ注意)
〝ありがとう〟そして〝さよなら〟(前)
■編者より警告■
【ここからは人間を解体・調理する詳細な描写を多大に含む】
出版の際にカットするか否かは何度も議論されたが、イオはこの場面をきっちり説明しておきたかったと考えられ、編者はその意思を汲む判断を下した。
読者諸氏には覚悟を決めた上で、イオが初めての人肉食を受け容れる様を追っていただきたい。しかし、不愉快であるならば決して無理せず「読まない」という選択肢のことを思い出して欲しい。読むか否か、判断するのはあなただ。
※
奉納の後で何を食べたのか、よく思い出せない。僕は贄の解体が始まるまでの空き時間を、バカみたいにソファで呆けて過ごした。
こんなことで大丈夫かと我ながら心配になったが、「始めますよ」とカズスムクに声をかけられた途端、体はばね仕掛けのように勝手に動き出す。
時刻はようやく、朝と呼べる時間帯にさしかかっていた。
皆は長袖長ズボン、厚手の作業服に、上から分厚い革エプロンをかけ、髪がこぼれないようしっかり頭に布を巻いていた。完全に屠殺人の格好だ。
扉が開くと、消毒剤のような樹脂の香気と音楽が漂ってきた。入り口のすぐ手前に大きな火鉢があり、そこで
壁にはロウソクを並べる一段の
そして中央正面に、薄絹をかけられた遺体が三人分、ぴかぴかの鎖で吊るされていた。首のない裸身が、逆さまの影で紗に透ける。
奥には一段高いステージがもうけられ、少人数の楽団が登っていた。
「香を体にかけてお入り下さい。心身の穢れを払い、魂を鎮めます」
とカズスムクに指示され、僕は先を行く皆のやり方を見てならった。火鉢(※
鼻が慣れてくると、香気の底に独特の生臭さがこびりついているのが分かった。昨日今日始まったものではない、長い年月をかけて蓄積された血と脂の地層だ。
「伯爵、いえカズスムク、何のための演奏ですか? これは」
「もちろん、彼ら三人に聴かせるためですよ、イオ」
意外に思えた返答は、すんなり僕の頭に馴染んだ。焚きしめられた没薬の香気と音楽、つつましく部屋全体を彩る壁画が宗教的な雰囲気を醸し出すためだろう。
「彼らの肉体はまだ食卓に供されず、ユワのみもとへたどりつけていません。この待ち時間は死者がもっとも孤独を感じる時で、遺体の周りを魂がさまよっています。ですので、せめてもの慰めに鎮魂曲を奏でてもらうのです」
「もしかして、儀式から今までずっと?」
「ええ。最初の祭宴が終わるまで、交替しながら付きっきりでお願いしています」
それだけ楽団を働かせられるのも、貴族の冨貴と言うほかない。
僕らはまず、吊るされた遺体の前へ集まった。カズスムクらが休憩している間に、使用人の手で血液と体毛は処理されている。
腹から手を入れるやり方では、血は横隔膜に遮られて
大事に
肉に血液を残すと傷みやすく、しかも臭みが出るので、血抜きは重要な問題だ。完全に出し切るには、心臓を動かしたまま頸動脈を切るのが一番良いと言う。
特に逆さに吊るして
代わりに、彼らは体内から心臓の大血管を切る方法を採用した。
ただし、
贄は生前、腕・すね・脇・陰毛に至るまで体毛を剃り落としているが、爪だけは残している。これは指先に湯をかけてペンチで剥がし、体毛は火でさっとあぶって仕上げ、ようやく薄絹を被せられる状態になるのだ。
こうして準備された【肉】の前には、白樺の丸太をまるごと削り出し、様々な花柄を彩色された台が一つずつ置かれている。
専用の首置き台〝スタイロア〟〔Stagruoa〕だ。
切断され顔料を落としたアジガロの首は、眠るようにまぶたを閉じられて、籠に収められていた。柔らかなクッションにくるまれていて、大事に奉られているようだ。
中つ宮に入る前、ニフロムを一杯勧められたが、飲んでおいて正解だった。しらふなら、僕は逃げ出していたかもしれない。
カズスムクは両手で首を捧げ持つと、
「
と唱えて、額合わせの挨拶をした。
その後ろで、僕ら全員は軽く俯いて、しばし黙祷する。この挨拶は直訳すると上記のようになるが、多義的な意味を含むものだ。
お待たせしました、これからあなたを調理します、よろしくお願いいたします、とか。あるいは幸いあれ、安らぎあれ、暖かなユワの光に包まれますように、とか。
とにかく食材となった贄へ送る、特別な感謝の言葉だ。僕は色々な人にその意味を訊ねて回ったが、一つのフレーズに翻訳するのは厳しい。
同じように、他の二人の首にハーシュサクらは挨拶し、その都度僕らも黙祷した。
「では、本日の作業についてご説明しますね」
カズスムクは遺体に背を向け、事前に打ち合わせた内容をおさらいした。
「大まかな流れは内臓の摘出と皮剥ぎ、手足の解体です。私とハーシュサク叔父上、」「ほいさ」
「クトワンザス叔父上はそれぞれ贄の頭部を処理いたします」「うむ」
「ヴェッタムギーリ叔父上は、息子さんたちとアジガロを」「よし」「はいっ」「はーいっ」
「カッマルキリエ殿はミュトワをそれぞれお願いいたします」「ああ」
「では、ヘレイムを待たせないよう、要領よく行いましょう。イオは皆の邪魔にならない場所で、見学なさって下さい。吐き気を堪えられない時は、桶があります」
「ご迷惑はおかけしません」
贄の体から薄絹をはがすと、作業開始の合図だ。この布は後で焼いて処分される。アジガロの首籠を恭しく持つカズスムクに、僕はおずおずと声をかけた。
「大丈夫ですか?」
これは髪を剃り、皮を剥ぎ、鼻や眼球を取り除いて、脳を抜き取る。生け贄の一番人間的な部分、「顔」を見ながらの仕事だ、精神的な負担は相当だろう。
成人している他の二人はまだしも、カズスムクはまだ十七歳だ。
「ご心配なさらず。パーツが多いので細やかな作業になりますが、慎重に臨めば問題ありません。眼や脳は傷みやすいので、しばらく集中しますね」
僕の間抜けな憂慮に、彼は微笑んで去っていった。本当に難易度だけの問題なのかは定かではないが、今さらと言えば今さらな話だったかもしれない。
だが、昨夜ソムスキッラと話したことが僕は気にかかっていた。奉納も、これからの解体も、連日続く調理も、すべてタミーラクの身に降りかかる出来事だ。
ずっと身を案じている親友がどうなるのか、自らの手で体験させられるような行為に、彼は責任を持って直面している。その内心は僕には分からなかった。
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