奉納の儀(後)

「立ち上がられよ」


 筆と小皿を司祭に返し、カズスムクはアジガロに声をかける。角を塗り終えられた彼は、ゆっくりと身を起こした。


「なんじが生きてきた道を示すように」


 司祭と助手が、それぞれ深めの小皿を持って前へ進み出る。カズスムクは腰から自分のアウクを短剣抜くと、アジガロが差し出した左手首を真横に切り裂いた。

 一瞬何が起きたかと思うくらい、速やかで躊躇のない動きだ。僕が見ている前で、司祭は流れ落ちる血を皿に取った。


「なんじが辿りゆく道を示すように」


 今度は右の手首だ。同じように切り裂かれ、アジガロはしばらく両手を突き出したまま血を流し、司祭らの皿を満たした。

 一つ目の小皿、左手の血を満たした小皿がカズスムクに渡される。二つ目の小皿、右手の血を満たした方はアジガロに。

 一口にも満たないそれを、二人は同時に飲んだ。

 まるで死に化粧のように、血の色が唇を彩る。


「なんじを責める痛みはありや?」

「一つの憂いも、一つの涙も、もはや流した血の中に」


 痛み消しのニフロムは、確かに効能を発揮しているようだ。


「その安寧のうちに、ユワと祖先のもとへ」


 カズスムクは体を横にずらし、片手で大ウプトアの祭壇を示す。まるで貴婦人をエスコートするように優美なしぐさは、贄に対する精いっぱいの敬意なのだ。

 アジガロは進み出でて、輪廻十字型のそれに身を預ける。十字架の交差部分と環の間に手を入れると、助手がその手首に赤い布を巻きつけた。

 彼がこちら側を向いたことで、僕はようやくアジガロの顔をよく見られる。それは微笑とさえ言っていい、穏やかな表情だった。


 これがニフロムの効果なのか? それとも彼は完全に覚悟が決まっていて、何の憂いも恐れもなく、ただ殺されることを受け容れるだけなのか?

 もし、そこに少しでも恐怖や悲哀の色が覗いていれば、僕の胸ははり裂けそうになっていただろう。実際は真逆だというのに、僕はかえって内臓がきりきりと細く絞られる心地がした。カズスムクの言葉が耳によみがえる。


――誰もが口を閉ざすのです。

――皆そうでした。二人きりの時でさえ、決して死にたくないとは言ってくれない。


 不意に僕は気づいた。言わないのは自分も、それを聞く相手も、無力だからだ。

 今日ここで死ぬ三人の贄も、これまでマルソイン家に捧げられてきた贄も、三年後のタミーラクも、その運命については僕もカズスムクも等しく、〝何もできない〟。


 贄の一人に同情して逃したとして、その人はいったいどこで生きていけるというのか。魔族が人族の元で暮らすことは現実的ではないし、魔族の国家はいずこでも、逃亡贄には厳しい。生きようとあがいた贄は、およそ悲惨な目に遭うものだ。

 贄に選ばれれば確実に死ぬ。その大秩序が守られなければ、【肉】の供給システムが破綻し、飢餓が始まるのだから。もし、同族を食べる仕組みが間違いだと言うのなら、魔族という生物の成り立ちそのものがそうだろう。


 そのことを非難できる人族は――まあつまり、昨日の僕は――安全圏から好き勝手言っているだけの、足元が見えていない馬鹿に過ぎないのだ。

 すべての生き物は、他の命を食べなければ生きていけない。もし魔族が間違った生き物ならば、「正しい」生き物など、最初からひとつも無いのではないか?

 無謬むびゅうなるかなザドゥヤ、に人は無力だ。抗うことのできない原理の中で、アジガロは死ぬ。彼自身もそれを悟っているに違いない。


 聖厨職人が捧げ持つ青い鞘から、カズスムクは短剣を抜いた。

 儀式短剣カパラは刃渡り1ガルカ〔Ĝalka〕。天井から降り注ぐ陽光を照り返すと、その鋭い輝きが、場に残った雑念の糸をふつりふつりと切り捨てる。

 カズスムクはアジガロの前に立った。

 気負いなく短剣を握り、切っ先をぴたりと腹につける。あたりに満ちるピリピリした緊張感で、空気は沸騰寸前の水のようだった。


「よろしいか?」

「何もかも」


 カズスムクの声も、アジガロの声も、震えていない代わりに青ざめたように冷えきっていた。最期の時だ。カズスムクが別れの言葉を告げる。


おしいただくイェル・アグイエ・ユワ」〔Hel aĝie yva〕


 刃が押しこまれた瞬間のアジガロはあまりにも静かで、カズスムクが聖厨職人に短剣を返すまで、僕は「いつ切るんだろう」と間抜けなことを考えていた。

 きらびやかな手甲に包まれた手が突き入れられる。カズスムクはここから内臓をかき分け、横隔膜を破って、心臓の大動脈を探り当てるのだ。

「人差し指と中指でひっかけて、ピンと弾くと即死する」と、昨夜ハーシュサクは説明してくれた。素早くやるのが何より肝要だ、と。


 濁った、耳の奥底にこびりつくような吐息がもれて、アジガロの体が跳ねる。まさにその瞬間が来たのだ。かっと見開かれた目から、僕は光が消えるのを感じた。

 カズスムクは血まみれの手で再び短剣を受け取る。一息に胸を切り裂き、両手を入れて中を探ると、ぶちぶちと何かがちぎれる不気味な音がした。


 それが僕の錯覚なのか、現実にあったことかは分からない。カズスムクが真っ赤な手を引き抜いた時、彼はこぶし大の、かすかに動いている塊を握りしめていた。

 銀盆にそれが乗せられると、脱力した体は大ウプトアから下ろされ、横にある石の台、小ウプトアに横たえられる。頭は台からはみ出し、その下に桶が設置されると、聖厨職人がやって来て、斧を振り下ろした。


 ばきん、と頑丈な棒が破断する音、湿った音、誰かがたまらず息を呑む声。

 あっと思う間もない。静けさの中で、祭壇後ろの壁が開かれ、アジガロの首と体はその奥へ運ばれていった。中つ宮ユインデルキャルスへと。

 タミーラクは、このように死ぬのだ。



 残り二人の奉納もつつがなく進行し、辺りは血の臭いに満ちていた。

 僕はようやく終わったという疲れ切った気分と、もう終わったのかというあっけない気分とが同時にやってきて、足元がふらつきそうだ。


「これより汝らの罪なきこと、ユワの審判をあおぐ」


 閉会の前に、司祭が最後の段取りを告げる。

 これまで、ザデュイラルでは死者の遺体は食べて弔われると何度か述べたが、その際に遺族が避けるべきことは「食べるために身内を殺した」と思われることだ。

 食うために人を、とりわけ家族を殺すことは祭礼以外では重罪になる。だから、葬儀の前には身の潔白を神々に証明する儀式が必要となった。


 それが転じて、今日こんにちでは奉納の場でも〝私はよこしまな思いで贄を殺してはおりません〟という誠意の証明と、殺人の罪について神の赦しを請う儀式が行われるようになった。時代と共に、罪悪感が強くなっていったということだろうか。

 用意されたのは、アラカシ〔Alaqas〕という髑髏の杯が三つと、人数分の角杯。マルソイン家祖先の頭蓋骨に、踊る神々や木々の彫刻を施した品だ。


 眼から上は切られて蓋になっており、中は粘土を詰めて銀箔を貼った容器に加工されている。頭蓋の中いっぱいに、贄の鮮血を混ぜた蜂蜜酒が満たされていた。

 髑髏杯アラカシから角杯に血酒が注がれ、全員でそれを飲み干す。もし吐き出したり、苦しむようなら、その者は邪心を持って奉納の場に居たか、贄に不当な苦しみを与えたとみなされる。人間でなくとも血の酒なんて、僕は初めてだ。


 数時間後には贄の解体から調理が行われ、僕はそれを見学して人肉を食べる。今さら、これぐらいで戸惑っている場合ではないのだ。僕は一息にそれを飲み干した。

……ガムルよ、お許しください。

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