無謬の獣と真理の肉(後)


 晩餐を終えて客室に戻ろうとすると、ソムスキッラに「少し話さない?」と声をかけられた。ホールのソファに向かい合って座ると、彼女はすぐ話題を切り出す。


「カズスムクの眼のことは聞いた?」

「はい、お嬢さまユーダフラトル。伯爵ご自身の口から」


 そう、とソムスキッラは短く言って、話を続けた。


「では、去年の夏至祭礼で、カズスムクがどんな失敗をしたかは?」


 それは知らない話だ。だが、なぜそれを今?

 カズスムクとタミーラクの間にあるものがどれほど重いのか、僕はようやく理解した。それを以前から知っている彼女は、未来の伯爵夫人は、どう思っているのだろう。この話も、二人と関係があるのだろうか。


「少し黙ってお聞きなさいな、ガラテヤ人。贄本人の死を悲しみこそすれ、〝惨い〟と悼むことは、本来あってはいけないのよ。彼らが捧げた命に感謝して、わたくしたちは明日も生きていかなくてはならない。それが食べる者の義務」


――贄の神聖な役目を軽視し、その死を嘆くことは許されない。

――でもあなたは違う、異国の、異種族の、よそもののあなたは違う。

――ぼくは、それが、何よりもうれしい。


 カズスムクには誰も共感してくれる者がいなかった、タミーラク自身さえ。それがザデュイラルという、同族を食わねばならない社会の有りようなのだ。


「カズーは完璧なの、贄の解体も、【肉】をさばくのも。料理の腕だってひとかどのものよ。でも昨年、初めてムーカル役を奉納する時は違った。お父上が66年の贄に指名した相手は、栗色の髪の青年だったの」


 即座に、僕はタミーラクの顔が思い浮かんだ。


「髪の色以外は、どこもタミーラクに似ていなかったわ。でも祭壇に上がったその子を見た時、カズスムクは明らかに動揺して、それを抑えきれていなかった。……結果、彼は手元が狂って深く刺し過ぎてしまったの。贄にはニフロムの注射が追加され、聖厨職人イェルテミが残りの手順を代行するハメになったわ」

「それ、アジガロも知っていますよね?」


 もちろん、とソムスキッラはうなずいた。「ミルには誤魔化しているけど」とも。

 アジガロは先代からマルソイン家に仕えている。その顛末を知った上で、彼はカズスムクに「信じております」と言った。


「決して失敗できないのよ。あなたが思っている以上にマルソイン家は緊張しているし、この大事な時にガラテヤ人を交えるべきじゃなかった、ってまだ言っているわ」


 誰が言っているのかは、何となく想像がつく。


「間違ってもお邪魔はいたしません」

「それが嘘なら、あなたの皮を剥がして剥製にしてやるから、覚悟なさい」


 あまりにも真剣な眼で宣告されてしまった。博物館に飾ってもらえるなら魅力的な死後の提案だが、その話は置いておこう。


「カズスムクは〝食べる者〟の義務に反して、ミルに眼を捧げた。彼がどれだけ非難されてきたか、あなたは知らないでしょうね。大トルバシド卿が、亡き伯爵閣下に免じて目をかけて下さっているから、まだ良い状況だけれども」


 つくづく先代アンデルバリ伯爵は、息子を大切にしていたものだ。僕は父親の話をした時の、年相応にはにかんで見せたカズスムクを思い出した。


「彼はこれからずっと、もうあんな間違いは犯さないと証明し続けなくてはならないの。明日の奉納はその手始めで、二十歳で爵位を継げば、なおさらに」

「間違い、ですか」


 アンデルバリ伯爵の婚約者、イェキオリシ伯爵令嬢がその言葉を使わねばならないのは分かる。だが、ソムスキッラ自身の真意はどうなのか。


「お嬢さまは、伯爵がそのような真似をすべきではなかった、と思われますか?」


 彼女の本心を訊ねる資格が自分にあるのかどうか、検討の余地はあったはずだ。だが僕は自身の好奇心でもってそれをねじ伏せた。いつものように、わざとらしく。


「あなた、初めて会った時にわたくしたちを〝公平〟と言ったわね」


 イェキオリシ伯爵令嬢は、冷たく研ぎ澄まされた表情になった。


「あなたは本当に無礼なガラテヤの猿だけれど、今さら噛みつきたいのではないわ。わたくしたちは本来、そうあるべきなのよ」


 僕は苦い顔を隠すこともできなかった。


「だって、死んだ後に召し上げられることと、召し上げるために殺されることでは、まったく釣り合いが取れていないのではなくて?」

「それは、そうです。葬儀で弔いのために食べることは、まだしも理解できる。ガラテヤでも受け容れられる者はいると思います。けれど、祭礼の贄は違う」


 そうよ、と。ソムスキッラは小さく息を吐いた。水銀と鉛の雨のような、ひどく重たいひとしずくのため息。


「カズスムクは公平でありたいために、贈り物をしたわけではないわ。だけど、わたくしも従姉が召し上げられる時、彼のようにすべきだった」


 でも、できなかったのよ――それがわたくしという人間だったから。


 彼女のつぶやきが響いたホールは、いつになく広々として空疎に思えた。声はあまりに寂しげで、自分はこの程度だと見切った人間の、若者には不似合いな諦念に満ちていたから。それは遠くどこかで、酔ったハーシュサクの声にも似ていた。


 この国の人たちが持つ声音は、根底にひっそりと疲れを滲ませている。

 ハジッシピユイのように、まったくそう感じさせない例外もいるにはいるが。カズスムクも、タミーラクも、マルソイン家の一族も、アジガロも、ザミアラガンも皆そうだ。そう聞こえた。悲しみに耐え続ける疲労と倦怠。あるいは乾ききった喪失感。


「彼の行いは、あまりにも正しいから。誰もそれを赦してやれないんだわ」


 僕の耳に、今度は清冽な声が聞こえた。年相応のみずみずしさと、清水のような真っ直ぐさで、疲れなど知らぬような断言。


「わたくしが望むことはただ一つ。タミーラク・ノルジヴが、カズスムク・シェニフユイのユワを、ともに連れて去らないことだけ。ミルが去っても、カズーはこれまで通りこの世に、ユワの畑に留まり続けるの。〝アンデルバリ伯爵〟という器を満たすにふさわしい男として。誰よりも正しい彼なら、できる」


 ソムスキッラの口調は縦に割られた植物の茎、その芯に隠れた真っ白なもののように純粋で清廉で、痛々しいほど脆い。それは恋心のやわさだ。

 僕がそっと彼女の表情をうかがうと、先の冷たい面持ちから、毛ほども動いていない。声音と青い瞳だけが、ただただ柔かった。


「その隣に立てる女はわたくしだけ。一生をかけて彼を支え続けるわ」


 恋から愛へと脱皮していくまさにその瞬間を、僕はこの時目にしたのだと思う。


「だからお願いよ、イオ、あと十日ほどで去ってしまうよその国のひと。あなたと話すことは、彼にとって小さな救いになる。それがどうしてかは、自分でも分かっているはず。これまで通り、カズスムクをよろしく」


 マルソイン本家の家族は少ない。母親のベツアペルテス〔Batsapåltes美しい真珠〕が病弱で、それが長女と次男に遺伝したためだ。ベツアペルテス自身はカズスムクが八歳の時、難産で母子ともに死亡。次男も角が生えてまもなく亡くなった。カズスムクの父シェニフユイは再婚を検討したが、不幸にも落馬の事故で死去。


 現在、マルソイン本家は兄と妹の二人しか残されていない。後見のレディ・フリソッカがいるとはいえ、まだ若いカズスムクには伯爵家の家名がかかっている。

 だが、彼女がいるならば、きっとマルソイン家は大丈夫だ。



 僕は就寝前に、いつもより入念にガムルに祈った。

 神よ、イオ・カンニバラは明日、目の前で殺人が行われることを黙認します。その後、殺された者の血と肉を口にします。すべては自らの好奇心のため、そして彼らザドゥヤの人々への敬意と親愛のため。それをどうぞお赦し下さい。

 もし、これを悪魔イヴァの所業であり、罪となさるなら、夜の内に僕を殺して、朝を迎えないようにさせて下さい。

 御心のままにジェナンテーム


……眠ったつもりが、夜中に何度か目が覚めたように思う。ちゃんと睡眠が取れたのかは、あまり自信がないし、中々寝つけなかった。それでも朝は来るし、僕は生きて時間が来たことを悟った。神よ、感謝いたします。

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