五 血と肉の食卓《イェルザカーフ・マーミナ》ⰘⰅⰎⰔⰀⰍⰧⰗ ⰏⰧⰏⰋⰐⰀ

はなむけの肉、黒太陽の眼

はなむけの肉、黒太陽の眼(前)

 夏至祭礼当日を前にして、僕は荷づくりを始めた。今からでも探せば、ガラテヤ行きの船をつかまえられるだろう。一刻も早く、こんな人食いの国から逃げ出したい。

 僕の主人たる好奇心がすみに追いやられ、恐怖と嫌悪に支配されるなんて、このイオ・カンニバラの人生において滅多にない。だが、もう無理だ。


 食人鬼タミラス――おお、食人鬼タミラスども! もうたくさんだ、彼らは僕が想像したほど血なまぐさい人々ではなかった。もっと厭わしい別の何か、まさに悪魔イヴァの申し子だ。

 ここではみんな狂っている。


 人の親だって聖人ではないのだ、我が子を傷つけたり売り飛ばしたりするやつはいくらでもいる。だが、それは裁かれるべき悪であって、褒められた行為ではない。

 親の子殺しが讃えられ、子が殺されることを幸福と信じる世界。

 父親に調理される息子が美味に仕上がることを称賛される世界。


 頭がおかしくなりそうだった。これ以上、コガトラーサの父子のついて考えていたくない。――何かをそんな風に思ったのは初めてだ。

 時刻はもう晩なのに、白夜は薄暮のような橙の光を室内に降り注ぐ。夜の静けさを持たない猥雑な空の下、ノックの音が響いた。


Ⱖ Ⱁイオ, ⰋⰀⰘヤー ⰖⰎウル ⰘⰏⰋⰕⰩⰟⰊアミトーユ ⰄⰀⰟⰊダコ ⰔⰀⰝザフ


 amitǫy(話す)、daq(少し)、sach(今)……僕はひどく苦労しながら、頭の中をガラテヤ語からザドゥヤ語に切り替え、なんとか返事する。


「申し訳ありませんが伯爵、今は一人にしていただけませんか」

「そう言って、二度と私に会わないおつもりでは?」


 完全に見透かされていた。こっそり屋敷から抜け出そうにも、あっさり捕まえられてしまうかもしれない。僕は観念してカズスムクを招き入れた。勧められた椅子に腰かけながら、彼は明らかに荷造り中だった箱型ベッドを見やる。


「明日からは、あなたが待ちに待った夏至祭礼でしょう、帰り仕度には少々気が早いのでは?」

「気が変わっただけですよ」


 彼の顔を見たくなくて、僕は歩き回った挙げ句、窓の外に視線を定めた。


「もう充分、この国を拝見しました。今は故郷に帰って心身を休めたい」

「それも良いでしょうね。けれど、あなたらしくもない」


 僕の何を知っているというのか。そんな反駁はんばくが口から出て燃え上がりそうなのを、唇を噛んで耐える。カズスムクは今の僕にとって、ただのおぞましい食人鬼だ。彼に名を呼ばれることさえ不愉快だった。


「だから問いたいのです、イオ。なぜ急に帰国を決意されましたか? 挨拶回りハルシニの最中、あなたは突然逃げ出した。いったい何に恐れをなしたのです」

「すべてです」


 白夜のギレウシェ市街を見つめながら、僕は声が大きくなるのを必死で堪える。


「あの時、よく分かりました。あなた方は皆おぞましい存在だ。同族を、人間を食べずには生きられない、そんな快楽を二重三重に正当化して営みをくり返す食人鬼。僕にはもう、一緒にいることが耐えられない。夏至祭礼もどうでもいい!」


 僕はカズスムクが怒るのではないかと思って、少し身構えながらそっと振り返った。けれど、彼の表情はゆるぎない冷静そのものだ。

 最初から人間らしい感情など持ち合わせたためしがない、氷を削り出して作った彫像のように。美しいが、何も通じ合わない冷徹。


「お心変わりのきっかけは、トルバシド侯爵家ですね?」

「ええ、伯爵。そんなことを確認してどうするんですか」


 再び視線を外した僕を、諦めの悪そうな声がつつく。毛ほどの乱れもないつややかな美声は、僕の剣呑な態度など、歯牙にもかけないと言わんばかりだ。


「あなたが何を拒絶しているのか、知りたいのですよ」

「すみませんが時間の無駄です。言ったでしょう、もう僕はあなた方のすべてが耐えられないんだ!」

「本当にあなたらしくもない」


 彼の言葉の何もかもが、僕を苛立たせ、かんに障った。


「私は、あなたのいつでも知的好奇心に突き動かされる姿を、好ましく思っていましたよ。博識な上、新しいことの吸収も早い。タミーラクやソムスキッラも……」

「それはどうも!」僕は窓枠を拳で殴りつけた。「ですが、過去の話です。今の僕は目も耳も塞いで帰りたいだけなんだ! あの親子の話はやめてくれ!」

「イオ。タミーラクの死は逃れえぬ決定事項です。であればこそ、腕の良い料理人の技にあずかることは、どの贄にとっても幸いなのですよ。彼の場合、この国で最も優れた料理人が父親で――」

「やめろ!!」


 思わず僕は耳を塞いで怒鳴った。食人鬼のおためごかしも、正当化も、狂った理屈ももうたくさんだ。聞きたくない。僕は全身全霊で拒絶を表していた。


「あんたたちと僕は違う。人間だ。人肉なんて食わない、今も昔も、これからも! 食うために殺す、さもなくば飢える。それは間違いなくあんたたちの不幸だ、そう造ったユワを恨むがいい!」


 あげくの果てに、こう思った――こいつが黙らないのなら、代わりに自分がしゃべり続けてやる! 僕は振り返って、姿勢良く座るカズスムクに向き直った。


「殺すことも、死に行くもののことも、欺瞞に欺瞞を重ねて塗り固めないと正気でいられないんだろ。最初から狂っているなどと気づかないで。あるいは気づかないふりをして。……でも、言ってやる」


 はらわたの奥から、心の底から、膿のように言葉があふれる。


「タミーラクは自分の父親に殺される、豪奢な地獄で育てられて、極上の料理に仕立て上げるために。何一つ美しくも喜ばしくもない、ただただ惨たらしいだけだ」


 膿が、反吐が、僕が汚穢おわいと感じるあらゆるものが、魂から直接ほとばしっていった。もはやすべて吐き出してしまわなければ、僕は破裂してしまう。


 ガラテヤに帰りたい。

 ザデュイラルから逃げたい。

 ザドゥヤの何もかもを、自分の心と体から残らず取り除いてしまいたい。


「彼自身がどう思おうと、そんな死に方、否定してやる。なにもかも間違いだ! だから僕はここを出ていく、分かったかちくしょう!」

「イオ」


 僕は懐の護身用拳銃を握った。

 カズスムクが椅子から立ち上がり、


「あなたはやっぱり、私が思った通りの方だ」


 物柔らかな、そして素朴な微笑みを浮かべる。

 そこには、怒りや攻撃の前兆になる気配はどこにもない。予想外の反応につい、僕は会話を続けようとしてしまう。


「……僕をなんだと思っていたんですか」

「それをこれからご説明しますよ。そして改めてお願いいたします、イオ、ガラテヤに帰られる前に、祭宴パクサに参加なさって下さい」

「なぜ!?」


 これには思わず面食らった。夏至祭礼は重要な祭りで、祭宴に参加するにはいくつかの条件をクリアする必要があった。典礼語手話もその一つだ。

 だが、僕は力いっぱい、宴の主人である彼を罵倒したばかりではないか。地位も後ろ盾もない不愉快な客を、わざわざ招く道理などない。


「僕は言ってみれば、ハーシュサク殿が連れてきた〝外国のおみやげ〟で、良く言ったって単なる宮廷道化師でしょう。ぜひ祭宴になんて、そんな価値がありますか」


 ザミアラガンの発言から、僕はマルソイン家の叔父と甥の間に確執があることを察した。ハーシュサクのこれまでの言動を振り返って、ふに落ちたのだ。


「そうですね。叔父上は父の死後、私とマルソン家を放ったらかしにしていたことを悔いておられるようです。ですが、それは関係ありません。イオ、あなたに祭宴に出る価値があるとしたら――」



「タミーラクの死を〝ひどい〟と、心の底からそう思ってくださったからです」



 僕は、この世で一番澄んだ声を聞いた気がした。


「私は友人を憐れみたいのではありません。彼は幸せな人生を歩んできました。これから先の三年間も、それは変わらないでしょう。だから誰もが言うのです、〝贄として死ぬさだめに、何の不満もないだろう〟と。彼自身さえも」


 純水のように真っ直ぐな声音が、先ほどまで僕が抱いていた嫌悪感を洗い流していく。ほんの数時間のことだったのに、はるか昔に感じていたように、僕は再びカズスムクが人間のように見えてきた。まばゆく輝く、氷の彫像がごとき少年に。


「でも、死ぬのです。たった二十で」


 言葉と同じぐらい透明なものが、隻眼からこぼれた。


「贄の神聖な役目を軽視し、その死を嘆くことは許されない。ただ祝福し、感謝し、讃えよと。それは我々にとっての絶対正義であり、私も正しいと思います。

 でもあなたは違う、異国の、異種族の、よそもののあなたは違う。

――ぼくは、それが、何よりもうれしい」


 それはいつか、最初の茶話会で彼が垣間見せた、ただの少年の顔だった。

 おためごかしも何もない、貴族の振る舞いを捨てた素顔と、その結晶がぽろぽろと静かにこぼれ落ちる。ほんの二、三粒の小さく弱い、だが確かな光。

 カズスムクはすぐにそれを拭って、跡形もなく消し去ってしまった。


「イオ。もしあなたがザデュイラルの民に生まれて、ある時、贄として選ばれたとしたら。あなたは〝死にたくない〟と言えますか?」

「それは、まあ言えるものなら言っているでしょうね。少なくとも本心ではそうですし、それを口にすることが許されているなら、そうでしょう」


 僕は自分が見たものを記憶に焼きつけながら、あえて触れないようにした。口に出さなくとも、すでに充分だと思えたのだ。だからこの話にも付き合う。


「けれど、誰もが口を閉ざすのです」


 若き伯爵は椅子に戻り、老爺のように枯れたため息を吐いた。


「皆そうでした。二人きりの時でさえ、決して死にたくないとは言ってくれない」


 タミーラクの顔が思い浮かんだ。碧血城で、父親に殺して料理すると言告げられた時のとろけるような喜色。マルソイン別邸でカズスムクといる時の、飾らない笑顔。


「自己満足の我がままで、残酷なことを言わせようとしているとは、自分でも分かっているつもりです。それでも、彼が笑っていると時々たまらない気持ちになる」


 不意に、カズスムクは片手で顔を覆ってうつむいた。それから長い沈黙が続いて、ようやく押し出した言葉は、何かが決壊する寸前のように細く絞られている。


「……置いていかないで欲しい、と」


 彼の姿が、折れそうに小さく見えた。わずかな間だが。


「タミーラクのために何ができるか、ずっと考えていました。彼を食べたいと思ったことも、一度や二度ではありません。でも、それでは駄目なのです」


 顔を上げたカズスムクは、泣いてはいなかった。僕が見た小さな光は、本当に幻だったのかと思えてくる。それは彼が貴族として、当主として身につけた処世術の賜物だ。あるいは生来の性格だろうか? カズスムクは僕に心の内を打ち明けようとしている一方で、あけすけに感情を発露させることを禁じている。


「……なぜですか。僕はずっと、あなたはトルバシド伯を食べてしまいたいのだと思っていましたが」

「食べられるということは、死んだということですよ、イオ。ぼくは彼に生きていて欲しい、単純な話です。ミルがいれば、他人がどうなろうと構わないとさえ。それは、軽蔑されても仕方のない望みなのです」


 椅子の上で姿勢を正しながら、「だから」とカズスムクは言葉を切った。

 白い手が黒い眼帯に触れる。隻眼の由来が何なのか、僕はこれまで気にしていなかった。ザデュイラルの因習で眼を失ったとかなら別だが。

 その傷は、僕の好奇心の対象にはなりえない。


「ぼくは自分の眼を、彼に食べてもらうことにしたのです」


 前言を撤回しなくてはならなくなった。

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