灰とザクロの哀惜杯
灰とザクロの哀惜杯(前)
「
カズスムクの語りは、誇らしげですらあった。これが狩られた野の獣の話なら、楽しく聞いていられただろう。だが、この不快な話こそ僕が求めたものなのだ。
喉の渇きを察したように、侍従の青年が新しい茶を注いでくれた。
ユワ〔Yva〕とは命、霊、魂、神を意味する古シター語である。これは明らかに、ガラテヤ語の
ガラテヤの
「……人間をさばくのは、お辛くはありませんか」
「初めて父から手ほどきを受けた時は、驚きもしたし恐れもしました。子供でしたから。あなたのお国でも、食べこそしないものの、死体の解剖はされるのでしょう?」
「ええ、主に学問のためにです。僕も大学の死体解剖を二度ほど見学しました」
もちろん、ザデュイラルで人間が解体される場面を見ることを想定してのことだ。
そういえば、魔族は早くから外科技術が発達していたというレポートを読んだ。古くから人間を解体し続けていれば、それも当然の結果だろう。
「シグ・カンニバラは、学問のために
ガグリフの概念を僕が解するまでしばらくかかった。
それは「神に命を捧げる」こと、すなわち「贄の殺害」を意味する。強いて訳すなら〝奉納〟というところだろうが、広義には殺害後の解体と調理までをも含む。
「是非とも」
「では、彼に挨拶なさってください」
カズスムクは手で一人の侍従を示した。前髪を丁寧に後ろになでつけ、ぱりっと清潔な服装。そして、彼だけ右の角が赤く塗られている。
この茶話会で、僕らの給仕をしていてくれているザドゥヤ人の青年だ。いつもカズスムクの一番近くに居て、昨日も彼のフルネームと爵位を紹介してくれた。
「ご紹介にあずかり、光栄のいたりに存じます。今年のマルソイン家夏至祭礼にて、
「彼が、今度の贄!?」
さすがに、これには驚いた。僕はとっさに「大丈夫なのですか?」と訊きそうになったが、一瞬の判断でその質問を封印する。
僕は後からやってきた部外者に過ぎない。彼が、アジガロが贄になることは決定事項で、その運命を変えられるわけでもないのに、無責任な問いを投げるべきではないのだ。ソムスキッラが「赤い片角は生け贄の印なの」と付け加える。
「彼はその、つまりあと二ヶ月の命で……」
おそるおそる口を開きながら、僕は自分の頭から知識を引きずり出した。
魔族の角は繊細で、少し欠けるだけで悲鳴を上げるほどの激痛があるという。
さらに角を傷つけることで自尊心をも踏みにじり、肉体的にも精神的にもその苦痛は多大だ。そのため、彼らへの拷問では必ず標的にされた。
サスカックムーン朝〔Sāthkakmuhan(※リド文字音写)〕のタッタリシャッバーク王〔Tatarishiyābhak〕(在位:紀元前286年頃 - 紀元前253年頃)は、生きたまま捕虜の角を抜いて装飾品に加工することを好んだという。王立リンロティウム博物館には、角で作った首飾りや腕輪が展示されていたものだ。
(※編註……
しかし、魔族の角に屈辱的な言葉を書いたり彫ったりした事例は枚挙にいとまがないが、ただ色をつけるだけ、という例を僕はあまり知らない。
だからずっとアジガロの赤い右角が不思議だった。
「はい。こうして若さまにお仕えするのも、残りわずかひと月。お役目を解かれた後は、祭礼週間までおいとまをいただき、家族とともに過ごします」
アジガロは完璧に柔和な笑みを浮かべたままだ。僕は水に落とした油のように、自分がひどく場違いな気分で不安になった。
夏至祭礼の流れをここで述べておこう。祭礼当日前の二週間は、準備のための
その最終日には、皇帝が直々に
これが夏至祭礼第一の主眼・奉納の儀だ。
贄は皇族で五人、貴族で三人、有力市民は二人を奉納し、下の階層になると一人の贄が細かく細かく分配されることとなる。
翌日からの九日間は、遺体を調理しつつ食べ尽くす、祭礼第二の主眼・
「その後は、当の
殺されるのか、という言葉が出てこなくて、僕は自分にそんな神経があったことにおどろいた。いや、舌までめまいを起こしかけただけかもしれない。
見たところ、アジガロは二十代も半ばほどだろう。その若さで、祭礼の生け贄になって殺され、身を食われる。その運命に異議も唱えない。
すぐ隣にいる者が、遠くない死を定められたまま変わらない日常を送っている。やがてその日が来たら、彼らは皆、厳粛にその運命を受け容れるのだろうか?
……おそらく、そうなのだろう。
「綺麗にやってやれよ、カズー。去年は大変だったし」
タミーラクは恐ろしい茶々を入れた次の瞬間、「いてっ」と顔をしかめた。秀眉をひそめたカズスムクの様子からして、テーブルの下で足を蹴ったのだろう。
黙っていなかったのはソムスキッラだ。
「口のきき方に気をつけるのね、タミーラク・ノルジヴ。バカなことばかり言っていると、あなたの肉に柑橘の風味がつくまでオレンジを食べさせるから」
「何年かかるんだよ、それ!?」
「三ヶ月あれば足りる計算ね」
「本当か?」
はて、ソムスキッラは進歩的な女性なのだろうか。それともザデュイラルの淑女とは、皆こういう調子なのだろうか? 彼女はどう見ても、コルセットで胴を締め付けられていなかった。呼吸が楽だろうから、能動的になるのかもしれない。
ちょっと興味深くなってきた所で、カズスムクがたしなめた。
「ミル。あの後、お婆さまにどれだけ猛特訓させられたか、君も知っているだろう。我らが祖先の血と肉に誓って、アジガロに惨めな思いはさせない」
「わたしめは若さまを信じております」
殺される者が殺す者に信じてる、と。なんだか奇妙な夢の一場面のようだった。
今の印象では、彼らザドゥヤの人々は穏やかで、親切で、しごく文明的である。だが僕は、頭の中に〝蛮族〟という言葉が浮かぶのを抑えられなかった。
下の者は上の者に食われ、足りないぶんは外部から補充し、または家畜の猿で代用する。それでも足りなければ、肉を食べる回数そのものを制限する。
常に「
一方で、僕の主人たる好奇心は絶好調と言うほかない。
「ちなみに
「もちろん決められていますよ。腹部を切って手を差し入れ、心臓近くの大動脈を切って即死させるのです。主役の贄であれば、さらに胸から心臓を取り出します」
虫も殺せないような麗しい顔で、カズスムクは血生臭い手順を語ってくれた。生け贄は目を覚ましたまま腹をかき回され、横隔膜を破って殺されるのだ。
「……痛そうですね」
「そうでもありません、ニフロム〔
カズスムクは自分の眼帯を指差した。
「九歳の時、訳あってこの眼を取ったのですが、ニフロムのおかげで耐えられる程度に抑えられました。まあ、効果が切れた後は何日も寝こみましたが」
「バカヤロウ」
ぼそ、とタミーラクが苦々しげにつぶやく。どうしたのだろうと僕が思っていると、彼はばつが悪そうに茶杯をあおった。ソムスキッラが話を引き継ぐ。
「ニフロムの助けよりも速やかに、贄の苦しみを終えるのは担い手の腕よ。この図体ばかり大きいタミーラク・ノルジヴのお父上、大トルバシド卿なんて達人ね」
「俺の図体はコガトラーサの血だぞ。父上ぐらいになると、他家の
ソムスキッラが話題を変えると、タミーラクもやや誇らしげに食いついた。軍人が殺した敵を自慢でもするような、僕としては少し居心地の悪い空気だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます