ソフィアスによる末文(一)

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一三二八年 日付不詳

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 一三二一年に〝魔族〟や〝食人鬼〟という言葉が差別用語に指定された時、私は正直「くだらない」と思ったが、同時に安堵も覚えた。実際、それから一年としない間にドルフトラドの町では〝食人鬼イオ〟が忘れられていったからだ。

 ルーデス州の片田舎において、彼と我がカンニバラ家の関係は、長らく公然の秘密だった。ようやく、我が家の恥が皆の記憶から消えていく。


 イオことイオドシウス・L・カンニバラは祖父の弟、つまり私の大叔父にあたる人物で、ひと一倍好奇心の強い学者だったそうだ。そしてそれゆえ無謀だった。

 今から六十年ほど前、彼は周囲の反対を押し切ってザデュイラルへ単身渡航した。自らの好奇心を満たすため、人食いの隣国へ調査へ赴いたのである。

 そして何ヶ月かして生還した時には、すっかり気が狂ってしまっていた。


 人間を生け贄にする儀式や残虐な風習の数々、自分がたらふくご馳走になった人肉料理、そんなおぞましい話を嬉々として話す様は、今でも語り草だ。

 恐慌状態に陥った曾祖父母らは、イオを精神病院に閉じこめた。当然の処置だったと思う。人族が魔族に感化されて人食いになる、そんな呪わしいものが親族から出るというのは、考えても悪夢じみた話だ。家族は彼を生涯退院させなかった。


 地元で囁かれた噂は、そこから先が少し脚色されている。イオは自分が食べた人間の味が忘れられず、今も病院を脱走しては子供をさらって食べるのだ、と。

 こうした話は私がハイスクールに上がる前には何度か耳に入っていて、ほとんど聞き飽きた都市伝説みたいなものだった。


 それが半世紀以上も経って、ついに本当に飽きられたのだ! 幼いころからひっそりと背負わされていた荷物が、ようやく下ろせるようになった気分だった。


 事情が変わったのは、一通の手紙が届いてからだ。消印の日付は一号月二十六日、宛先は高齢と糖尿で目が悪くなった祖父で、彼に変わって私が開封した。

 差出人はレイア・ハンニッバラ。なんとイオの孫娘を名乗る人物からだ。


『祖父イオドシウス・レイナタン・ハンニバッラは一三二七年十二号月八日、家族に見守られながら永眠いたしました。享年八十二歳。彼は生前、生国ガラテヤを離れてから六十年間、一度も帰国しなかったと聞いています。祖父はそのことを大変悔いておりました。故人の希望により、せめてその遺灰だけでも故郷へお返ししたいと思います。つきましては、直接お渡ししたいので、一度お目にかかれませんでしょうか』


 要約するとそんな内容だ。私は狼狽して祖父に訊ねた。


「じいさん、イオは精神病院に閉じこめたんじゃなかったのか? あいつはザデュイラルに逃げて、つい最近までのうのうと生きていたのか?」


 祖父の返答まで数秒の間があったのは、何も歳のせいだけではなかっただろう。重々しい、「ああ」という嘆息のような肯定が返ってきた。

 曾祖父母がイオに入院を勧めたことは事実だ。だが本人は捕まる前にガラテヤを脱出し、世間的には精神病院に入ったと思われ、あえて訂正もしなかった――というのが事の真相だった。ふざけるな! と言いたい。


 こいつは結局、自分がやりたいように好き勝手に生きて、ただただ家族に迷惑をかけた。その上孫にも恵まれて大往生とはいいご身分だ。

 だから遺灰などいらない、そっちで始末してくれ! そう返事してやろうと決めながら、私にはなぜか迷いがあった。


「どうする? じいさん」


 弱気になって祖父に訊ねると、しばらくして「お前にまかせる」と言われ、いよいよ困ってしまう。早く返事を出せばいいのに、そうしない自分に苛々した。

 けれど、「このまま全てを闇に葬っていいのか?」とも思う。

 イオが精神病院に入れられたという事実はなかった。では、他の部分についての真実は? ザデュイラルへ渡った彼に、いったい何が起きたのだろう。


 レイアの手紙にはイオの写真が同封されていた。初めて見る大叔父の顔は、知的で穏やかそうな眼鏡をかけた老人で、狂人のイメージからかけ離れている。

 自分がこれまで事実だと信じていたものが、実際は異なるとしたら間抜けではないか。どこまでが正しくて、どこまでが違うのか、確かめないのは損だ。

 日に日に好奇心は抑えきれなくなり、私はついにレイアに会うことを決意した。


「お前のそういうところは、あいつにそっくりだ」


 祖父からの意外な評価を背に、私は彼女へ会いに行く。内陸側のドルフトラドから、南の港湾都市・リーヴォーまでの短い旅だ。

 待ち合わせ場所は、レストラン『紫陽花亭』。そこで何が聞けるのか――確かに私は、好奇心でワクワクしていた。



『紫陽花亭』に現れたのは、二十歳そこそこのレディだった。本物の食人種インカノックスを見るのはこれが初めてだ。


「孫のソフィアス・カンニバラです。宛先のモラリーは高齢で動けないため、代役で来ました」

「ご足労ありがとうございます。お亡くなりになっていないか心配だったので、ご存命で嬉しく存じます」


 彼女が帽子を取ると、想像よりずっと控えめな角があった。後で知ったが、一般的な食人種より二回りほど短いだろう。


「ごちそうしますよ」


 食用猿の肉団子とスープ、卵・牛乳不使用のパン。食人種向けメニューの張り紙を指して言うと「お気遣いなく」と笑われた。後で思えば、失礼な男だったろう。

 私は好奇心から食人種向け肉団子を、レイアはコーヒーを注文した。猿の肉は初めてだが、黙って出されたら豚と特に変わらない。


「……大叔父については、故郷に不名誉な噂が残っています。ザデュイラルへ無謀な旅に出て、発狂した人食いになって帰ってきたと」


 食事しながら私は用件を切り出した。


「彼の遺灰を受け取るかは悩ましい所ですが、イオに何があったか私は知りたい。今日はそのために来ました。真実を聞かせていただけるなら、それを聞いた上で彼の遺灰を引き取るかどうか決めたいと思っています」

「では、これを」


 レイアは旅行鞄から、紐で仮綴じした原稿の束を取り出した。


「祖父は実地調査の記録を六十年間、丹念につけていました。これは彼へのインタビューを交えて、手記の内容をガラテヤ語で編纂したものの一部です。彼が旅立ち、一度帰国し、再びザデュイラルへ赴くまでのことが書かれています」


 原本は別にあるので差し上げます、と彼女は言った。そして、新聞や雑誌の記事が貼り付けられ、写真が挟まれたスクラップブックも。

『北阿古霜帝國民族誌』――そう題された紙の束を、私は受け取った。

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