一 最初の渡航《エッタ・イユシム・イ・マトカヴァ》ⰅⰪ ⰫⰟⰊⰔⰅⰏ Ⱖ ⰏⰀⰕⰍⰀ ⰩⰅⰀ

旅の始まり

旅の始まり(前)

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一二六六年二号月十日 黒曜日カズゼルヤク〔Kazûserjak〕

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 僕は父のつてを辿りに辿って、ザドゥヤ人貿易商の男性を紹介された。ハーシュサク・マルソイン〔Hưrshuzak Mallejh Teyftek Mårzouin〕氏である。

 ザドゥヤ貴族カヤフギェ〔Kåjachgje〕のマルソイン家出身だという伊達男だ。


〝カヤフギェ〟とは「供物ヤフを捧げられるもの」に「高い、上の」を意味する接頭辞 Kå- をつけた語である。供物、すなわち人肉を優先的に食べるもの。

 転じて支配者、高貴な身の上ということだ。古シター語では、食べるという言葉は支配としばしば同じ意味で用いられた。


[ザドゥヤの貴族カヤフギェとガラテヤの貴族ピアレッジは本来異なるものだが、分かりやすさを優先して貴族と訳した。僕はガラテヤ貴族のイメージで彼らを想像していたので、実際に接した時は貴族文化の違いでも色々と面食らうこととなる。]


 本人の許可をいただいたので、ハーシュサクのことは個人名で書かせていただく。名前は天と地、時間と空間、強いて訳せば〝みぎり〟みたいな意味らしい。

 彼が取り扱っている商品には人肉も含まれていた。生きたものにせよ、死んだものにせよ、魔族国家では合法ではある。

 だがガラテヤでは違法なため、ある時逮捕・投獄の憂き目に。その際釈放されるよう取り計らったのが、大伯父のご友人だそうだ。彼のお得意さまだったらしい。


 親戚中を訪ねてガラテヤを東奔西走していた僕は、この話を訊き出した時どれだけ歓喜したことか! その後しつこく手紙を送り、時には夏期休暇返上で大伯父の店で働き、ようやくご友人に連絡を取ってもらってまた数ヶ月……。


 待ちに待ったこの日、彼とは港湾のレストラン『紫陽花亭』で待ち合わせた。ここは数少ない魔族向けメニューを出している店なので、僕の方で指定したのだ。

 内訳は人肉の代わりに猿を使った肉団子とスープ、卵・牛乳不使用のパン。


「これください」

「あんた正気かい?」


 好奇心から魔族メニューを注文すると、ハーシュサクが意味ありげに微笑んで、発達した犬歯を覗かせた。彼は職業柄、ガラテヤ語をマスターしている。

 心なしか、店員も何か含みありげに見えたが……理由はすぐに分かった。


 猿の肉は固くて、しかも脇の下に似た臭いがしたし、じゃりじゃりと砂のように骨片が混じっている。スープは血の臭いが深いエグみをもたらして、唯一まともに食べられたパンは、味気も水気もなくボソボソとして最低最悪だった!

 魔族は食べ物を粗末にすることを、非常に嫌うという。僕は吐き気をこらえながら、人生最悪の料理を平らげた。たぶん涙目にすらなっていただろう。


「そんな腹を壊しそうな代物、オレたちだって食べないね。あんた、体張ったな」

「そうですか……」


 ハーシュサクは魔族メニューではなく、コーヒーを一杯注文していた。

 年齢は四十始め、よく日に焼けた褐色の肌は生命力にあふれ、ほとんど黒く見える濃緑色の髪と相まって異国情緒がある。オペラ俳優のような洒落た装いに、落ち着いた所作でコーヒーを楽しむ姿は、ひとかどの紳士そのものだ。


 ただ、その側頭部に生えた一対の角だけが、異様な雰囲気で場から浮いていた。


 絵画にはよく羊やヤギのねじれた角や、重たげな鹿の角を生やした魔族が描かれているが、そうしたものが実在したかは定かではない。

 彼の角は白く平たく尖っていて、貝殻のようだった。頭部に添うよう上に向かって生えており、横になって寝る時も、さほど邪魔にはならないだろう。


 その時、店内に魔族の客はハーシュサク一人で、どことなく客も給仕も注意を向けて感じられた。だが当の本人はどこ吹く風で、優雅にコーヒーを味わっている。実に堂々と、軽々と、広い庭園のあずまやガゼボで寛いででもいるように。


「あ、ザドゥヤ語で大丈夫です」

「……汝れを連るるはかまわねどかし」


 ザドゥヤ語は、ガラテヤの古語に似ていなくもなかった。

 そもそも語族から語派まで同じで、西グリムヘン語群のガラテヤ語に対し、ザドゥヤ語は北グリムヘン語群、東タルザーニスカ諸語および古シター語である。


「宿り求むるこそいと難けれ」

「滞在先、ですか」

「しかり。我ら、汝れのごとき自由身分の【ⰇⰡⰓⰘサルクス】(※タルザーン文字表記)、宿り求むること思い寄らず」


 SårxⰇ Ⱑ Ⱃ Ⱈ(※リド文字表記)――「(ザドゥヤ語)人肉、食肉、献身者、被食ひしょく階級」。それはかつて、神が魔族に与えた食用の人間に由来する。

 サルクスは生まれて半年ほどで成人し、たちまち子供を生んで殖えるという都合のよい家畜で、大変美味だったそうだ。そして、あまりに都合が良すぎた。


 次第に、古の魔族は彼らを粗末に扱うようになり、怒った神はサルクスを取り上げてしまう。多くの魔族が飢えて死に、生き残った者たちはこれを深く悔いた。

 以後の彼らは食べ物、特に【肉】に敬意を払い、決して粗末にしなくなったそうだ。現在は、こうして名前だけが言語に残っている――以上、ハーシュサク談。


「さらに、汝れは久しく留まらまほしとぞいう」

「ええ、夏至か冬至の大祭を見たいんです。それに合わせて二、三ヶ月ほどと」

「物好みなりや」


 彼は呆れているのか、声を立てて笑った。

 ところで読みづらいだろうと思うので、ここから先はザドゥヤ語を現代ガラテヤ語に訳して記そう。どうせ渡航後は、ガラテヤ語を使う機会はないのだ。

 僕は僕なりに学習してきたが、まだまだザドゥヤ語はおぼつかない。恥ずかしいのでこの手記内では、流ちょうに話しているように描写させていただく。


「まあ簡単に入国する手もある。一時的に食用人の身分を取るのさ、滞在中にあんたを殺さないって約束で」

「それはご遠慮しておきます」

「だろうなあ」


 約束が守られるとしても、食人鬼の国に食用の身分で、しかもたった一人で行くのは恐ろしすぎる。


【肉】サルクスではなく客ってなると、話が大きくなる」


 顎をなでつつ、ハーシュサクはやや硬い声音になった。


「まあ、やれるだけやってはみるさ。一応頼まれたぶんぐらいの努力はな」


 この当時の僕は無知で、彼から見ればさぞかし厚かましい二十一の小僧だったはずだ。しかし僕は計画が一歩実現に近づいたことに喜んでいて、氏にとんでもない面倒事を押しつけたと気づくまで、数年を要した。

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十二号月十七日 旗曜日ルケデルヤク〔Rukjderjak〕

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 ハーシュサクから再び連絡があったのは、なんと十ヶ月後だ。

「無理だから諦めてくれ」と。

 僕は望みが絶たれた焦りで、衝動的に返事を書いた。

「食用でも何でもいいから、連れて行って下さい!」と。

 そこから後はトントン拍子だ。それまでが嘘みたいに話がまとまり、あれよあれよと僕のザデュイラル渡航が決まった。



 夢のようだった。けれどその興奮も年が明けるころには冷めて、僕はなんてバカなことをしたんだろうという後悔が襲ってきた。しかし、悔やむには遅すぎる。

 食人鬼の国に食用人間として入り込む――そんな蛮行を躊躇するまで二ヶ月もかけるような阿呆は、たぶん別のバカなことをやらかしたに違いない。


 二十二歳の春。彼らの重要な祭りだという夏至祭礼の日まで二ヶ月、僕は帝国首都・ギレウシェ〔Ghjrevsgé〕で過ごす。

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