旅の始まり(後)
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一二六七年四号月十八日
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いよいよ僕は「
一応護衛になってくれる人間を探したのだが、事情を知ると高額の報酬をふっかけられ、僕は手持ちの乏しさから断念した。
魔族というものは――人族より何倍も怪力で、頑丈で、鼻がきき、動きがすばやい。戦場で一人の魔族に出会ったら、三人いないと殺される、ともっぱらの評判だ。それが単なる噂でないことは、いくつもの戦争史に証明されている。
力で来られたら、僕みたいなやせ小僧は死ぬしかない。
「本当に食べませんよね?」
「ま、味見されるぐらいは覚悟しておいてくれよ」
軽い口調でハーシュサクに訊ねると、こう返されて苦笑いするしか無かった。……いざとなれば、ちっぽけな拳銃一つが頼りだ。
遺書と手弁当を持って、僕はハーシュサクの船に乗り込んだ。
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四号月二十日
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魔族の角は、毎日油で磨いて手入れする。特に船の上だと潮風で傷むから、念入りに香油をすりこむ、と彼は実演しながら教えてくれた。
「油を塗り立ての角で風に吹かれると、明日の天気がだいたい分かるんだ」
事実、船旅の間、ハーシュサクの天気予報は外れなしだった。
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四号月二十一日
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タルザーニスカ半島と、アポリュダード大陸に囲まれた地中海――帝都ギレウシェは、この海に広がる諸島群に築かれた水の都である。
個々の行政区画は十数個の小島によって分断され、その間を六十から七十の橋と船によって結ばれていた。ガラテヤの港からここまでざっと1000フィチ〔Fithi〕、北海を渡る船で三日ほどの旅だった。
空気は肌寒いを通り越して、きんきんと固く凍えた冬の冷気だ。僕はズボンにシャツにサスペンダー、コートを一枚引っかけて、ちょっと軽装だったと反省した。
「ようこそ、ザデュイラルへ! せいぜい楽しんでいってくれ、カンニバラくん」
船から降りると、ハーシュサクは芝居がかった仕草で手を広げてそう告げた。ここから滞在先の屋敷までは徒歩だ。僕らは玉石敷きの通りを歩き始めた。
この旧市街は、レンガ造りに漆喰の家々が建ち並び、まさに古色蒼然。中世の都市構造をそのまま残した、不規則で陰影の深い景色だ。
旧い城壁を利用したナタイ〔Natag〕通りはことに狭く、僕らは見も知らぬ人々と肩をぶつけ合うようにして歩いた。ところが一歩裏道に入ると、雑踏が背後に遠く去り、薄暗く静まり返った石畳の空間が広がる。
そこからはまた、網目のように張り巡らされた細い路地の連続だ。曲がりくねって先が見えない通りは、どれもこれも迷路のよう。
行き交う人々の足音は、ガラテヤの耳慣れた雑踏とはリズムさえ違って聞こえた。誰もが僕の知らない、見えない決まりごと、礼儀や流行に従って身を処している。
それは頭に角を戴いて、身頃のゆったりとした筒襟の服に身を包む、そんな見た目の違い以上に顕著な異質さだった。いや、ここで異質なのは僕の方なのだが。
谷間のようにそびえる家々は、どれも三、四百年からなる建築物で、なんだか巨大な生き物が壁ごしに見下ろし、きらきらと眼を輝かせているような威容があった。
けれど美しい生き物だ。すごく年寄りで、穏やかで、この国の美意識や、歌や光の厳かなしわが幾重にも複雑に彫られた
「あんまりボンヤリするなよ、角もないやつが一人で突っ立っていたら、誘拐されて解体されちまうぞ。塩漬けと肉団子、どっちが好きだ」
「その場合、あなたの商品が盗まれたことになるのでは?」
僕は大小の旅行かばんを背負ったり抱えたりしながら、軽快に前を行くハーシュサクからはぐれないよう必死でついていった。
[旧市街の小島は皇族や貴族の別邸が集中する地所であり、そうした犯罪はほぼ無いので完全にからかわれただけ――と分かるのは、もっと後のことだ。]
「そうだ、大損だぞ。自分の身は自分で守ってくれよ、食用肉くん」
「いくらで売れるんですかねえ、僕は」
細い路地に次ぐ路地から突然、視界が開けて、僕らは公共広場の一つに出ていた。狭さに慣れた体が大きな空間に放り込まれ、僕はたたらを踏みそうになる。
ガラテヤより弱く低い太陽の光が、建物の隙間から柔らかく降り注ぎ、鮮やかな黄色やオレンジの壁に、緑の蔦がアーチのようにかかっていた。
この都市はただ暗然と古臭いだけではなく、明と暗、大と小の空間的コントラストが利いているのだ。広場のあちこちで、吊るされたザデュイラルの国旗が揺れていた。
十字架と、十字の交差部分を囲む二重の環でできたシンボル〝
「ほら、ここだぞ。懐かしの我が家ってわけじゃないが」
広場から東、ハーシュサクは貴族の邸宅が並ぶ
滞在先として紹介された、〝アンデルバリ伯爵マルソイン家〟別邸だ。
所領にある本邸とは別に建てられた、都市用の住居である。広大な庭園とはいかないが、充分な前庭を備え、威風堂々とした門構えだった。
〝伯爵〟と訳したが、ザデュイラルの
下から
当主である伯爵本人は事故で
「どうせもう数年すれば正式に継承するから、公の場でない限りは伯爵扱いだな」
とハーシュサクは言った。
(※編註……ガラテヤでもザデュイラルでも、〝
天窓から光が降り注ぐ玄関ホールでは、暖色に彩られた陶器タイルの床と、浮き出し加工された壁紙に迎えられた。なんというか……突飛な異文化や、異国情緒という感じはしない。ガラテヤでも、個人の趣味の範囲でありそうな内装だ。
平凡だが、細かく凝った室内装飾――それが、ザドゥヤ貴族の館に対する僕の第一印象だった。だが、それはすぐ血なまぐさいものにすり替わる。
壁に、柱に、窓枠に、
壁にかかったつづれ織りや、絨毯に使われている図案もまた、恐ろしい〝人狩り〟の場面が多い。面積があるぶん、浮き彫りよりもっと鮮烈に。
矢を射かけられ、雉のように撃ち落とされる有翼人。
猪のように、よってたかって槍で貫かれる毛皮人。
網に捕らえられ、銛で突かれる半魚人。
宴会で供される男や女と調理器具。
なんて優雅で豪奢な地獄絵図の内装だろう! 彼らにとっては、善美な花や動物のモチーフと、陰惨な狩りの場面は矛盾なくひと揃いらしい。だが、狩られているのが人間ではなく獣であれば、僕もそう気にはしなかったはずだ。
あらためて、自分が背負った〝食用人〟の肩書きが重たく感じられた。
僕は本当に、食用の家畜同然になって彼らの前にのこのこやって来たのだ。死ぬまでの間、できるだけ有意義な話が聞けるといいのだが。
この旅の条件として、僕はザデュイラル国内での単独行動を禁じられ、マルソイン家の監督下に置かれることとなっている。どの程度厳しく監視されるか不安ではあるが、当面はおとなしく過ごそうと思う。肝心なのは夏至祭礼なのだ。
ザドゥヤの夏至祭礼こと〝アルマク・トルバクッラ〟〔Ålmak Tǫlbakurra〕は多数の贄が選出され、彼らの祭祀でも重要な位置を占めると言う。
歌って踊ってうんぬん……と文献には言うが、あまり詳しい描写に触れたものはなかった(想像上の邪悪で野蛮な残虐ショーめいたものはたくさんあった)。
タルザーニスカ半島は北国だ、夏が近づけば一日中太陽が沈まない白夜の季節になる。岩盤と森林に国土を覆われ、耕作に向かない半島は、ただでさえ食べられる物が制限された魔族には過酷な環境だった。
一年のほとんどは厳しい冬か、比較的穏やかな冬かで、鮮やかな夏はほんの一瞬。だから夏至祭礼では、夏を迎えた喜びと太陽への感謝を盛大に表現する。
ハーシュサクいわく、アルマク=〝古の(祭り)〟と言えばこの夏至祭礼のことだ。彼ら独特の文化を知るのに、こんなに打ってつけのイベントはないだろう。
僕は屋敷の使用人に案内されながら、まだ見ぬ
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