ⰗⰎⰀⰜⰀⰍⰃⰑ《フラハキオ》
イオの長い後日談
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一二七八年五号月八日
春のマルソイン本邸
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昼下がりの温室でのことだ。
「ねえ、とうさま。〝ミル〟ってだあれ?」
僕とカズスムクが話していると、彼の長男ゾーネムユリ〔Sonemylg〕が無邪気に訊ねてきた。その名は〝
ミドルネームは父親の名前を受け継ぐので、ゾーネムユリ・カズスムク・イル・マルソインである。去年、角が生え変わったばかりだ。
「父さんの友達だよ」
カズスムクは懐から、ペンダントに加工した赤い角を取り出した。彼がいつも肌身離さず身につけるこの形見には、タミーラクの名前と生没年が金文字で彫ってある。
「昔、贄になって死んだんだ」
「贄」
ゾーネムユリは何かを言いかけて、それを打ち切るように目を伏せた。きっと、
毎日一緒に遊んでいたのに、あれ以来、この子は二度とその名を呼ぼうとしなくなった。かつてのカズスムクもそうだったのだろう、と僕は思う。
こんなところで、親子が似てくるとは。一方で、ゾーネムユリの顔立ちは母親のソムスキッラに似て、灰色の髪と銀色の目をしていた。
「贄って、ドール〔Dǫr〕みたいな?」
ドールとは最近生まれたカズスムクの四男・ドラバル〔Dorhbar〕のことだ。
その名は〝太陽の子〟を意味し、神に仕える者を指す言い回しから来ている。由来となった英雄は、古代ツォイル〔zoil〕を三十年に渡って治めた裁きの人だ。
ある時ドラバルは愛した女に騙され囚われ、最期は自分を見世物にした群衆ごと、その怪力で建物を倒壊せしめて死んだ。〝赤い名前〟だ。
「そうだよ。夏至祭礼のムーカル役に選ばれてね」
「ムーカル! すごいね!」
ゾーネムユリは無邪気に驚嘆した。
あれは名誉な役目だと、そう教えたのは、ほかならぬ僕たちだ。ドラバルはムーカルになれるかな、とゾーネムユリはにこにこしながら、父に続けて訊ねる。
「とうさま、ミルって美味しかった?」
「美味しかったよ、とても」
カズスムクは即答した。その舌には、灰とザクロでできた哀惜の味がよみがえっただろうか? ひと言ひと言を、彼はしみじみと噛みしめながら言う。
「あんなに美味しいものは、もう二度と食べられないだろうね」
手元の赤い角を眺めながら、カズスムクの瞳は遠くを見ていた。タミーラクが亡くなって、あっという間に七、八年だ。
あれから、カズスムクは士官学校に入り、卒業後は軍人になった。数ヶ月単位でマルソイン家を開けることもしばしばだが、夫婦仲は良好のようだ。
一方の僕は大学教員になって、カズスムクの妹・ウィトヤウィカと数年前に結婚した。もちろんレディ・フリソッカには凄まじく反対され、種族間の壁を改めて思い知らされたが……。ソムスキッラも、カズスムクも最初は歓迎しなかったのだ。
これについては長い長い話になるので、またの機会に。
今やカズスムクは、僕の
生国ガラテヤを捨て、人間を食わなくても生きられる体を捨て、僕は人食いの国を
ウィトヤは肝臓を患っていて、年に一、二度しか肉類が食べられない。それでも、ザデュイラルに住んで、ザドゥヤ人と夫婦になるということは、自分の手で人間を殺して食べることだ。
ニマーハーガンの生け贄には、ニフロムではなく眠り薬を与える。何も知らない小さな体をウプトアの石台に横たえて、心臓の血管を切り、首を落とす。
僕はカズスムクの子供たちが、角の生え変わりのたびに食べた子供のことも、それぞれ記録に残した。僕も、ウィトヤとの間にもうけた息子のために、幼い子供を殺して料理した。情けなくも泣きながら、吐きそうになりながら、カズスムクの手まで借りて。おかげで二人目の時には、何とか一人でこなすことができた。
でも、三人目はこりごりだ。
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一二八一年九号月二十二日
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ハーシュサクの船が海難事故に遭った。
乗員はほとんど行方知れず、彼も生死不明。カズスムクは
「生きている方の
◆
カズスムクがそう言った時は、まだ彼の生存に希望があったと思う。
けれど三ヶ月が過ぎても、半年が過ぎても吉報はなく、次の年も、また次の年も僕らはハーシュサクの形代を作った。
七年これをくり返された者の魂は、本来の亡骸と、形代として作られたパンの二つに分かれて、一組の「
ハーシュサクは、どこかで生まれた子供の角に宿って、悪霊と戦い始めているのだろうか。庇護対象が一生を終えれば、守護聖霊は再び人間に生まれ変わる。
それとも彼は海の中で、自分を食べた魚になったのかもしれない。広く深い海原へ泳ぎ出し、人間だった時のすべての
どちらでもいい。彼の魂が安らげる場所に、どうか
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一二八三年十一号月十七日
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新聞にハジッシピユイの訃報が載った。
冬の朝、ベッドで冷たくなっているのを発見されたそうだ。夜中に自ら部屋の窓を開け放ち、息子と妻の遺角が入った箱を抱いて。
昨年、妻に先立たれたハジッシピユイは「老いれば不味くなる一方だ」と自害することを宣言した。ザミアラガン始め一族は必死に説得したが、一年揉めてから勝手に実行してしまったらしい。
枕元には、相続の手続きと、自身の調理手順を記した指示書が遺されていた。
生前から念入りに、自分の可食部位を医師に測らせ、調香師に体臭を調べさせ、これなら美味になるだろう、というレシピや香辛料の組み合わせを考えていたそうだ。
いやはや、彼は最後まで料理人であったらしい。
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一二九九年十一号月二十九日
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その日、キリヤガン連邦がザデュイラルへの侵攻を開始。第一次冬戦争(嵐の冬戦争)が始まった。五十代手前のカズスムクは、将校としてカチル前線へ出征。
◆
汽車の窓から敬礼する彼が、僕が見た最後の姿になった。
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一三〇一年七号月四日
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戦争は一年ほどで終結したが、それからさほど間を置かず、第二次冬戦争(剣の冬戦争)が勃発。間もなく、カズスムクから連絡が途絶えた。
(※編註……帝国史で〝狼の冬戦争〟と書かれる世界大戦時代の始まりである。この狂乱の時代が終わったのは一三〇四年のことであった)
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一三〇三年七号月一日
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夏至祭礼から間もなく、皇帝陛下が八十四歳で崩御なされた。ただちに皇太子どのがご即位なされ、葬儀の後、皇族の方から祝いの贄が出される。
◆
新皇帝陛下が最初に行われたのは、奉納の儀の改革だ。
これまではニマーハーガンで捧げる幼児にしか用いなかった眠り薬・メレナ〔Melena〕を、すべての贄に処方すること、と定めたのだ。
これは大反対をもって迎えられた。確かに眠り薬を使えば、贄は腹を割かれ、体の中に手を突き入れられる恐ろしさからは守られるだろう。だが、眠らされたムーカルやチルムキル役の贄は、小ウプトアに横たえて奉納することになる。
そんなスタイルはザデュイラルの伝統に反し、神々と祖先に敬意を欠く、誤った考えである――と、それはもう、すさまじかった。
一方で、贄の恐怖と苦痛を和らげたいという新皇帝陛下の意に沿おうという動きも皆無ではない。
奉納の仕上げに首を落とす作業にも、斧ではなく断頭台を用いようという声が上がった。速やかに、確実に、贄を労るために、人の手から、人の死が遠ざかっていく。僕が知っていたザデュイラルは、ゆっくりと変わっていった。
これが、時代の移り変わりというものだろう。
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一三〇五年 述懐
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妻が息を引き取った。享年五十二歳、この歳まで生きていてくれたのも奇跡のようだ。彼女はずっと、兄の帰りを待ち続けていた。
戦争が終わって一年が経っても、カズスムクの行方はようとして知れない。最期は「もしかしたら、あっちで探す方が早いかもね」と笑っていた。
ひどく寂しい気持ちで彼女の遺体をさばくと、不思議と心が安まる。奉納された生け贄とは違う体も、きちんと調理すればちゃんと美味しい。
彼女を食べることができて良かった。……だから、カズスムク。義兄さんがもう亡くなっているのなら、彼を食べられないことを苦しく思う。
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日付不詳
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最近、初めてザデュイラルに来たあの夏のことを、くり返し思い出す。まだ何も知らない〝ガラテヤ人〟だったころの、実に青臭い時代を。タミーラクのことを。
思い出すたびに記憶はまばゆく輝きを増して、美しい感傷だけになっていく。そればかりでは駄目だと思って、自分の手記を読み返すのだ。何でもかんでも記録しておいて、本当に良かった。
時々、僕は地獄に堕ちるのだろうかと考える。
天主公教を破門されたといえ、僕の体は本来、人間を食べなくても良いようにできている。それなのに人を殺して食べたことを、
けれど、僕の家族も友人も、ユワの恵みの中にある。だから死んだ後は、その御手に僕も委ねられると信じたい。
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一三一七年三号月二十六日
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カズスムクが帰ってきた。小さな遺骨の欠片になって。
タミーラクの名前と、彼が死んだ年が彫られた赤い角の首飾りと共に。
七十を過ぎた僕はすっかりもうろくしていたが、それでも調べてみた限り、彼は戦場で部隊を指揮する中すねを撃たれ、まもなく射殺された。
キリヤガン兵の日記から、彼の脚肉に残っていた弾を噛んだという記述を見つけたのは、幸運の賜物だろう。たぶん、長く苦しまずに殺されたはずだ。
◆
ソムスキッラは子供たちの手を借りて、粉にしたカズスムクの遺骨でケーキを焼いた。僕と彼女のぶんには、タミーラクの遺角の粉も加えて。
彼は最期の最期まで、タミーラクの角を持っていた。いまわの際に何を考えたかまでは僕にはとても推し量れないが、それだけは確かだろう。
故郷から離れた地で、敵国の兵士に食べられたとしても、彼の元にタミーラクの
このケーキで、やっと彼に挨拶できる。
おやすみ、カズスムク。
みんなと一緒に、もうしばらく待っていてほしい。
◆
それがイオの手記の、
◆
◆
◆
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一三二七年八号月十六日
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イオ・カンニバラ永眠。享年八十二歳。
二十二歳の時から六十年もの間、彼はザデュイラルについて記録し続けた。
ソムスキッラ・マルソインが亡くなったのは、この九年後のことである。
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