斯くして、カナリアは飛び立つ(後)
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六号月二十五日
夏至祭礼当日
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彼や彼女だったものが厨房に運ばれ、後はいく種類もの料理に変わる。
規則正しくまな板を叩く包丁、混ぜ合わされる香辛料、振りかけられる調味料、焼いて、炙って、煮こんで、揚げて、冷まして、練って、香りの中にさえ
死者のすべてが、生け贄の命が、究極の美味へ転化される。
タミーラクが死ぬその時でさえ、正式にアンデルバリ伯爵となったカズスムクに休むという選択肢はない。彼は通例通り、マルソイン家のムーカル役を選出し、奉納し、解体し、調理に打ちこんだ。その手順の一つ一つを、僕は決して上の空だとは言わないだろう。誰にだって言わせやしない。
だが僕の眼に、カズスムクは人間と言うより、本当に氷の彫像と化して見えた。
もうその心を動かすことなく、アンデルバリ伯爵という機械になって、残された生涯を過ごす気ではないかと。
……生きろというタミーラクの約束は守られるだろう。だが、死なないだけの人形となったカズスムクは、彼が願ったように「生きて」いるとは思えない。
でも、僕はカズスムクが最低限でも生の側に踏み留まっているのなら、あえてその均衡を突き崩したくはなかった。しっかりしろと発破をかけて、喪失感と無理やり向き合わせて何が起きるのか、それがひどく恐ろしい。
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六号月二十七日
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新聞の第一面に、ハジッシピユイのインタビューが掲載された。
生前、息子が父親に料理されることをどんなに喜んだか、実際に調理する時の自分の心境はどうだったか、その肉体がいかに
カズスムクはそれに眼を通してさえ、何の感想も述べない。
けれど、僕には一つ希望があったのだ。タミーラクはカズスムクに、死んだら自分の角を贈ると約束していた。きっとコガトラーサ家の誰かが、約束を履行してくれるはずだ。それを受け取れば、彼も少しは気持ちの区切りがつくのではないかと。
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七号月四日
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はたして祭宴の最終日、ザミアラガンが銀と
「弟の
「ありがとうございます」
ぶっきらぼうに差し出された小箱を、カズスムクは平坦な声で受け取った。
ザミアラガンの手には、もう一回り大きい箱がある。彼はそれを渡すことを少しためらっているようだった。僕は苦労して好奇心を抑え、ザミアラガンの動きを待つ。
数分後、彼が吐き出したため息は、ホールが洞窟になったかのようによく響いた。
「……アンデルバリ伯爵。我が末弟の遺言で、貴殿にこれを渡す。これはタミーラクの遺灰だ、他と決して混ざらぬよう父上が焼いた。後は好きに扱うがいい」
カズスムクは息を呑んで眼を丸くする。数日ぶりに見る、彼の表情らしい表情だ。ザミアラガンは忌々しげに顔を歪めて、カズスムクを無作法に指差した。
「いいか、何も言うな。何も私に聞かせるな。お前の口からあいつのことは聞きたくない。このまま黙って帰らせてくれ」
それは断固たる拒絶だったが、彼もまた可愛がっていただろう弟を亡くしたのだ。僕は責める言葉も持たず、カズスムクと共に無言で彼を見送った。
「……どうします、伯爵」
カズスムクがそっと小箱を開けると、確かに油紙を被せた一握りの灰がある。僕は間違っても吹き散らさないよう口と鼻を覆ったが、カズスムクはすぐ蓋を閉めた。
「イオ、キュレーを呼んで喫茶室に来てください」
「分かりました!」
僕はただちに伯爵夫人を探しにすっ飛んだ。あの灰を見た瞬間から、僕はなんとなくカズスムクがどうするつもりなのか、分かるような気がしていた。
はたしてその予感は当たっていたらしい。ソムスキッラを連れて喫茶室に来た時、カズスムクは三つのゴブレットを用意して待っていた。
杯を満たすのは赤紫色の液体、ザクロのジュースだ。
「そろいましたね。ありがとう、イオ」
彼はゴブレットを手で示した。
「これは、タミーラクです。彼の遺灰をザクロとリンゴ、レモンの果汁に混ぜました。ムーカルとして、皇帝陛下の贄になった彼の血肉は既にありません。最後に残されたこの灰を分けて飲み、友に哀悼の意を示したいと思います」
それは、いつかのカナリアの葬儀と同じやり方だろう。タミーラクはせいいっぱい、自分がカズスムクに渡せるものを探してくれたのだ。
異議を唱える者はいない。僕らはゴブレットを持ち、乾杯の合図を待った。けれど、カズスムクはいつまで経っても沈黙している。
僕はどうするべきか困って、ソムスキッラと視線を交わした。
「タミーラク・ノルジヴは、」
不意に、カズスムクが語りだす。
「彼は、私の幼なじみで。親友でした。こうしてザクロの水面を見ていると、後から後から、彼との思い出があふれてきます」
その声は、堅牢な要塞と化した自制そのものだった。強ばった表情の下、鋭い感情の破片がひとかたまりの氷になるまで、執念深く突き固めて埋もれて見える。
「私は一度、彼に『死にたくないと言ってくれ』と頼みました。なりふり構わず、みっともなくすがって。けれど、タミーラクはあくまで大丈夫だと言い張って、優しく笑いながら突き放した。彼は、それを言ってしまえばお終いだと分かっていたからです。もし言葉にしてしまったら、口に出してしまったなら、私はもうマルソイン家の当主という立場に、自分自身を押しこめることが出来なくなってしまったに違いないのですから。それは眼を抉った時よりも、もっと悪いことになったでしょう」
けれど、言葉にしなくとも終わるのだ。ただ結末が違うだけで。
「あなたは立派よ、カズスムク・シェニフユイ。運命の日を堪え忍んで、務めを忘れず今日まで来た。今ここには、わたくしたち三人しかいないわ」
だから泣いていいのだと、言外の叫びが胸に刺さるようだった。
妻の言葉には答えず、カズスムクは「乾杯」と慌ただしく告げる。一息にゴブレットを飲み干した彼に、僕らは急いで続いた。
それから水差しで冷水を注ぎ、杯の内側に残った果汁も、わずかに見える灰も、残らず浮かせて喉の奥へと流しこむ。カズスムクはそれを二度くり返した。
すべての遺灰が消え失せて、彼の声がゆっくりと震えだす。
「ミルに、何も、してあげられなかった」
そんなはずはない! 僕らの声は、彼に届きもせず虚しく響いて消えていく。
「ぼくの心臓でも命でも、何でも捧げられたのに。彼さえ生きていてくれるなら、ずっと一緒にいられるなら、なんでもできたはずなのに」
がたりと、カズスムクは体勢を崩した。テーブルに片手をつき、なんとか体重を支えようと抗いながら、失血死する人間のように、ずるずると崩れ落ちる。
「とうとう、彼を小さな灰にしてしまった」
彼の手に当たったゴブレットが落ちて、甲高い金属音を立てる。
それが最後のひと押しだった。
――長い、大きい、鋭い金切り声の悲鳴を上げて、カズスムクは泣いた。
澄んだ心地よい声が砕け、玲瓏たる容色をぐしゃぐしゃに歪ませ、胸を引き裂かんばかりにかきむしり、床にうずくまって身悶えしながら。僕が知っていた優雅さも、端麗さも、何もかも放り捨てて、子供のように、荒れ狂う手負いの獣のように、二十年間に身に着けた振る舞い方のすべてから逃れて、みっともなく泣き叫んだ。
後にも先にも、カズスムクがこれほどの痴態を晒したのは、この一回だけだろう。僕も、ソムスキッラも、黙って彼の傍に座って、ただ待つしかなかった。
喫茶室の外にはマルソインの親族や、
カズスムクの慟哭は、彼の自制心が折れたものではなく、行き過ぎた抑圧からの解放だったのだと思う。眼帯の伯爵は自分の本心を押し潰して、今日まで来た。
この日、この時、泣くことができなければ、カズスムクは生涯、タミーラクのために泣けなかったのではないか?
彼はついに泣くことができた。
一杯の、ありったけの哀惜がそれを解き放ったのだ。
タミーラクは、皆の命をつなぐために死ぬのだと言った。
カズスムクはその願い通り、彼の命を受け取って、この先の年月を生きていくだろう。その心臓にずっと、食べられなかったカナリアの幻影を宿しながら。
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