小狐のおつかい

葵月詞菜

第1話 小狐のおつかい

 部活動を終えて学校を出る頃には、すでに日は暮れて辺りは暗くなっている。

 初音はつねは校門の前で友人たちと別れ、一人自転車をかっ飛ばして帰路に着いた。汗ばんだ肌に初夏の夜の風が通り抜けていくのが心地よい。

 自転車を走らせること十五分程、家の最寄り駅前の道に差し掛かった時だった。


「あれ?」


 帰省ラッシュは過ぎただろう時間帯の小さな駅前に、茶髪の若い男の姿があった。別にどこにでもいそうな青年だったが、初音のセンサーがピクリと反応した。

 自転車を止めてじっと目を凝らすと、気配を察知したかのようにふいに青年がこちらに顔を向けた。その瞬間、互いに誰かを認識していた。

 初音は考える前に自転車から降り、駅の方に押して歩き始めた。青年の方は若干困ったように頭に手をやり、諦めたようにこちらに近付いて来た。


「キリちゃん!? 何でこんなとこいんの? 帰って来るって言ってたっけ?」


 本来なら遠くにいるはずの彼と会えたことに嬉しくなり、つい矢継ぎ早に問いを重ねてしまった。


「いや……ちょっと用があってな。もう授業もほとんどないし帰って来たんだ」


 青年は「まさかいきなりお前に見つかるとは思わなかった」と苦笑した。

 彼は名を八霧やぎりという。高校から県外に出てそのまま大学に進学し、現在四回生だ。初音は小学生の頃から彼の祖父が教える剣道場に通っており、彼とは昔馴染みだった。


「初音は今帰り?」

「そう。お腹すいたあ」


 その瞬間、初音のお腹が盛大に鳴きだす。初音が恥ずかしさを感じると共に、八霧がぷっと噴き出した。


「そのようだな。早く帰ってご飯食べな」


 八霧はくすくす笑ったまま初音を誘導するように歩き出した。足の向く先は初音の家がある方向で、どうやら送って行ってくれるらしい。

 先に歩き出した彼のリュックに視線をやると、そこには青年にはかわいすぎるキャラクターのぬいぐるみがぶら下がっていた。昨年、初音が修学旅行のお土産にあげたものだった。ちゃんとつけてくれていたのだなと嬉しくなる。


「もうすぐに帰っちゃうの?」

「ああ、明日の夜には帰るよ」


 明日も普通に学校があるのが恨めしいと思うが仕方ない。彼は滅多に帰って来ないし、帰って来るとしても今回のように突然ひょっこりということばかりなのだ。だからだんだん初音の中では出会えたらラッキーなレアキャラ扱いとなりつつある。


「初音、ストップ」

「え?」


 急に八霧が手を横に伸ばして初音を自転車ごと停止させた。

 公園の横、桜並木が続く広い一本道だった。今年の春も見事な桜だったが、今はもう青葉になっている。


「タイミングをミスったな」


 八霧が呟いて溜め息を吐いた。初音には何のことだか意味が分からない。

 人気のない一本道、すぐそばの桜の大樹の陰から、ひょっこりと何かが飛び出して来た。


「!」


 一匹のふさふさした尾をもつ薄い茶褐色の獣だった。ぱっと見では小さな狐のように見えた。

 だが、動物園で見た狐とは違っていた。

 その獣は二足歩行で目の前に立ち、コートのような衣服に身を包み、毛糸で編んだ小さな鞄を斜め掛けにしていた。――まるで絵本にでも出て来るような「きつねさん」だった。

(え? 私、何を見てるの?)

 片手で目を擦ってみるが、見ている景色は変わらない。八霧を見ると、彼も平然としてその獣を見つめていた。どうやら彼にも同じ景色が見えているらしいことが分かってほっとする。

 小狐は八霧の顔を見上げてぱあっと顔を輝かした。


「おう、八霧! 久しぶりやなあ」

「え!? 喋るの!? しかも関西弁!?」


 初音が思わず声を上げると、小狐は少しもびびることなく小首を傾げた。


「何やこのお姉ちゃんは? キリの彼女か?」


 八霧は苦笑しながらしゃがみこんで小狐の耳の間をなでた。


「ううん。この子は昔馴染みの初音だよ。ちょっとタイミングが重なっちゃって」

「ああ、もしかして弟さんとキリと一緒に剣道しとったいう子か?」

「そうそう。よく覚えてたね」


 小狐は初音を見て「大きなったんやなあ」としみじみ呟く。なぜだか分からないが、この子狐は八霧から初音のことを聞いたことがあるらしかった。

(ていうか、キリちゃんこのきつねさんと友達なの?)


「あの、ちょっと、キリちゃん……」


 八霧の服を遠慮がちに引っ張ると、彼は少し困ったように笑った。


「うーん、説明しろと言われても困るんだよなあ。まあ一番助かるのは、オレには小狐の友達がいた、それで納得してほしいんだけど」

「……」


 返す言葉を失ってただ八霧と小狐を見比べるしかない。いや、百歩譲って小狐の友人がいたと認めるにしても、その小狐が衣服を着て関西弁を喋っているのはどうしたものか。初音の狐に対する認識が間違っているのだろうか。

 唸りながら目の前の現実を受け入れようとする初音をよそに、小狐は斜め掛けした鞄から小さなメモ用紙を取り出した。


「キリ、前に頼んだやつ頼めるか? ちょっと量が増えたんやけど」

「うん、オッケー。ああ、分かる、ここの大福おいしいよね」


 メモを受け取った八霧が頷いて笑顔になる。初音が彼の手元を覗き込むと、そこには流暢なひらがなと漢字でいくつかの単語が書かれていた。


「美崎屋、ふるうつ大福……季節限定、浜田屋、水ようかん……」


 声に出して、それらがこの町にある和菓子屋とそこの銘菓だと気付く。


「何これ?」

「前回キリに選んでもろた菓子が好評でなあ。これは今回も頼まなあかん思て来たんや」


 小狐がなぜかえっへんと胸を張る。しかし初音には全く意味が分からない。


「どういうこと?」

「簡単に言うと、狐会とかいうのがあるんだと。こいつはその会のお菓子を用意する担当らしい」

「何それ?」


 八霧の超簡単な説明に初音はますます首を傾げるばかりだ。これは深く考えてはいけないやつだろうか。


「今年は四年に一度の大主様が来はるんや。そやから菓子も気合い入れて奮発せなあかん」

「はあ」


 初音はもう深く考えるのをやめ、ただ目の前にいる小狐の話を聞くことに意識を向けることにした。多分これは考えても確かな答えがないような気がする。


「美崎屋の季節限定のフルーツ大福と渡瀬甘味の団子以外は、もう今日買って揃えてるよ」


 八霧が背負ったリュックを軽くゆすって見せると、小狐は目を丸くした。


「さすがキリやな! よう分かっとる!」

「じゃあ残りは明日改めて買い物に出掛けよう」


 八霧はメモを唇に寄せて、ふふと微笑んだ。

 初音は相変わらず、そんな彼と小狐を見比べていることしかできなかった。



 あの後結局、八霧は初音を家まできちんと見送ってくれたが、初音の自転車の後ろにはあの小狐がちょこんと座っていた。自転車の振動にゆられながら、どこか嬉しそうにしていた。

 その翌日、初音はいつも通りの学校だ。どこかふわふわとした気持ちでいる間に、気付けば部活動まで終わってしまっていた。

 自転車をかっ飛ばして帰路に着く。桜並木に入って暫くの所に、一人の青年が立っていた。

 昨日とは違って初音が声をかける前に彼の方が先に前に出て自転車を止める。


「キリちゃん」

「お帰り、初音」


 八霧はリュックを背負っている他、両手に紙袋を提げていた。


「もう帰るの?」


 恐らく紙袋の中身は彼の弟が作った料理やらが詰まっているのだろう。


「ああ。用事は終わったからな」


 八霧は紙袋の上に載っていた小さな包みを取り出した。


「これ、美崎屋の季節限定のフルーツ大福。初音の分」

「……ありがとう」


 しばらく受け取った包みを見つめて、口を開く。


「あのきつねさん……もう帰っちゃったの?」

「ああ。ちゃんとおつかいの菓子もゲットできたし、ほくほくした笑顔で帰っていったぞ」


 八霧は何でもないことのように言う。その口調は気心が知れた友人のことを話すようだった。

 その友人とは小さな獣なのだが、全然違和感がない。八霧なら然もありなんと思ってしまう。――昔から、彼はこういう人だった。どこか浮世離れした空気と言うか、そういうものを確かに持っている。

(実際にその浮世離れした現象を見たのはこれが初めてだけど)

 だが初音の前にいる彼はいたって普通のどこにでもいる青年だった。

 昔馴染みの、会えたら超レアキャラな、そばにいると安心する存在。


「じゃあな。また暫く会わないだろうけど元気でな」

「次は夏休みかな。お盆には帰ってくるんでしょ?」

「うーん、気が向いたらな」

「気が向かなくても帰って来てよ! 今度は私ともちゃんと遊んでくれないと!」


 今回は全く遊べなかったのだから。初音が頬を膨らませると、八霧は苦笑しながらその頬を人さし指で突き刺した。


「はいはい。気が向いたらな」

「だからー!」


 初音の文句を流しながら、八霧はするりと傍らを駅の方へと抜けて行く。それはあまりにも自然で、掴みどころのない風のようだった。昔、彼の剣道でも感じたことのある軽やかな動きだった。

(今度はいつ会えるんだろう)

 果たして夏休みにも無事に出会えるのかどうか。会えたとしてもきっとまた突然現れるのに違いない。


「キリちゃんのバーカ」


 初音は小さく呟くと、もう遠くなった彼の後ろ姿にあっかんべーと舌を出して前を向いた。

 不思議な体験にふわふわとしていた感覚はすでになくなり、空腹を思い出したお腹が盛大に鳴いた。

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小狐のおつかい 葵月詞菜 @kotosa3

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