第7話

7.


 春が来て、私はなんとか進級した。そして、冷たい空気に熱気がよぎる一瞬が珍しくなくなってくる時節となった。それはそんな温厚な日のことである。


 私はテレビ番組に飽きると家を出て、いつも通りに隣の友人の部屋を訪ねた。


 家のベルを鳴らしても出てこないので、慣れた手つきでノブを回して、彼の部屋に踏みいることにした。まだ日中であるのにもかかわらず、部屋の中は薄暗くひんやりとしてまるで陽は既にして沈んだかのように感じられる。ぽっかりと空いた洞窟のような感じがして、私は呆然とその場に立ち尽くした。


 すべてが変わっている。


 雑誌や輪ゴムが散乱していた床は塵ひとつなくなっていて、ベッドシーツは考えられない質感をもって整えられ、机の上には風邪薬も醤油さしもハサミもなく、ラックはそれ自体が壁の中に消えており、ラジカセも、かかる音楽もなかった。生活の気配といったものは、不気味なほど清潔に拭い去られていた。まるで雨が通り過ぎていったかのように、簡単に言えば嘘のように。壁の時計は外されており、この部屋には時間が流れていないようにさえ思われた。


 私は窓辺に寄って、そこから自分の部屋を眺めた。カーテンが閉め切られ、中は見えない。私のものなのに、ひどく遠い気がした。窓ガラスのすぐそばを小さな鳥が横切ったとき、私はからだを震わせた。ヒュー、と薬缶が汽笛のように鳴った。いきなりのことに振り返ると、私は小さく飛び上がった。さっき入ってきたところの玄関の横に見知らぬ男がいたのである。狭いキッチンに取りつけられた一口コンロのガスを切った、その腰の曲がった老人は重さを確かめるように薬缶を軽く持ち上げながら、私を見つめた。その瞳からはなんらかの好意といったものを推し量ることはできなかった。彼の頭のうしろでは換気扇が澄まし顔でカラカラと空気の循環を試みている。


「なにかね、君は」老人はティーポットにお湯を注いだ。


「あの」戸惑いながらも、私は声を振り絞った。「……あなたは、どなたなんでしょうか。水色くんはどこに?」


 老人は深緑のポロシャツの裾をチャコールのズボンの中にしまいこんでいた。水色はどこにもなかった。男は水色の特権性を奪うために現れているのかと錯覚させるほどに、水色とは関係がなかった。彼はティーポットと陶器のカップを慎重に机の上に運んだ。往年の事件によって血管の浮き上がった彼の腕や首は、寝たきりの母親を思わせるようで私は目を逸らした。


「わたし? わたしは、唐沢という者だ。この部屋の主だ」


「唐沢……、もしかして水色くんのお父さんですか?」


 老人は不審な顔をした。私はわけが分からなかった。


「わたしに子供はいない」


「じゃあ、ここに住んでた彼は?」


 老人はようやく事態が飲み込めたようだった。カップにつがれた茶をすこしだけ口に含むと、ゆっくりと答えた。


「ああ、わたしはこの部屋を若者に貸していたんだ。彼の名前は唐沢じゃない。私の名前が唐沢水人だ。そして彼は出ていったよ。期限が決まっていたんだ。手筈だって彼はちゃんと把握していたよ。掃除も見事なものだった」


「そんな……」私はここが夢なのではないかと思った。「だって、でも……、彼はそんなこと言わなかった」


「それは彼がそう判断したからだろう」


 私は差し入れ用に手に持っていたビニール袋を掲げると訊いた。


「ところで、コカコーラ要ります?」


 老人は黙って首を振った。




 そうして何もかも終わったことが告げられて、私は立ち竦んでいた。そして、やがて歩き出した。出口の方へ。


 陽が高く昇り、地面に濃い陰影を描いていた。ポスターの貼られた電柱はうんざりと街に眠っていて、民家の石塀の向こうに見える美しい花を実らせた紫陽花の葉群れが微風に音を立てている。何も考えられない頭をぶらさげた私の影に、うしろからひとつの影が伴った。それはなんだか懐かしい光景だった。


「盗みの帰りかい、少年」


 私が問いかけると、アサゲは私の横に来て、一緒に歩いた。


「ダメだった」彼は言った。うつむいて、その横顔は打ちひしがれている。いつにない深刻さに、私は事情にあたりをつけて訊ねてみた。


「ヒマワリちゃん?」


「うん、好きってなにか分からないって」


「ちゃんと気持ちを伝えたの?」


「うん、できるだけ……」アサゲは小石を蹴った。「思ってること、言った」


「どんな風に?」


「髪がふわふわしてて、その中にカマキリを飼ってそうだって。黒板にチョークを突き立てるときのぎこちなさが美しいって。あと五〇メートル走したときの、においが良いって」


 それなら仕方がないな、と私は思った。他には何も思いつかなかった。


「ヒマワリちゃんは誰とも付き合ってないんでしょ?」


「そう……、だと思うけど」


「なら、大丈夫。まだチャンスはいくらでもあるよ」


「どこに?」彼は迷い犬みたいな顔つきをした。


 私は言ってみた。


「未来にだよ、列車の走る線路の上に。あるいは人類の果てた木星に、そして金木犀の香りのうちに、風の連れていく足跡の中に、すぐに通り過ぎる雲の切れ間に、ああ、運命はいつだって秋の憂いに突き当たる……」


 あてもなく歩いていた私は、彼と歩調を合わせて、湖の畔のベンチまで歩いて腰を下ろした。湖の上では、ささやかな波紋が陽に照らされてキラキラと輝いている。先程までよりも幾分か強さを増した、山から吹き降ろした風が私たちの髪を揺らした。すべては失われてしまったのかもしれない、という予感は薄れることなく私たちを覆っていた。アサゲと私は黙っていた。何を言うべきかは分かっていても、口に出したところでなにが変わるとは思えなかった。


 感傷に飽きたのか、やがて帰ると言って彼は立ち上がった。


「これから夏が来るんだよ」アサゲは怪訝に口を尖らせて、積年の疑念を晴らすように言った。


「そうだね」私は口元を歪めてハハハと笑って見せた。


 彼は帰路に戻り、私はひとりになった。ひとりで湖の上に弧を描く風を見ていた。湖面を滑る風の軌跡は誰かの運命を司っている気がしたが、しかしすぐにそれは別の風の軌跡とぶつかって形をなくした。それもただの初夏の風なのだった。私はそれを見て思う。それぞれの人生という道が延びていて、誰かの道と重なって交差し、それもやがては離れていく光景を。水色くんとアサゲが私の歩む道筋に影を落とし、そして去っていく。運命と期待は別物だ、なんて強がってみても仕方がない。


 しかしその日、私の生活の一部が変わったのは明らかだった。母親が死んだのだ。葬儀や通夜は慎ましやかに執り行われ、地方からよく知らない親戚の類がやってきて香典を置いていった。多くの人は母親のことをほとんど知らなかったらしく、想像もつかない彼女の幼児期の思い出なんかを語っていた。私はと言えば、二年近くもの病床生活を身に染みて知っていたので、心づもりが自然と形作られていたのか特に思うところはなかった。


 もうひとつ、それに関連して私の生活に大きな変化が起こった。長いこと行方不明さながら単身赴任していた父親が東京から帰ってきたのだ。喪主も父が請け負った。私はそれには少なくない戸惑いを覚え、複雑な感情を抱いた。なんせ、母が病に伏しても一度も顔を見せなかったのだ。彼は記憶より背が低く、落ち窪んだ眼をした、ちっぽけな男だった。彼が帰ってきて私を見たとき、私はそれが父だとは思わなかったくらいだ。しかしそのまなざしにはやさしい光が宿っていた。その酷使された眼を細めて、仕事が次から次へと舞い込んできて、仕送りをすることで精一杯だったこと私に説明してから、それでもすまなそうに詫びを告げた。今度のことで会社から異動を許され、これからは私と一緒に暮らすことになった。




   ***




 母が死んでから十日ほどが経ち、私はひとりで母親の遺品を整理していた。父と二人で仏壇を飾り、余っている服や趣味の品は売りにだした。大雑把なことが終わると、私が後を担い受けた。何がどこにあるかも私の方が把握していたからだ。父は仕事に出ていて、沈もうとする陽は強い光線となって窓から射し込み、埃が白く浮いている。私は年代を感じる黒い背表紙の厚いアルバムを眺めていた。パラパラと黄ばんだページを捲っていると、母の若い頃や、父親との写真があり、そして私が加えられた。赤く醜い産まれたばかりの自分を指先でなぞって笑って見過ごすと、そこからは私が写ったものが中心になっていった。ふと、小学生に入ったばかりの私が写ったものに目を落とし、ページを繰る手が止まった。そこには私と同じ年頃の男子が二人で黄色い通学帽に真新しい赤と黒のランドセルを背負って、私の家の前に並んで立っていた。名前も今では分からない。クラスメイトと敵対する現在の私が色濃く、部屋に浮き上がる。過去から向けられた純粋な視線に私は貫かれた。急いでページを捲ろうとした瞬間、心の内で湧き上がっているのに任せていた妙に惹きつけられる感覚の正体に突き当たり、私は熱い情動に打ち顫えた。


「あっ、ああ……」


 私の吐息は抑える指先の間隙を逃れ、夕暮れの部屋に零れ落ちた。年月に鮮明さを奪われつつある白みがかったフィルムに、ぽたぽたと涙が痕をつけた。その悪戯そうにする友達の表情の雰囲気がアサゲに似ているのを、私は発見してしまったのだ。それは決して許されないことのように思えた。私はいつまでもひとりでなければいけないような気がしていた。しかしそれはそこにあった。見れば見るほど、私の昔の友達はアサゲに重なって網膜に映った。


 そんなどうでもいいことで、たったそれだけのことで、私の視界は滲んでいった。いつ以来だろう、古い昔にそれを失くした瞳は、泣き慣れてないように涙線の制御機能を逸していた。涙で白く濁っていく視界は、景色の輪郭を崩していく。あらゆるものが視界に溶け合い、区別のつかない一体になる。アサゲも水色くんも父親も母親もクラスメイトも、通学路も家の前の道路も湖のざわめきもシャツの青さも飴玉も、写真の二人も、過去も、記憶も……。すべてが渾然として、ただ沈みゆく陽の赤がそれらを赤く染めていることだけがはっきりとしている。ああ、そうだ、今度会ったら、アサゲと夏にアヒルボートに乗る約束をしよう、そうだ、また素敵な夏になるといい、それだって二度とないものになるだろう、彼がフラれたって、水色くんがいなくなったって、二度とない夏は来るんだ、なんだっていい思い出になる、そうだ、きっと約束しよう、そうしよう……。


 私はそうしてしばらく泣いた。


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青い太陽 四流色夜空 @yorui_yozora

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