第645話 「世界が相手だ④」
世界全国の都市を巡り、白い空に魔法の矢を撃ち続けて一時間ほど。防御膜を有するほどの規模の都市上空には、おおむね例の魔法を撃ち込み終えた。
奴の蓄えを浪費させようという俺たちの企ては、現時点でも一定の成功を収めているように思われる。総帥閣下からのご連絡では、奴からの同時攻撃が行われる箇所が、平均で数個箇所は確実に減っているとのこと。
まぁ、「やっぱり温存してやがるんじゃ?」という懸念の声は当然のようにあるけど、おっぱじまってから半端に手控えるのは、下策もいいところだろう。奴がそういう戦術の基本を知らないとも思えない。
また、ユリウスさんが何度か交戦したことにより、奴の力についての理解が進んだ。
いや、進んだというのも変な話で、実際のところは奴自身も力を完全に操りきれていないという。「おそらく、人間側の動きを脅威に思い、急き立てられたのでは」というのが、ユリウスさんのご意見だ。
とりあえず今の所、全世界による奴との戦いは、好ましい推移を見せている。
奴の反応や実態については、未だに不明瞭な部分も多い。ただ、空の変化はもう少しわかりやすく、大勢の心を震わせた。
虹の雨という形でマナを散逸させられた、あの白い雲は、仕掛けが早かった都市ではすでに消滅している。そうして白い雲の代わりに、赤紫の空が現れたり――日の出が早い国の都市では、正常な空も観測された。
つまり、空と太陽が彩る、本来あるべき朝焼けが、この星にも戻ってきたというわけだ。
戦いは、まだ終わったわけじゃない。しかし、みんなで手を取り合い、白い空に立ち向かい、ようやく元通りの空を取り戻しつつある。その事実に、俺たちは心を強く動かされるばかりだった。
☆
そうした流れを確固たるものにし、奴に力を取り戻させまいと、俺たちは更に矢を撃ち込んでいくことになった。
とはいえ、都市部の上空はすでに完了している。残るは、それ以外だ。奴の力は人里離れた山野や海上にまで及んでいる。そういった、普段は人の手が届かないところにまで、俺たちは出向いていって、奴を空から追い出していく。
天文院から一方通行の門をくぐり――俺は周囲に何もない洋上へ躍り出た。昼夜の区別がつかない空は、わずかに赤紫が混ざる白光で海を照らし、足元では波がぶつかり合って白波が立っている。
都市部から矢を撃っていった理由は、人口密集地域の上空から、奴の脅威を退けたいというのが一つ。もう一つは、俺たちみたいに暗躍する者が、奴に気取られないようにしたいというもの。木を隠すなら森というわけだ。
そのため、人里離れた箇所については、手を付けるのが後回しになっていた。今の所は問題なさそうだけど……長居する理由もないか。俺は、今日一日で数十発は撃っている矢を空に放った。
それから、着弾の確認をすることもなく、俺は帰還の準備に入った。まずは離脱が最優先だ。
天文院からの転移は一方通行で、つまり帰り道の用意はない。完全に孤立する状況下、もしも奴に逆利用されたらという懸念があってのことだ。
そこで――帰り道は自前で用意する。俺は宙にマナを走らせ、空間に亀裂を作り、その先へ潜り込んだ。冷たい白光に満ちた世界から、今度は空虚な暗い灰色の世界へ。
そうして、なんだか慣れてしまった感のある虚空を駆け抜け……俺は天文院への帰還を果たした。
虚空からの門を超えるなり、「どうだった?」と総帥閣下からのご質問が。ほんの少し上がった息を整え、俺は答えた。
「たまたま気づかれなかっただけかも知れませんが、今回は反応されませんでした」
「なるほど……確定できないのが悩ましいね。君単体で動かすなら、逃げ足速くて問題なさそうだけど」
逃げ足についての言及で、特に俺を揶揄するような感じの響きはない。明らかに長所として捉えられているし……俺たちがやっていることは、奴が重税で溜め込んだ私財を世にばらまくようなもので、そういう義賊モドキと思えば、むしろ逃げ足という言葉がしっくり来る。
そういう役回りだからか、俺と同じように矢を撃っていく仲間たちも、どこか不敵な雰囲気を漂わせている。
一方、度々空に目を向けては、敵の強大さを目の当たりにしてもいる。戦友たちは、今後の動きについて慎重だ。そこで一つ意見が出た。
「戦闘要員を引き戻せませんか?」
「というと?」
「いえ、余力のある方を、こちらの控えに回せればと。そうすれば、矢に反応して奴が動いた際、余剰戦力を振り向けて対応できるのではないかと」
「なるほど」
奴による同時攻撃箇所が減りつつある今、理にかなった提言だ。
問題は、誰をこちらに戻すか。こちらから送り出した戦闘要員の方々は、交戦が終われば、事態の収拾と民心の慰撫という仕事がある。それに、連戦されている方もいらっしゃる。仕切り直しで状況を整えるのは、骨が折れるかもしれない。
しかし、考え込む俺をよそに、総帥閣下は早々と決断を下された。
「各都市に打診し、できる限りの招集をかけるよ」
「よろしいのですか?」
「まぁ、誰を戻すかについては議論が必要だろうけど……君たちが考えることじゃないね。そういうのを仕事にする人がいるんだから、そっちはそっちに任せればいいさ」
「それもそうですね」
ついつい抱え込んでしまうように考えていたけど、この場にいない方々だって、それぞれのやり方で戦っているんだ。そう思うと、気がすごく楽になる。
ただ……俺はというと、そんなに休む暇はない。
「リッツは、増援なしでいいんじゃないかな……どうだろ?」
「大丈夫だと思いますよ」
「逃げ足早いし」
戦友の一人が軽い調子で口を挟んできて、俺は口の端を釣り上げるような笑みを返してやった。
こちらが状況を整えようという間、奴も体制を整えるかもしれない。それに、奴が自身の力を掌握しきれていないという見立てもまた、行けるうちに仕掛けておくべきだという考えを支持する。
奴に息をつかせまいと、俺は次なる場所への門の前に立った。
☆
この日最初の攻撃が行われてから、だいたい半日ほど経っただろうか。
結局の所、都市部以外で矢を撃ち込んでいっても、奴は一切の反応を見せなかった。本当に気づいていないのか、何か考えがあるのかはわからない。
天文院中枢にある、この星の再現球では、ほとんどすべての空が正常化している。まぁ、虹色の雨を正常と言い張るのは難しいけど……奴の支配下から脱したとは言える。
ただ、奴の存在を根絶したとは言い難い。いずれの国の領土・領海からも遠い、本当に隔絶された遠海の上空に、最後の白い空が残っている。いや、空というよりは雲か。星を模した球の中で、その雲はまばゆいまでの光を放っている。現物もきっとそうなのだろう。
おそらく、あれが奴の最後の力だ。人間社会から追い立てられ、誰もいない空へ逃げ込んだように見えるそれは、依然として脅威でもある。
もはや交戦中の都市はなく、全戦闘要員はこちらへの帰還を果たしている。重軽傷者多数。しかし、一人の脱落もない。肩をえぐられるほどの負傷をされた方も、「この目で勝利を見るまでは」と、強気に微笑まれている。
そして、一堂に会したこの場の面々から、アレを放置しようという声は……当然、上がってこない。最初に、魔法王国のトリスト殿下からご指摘が。
「そもそも、相手は死にかけの体半分から、空全体を掌握するにまで至った。そう考えれば、あれ程の力がまだ残っているのなら、立て直しもできると考えるべきだ」
「何をしでかすかはわからないというのは、確かにあるね。勝利を確たるものにするためにも、ここで始末をしなければ」
アル・シャーディーンのナーシアス殿下も続かれた。
後顧の憂いを断たねば思いは、誰にでもある。しかし、思いは共通していても、それを形にするための考えは、中々出てこない。
どうやって、奴を始末する? というより、人間社会の領域から離れた奴を、どうやっておびき寄せる?
ただ――俺には一応、考えがあった。口にするには、かなりためらわれるものがある。それでも、俺は腹をくくった。
「一つ、案が」
俺が口にすると、一瞬で場が静まり返る。今回の雨降らし戦術についても、俺は発起人みたいなものだったし……まぁ、期待されてるんだろう。それ自体は悪くない。一方で言い出しづらくもあるのは確かだ。一度深く呼吸して、俺は案の中身を告げた。
「私がおびき寄せます」
「君が、囮になると?」
「アピールすれば、寄って来るだろうという自信はあります。おそらく、奴も私のことは殺したいはずですので」
俺がおびき寄せるという考えについてはともかく、俺と奴の関係性についてはご納得いただけたようだ。先月の交戦時、奴が俺にかかりきりになっていたという事実があって、腑に落ちる話だったのだろう。
俺からすれば、奴が次に何をしでかすのか、何を企んでいるのかはわからない。しかし……逆もきっとそうだ。魔人側最高幹部が、ド平民にぶった切られて、体半分失うまで追い詰められたんだ。俺は、殺さなきゃ安心できない相手だろう。
しかし……俺の案を聞き入れた上で、ウチの殿下は俺に尋ねてこられた。
「君が嘘を言っているとは思わないけど、話が半分だとは思うよ」
「……半分、ですか?」
「本音を言ってないと思ってね。自分の手でケリをつけたいと考えているのは、君もそうだろう?」
「はい」
見透かされ、素直に認める俺に、殿下は困った奴だと言わんばかりに、力なく微笑まれる。
「まぁ……君も戦えるし、実際に武器無しでやり合ってもいた。任せてもいいかなとは思うけど……」
「何か問題が?」
「君ね……」
ため息つかれた後、殿下は小さく指さされた。そちらに目を向け、俺は全てを理解した。苦衷がうっすらにじむ神妙な顔で、アイリスさんが立っている。激戦に次ぐ激戦で、彼女も無傷とは言い難く、顔には小さな切り傷がいくつか。
――だからこそ、これまで戦闘以外の役目を負ってきた俺も、奴と戦いたい。そして、きっと……彼女の方は、俺を戦わせたくないと思っているだろう。
もちろん、事は俺たち二人だけで済ませられる問題なんかじゃない。しかし……この場の皆様は、俺と彼女と、あの野郎の関係性をご存知だ。それらを踏まえた上、俺の心情を
「君が危なくなったら、遠慮なく加勢する。奴が逃げることになろうともね。それでも構わないかな?」
「はい」
「では、私たちはそれで決まりだ。後は君たちで決めてくれ」
そうして……本当に、俺だけをメインの囮にするかどうか、アイリスさんと決めることに。すると、彼女は無言で小さな道具入れをあさり始めた。
「コイントスで決めませんか?」
「いいんですか? 自慢じゃないですが、かなり目がいいですよ、俺」
「知ってます」
言いつつ、彼女はニコッと微笑み、俺の目を見つめてきた。
しかし……見つめられても、心の上っ面すら動かない。自分の中に固く決まった意志を感じる。
コイントスは、公正な運試しだ。彼女はきっと、俺と自身の気持ちを天秤にかけ、最後は運に託そうと持ちかけてきたんだろう。
でも俺は、気づかれないことをいいことに、ズルをする。
そして――彼女は指でコインを弾いた。惚れ惚れするほどまっすぐ、高らかに上がったコインが、金の軌跡を描いて宙に舞う。
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