第616話 「フラウ・ファリアの心臓①」

 扉の向こうで目にしたものに、俺たちは言葉を失った。距離感を喪失させるくらいに真っ暗な空間が広がっている。

 そして、この空間を進んだ先には、地面から少し離れて浮いているように見える半透明の白い球体が。直径数メートルってところか。球体表面には様々な幾何学模様と文字列らしきものが、淡い光を放ちながらゆったりと動いている。

 この空間を目にして想起したのは、天文院の総帥閣下だ。ただ、閣下がおられる接見の間と、違う部分もある。一番大きな違いは、白い球体の中心に、椅子が見えることだ。ハシゴは特になく、イスが完全に浮いている。

 急に現れた妙な空間にみんな戸惑っている。期せずして天文院を思わせる空間の出現に、俺も思わず困惑してしまった。アイリスさんもそうだ。

 そんな中、アーチェさんは少し沈鬱な表情をしている。事前の話では、見知ったわけではないけど、話は聞いているとのことだった。場の視線が少しずつ彼女の方に集まっていくと、彼女はいくらか経って、意を決した表情で殿下に向き直った。


「殿下。こちらが、私が伝え聞いた王都の中枢部です」

「そうか……ここの使い方は?」

「お任せください」


 普段のセレナ並みに控えめな印象のあるアーチェさんだけと、今回は様子が違う。強い決心や使命感を感じさせる彼女のあり様に、殿下はどこかほんの少し哀しげな微笑を浮かべられ、「ありがとう」と仰った。


 それから、エリーさんに光球ライトボールで照らしてもらいつつ、俺たちは暗闇の中へと踏み込んだ。

 照らしても結局、下は暗いままだったけど、きちんとした床はある。ホウキ乗りを先に向かわせたけど、取り越し苦労だったようだ。

 しかし、空間というか大広間らしきところに入り込んでから少し探ってみても、中央の球体以外に気になるものはない。やはり、アレが本命の何かか。

 そして、一同が球体近くに集まったところで、アーチェさんが急に申し訳なさそうになっていく。


「お手数おかけしますが、私をあちらのイスまで運んでいただけませんか?」

「それぐらいなら」


 ホウキを手にした仲間が、間を置かずに快く返事をした。その言葉に、アーチェさんは安心する様子を見せた。

 しかし、そこで待ったの声が。物言いを差し挟んだアイリスさんは、だいぶためらう様子を見せたものの、最終的には決然とした表情で殿下に口を開いた。


「恐れながら……殿下がお手ずから、彼女を運ばれるべきかと」


 思いがけない提案、というよりは進言に、みんなが強くざわめく。ただ、言葉を向けられた殿下は、少し目を伏せて考え込まれた後、どことなくスッキリしたお顔になられた。


「君の言う通りだ。ありがとう、アイリス」

「いえ……出過ぎた真似と承知の上で、申し上げました」

「そんなことはないよ。君も、いいかな?」


 最初に手を挙げた彼は、殿下の問いに、少しばかり困惑しながらもうなずいた。それから殿下は、アーチェさんに向き直られた。


「できることなら、”こういうこと”であなたに頼りたくはなかった。しかし、そうも言っていられない。力も知恵も及ばない私たち王家に、どうか手を貸してほしい」

「はい。そのために、私がここにいます」


 しかし……アーチェさんが返した言葉は、殿下が望まれたものではなかったのかもしれない。返された言葉を、殿下は物憂げな表情で受け止められた。

 あるいは――殿下が少し、お言葉を誤られたのか。「いや、少し違うかな」とつぶやくように仰ると、殿下はアーチェさんの両手を取って言葉を改められた。


「君、何か好きな物とかあるかな?」

「えっ、あっ……はっはい。あるには、あります……」


 それまでの覚悟が決まった感じがすっかり吹き飛び、アーチェさんはしどろもどろに応じた。照れや恥ずかしさから、白い肌が上気している。そんな彼女に、殿下は優しい笑みを向けながらも、力強い眼差しで見据えて仰った。


「だったら、その好きなものを守るために頑張るんだ。私もそうするから。そうやって、みんなが互いに自分の好きなものを守りあって……それが巡り巡って、この国とこの世を守るんだ。君が生まれた理由じゃない、生きていく理由のために、共に戦おう」


 殿下のお言葉に対する返答には、いくらか時間がかかった。アーチェさんは少し声を震わせながらも、はっきりと「はい」と答えた。

 すると、仲間の一人が拍手を始め……殿下の色白の肌に、少し朱が差していき、殿下は視線を外して頬をかかれた。素が出ていらっしゃるというか、年相応の一人になっておられる。拍手していた仲間も、どこかバツが悪そうな感じだ。


 それから殿下は、照れ隠し気味に軽く咳払いなさり、ホウキを手に取られた。

 一国の王太子が、これから近侍のための足となる。立場から考えればありえないことだけど、俺たちの殿下はこういうお方だ。一人の人間として、アーチェさんのことを想って、殿下はこういうことをなされる。それでも、乗せていただくご本人としては、やっぱり恐縮してしまうようだけど。

 そうして二人乗り状態になると、殿下が操られるホウキはゆっくりと高度を上げていった。

 やがて、イスに横付けする形になると、アーチェさんは慎重にイスへと乗り移っていく。彼女がしっかりイスに座り終えると、殿下はアーチェさんの近くに控える形を取られた。


「お戻りになられても……」

「いや、帰りもあるじゃないか。私はここで待つよ」

「そ、それは……恐れ多いと言いますか……」

「気が散るかな?」


 殿下が問われると、アーチェさんは少し考え込んだ後「心強いです」と、はにかみながら言った。


 それから、彼女は表情をキュッと引き締めて、作業に取り掛かった。

 イスのアームレスト先端には、何か宝珠らしきものが据え付けられているようだ。彼女が左右のそれらに手を伸ばすと、宝珠が光を放ち始める。

 そして、宝珠が染まったのとほぼ同時に、イスの周囲を囲む大きな球体もまた、それまでよりも強い光を放ち始めた。緩やかに流れていた幾何模様と文字列の動きも、活気づいたように巡りが早くなる。まるで休眠状態にあった機構がたたき起こされたようだ。

 大球体の反応が始まってから少しすると、大広間全体にも変化が生じた。球体の直下あたりから光る線が、折れ曲がったり分岐しつつも、四方八方へと延びていく。

 それらの線は瞬く間に床を覆いつくし、壁面を這って天井まで。暗闇に覆われていた大広間は、今や淡い光に包まれるようになった。その光の線は、外の通路にまで伸びているように見える。


 アーチェさんの仕事は、とりあえずここまでのようだ。彼女は殿下に「ひとまずは、これで復旧したはずです」と言った。それから、またアーチェさんが慎重に乗り換えを行い、お二方を乗せたホウキが下りてくる。

 この大広間が、再び動き始めたのだろうというのはわかる。しかし、これが外にまで影響を及ぼしているかどうか。

 実行したアーチェさんとしても、実際に見て見ないことには断言できないようで、少し自信なさげではある。「これで、ダメでしたら」と口走る彼女だけど、この場の面々が即座に応じる。

「私に昔の言葉を教えていただければ、やれるかもしれませんわ」とティナさん。工廠の連中は、「具合が悪ければ修繕しましょう」と快活に請け負う。


 幸いにして、アーチェさんの懸念は、単なる杞憂に終わったようだ。殿下の外連環エクスブレスが光を放ち始める。「外からだ」と殿下が仰り、静かな期待で空気がウズウズする中、殿下は外とつながれた。


「す、すげえですよ殿下!」

「そ、そうなんだ」


 殿下がお相手だというのに、第一声がこれで、勢いに殿下は気圧されているようだ。

 ただ、この第一声は、向こうの興奮をダイレクトに伝えてもいる。通話先の彼は、咳払いしてからまともな報告を始めた。


「王都を覆うように、泡膜バブルコートのようなものが出現しました」

「攻撃はしてみたかな?」

「いえ、そこまでは……検証するにしても、国の協議は必要かと」


 興奮はしていても、さすがにこういうところは慎重だ。返答に満足がいったのか、殿下は笑顔になられた。


「今から地上へ戻る。今後の運用や検証について話し合いたい。その旨を、適切な者に伝えてもらえないかな」

「はっ、かしこまりました!」

「戻ったら、みんなで乾杯しよう」


 殿下はそう仰った後、俺たち全員に微笑を向けられた。外で応対する彼も、聞き耳立てている連中も、きっと俺たちと同じような顔をしていることだろう。外の彼は「お待ちしております!」と言った。

 通信が切れると、ティナさんが思い出したように口を開く。


「お昼にはちょうどいいですわね」


 今は大体一時半ってところだ。昼飯に入ろうにも、探索が佳境に入ってきて、飯が脇にどけられた感はある。

 すると、エリーさんが「いい店を知っています。よろしければ、私にお任せいただけませんか?」と言った。こういうところはまったくブレなくて、安心する。

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