第568話 「小休止」
なんだか、顔を触られている? 意識が戻って最初に触感を覚え、俺は目を開けた。それから状況を理解というか認識するのには、数秒ほどかかった。
俺は……アイリスさんに膝枕してもらっていて、彼女に顔をムニムニ弄ばれている。こねたり、つまんだり、つっついたり……。
そして、彼女の傍には殿下がいらして、そのお顔の心配が安堵へと変わっていくところだった。
「リッツ……大丈夫かな?」
「は、はい」
あまり何も考えずにお答えしたものの、この状況はいまいちよくわからない。たぶん、周囲は安全なのだろうだろうけど。
アイリスさんの方に目を向けると、珍しく無感情な真顔っぽい表情をしている。頬は少しだけ桜色になっているけど……俺ほど赤くなっちゃいない。
とりあえず息を落ち着け、俺は状況の説明を願った。
「殿下、あの後一体何が?」
「ああ、順を追って説明するよ」
殿下のご説明によれば、俺は大師に一刀食らわせた後にぶっ倒れた。
ただ、後の皆様方のフォローが迅速だったおかげで、残存勢力をすぐに鎮圧できたとのことだ。
よくよく考えれば、これは驚くには当たらない。奴による手勢の補充は、あらかた部下が倒されてから始まったことだ。その出鼻をくじくように、天文院からは消された人員の補充、さらに俺が奴の門を潰して後続を断ち切った。人数比はこちらが圧倒的に優位だったことだろう。
そういった諸々の要素のおかげで、倒れた俺に危害を加えられるといったことはなかったようだ。
その後、
「それで……こうしてやった方が、君の目が早く覚めるんじゃないかと」
「殿下が?」
「いや、私じゃないよ」
俺の問いに、殿下は微妙な苦笑いで首を横に振られた。まぁ、俺たちの仲を知った上でそういう発案をされる方かというと――。
いや、微妙か?
ともあれ、殿下のお言葉を信じ、俺は周囲の方々の様子をうかがった。視線には暖かなものがある。それが妙にむず痒い。このまま見られたままってのも……と思い、俺はアイリスさんに声をかけた。
「あの、そろそろ起きます」
「……無理しなくても」
作ったような無表情のまま、彼女は相変わらず俺の顔を弄くり回している。
これは……何かの抗議だろうか? 思い当たる節は――まぁ、普通にあるな。
それでも、このままでいるのはどうかと思い、俺は上半身をゆっくり起こした。
さすがに無理しすぎたのか、強い惓怠感はある。でも、奴を倒せたのなら、海老で鯛を釣る様なもんだろう。
しかし……そこで俺は、意識を失う直前のことを思い出した。奴は上半身だけで逃げた。あのまま無事だったとは思えないけど……。
「大師はどうなりましたか?」と尋ねると、答える代わりに殿下は微笑みを向けてこられ、アイリスさんの方を指さされた。
指に従い、彼女の方に向けると、彼女は透圏を作り出した。光点が密集しているのが俺たち。その上の方に、紫の光点が二つ。つまり、残っているのは大幹部二名、聖女と豪商とやらだろう。
奴は、もういない。
言いようのない感情が胸を占め、ぼんやりと紫の半球を眺める俺の耳に、聞きなれた声で「お疲れさまでした」という言葉が届いた。これまでの積み重ねが報われたようで、心が安らぐ。
その後、今度はトリスト殿下が言葉を続けられた。
「君が斬った後、奴は上層へと転移したようだ。そこから別のところへ移動した様子はなく、その場で完全に絶命したものと思う」
転移したかどうか、天文院の情報も照らして確認なさったということだろう。倒したと考えて間違いなさそうだ。
ただ、奴がやられた後、別の光点のところへ向かったらしい。つまり、奴がやられたという情報は、他の大幹部も把握しているはず。それでも、ここまで動きはなかったのだろうか?
その点をお尋ねすると、ウチの殿下が答えてくださった。
「君が倒れて、周辺の安全を確保した後、
「降伏勧告ですか?」
「ああ。といっても、形式的なものだよ。連中が受けるとも思わないけど、何か反応でも見せればと」
すると、その勧告に対し、豪商と名乗る者が答えたようだ。同じく天令を使ったようで、「そのような言葉は、直に会って投げかけるべきではないか」と。
「つまり、相手は待つつもりだと?」
「みたいだね。だからこそ、こうして小休止しているわけだけど」
そう言われると、皆様方が見守る中で一人ぐっすり寝ていた光景をイメージし、恥ずかしさがぶり返してきた。
そこで俺は、話題を変えることに
「次はどのよう動くお考えでしょうか?」
「次か……」
そこで、今後の動きを検討する前に、まずは敵戦力をおさらいすることになった。
残る敵は二名。まず、聖女は常人に瘴気を植え付け、魔人へと変化させる力があるという話だ。そして俺にとっては、いつぞや出会った魔人の少年に、いつかぶっ倒すという約束をした標的でもある。
残る一方の豪商はというと、どうも魔人側の"造幣"担当らしく、魔獣の核になる硬貨を作り出しているのだとか。
つまり、両方とも、魔人の国の量と質を支える存在だというわけだ。
そして、勧告に当たって返答した相手の口ぶりから、次に当たると思われるのは豪商らしい。
「魔獣の生みの親とでも言うべき存在です。単騎で控えているのも、自力で軍を構成できるからでは?」
落ち着いた口調でアシュフォード侯が指摘され、数々の渋面がそれを肯定していく。
「他の搦め手があるという感じはないかな。あるのなら、とうの昔にやっているだろう」
「なるほど」
「ただ……単騎で物量戦を仕掛けてくると仮定して、どれほどの力量があるのか、見当もつかないけど」
どれだけやれる相手なのか、確かに未知数ではある。史実においても、彼と思われる魔人が戦場に出たという記録はないそうで、おそらく実戦は初めてだろう。
先行き不透明な中、とりあえず決めなければならないのは、全員で向かうかどうかだ。全軍突撃を肯定する材料は……ないこともない。
「策謀担当と思われる敵を打倒した後だ。もう、憂慮すべき仕掛けなど、残っていないのでは?」
「いや……倒したと思われた大師とやらが、上へ向かったのが気にかかる。そこで何かあったのではないか?」
「しかし、奴には十分な時間が残っていなかったように思うが」
「上に控える者のために、予め仕込んでおいたという可能性もあるぞ」
近年、フラウゼやリーヴェルムといった列強に対して仕掛けられた一連の策略。その中核にいて計画したと思われる大師だけに、その死後も「何かあるんじゃないか」という懸念は、そうそう拭えるものではない――なんだか、諸葛亮と司馬懿の話を思い出した。
にわかに軽く議論となり、口々に言葉が飛び交う。ただ、懸念はあるものの暗さはない。真剣さの中には前向きな感情があって、心強さを覚えた。
すると、トリスト殿下が口を開かれた。
「僕は、分割した方がいいと思う」
「その理由は?」
「単純に、疲弊度にバラつきがあるから。一度消されて待機していた組……リッツ以外は、まだまだ元気そうだから、次も戦えばいいと思う。でも、現場に留まり続けていた組の内、接近戦担当は明らかに疲弊している」
確かに、いずれの方も気丈に振る舞っておいでだけど、消耗具合は目に見えてわかる程度に差がある。大きな負傷こそないものの、軽傷の数も。
そういうわけで、次なる豪商との戦いでの動きが決まった。まず気力が充実している半分が戦闘に参加。疲弊が目立つ残り半分は、予期せぬ状況に対応すべく待機。
俺は待機側だ。何かあった場合、交戦場所の外から対応、最悪の場合は中へ突入する。アイリスさんも外で待機。彼女に関しては疲弊うんぬんよりも、透圏による状況把握の重要性を買われての配置だ。それで、俺たち待機組を、ウチの殿下が取りまとめられる。
豪商がどれだけできるのか不明だし、彼との交戦中に、何か予想外の事態が起こるかもしれない。そういう意味では、攻め入ろうが待機しようが、不安は色々とある。未だに何一つリアクションのない聖女が、もしかしたら……というのも。
まぁ、なんとなくではあるものの、豪商が殺られても動かないんじゃないかという空気はあるけど。
話がまとまり、俺たちは上の階へ向かって動き出した。残る戦いは、おそらく後二回。あの大師との戦いを思えば、残りも容易ならざる相手だろう。
しかし、ここまでやってこれたという達成感や自負心もある。俺だけじゃなく、皆様方も同じことだろう。次の戦いへ向かう中、俺たちを包む緊張感は、むしろ心地よく感じられるくらいだ。
そうして俺たちは、光差す白亜の回廊を歩いていく。すると、異国の貴族の方が仰った。
「今回の戦い、フラウゼの方々が大活躍ですね」
「言われてみれば」
「そうだね。フラウゼの方々というか、私以外の二人だけど」
冗談交じりに口にされた殿下は、その後「羨ましいかな~?」とご同輩に問われた。それに対するご返答は「はいはい」「そーだね」とそっけない。
ただ、そういうのはお言葉だけで、俺たちに向けられる視線には、温かな信頼や敬意みたいなものがある。それが誇らしくも、少し
すると、トリスト殿下がウチの殿下に仰った。
「君らが頑張る理由はわかるよ」
「というと?」
「ケンカ売られたからだろ?」
まぁ……色々込み入った事情を抜きにして、シンプルに表現すればそうなるだろう。ウチの殿下は、向けられた言葉に一笑し、口を開かれる。
「そういうことになるかな。私……いや、私たちは、こう見えて血の気が多い方だしね。そうだろう?」
集団戦闘にいらっしゃる殿下が振り向き、俺たちに問われた。それで……。
「はい」
俺たちは同時に返答をした。返答に少しだけ遅れ、周囲の視線がこちらに向いてくる。目から逃れるようにチラリと横を向くと、アイリスさんと目が合い――少しだけ恥ずかしそうにしている彼女は、頬を桜色に染めつつも、柔らかに笑ってくれた。
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