第562話 「最後の慈悲」

 どうにか自分を取り戻し、すべての記憶がつながった私は、自分が置かれている状況を理解した。

 未だに私は、現実から切り離された不可思議な空間にいる。周囲の様子を見る限り、自己を取り戻したのは私だけのようだった。

 私は、重要な一歩を踏み出した。この世界の時の歩みがどうなっているのかは不明だけど、外の世界では事態が進行しているはず。甘い温もりに包まれて寝ている場合じゃない。

 どうにかして、私がこの状況を打破しないと。


 今の私を取り巻く世界は、分断された思い出の中から見上げたものと、そう変わりはない。大きいのは視点の変化。暗い灰色が広がる中、淡い色彩の泡が円筒状に敷き詰められている。さっきまでは、円筒の壁面から向こう側の空しか見えていなかった。

 そして……円筒を埋める泡が、互いに溶け合っていく。個々の色を失い、灰に近づいていく。

 その光景に、私は恐怖を覚えた。あの女の魔法で、全員がこの世界に閉じ込められたのなら……全ての泡がなくなった時、それが何を意味するのかは正確にはわからないけど、取り返しがつかない事態だとは思った。

 ただ、記憶の泡が多少損なわれた程度では、たぶん問題ないはず。私がこうなるまでに、私の思い出も溶け合っていっただろうけど……少なくとも、思い出せなくなって困っている思い出はないから。


 泡が少しずつ損なわれ、カウントダウンが始まっている中、私は打開策を求めて歩き出した。

 戦闘が始まった時、あの女は被弾してもいないはずなのに、私と一緒に倒れたように見えた。そういうフリなのかもしれないけど……私には、あの女もこの空間にいるように思える。それが、一度操られた者の直感だった。

 私は円筒形の世界の中、歩を進めた。行くべき道は二通り。前後どちらが正解なのか、確証は持てなかったけど、私は自分の感覚が命じるままに動いた。


 すると、泡に包まれた円筒の端についた。そして、そのすぐ向こう側に、モザイクタイルみたいな道が続いている。

 いえ、近づいて見ると、その道はステンドグラスでできているようだった。泡の世界よりも、ずっと色鮮やかにはっきりしていて――。

 そして、互いに溶け合おうとは決してしない。

 一つ一つのガラス片の中に、記憶が閉じ込められている。それらに私は見覚えがあった。私が操られていた頃の事。あの女が寝て意識が途絶えた時、私はあの女の潜在的な記憶を垣間見ていた。

 今、改めて足元に広がる記憶の断片は、私が知らない世界を舞台にしているようだった。世界の多くは、硬く乾いて無機質な素材で占められている。

 たぶん私たちのよりも進んだ世界で、あの女は生まれ育った。リッツさんと同じで、あの女も異界からやってきた――いえ、連れてこられたのだと思う。

 私はステンドグラスの上に足を踏み入れた。そのことに、私は強い抵抗を感じた。相手が誰であれ、私は誰かを踏みにじっている。

 それでも歩を進める私の視界に、あの女の記憶が入ってくる。母親との離別、父親への依存、社会的地位のある父親、付帯物として持て囃される自分。優越感、裏腹の空虚。

 そして……父親の不正と失脚、周囲からの侮蔑、嫌がらせ。父親からの虐待。足元から響く声や音は、先程まで浸されていた世界とは違う。それらは明瞭な輪郭を持って私の心を刺した。


 耳をふさぐことはできた。目をそらすことも。でも……私は、知っておかなければならないと思った。不必要な慈悲心かもしれないけど、私は自分の善性に従う。

 やがて、記憶の断片の中で、あの女と父親の生涯は最後の日を迎えた。目に映る全てが紅蓮に染まる記憶。目を奪われるほど色鮮やかに刻まれた記憶の中で、何が起きたのか明白だった。

 それから、あの女の魔人としての生が始まった。無数のステンドグラスの中、あの女の所業が褪せることなく、その色と形を保っている――いずれの記憶も、はっきりと残り続けている。

 非道の記憶が、決して薄れることなく刻まれている事実が、何を意味しているのかはわからない。操られた方々の最後の執念が、あの女の中に忘れがたい記憶として刻んだのかも知れない。

 あるいは……。


 私は歩き続けた。ステンドグラスを踏みしめ、一歩一歩前に。

 そして……鮮やかな記憶のタイルの向こう、無限に広がる暗い灰色の中央に、あの女が膝を抱えてうずくまっていた。

――いえ、あの女じゃない。魔人と成り果てる前、人だった頃の少女がそこにいる。虚空にその子の、虚ろな声が響く。


「私……最初から、こんなのじゃなかった」

「……そうね」

「別に、あなたに見せつけたかったわけじゃないの。同情してほしいわけでもない」

「だったら、どうしたかったの?」

「……わからない」


「私は、私がわからない」


 その声とともに、背後でガラスが割れる音がした。私たちを包み込む暗灰色の空間が、白い光に切り刻まれる。世界が白光に満ちる。

 急激な変化に、私は身構えた。目もくらむような光が去ると、私は自分が元の世界にいることを知覚した。魔人の居城の中、広間を明るい日差しが満たしている。

 そして、窓から飛び込む光の中央で、あの女は仰向けになっていた。身動きしようという感じはない。私との距離は近い。

 私は瞬時に動き出した。愛用の剣を抜き放ち、あの女に突き立てようと構え……すんでのところで、あの女が口を開いた。消え入りそうな声は、魔法で無理やり中に聞かせようとしているものじゃない。あの女の、素の声だった。


「いいの? 殺しちゃって」

「捕虜になれるとでも?」

「そういう、くだらないことじゃないの。あなたが私の魔法を受け入れていれば、ああやってみんな一つになれば……もう、誰も、苦しまなくて済むじゃない」


 そう言って女は、目から一筋の涙を流した。命乞いに聞こえるその言葉は――実際そうなのだろうけど、一方で本心で語っているようにも聞こえた。

 でも、私はそれを受け入れられない。


「そんなの、ただの逃げじゃない。苦しんでもいい。傷ついてもいい。私は私でいたい」

「リッツ君はいいの?」

「彼もきっと拒絶する。一つに溶け合わなくても、わかり合えるから」

「……バカみたい」


 女は説得を諦めた。そもそも、本気で私をどうこうしようとしていたようにも思えない。無抵抗になった女の、その振る舞いは芝居のように見えず、私の剣を待っているように映る。

 仮に、何か狙っているのだとしても……さっきは間に合わなかったけど、今の私にはあの魔法――盗録レジスティールが機能している。彼が編み出した魔法が、私を私でいさせてくれる。

 最後の最後、私は片膝を落とした。女の胸に剣を突き立てようと、その胸に剣の先端を置く。

 すると、女は尋ねてきた。最後の問いになるかも知れないその声に、震えはない。


「同情した?」

「……そうね」

「でも、殺すの?」

「ええ。この手で殺すわ。首をはねないのが慈悲だと思いなさい」


 宣言通り、私は女の胸に剣を刺した。刃の前に立ちはだかる床まで貫くように、私は渾身の力で押し込んでいく。力を込めるほどに、女の口から弱々しく息が漏れ出る。

 そして、私は言った。


「あなたのことは、覚えていてあげる。許されないことをしたあなたにも……そうなってしまうだけの過去があったって。あなたのこと、認めも許しもしないけど、私は忘れない」

「そう……」


 かろうじて口から出せた、か細い返事の後……女の目に涙が溢れてきた。

 それを指で拭い取ってやると――むしろ逆効果で、とめどなく涙が流れていく。体から少しずつ色素が抜け落ち、白い砂となって崩れかけていく中、目から溢れるそれが精一杯の自己表現だった。

 そして、涙に続いて感情が決壊し……女は声も上げられずに泣きじゃくり始めた。それが終わる最期の時まで、私は目と目を合わせて見届けた。


 私には、この女が何を考えているのか、正確にはわからない。でも、考えることはできる。思い巡らして理解しようと、歩み寄ることはできる。

 一つにならなくたって。


 そして全てが終わった後……私は深く突き刺した剣を床から抜き放って鞘に収め、目元を拭った。

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