第561話 「心の溶融」

 気が付けば私は、温かさと柔らかさの中の中にいた。包まれるような安らぎに身を委ねている。そして、目に差し込む光を受け、私は目を開けた。

 私はベッドに寝かされている。辺りを照らす光の向こうに、私を覗き込む二人の人物がいる。逆光になっていて、その顔は良く見えない。

 それでも目を凝らしてみると……穏やかな顔でいる二人の男女の顔は、顔の作りも輪郭も微妙に不確かだ。光の中で揺らいでいるように見える。

 そんな二人に温かな目を向けられていても、それが他人事のように感じられる。温もりに包まれた中、何とも言えない空恐ろしさ、寒気がじわりと芯から侵食してくる。


 そもそも――私は誰?


 目を閉じて思い出そうとする。そんな私に、二人が声をかけてくる。でも、二人の声が混さり合ってうまく聞こえない。

――違う。二人どころではない、多くの人間が同時に話しかけてくるように聞こえる。同じことを口にしているようで、微妙に違う言葉を投げかけられている。重なり合った潮騒のような声は、何を言っているのか、わかりそうでわからない。妙に耳に心地よいその音は、逆に心を不安で掻き立てた。

 何もかもわからない中、それでもどうにか拠り所を得ようと、私は自分のことに思いを巡らした。

 でも、自分のことがわからない。私を形作ってきた過去が、全て霧の向こうにあるようで。思い出そうとしても、思い出は手が届かないところにある。

 そして……思い出の逆側に続く、やはり不確かな記檍の連続に気づいて、私は慄然とした。不明瞭な今の先、見たことのあるおぼろげな未来が続いている。

 得体のしれない状況に、心臓が止まるような寒気を覚え、私は目を開けた。


 寝かされていた私は、もういない。どこかの庭に、私と大人の男性がいる。私たちは、それぞれ木剣を手にしている。

 私たちを取り巻く色彩は、全て淡くはかない。事物の輪郭も。庭の横にある建物は、まばたきすることに形を変える。

 そして、目の前の男性も。見つめているだけでも、その姿が揺らぐ。

 すると、その男性の大きな手が、私の頭に伸びてきた。思わず私は身構える。優しく頭を撫でられているだけなのに、心はざわつく。

 そして、私は男性に背を向け駆けだした。私を包むこの世界には、境界線がある。庭の緑を超えた先、真っ白な世界が広がっている。

 すると、背に声を受けた。何を言っているのかわからないけど、呼び止められているのはわかる。

 それでも、止まれなかった。わからないなりに駆け出した先、何が待っているのかもわからない。

 でも……このまま身を委ねては、きっと良くないことが起こる。自分のことすら思い出せないながらも、内なる声が私を先へ導いた。


 そして、駆け出した私は……緑の庭から抜け出し、白い世界へ踏み出して、その向こうで料理をしていた。

 グツグツ煮立てられているスープを、私はかき混ぜている。いくつもの食材を、丹念に煮溶かして一つにする。小柄な私に、レードルは重い。

 それでも必死にかき混ぜると、鍋の中で吸い込まれそうな無限の渦が現れた。その光景と、食欲を誘ういい香りに――吐き気がこみ上げる。思わず口を押さえて、私は踏み台の上にうずくまった。


――手? 自分の口を覆った手が、この目には透けて見える。私が、消えかかっている?


 でも、驚く間もなく、私は肩を揺すられた。そちらへ目を向けると、心配そうにしている何人もの人影が、気遣わしそうにこちらを見ている。

 やっぱり輪郭ははっきりしない。瞬きするごとに、私を囲む人数も増減する。母? 友だち? 召使?  誰が誰なのか、何もわからない。

 気が触れそうになって、私は肩に置かれた手を振り切り、部屋を抜け出した。


 台所の外には、不可解な廊下が広がっていた。淡くあやふやな色彩の中、あり得ない間取りの廊下がどこまでも続いていく。上下左右、縦横無尽に道が伸びている。

 そんな廊下の窓からのぞけるのは、外の世界だった。ここと似たようなパステルカラーの、誰の物かもわからない記憶がそこにある。


――向こう側にも、「私」がいる? 向こうの「私たち」は、こちらの「私」を認識できる?


 そんなことを考えたけど、すぐに思い直して、私は駆けだした。不用意に触れ合えば、まずます自分を失ってしまうような気がしたから。名前も思い出せない私だけど、それでも私という意識があるのはわかる。

 その私を、この甘く優しい世界が溶かそうとしていることも。

 外に目を向けないよう、私は必死に駆け抜けた。どこに行けばいいのかもわからず、ただ体が赴くままに走った。

 それから、私は一つの部屋に入り込んだ。服が並ぶその部屋には、姿見がある。その前に私は躍り出た。

 でも、鏡には何も映らない。自分が何者なのか、確かめる術がないまま、目の前が真っ暗になった。


 また、別の世界につながれた。淡い色の夜空の下で、背が高い男性に肩車をしてもらっている。その横に女性がいる。

「この」私にとって、この二人がどういう間柄なのかはわかる。でも、それが誰なのかわからない。まるっきり知らない人しか出てこない夢の中にあって、それでも他人の気がしない。

 そんな二人を見ているのが恐ろしくなって、私は夜空を見上げた。

 でも、頭上に広がっているのは、夜空なんかじゃなかった。無限に広がる暗い灰色の海に、淡い色の泡が敷き詰められている。それらの泡は、互いに寄り合っては溶け合い、少しずつ色を失って灰へと還っていく。

 そして、目を凝らして見てみると、泡の中にはおぼろげな世界が――今、私がこうして存在しているのと同じような何かがあった。

 私もまた、同じように、互いの区別がつかなくなって消えていく?


 それからも私は、誰の物かもわからないけど、それでも見覚えのあるような記憶の中を行き来した。その都度、甘く温かな世界に、自分が少しずつ溶かされていくような感覚を味わった。

 そんな優しい記憶の連続の中、私は走り抜けて自分を保とうとした。いつ終わるとも知れない脱出の中、声にならない呼びかけが、私を止めようとしてくる。もう、このままでもいい。甘さに身を委ねようとする自分が、私の中で少しずつ膨らんでくる。

 でも、それを受け入れない自分も確かにあった。私が誰なのか、抱いている気持ちの名前すらわからない。

 けど、それでもまだ、私は私だった。


 そうしていくつもの不定形な思い出の中を巡り、私は一つの世界にたどり着いた。

 石で作られた円形の建物の中央、暗い灰色の夜空の下に、私がいる。その傍に、ウェディングドレスを着た女性がいて――

 その子の顔は、はっきりと見えた。

 新郎の彼の顔も、今はしっかり見える。

 そして、私と一緒にこの舞台を彩った、あの彼の顔も。

 薄れかかった私の体は、少しずつ輪郭を取り戻している。私の色が、戻ってきている。暗い灰色に飲まれつつある中、互いの思い出が溶け合って私たちが消えていく中、「この私たち」が彩った思い出が、私を取り戻してくれる。


 私は、自分が誰なのか思い出しつつあった。似たような思い出の中で溶け合いかけていた中、誰の物にも似ない私だけの思い出が、私を思い出させてくれた。

 型破りな彼が贈ってくれた思い出が、私を形作ってくれる。

 見上げた空には、相変わらず暗い灰色の海が広がっている。その中にも、きっとこの思い出みたいな、「この私たち」だけの思い出がある。決して溶け合えない、異彩を放つ思い出が。


 だって――彼ってそういう人でしょ?


 直感的に、私は頭上に広がる灰色の海へと、右手を伸ばした。どこを狙うでもなく、指先に力を込める。

 すると、私の指から紫色の光が放たれた。それに呼応するように、海に広がる数多あまたの泡の世界から、紫のマナが伸びてくる。

 そして、放たれた紫の線が、絡んで撚り合っていく。泡から泡へ、紫のマナが伝って茨の庭のようになっていく。引きちぎられ、バラバラになった私の思い出が、私の意識が、今一つになっていく。

 そうして、私を取り戻す最後の段階を前にして――私はネリーさんの結婚式の夜で、少し立ち止まった。

 ここにはリッツさんがいる。今ここを離れることに、どういうわけか、どうしようもなく後ろ髪を引かれる感覚がある。

 向こうの私たちも、そうなのかな? そんなことを思って、私は苦笑いした。記憶の中の彼は、私に微笑んでくれた。


 そして……この私は、一つになりつつある私へと、この意識を委ねた。


 私は――アイリス・フォークリッジだ。

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