第528話 「幕開け」

 目を覚ますと、昨夜から振り始めた雨が、今も続いているのが音でわかった。雨脚は強まっていて、天幕を雨がひっきりなしにたたき続けている。

 雨音以外に気になる音はなく、静かなものだ。まだおっ始まってはいない。同じテントで寝ている連中を叩き起こし、装備を整え、俺たちは外に出た。


 テントの外は、かなり薄暗かった。かろうじて豪雨とは言わないぐらいの雨だ。遠くから雷音も聞こえる。

 ただ、荒天による日程の順延なんてものはないだろう……たぶん。ここまでの敵の動きを見る限り、正々堂々と正面からぶつかりたいように感じられ、延期もありえなくはないかも――そんな冗談を仲間たちと交わした。

 地面に目を移すと、ひび割れの目立っていた大地に、雨が吸い込まれるように消えていっている。水はけが良いようで、足元がぬかるむような心配は、あまりなさそうだ。

 問題は、空の方だ。雨による機動力の低下と視界悪化は、俺たちの強みをいくらか減じさせるかもしれない。雨天でも訓練を繰り返したとはいえ、十全に力を発揮できないのは確かだ。

 それに、他国の部隊も気にかかる。特に、ゴーレムを使う方々。将玉コマンドオーブで水を操るスペンサー卿は大丈夫だろうけど、アル・シャーディーンの方々には不都合があるかもしれない。

 しかし、心配しても仕方がない。陰鬱な空の下、俺たちは陣地を出発した。向かう先は連合軍の戦列だ。俺たちはホウキに乗り、低空飛行で進んだ。


 連合軍の戦列は、敵方と対峙するように布陣されている。周囲に漂う緊張感は肌を刺すようで、今にもはちきれんばかりの闘志がみなぎっている。

 俺たちの持ち場は、開戦前は連合軍の戦列中央だ。まずは様子を見て、状況が動き次第対応に動く形になる。その中央には、各軍の司令塔も多くいらっしゃって、ここが連合軍の前線中枢という感じだ。

 中枢にいらっしゃる方々と合流し、ここまでの状況を伺った。どうも、相手方からの動きは、特に無いらしい。先んじて送り出した斥候からも、雨に乗じようという動きは見られなかったとのことだ。

 ただ、こうして両軍が出陣し、本格的ににらみ合う形になっている。戦いはいつ始まってもおかしくないだろう。普段とは変わりない落ち着きぶりで、殿下は命を下された。


「君たちは先に空へ。攻め込みに行く必要はない。今はまだ様子見を」

「かしこまりました」


 下命を拝し、俺たちは空へ飛び立った。打ち付ける雨に逆らうように、上へ上へ。


 塗りつぶしたような暗い雲の下、俺たちは戦場の空に舞い上がった。視程が悪い中で、うっすらと赤紫に染まる地平が見える。ハッキリと見えないながらも、大軍勢だと直感できる。

 一方、俺たち連合軍も、今まで見たこともないような大勢力だ。しかし、敵の全貌が見えないことが、漠然とした恐怖となって、胸中に暗く立ち込める。

 そんな不安を底に押し込め、俺は下に視線をめぐらした。視界が悪い中、何か動きはないかを探ってみる。しかし、隠れ潜む場所に乏しい大平原の中、雨を頼りにコッソリ動こうという不穏な影は見当たらない。少し移動してみても、特に発見はなかった。


 そうしてにらみ合いが続き……俺たちが空へ出てから数分経っただろうか。外連環エクスブレスから声が聞こえた。「前方に、赤いマナらしきものが見えます!」とサニーの声が。

 そこで、殿下の指示の下、ラウル率いるこちらの部隊も少しだけ前に出た。すると、赤紫の地平から、赤い何かが前に出ているのが見えた。こんな雨の中でも視認できるのだから――よほど突出しているのか、凄まじいマナをたたえた存在なのか、その両方だろう。

 すると、はるか前方にある赤いマナのきらめきが一層強くなった。それから、天と地に赤い粒子が薄っすらと展開され……その持ち主らしき声が木霊した。


「人間の勇者たちよ、よくぞ参られた! そなたらにしてみれば、我々など信に足らぬ凶賊であろうが、我が申し入れを容れてくれたこと、誠に有り難く思うぞ!」


 声の主は、この戦いの張本人だ。声が天地に響き渡るのは、おそらく天令セレスエディクトを使っているのだろう。まるでこの戦場が太鼓の中にすっぽり収まったかのように、天と地が鳴動している。

 その男のスケール感に、俺は身震いした。まるで、その男の引力に寄せられて、互いの大軍勢が集結したような、強烈な存在感がある。

 そして、彼は言葉を続けた。


「余計なものが降らぬようにと、願掛けはしたのだがな、生憎の天候だ。しかし、先延ばしというわけにも行くまい! しばし待たれよ!」


 一方的にまくし立て終わると、前方のマナの輝きが強くなり、遠目に見てもハッキリと視認できるほどに強くなった。

 そして、彼はこちらへどんどん歩み寄ってきた。ただ一人、何の護衛もつけずに。

 やがて両軍のちょうど中間あたりで彼は立ち止まった。マナばかりでなく、その姿形もどうにか視認できる距離だ。今俺たちが仕掛ければ……連中が駆けつけても間に合わないだろう。しかし……いつになく落ち着いた低い声で、ラウルが殿下に問いかける。


「仕掛けますか?」

「いや、転移で逃げられる可能性が高い。それに……いや、今はまだ見ていてくれ」

「了解」


 言い淀んで結局放たれなかったお言葉はなんだろうか――考える間もなく、男は動き出した。手にした武器は、薙刀か偃月刀って奴だろうか。長い柄の先に、これまた結構な長さの刃がついている奴だ。それを彼は振り回し、舞を始めた。そして、天地に彼の声が響き渡る。


「天に御座おわすか虹の神、なれの分けたる血の果てに、屍山血河の世は来たり!」


 男は雨の中で唯一人、武器を振るって舞い続けた。俺たちに見せつけるでもなく、まるで天上の何かに奉ずるように。彼の言を辿れば、この舞は雨を止ませるための奉納なのだろうか?

 目にしている行為は、まるで狂人のそれだった。しかし、笑って流せないほどの迫真性がある。誰もが彼の言葉と動きを止められない。人間側も、そしてきっと魔人の側も。天地を満たす彼の声の響きは、この場を完全に掌握していた。

 そして――もしかすると、天すらも。身にまとう赤いきらめきを一層強くし、彼はその声を轟かせた。


くら門扉もんぴよいざ開け! 送る御霊みたまの叫び聴け! 果ての戦を今ここに!」


 天地と聴く者すべてを揺さぶるような叫びの後、彼は武器を振りかぶって空を斬り付けた。


――本当に、空が切り裂かれた。暗い雨雲に、ごくわずかな白い線が走る。とても届かないはずの刃が、その跡を残している。

 そして、雨雲が割れた。見上げた上空で、かなりゆっくりではあるけど、晴れ間が確実に広がっていく。切り裂かれた雨雲の末端から、カーテンのように雨粒が流れ落ちている。そのカーテンが戦場の脇へと、勿体つけるように退いていく。

 陽光が戦場に差し込むようになり、少しずつ敵の軍勢が明らかになっていった。しかし、不思議と恐怖はない――いや、呑まれている。この場をお膳立てした彼の叫びに、目の当たりにした奇跡のような業に。一度深呼吸すると、体の深奥から伝わる震えがスッと収まった。

 下にいる連合軍全体からは、いきり立つような戦意が伝わってくる。しかし、それが兵自身の心から発したものではないように、俺は感じた。

 同じことを、指導層も感じているのかもしれない。戦場のボルテージが静かに高まり続ける中、連合軍からは一切の号令が出ない。あの彼に当てられたような、今の高揚感を拒絶するように。


 しかし、両軍がにらみ合う中、密かに動き出した者もいる。切り裂かれた雲の間で、少しずつ広がる晴天に大勢が視線を奪われている間――雨粒のとばりに紛れ、いくつかの人影が急降下していった。

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