第486話 「夢なんかで終わらせない」
11月7日。俺はアスファレート伯の御殿へと足を運んだ。アイリスさんを助け出せた件について、ユリウスさんに礼を言おうと思ったからだ。発想のきっかけになったあの助言がなければ、もう少し迷走して――今はなかったかもしれない。
こちらのお屋敷は、相変わらず気品に満ちて雄大だった。外の垣までついたものの、中へお邪魔するには尻込みしてしまう。
それに、アポを取っていない上、俺一人で来ている。他に連れて行く方がいなかったからというのもあるけど……さほど馴染みのない貴族のお方相手の振る舞いについては、やはり心配なところがある。
しかし、いつまでもまごまごするのもどうかと思い、俺は意を決して邸内へ踏み込んだ。追い返されたらそれまでだ。謝罪してさっさと帰ってしまおう。
邸内の入り口すぐのところには、ちょうどいいことに門衛らしき方が控えていた。つまり、こういう方を私的に抱えて遣えるほどの家ってことだ。改めて恐縮してしまう。
一方、門衛の方は柔和な感じだ。こちらの伯爵閣下も、前にお会いした時は穏やかで気さくな感じであらせられた。きっと、そういう気風のお家なのだろう。
門衛の方に名前と用件を尋ねられた俺は、身分証を取り出して伯爵閣下へのお取次ぎを願った。用件についてどこまで話していいものかは悩んだけど、とりあえず「リーヴェルムでの戦闘について、お耳に入れたいことが」とは伝えた。
すると、門衛の方は少し驚いたような反応を示し、「そのままお待ち下さい」と言って別の使用人の方を呼びに向かった。不審に思われた様子はない。
待っている間、俺は広い庭に目を向けた。当然のように手が行き届いている感じがあるその庭は、季節柄ということもあってか、彩りは少し寂しい。花の姿はほとんど見受けられず、しんみりするような寂寥感を覚えた。
そうして、ぼんやり待っていると、以前お会いしたことがある執事の方がいらっしゃった。彼は俺の前に立つと、すごく恭しい所作で一礼し、口を開いた。
「お久しぶりでございます。再びお会いすることができ、大変喜ばしく存じます」
「覚えていらっしゃるのですか?」
つい疑問になって問いかけてしまった。すると、彼はニッコリ笑って「それも仕事の一環でございますれば」と返してきた。まぁ、あの日の俺の様子は、ちょっとアレだったし……再会できてというのも、心配してくださっていたということかもしれない。
その後、案内していただいた裏庭の方に、伯爵閣下とユリウスさんがいらっしゃった。
思えば、さほど縁が深いわけでもない貴族のお方に、自分ひとりで面会に向かうのは、これが初めてかもしれない。今更ながらに緊張してきたけど、お二方は穏やかな感じで俺を迎え入れてくださった。
俺がテーブルに同席すると、さっそく閣下が口を開かれた。
「あちらでの戦闘については、大筋だけど私たちも耳にしているよ。なんでも、君が見事に成し遂げたとか」
「はっ、はい!」
「おめでとうというべきか……それとも、ありがとうかな? いずれにしても、君も大変だったろう? 本当に、お疲れ様」
そんな温かなお言葉を賜って、この屋敷がしばしば国賓をお招きしたり、祝宴に用いられるという意味を理解した。きっと、閣下の温和な人柄あってのことなんだろう。
閣下からの
「実は、そちらのユリウス殿に、お礼を申し上げたく、本日はまかり越した次第です」
「へぇ? それは、気になるね」
冷静で落ち着いた感じのユリウスさんは、俺の言葉が意外だったのか少し目を見開いて驚かれているように見える。一方、閣下は興味津々といった風で、わずかに身を乗り出しておられる。
「以前、こちらでお話を聞かせていただいた際、精神操作について『川に毒を流すようなもの』とのたとえ話をしていただきました」
「ああ。それは私も覚えている」
「その例えが、打開策をひらめくきっかけになりました。ですから、そのお礼にと」
そう言って頭を下げると、少し遅れてから含み笑いのような声が耳に届いた。妙に思って顔を上げてみると、ユリウスさんが微笑んでいる。
「実を言うと、アイリス嬢と私は面識があるんだ」
「そうでしたか」
「『大切な友達が転移でどこかへ飛ばされた。取り戻す助言がほしい』とね」
大変、身に覚えがある話だった。ドキッとして何も言えなくなった俺に、ユリウスさんはまた笑い、問いかけてこられた。
「君のことだったのだろう?」
「……はい」
「彼女も、事が成った後、こちらへ赴いて礼を言ってくれた。それで、今の君を見てふと思い出してね……」
すると、ユリウスさんはどこか遠くの空を眺められた。なんだか、しんみりとした感情に浸られているように見える。それから、少し間を開けて口を開かれた。
「私は……人にも魔人にもなりきれなかった、半端者だ。そんな私でも、君たちの手助けになれて……嬉しいよ」
☆
翌日8日朝。思うところがあって、俺は朝食の後にお屋敷へ向かった。すると、庭先ではアイリスさん、マリーさん、レティシアさんの三人が洗濯物を干しているところだった。
俺の来訪に最初に気づいたのは、レティシアさんだ。朗らかな笑顔でこちらへ向かってくる。それに遅れてゆったりと二人が。アイリスさんはともかく、マリーさんは真っ先に来るべきなんじゃないかと思ったけど……俺はもう、そういうお客様じゃないんだろう。
「お師匠様、おはようございます」
「お、おはようございます」
アイリスさんの前でこういう呼び方をされると、妙に恥ずかしい。お弟子さんからチラリと視線を外すと、マリーさんは楽しそうにニヤニヤしていて、アイリスさんは微笑ましそうにしている。
それで、俺は軽く咳払いしてから、三人に告げた。
「アイリスさん、今から空いてますか?」
「私ですか?」
「はい。お互いに色々ありましたし……軽めの仕事でも一緒にこなして、気分転換でもと」
すると、何かひらめいたという感じのマリーさんが、アイリスさんの背をやや強引に押してお屋敷の中へ連れ込んでいった。「ちょっと、マリー?」「いいから」といった感じの、少し楽しそうなやり取りが聞こえる。
そうして二人残る形になった俺は、レティシアさんに対するちょっとした申し訳無さを覚えた。
「すみません。いきなり彼女を連れ出す形になって」
「いえ……今日は、きちんと帰ってきますよね?」
「それはもう。たぶん昼過ぎには帰ります」
「でしたら、安心です。それに、お師匠様とお姉様が一緒ですから!」
ついスルーしそうになったけど……レティシアさんの中で、アイリスさんは早くもお姉さんの座についたらしい。いや、マリーさんや奥様の差し金くさいけど……楽しそうだし、いいか。
「それと、あまりお師匠様らしいことできてなくて、それも申し訳ないと」
「そんな! とってもご活躍なされたのに」
「いやまぁ、それはそうなんですけど……不在がちな師匠で、すみません」
親元離れてここへ来て、そう経たないうちに、あんなことがあったから、相当な心痛になったのではないかと思う。掘り返すのも悪い気がして、ただ俺がしょっちゅういなくなることを詫びたけど、彼女はそんなに気にしていないようだ。謝る俺に、彼女は朗らかな笑みで許してくれた。
そうこうしていると、アイリスさんがやってきた――変装済みで。しばらくぶりに見る、少しボーイッシュな感じの装いは、おそらくマリーさんの手によるものだろう。正直、グッジョブだった。
そこでマリーさんの方に目を向けると、彼女は心底満足げというか、一仕事やり遂げたみたいな笑みを浮かべていた。やっぱり、色々察してくれたらしい。
そうして俺とアイリスさんは、屋敷を出て王都へ向かった。
アイリスさんが一時帰国した件について、広く知られているというわけではない。「伯爵閣下が自宅でご静養のため」という言い訳はあるけど、それはそれで伯爵閣下について心配に思われるだろうからだ。
そういうわけで、一目見てアイリスさんとわからない変装があると、面倒を避けることができて好都合というわけだ。実際、狩猟帽を目深に被り、服の上下は男物、口元をマフラーで隠して襟まで立てると、よほど親しくなければ彼女とは悟られないだろう。
それでも、関門はある。王都の門は、事前に話が回っているようで問題なかった。俺も、もう体内に複製術がないから、通過に際して支障はない。
本当の難所は、ギルドだ。別にこっちへ寄らんでも……と思ったけど、恥ずかしさや照れくささが邪魔して、口実を用意することを選んでしまった。その事自体もやはり恥ずかしく思ってしまって……我ながら、どうしようもない。
祈りながら、俺はギルドの受付へ顔を出した。今朝の受付はシルヴィアさんだ。元気ハツラツで声がよく通る彼女だけど……彼女ほどの気遣い力があれば、大事には至らないだろう。俺は気が早くも、少し胸をなでおろした。
一方、俺の姿と、変装しているアイリスさんを見て、シルヴィアさんの表情に
「お久しぶりですね。お元気でしたでしょうか?」
「ええ。さっそくですけど、少し相談が」
「何でしょう?」
「息抜き向けの仕事って、今できます?」
すると、話が早い彼女は、「少々お待ちを」と言って書類や仕事道具一式を取り出した。
「岩山に登って顔料の素材を集める仕事、前にもやっていただきましたっけ?」
「はい。あれが、今できればちょうどいいと思って」
「大丈夫ですよ。お二人ですね?」
ここまでアイリスさんは一言も喋っていないし、俺も彼女については言及しなかった。シルヴィアさんが気づいているかどうかは定かじゃないけど、今の話の調子ならちょうどいい。俺は内心、彼女に感謝しつつ、依頼の受注を済ませ、道具を手渡してもらった。
それからギルドを後にし、王都の門を出て少し歩いたあたりで、アイリスさんはマフラーを少しずらして長い溜息をついた。
「緊張しますね」
「すみません」
「いえ、楽しいですよ」
実際、彼女は変装することを楽しんでいるようで、今の顔はニッコニコだった。ただ、俺が謝ったのは、こうした面倒をかけたことじゃなくて……。
「病み上がりのところ、山登りさせる形になってしまって……」
「いえ、だいぶ調子は戻りましたし、大丈夫ですよ」
「辛くなったら言ってください。おぶって登るか、下山しますから」
そんなことを言ったら、冷たい秋風が吹き付けてきた。変装のため、体の線が出ないように結構着込んでいても、やっぱり寒いみたいだ。俺も彼女も、体を小さく震わせた。
手でもつなごうか……と思ったものの、困った。このままでは左手でつなぐ形になる。手袋なんて……とか言われたら、手に包帯を巻いているところを見られるわけで、気を遣わせてしまうかもしれない。
しかし……何のことはなかった。無言で右手を差し出してきた彼女は、手袋をしたままだ。なんか、一人で暴走しているみたいな……。
こんな調子では、先が思いやられる。
☆
目的の岩山のてっぺんには、思っていたよりも順調に到着した。言うだけのことはあって、彼女はだいぶ体調が良くなったようだ。それを確認できて、俺は心底安心した。
で……仕事ってのは口実だ。前にここへ来たときも、結局は彼女の相談に乗ったのがメインだったし。それは、彼女も承知していることだろう。現場についたものの、彼女は仕事に取り掛かるでもなく、まったりした空気を醸し出している。
「懐かしいですね。ここでリッツさんとお話して……」
「仕事忘れて帰りそうになりましたっけ?」
昔の話を蒸し返すと、彼女は恥ずかしさに頬を染めてうつむいた。
今のイジワルはいらんかったかな? などと思っていると、早くも気を取り直した感じの彼女が、話題を切り替えようとして話を振ってきた。
「何か、お話があるんですよね?」
「はい」
俺は彼女に向き直り、目を閉じて深呼吸をした。ある意味……一騎討ちのときよりも緊張しているかもしれない。それはそれで俺らしいか――そう思うと、少し楽になった。
そして……。
「俺、あなたのことが好きです」
俺は彼女の反応を待った。彼女は……少しの間キョトンとした顔になって……その後、俺から視線を外してモジモジし始めた。
――予想外の反応だ。何パターンか想定していたけど、俺の言葉を意外に思われているような、この当惑を感じさせる反応は、まったく想定していなかった。なんだか、変なことを言ってしまった気がして、急に心配になってくる。
それから少しして、彼女は口を開いた、
「あの……」
「はいっ」
思わず変な返事をしてしまった俺に、彼女は少し含み笑いを漏らしてから、やはり困ったような、それでいて照れくさそうな様子で言葉を続けていく。
「変なことを言うようですが……実質的に、すでにそういう間柄なのかと……私だけ、そう思っていたと、そういうことでしょうか?」
「それは、つまり?」
「私はもう、あなたと付き合っているようなものだと……思って、ました」
少しずつ声が小さくなっていく彼女の言葉を耳にし、今度は俺が驚いて困惑する番になった。「えっ? いや、しかし……」と、あまり意味をなさない返事が口をついて出ると、彼女は頬を朱に染めて言った。
「だって……屋根の上で抱きしめてもらいましたし、二人で他国へ行ってお買い物もしましたし、内戦から帰ってきたあなたに手料理を食べてもらったり……リッツさんってシャイだから言い出せないだけで……そういうものだと思ってました」
頭がグラグラする。彼女が口にしたいずれも、俺にとっては確かに大切な思い出だけど……彼女は、そういうつもりだったんだろうか? いや、俺がそういう気になってると感じていたってだけで、昔っから彼女がそう思っていたとは限らないんじゃ?
でも、上っ面の困惑とはよそに、胸の奥底で抱いた疑問は冷たく揺るぎないものだった。
――彼女は、平民の俺と付き合うことを、肯定しているんだろうか?
その疑問を意識すると、浮ついた熱が急に冷めていった。それに呼応するように、彼女も落ち着いた感じになっていく。
そして……俺は疑問を口にした。
「その……家系のことは?」
「いいんです」
それから、彼女は少し間を開け、言った。
「いつか覚める夢だとしても、今が幸せなら」
今の彼女の顔に、捨て鉢なところはなかった。皮肉や冷笑もないし、悲壮感もない。ただ、ありのままを受け入れるようで、清々しさすらあるその態度だ。ずっと昔からこのことに向き合ってきて、彼女なりの覚悟と決断を抱えてきたんだろう。
俺は彼女のことを愛している。それに、尊敬もしている。自分よりも皆のことを上に置く、気高く献身的なところも、貴族の子としての運命に殉じようという、その覚悟のあり方も。そういうところ、まるごとひっくるめて、俺は彼女のことを想っている。
――それでも、これだけは譲れない。世の中のあり方、彼女が抱く使命感に反しようと……俺は彼女に本気の想いを告げた。
「夢なんかで終わらせるもんか! ずっと、ずっと君のそばにいて、君を幸せにしてみせる!」
「で、でも……」
「世の中は認めないって言うなら、認めさせてみせる! 俺が君に相応しい男だってこと、天下に思い知らせてやる!」
気づけば、俺は彼女の両肩に手を置いていた。体が熱い。そんな俺に、彼女は少し気圧されてたようだったけど、少しして彼女は含み笑いを漏らした。
「リッツさんって、結構安請け合いしますよね? 今だってそう……でも、そのたびに、本当にどうにかしちゃって……そういうところ、好きですよ」
彼女の顔が小さく震えていく。瞳を潤ませ、彼女は口を開いた。
「ううん、それだけじゃない……あなたのこと、全部好き。照れ屋なところも、その割に乗せられやすいところも、そのために頑張るところも、意地っ張りなところも、優しいところも、全部全部……」
言葉が途切れた彼女は、俺に身を寄せて胸元を握ってきた。厚着していても、互いの鼓動を感じられる――そんな感じがした。そして……。
「もう、離れたくない……」
彼女の声は消え入りそうなくらいに小さかったけど、ハッキリと心に響いた。
それから、彼女は涙に濡れた瞳を閉じ、顔を少し上げて口を閉じた。
もう、迷うことはない。世の中が相手になろうが、ご両親が相手になろうが、魔人が敵になろうが――構うものか。
きっと二人で、幸せになってみせる。
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