第471話 「帰ってきた男②」

 魔法庁での検査を終え、庁舎を出たリッツは、次に工廠へと足を向けた。伯爵家で重い話をする前に、さっさとホウキを返却してしまおうと考えてのことである。


 久々に帰還した王都は、彼の目には何も変わっていないように見えた。ただ、「所用がある」として急に2か月近く遠出した負い目は、彼を落ち着かなくさせた。書き置きを残したとはいえ、一方的なものだった。それに、書き置きを残さない程度の間柄の相手でも、急にいなくなれば心配したことだろう。

 実際、彼が街路で顔なじみの仕事仲間に出くわすと、親しみと安堵を込めて「久しぶり」と声を掛けられた。後ろめたさゆえか、「久しぶり」と返す声は硬い。その後、当然のようにこれまでのことを尋ねられた彼だが、「ちょっとね」としか返せなかった。

 すると、仕事仲間たちはあっさり引き下がった。リッツに対する、何かと忙しい奴という認識が幸いしたのだろう。彼らと軽い挨拶を交わして別れたリッツだが、気持ちはいよいよ暗くなる一方だ。町中を歩く程度でこれでは、世話が焼ける――そんなことを思って、リッツは自嘲的な笑みを浮かべた。


 その後、工廠雑事部に顔を出したリッツだが、一見したところ目立つ変化はなかった。少なくとも、アイリスの件について知られたという感じはない。

 人知れず胸を撫で下ろして安堵するリッツだが、ヴァネッサの言葉には不意をつかれた。


「シエラが、最近元気がないのですが……何か心当たりは?」

「……特には」

「そうですか。急にあなたがいなくなったことと、何か関連があるのではと思ったのですが……」


 シエラの変化について、確たるものがあるわけではない。しかし、ヴァネッサの指摘は的を射ているように、リッツは感じた。おそらく、シエラもあの件を知らされたのだろう。

 それにしても……触れにくい話題だと気づいているだろうに、率直に尋ねてくるヴァネッサに対し、シエラへの強い気遣いを感じた。そして、おそらくシエラは相当落ち込んでいるのだろう。その予感と、隠し事を抱えている自分の負い目を思い、リッツの心中に暗澹あんたんとしたものが広がる。

 ただ、心配そうにするヴァネッサに対し、彼はつれない返答をすることができなかった。ホウキを貸してもらった恩もある。シエラの件について「とりあえず、会ってみます」と返すと、ヴァネッサは真剣ながらも少しだけ表情を柔らかくした。


 その後、ヴァネッサの案内で、リッツは実験室の一つへ入った。そこで一人ホウキを弄っていたシエラは、一目見ただけでは普段通りであったが、リッツの姿を認めるなり態度が変化していく。今にも泣きだしそうになるシエラの肩に、ヴァネッサは優しく手を置いた。


「私は、外しましょうか?」

「……うん」

「わかりました」


 短いやり取りの後、ヴァネッサはリッツにチラリと目を向け、実験室から立ち去った。

 シエラの希望通り一人立ち去ったわけだが、彼女の様子は依然として沈鬱だ。気まずい沈黙が続き、いくらか経って、彼女が静かに口を開く。


「今日、これから空いてる?」


 問われたリッツは、悩んだ。素直に答えた時の、彼女の反応を思うと、二の足を踏んでしまう。しかし、はぐらかすのも嘘をつくのもためらわれた彼は、かなり迷った挙句、正直に答えた。


「ちょっと、伯爵家へ」


 すると、シエラは一瞬呆然とした後、うつむいて両手で顔を覆った。そんな彼女を見て、リッツの顔も曇る。声を抑えた彼女のすすり泣きが、静かな実験室に響く。

 シエラが落ち着くまで、リッツは何一つ言葉を掛けられないでいた。やがて、シエラは泣き止み、わずかに声を震わせながら言った。


「私も、ついていく」

「えっ?」

「聞きたいこととか、あるから」

「……わかった」


 そうして二人は工廠を出て、街中へ繰り出した。


 伯爵家へ向かう道中、二人は何度か知り合いとすれ違った。しかし、ただならぬ様子のシエラを見て遠慮したのだろう。すれ違っても声を掛けられることはなかった。地面を見つめながら歩くシエラは、彼らに気づくことはなく、一方で友人たちと顔を合わせたリッツは、彼らの察しの良さと気配りに感謝した。


 南門を出るまで、二人は一切言葉を交わさなかった。南門を出ても、それは変わらない。しばらく無言で歩き続け、数分してから、シエラがようやく口を開いた。


「どこへ行ってたの?」

「……言えない。ごめん」

「……そっか。元気にしてた? そんなわけ、ないか」


 リッツは、答えなかった。その必要もなかった。

 会話が途切れ、二人は静かに歩いていく。時折、シエラが何か言おうとして口を開くも、声にはならず思いつめた表情で顔を伏せ……空気が一層重くなる。片手に携えた彼女のホウキも、結局は使わずじまいであった。


 やがて、ひたすらに重苦しい雰囲気の中、二人は屋敷の前についた。

 しかし、歩を進めても迎えに来るものはない。普段であればマリーが気づいて駆けつけてくるところではあるが、その気配が全くない。

 ついに、誰の反応もないまま、二人は屋敷の玄関についた。そして、リッツがかなりためらいがちに「失礼します」と声を上げた。

 すると、二人の方へ駆け寄ってくる足音が。それはレティシアのものだった。リッツとは久々の再会である。シエラとも交友のあった彼女は、二人の姿を認めるなり、うなだれて体を小さく震わせ始めた。

 その後、少し落ち着いたように見えるレティシアは、リッツに向かって声をかけた。


「ご夫妻が、お会いになりたいと……」

「わかりました」


 それから、レティシアの案内で二人は屋敷に足を踏み入れた。

 久々に訪れた屋敷は、ひっそりと静まり返っている。かつてないほど物悲しい空気が漂う邸内が、リッツの胸を締め付ける。彼の不在も、この鬱屈とした空気の一因であるかもしれない。そうした自責の念が、胸の苦しさを一層強める。

 三人は静かに歩いた。廊下は異様なほど長く感じられる。思わず駆け出してしまいたくなるほどに。しかし、走り出せば、それがいつのまにか逃避になりかねない。リッツは胸の内の衝動を必死に押さえつけた。


 そして、三人は夫人が待つという食卓の前についた。そこでリッツが、シエラに向かって話しかける。


「シエラは、どうする?」

「私は……いい。レティと一緒にいるから」

「……わかった」


 ここに至るまで、マリーのことを二人は聞かなかった。聞ける雰囲気でもなかった。ただ直感できるのは、この屋敷に彼女はいないということと……レティシアが独りで悲しんでいるのだろうということだ。シエラはレティシアと一緒に食堂から離れ、リッツが一人残される形になった。


 ドアを一枚隔てた先に、あの”奥様”がいる。果たして、今はどのような様子なのか、リッツには見当もつかなかった。ただ、レティシアの様子を見る限り、決して好ましい状況ではないのだろう。常に余裕を崩すことがなかった、あの伯爵夫人が……。


 ドアを開ける前に、リッツはかなり逡巡し、意を決してドアをノックした。すると、かなり遅れてから、消え入りそうな声で「どうぞ」と返事が。いよいよ表情が暗く硬くなったリッツは、それでも、決意を揺らがせることなく「失礼します」と言ってドアを開けた。


 食堂に一人座る夫人は、リッツの予想に反し、やつれたり憔悴したりというような感じはない。ただただ、落ち着き払っている――それも、不自然なほどに。平素の活力が消え失せ、能面が張り付いたような真顔の彼女に、リッツは強い違和感を覚えた。

 だが、違和感は一過性のものだった。リッツが対面に座るなり、夫人の表情は少しずつ崩れていき、頬を一滴の涙が伝う。そして、彼女は両肘をテーブルにつけ、顔を手にうずめた。


「ごめんなさい……私、取り乱さないでいるだけで、もう、精いっぱいなの……」


 絞り出すようなその声は、リッツの心中を強く打ち付けた。愛娘が敵の手に落ち、彼女を救わんとして向かった夫が負傷したというのだ。では、かつての居候でしかない自分に、何ができる?

 夫人がむせび泣く声が、顔を覆う手から静かに漏れ出る。しかし、掛けられる言葉がない。自分の中をいくらさ迷っても、それが見つからない。そんな不甲斐なさを、彼は呪った。

 それから少しして、ようやくリッツは口を利いた。


「……急に遠出をしてしまい、いらぬご心労をおかけいたしましたこと、誠に申し訳なく思います」

「……あの子のため、だったのでしょう?」


 夫人が声を震わせながらも問いかけてきたことに、リッツは強く驚いたが、すぐさま「はい」と返した。そんな彼に夫人は言葉を続ける。


「……ありがとうね。だけど、あなたの体も、大事にしてあげて」


 その言葉は、しかし、リッツの心を強く打ちのめした。

――マナを使えなくなったと言えば、どんな反応をされるだろうか。大恩のある相手に対し、この期に及んで大きな隠し事をしていること、それでいて「言わなくて良かった」なとど思ってしまっている自分を認識し、彼はそれを強く恥じた。

 そんないたたまれなさが募って、彼は席を立った。


「これで、失礼します……いつも、お心配りをいただいて、本当に……本当に、ありがたく思います。では」


 そして、相手の返答を待つことなく、彼はただ深く頭を下げて部屋を辞去した。

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