第469話 「父と娘②」
フォークリッジ伯が共和国軍に合流した翌日、日が昇る前から初雪が舞い降りた。そして朝、アイリスが出現したとの報が前線より届き、陣中を駆け巡る。
伯爵が到着して日を置かずのこの事態に、兵卒はやや浮足立った。こちらの動向は完全に監視されているのではあるまいか、と。週2、3という出現頻度を踏まえれば、偶然と考えても差し支えない状況ではある。しかし、ままならない戦況に対する焦りと不安は、兵に楽観視を許さなかった。
そうして陣中がにわかに揺らぐも、将官が威厳を保ってそれを落ち着かせた。これからが勝負どころである。というのも、アシュフォード侯の一戦に続く、本気の一騎討ちを今から行おうというのだ。
愛娘と刃を交えることになる伯爵に対し、現場まで付き人を……という申し出があったが、伯爵はそれを丁重に断り、一人戦場へと赴いた。
何か有効な打開策が見つかったというわけではない。当事国であるフラウゼ・リーヴェルム以外の国も、民衆に悟られない範囲で搜査を進めているが、有用な情報にはたどり着いていない。それだけ、敵方も隠ぺい工作を入念に施してきたというわけだ。
まともな情報が集まらない。いつ状況が進展するかもわからず、時間は決して味方しない――そのように困難な状況下で、共和国第三軍は、現場で解決策を模索するという方針を定めた。手探りの出たとこ勝負になるが、前線で向き合ってきた者ならではの感覚というものもある。
今のところ一番重要な情報は、アイリスの精神がまだ生きている可能性が高いということだ。未だ支配権はカナリアの手にあるようだが、誰かを斬り殺しかねないほどの極限状態では、支配に対して若干の抵抗を見せるのではないか……とも。
手っ取り早いのは、力づくで拘束した上で無力化することだ。だが、アシュフォード侯の一戦で、それは難しいと判明している。
そこで、外部からアイリス本人にコンタクトを取り、内外で連携してカナリアを追い出せないかという案が持ち上がった。具体性を欠く雲をつかむような話だが、取れる手段があるなら試したい――そういった切羽詰まったものがあるのも事実である。
そうした解決策の考案は、国をまたいで行われていた。そこへ、この作戦の実行者として、実父である伯爵が名乗りを上げたというわけだ。
新雪が舞う中、伯爵は無言で前へ進んだ。決戦の場に近づくほどに、娘の声がよく聞こえるようになる。娘の体を使って放たれる、口汚い罵りが。
それらの挑発に対し、彼は憤りよりもむしろ悲しみを覚えた。
やがて、彼が最前線の銃士隊の元へつくと、陣中と同様に兵は伯爵に対し敬礼をした。彼らの表情は複雑である。いずれも、割り切れない感情を抱いているようで、それがはちきれんばかりであった。
だが、戦列は依然として乱れることなく維持されている。その士気と統制、各自の使命感のありように、伯爵は感服し、ありがたく思った。
「では、行ってくる」
「はっ! ご武運を!」
部隊長との短いやり取りの後、伯爵は一騎討ちの場へと歩き出した。
いつもとは違う雰囲気を、魔人側も察したのだろう。品のない挑発と煽りは、伯爵が近づくにつれて静かになっていく。
だが、近づいてくる者が何者か判明すると、魔人たちの前に立つ少女は叫んだ。
「会いたかったわ、お父様! 来てくださるって、私信じてた!」
芝居がかった叫びに、魔人たちの下卑た笑いが続く。気にも留めずに進む伯爵に、少女はまた叫んだ。
「何をするにも遅すぎるわね、お父様! こんなになるまで、こんなにいい子をほったらかして! もう、この子のことは諦めて、二人目でも作ったら? そしたら、今度こそは幸せな家庭にしてね!」
それでも伯爵は、自身に向けられた挑発を真剣な面持ちで受け止めた。表情を一切変えることなく、彼は歩みを進めていく。
一方、煽りが効かない相手と悟ったのか、少女は呆れたように笑って口を閉ざした。しかし、歩を進める相手に対し、彼女は無防備で立ち尽くしている。手を上げられはしないと踏んでいるのだろうか。
やがて、矢がどうにか届く間合いになると、伯爵が先に動いた。彼は前方に手をかざし、紫の
だが、少女はそれに対処しようとしない。まっすぐ進んできた矢に、そのまま胸元を撃たれた少女は、その場で倒れた。そして……。
「お父様!」
息も絶え絶えに放たれた叫びは、それまでの嘲りと似て非なるものだった。そこで初めて、伯爵の顔に当惑の色が浮かび上がる。
すると、彼の心境の変化を認めた少女が、身をよじり始めた。痛みに
「ねえねえ、今のって、″どっち″の声だと思う?」
問いに対し、伯爵は答えなかった。代わりに、彼は矢を放つが、それは嗤う少女をかすめて地を穿つだけだ。
やがて、少女は立ち上がり、つまらなさそうに言った。
「前の侯爵ちゃんの方が、よっぽどナイスガイだったよ? こんなかわいい子相手に、本気で手を上げてね。だから~、もうちょっと頑張って
そう言うなり、少女は突如として攻勢に移った。立ち上がりつつ矢を放ち、前傾気味になって剣を抜き放つ。向かってくる矢を侯爵は
そうして、本格的な戦闘が始まった。息もつかせぬ矢の連射、近づいては剣のしなりを活かした突きの乱撃、時折距離を取ってまた射撃。流れるような連撃に対し、伯爵はその全てを受け流し、
しかし、彼は反撃に出ることができずにいた。
「お父様、まさかこんなもんじゃないでしょ? “この子”は『違う!』って、涙ながらに叫んでるけど? 久しぶりに、いいとこ見せてあげてよね!」
心を揺さぶるような挑発を受けても、伯爵は依然として防戦に徹した。
やがて、攻撃の隙をつき、彼は反撃に移るようになった。だが、使うのは
マナの守りがない状態の少女に対しては、狙い定める彼の右手が震えてしまうのだ。
愛娘の声で、聞くに堪えない罵詈雑言が飛んで来る。教えた覚えのない剣技を、愛娘が使ってくる――自分に対し、あまり見せたことのない満面の笑みをしながら。
この戦いは、伯爵にとっては悪夢そのものであった。あるいは、地獄か。
そして……最初に放った一撃、その直撃とその後の反応により、伯爵はすでに悟っていた。娘の中に巣食っている者がいようと、娘にはもう手を上げられないと。
思えば、伯爵はアイリスに対して手を上げたことがなかった。聞き分けが良く、心優しく、彼にとっては自慢の娘であった。
とはいえ、手がかからなかったわけではない。自分で色々と抱え込みすぎるところ、少し行き過ぎた使命感は、注意するのも難しく苦労したものだ。
娘の姿をした少女の猛攻をかいくぐりながら、伯爵の心中を過去の思い出が占めた。これは走馬灯だろうか。この思い出は、決して次へつながりえない、過去のものにすぎないのだろうか……。
彼の目の前に、過ぎ去った過去の情景が時折浮かび上がった。そして、そこへ少女が切り込んでは白刃でそれを切り刻んでいく。我が子に決して重なりえない目の前の少女が、表情豊かに彼を攻め立てては、彼の半生と愛娘の全てを踏みにじっていく。
やがて、伯爵は心静かに覚悟を決めた。突きと魔法の猛攻を捌き、好機をうかがう。
そして、その時がやってきた。ここぞというタイミングで少女は体重を乗せた突きを放ち――伯爵は、ギリギリのところで避けずに身構え、相手を招き入れた。その突きは、彼のわき腹のかなり浅いところを完全に突き抜けた。彼の背から姿を見せた刃は、赤い鮮血に濡れている。
避けようと思えば避けられた攻撃のはずだ。予想外の事態に、少女は驚きを隠せないでいる。
すると、伯爵は間髪入れず行動に移った。刺された痛みに歯を食いしばりつつ、両手を動かし自身を刺した剣をギュッと握る。そうして握った手からも血が流れ出し――少女は紫のきらめきを見た。
しかし、身を引く時間はない。いい気になって攻め続け、体重を乗せた突きを放ったのが災いした。侯爵の両手から紫電の茨が現れ、瞬時にして白刃を覆いつくす。かろうじて剣の柄から手を放すも、紫電は執念を見せて少女に迫り、その身を撃った。
右腕に対する雷撃に対し、声も上げずに耐える少女だが……むしろここからが本番だった。彼女が怯みを見せると、右腕に食いついた紫電はその勢いを増した。やがて、右腕への雷撃に呼応するように、他の場所からも紫の魔法陣が現れては、彼女自身の体を撃っていく。
全身に生じた電撃は、一発一発の威力は大したものではなかった。しかし、それぞれが寄り集まって全身を締め上げるような茨になると、少女はついに膝を折った。
彼女の中でいかなる戦いが生じているのか、伯爵には知る由もない。ただ、我が子が必死に戦っていることは明らかだった。自身を刺し貫いた剣をそのままに、伯爵は息を荒らげながら言った。
「私たちを……娘を、舐めるなよ」
しかし……内部からの反攻は、徐々に収まっていく。身を包む紫電の痛みをねじふせるように、少女は戦意に満ちた表情で言葉を絞り出す。
「私を、甘く見ないで……この程度で、私が、私の魔法が、負けたりするもんか……! この子は絶対、絶対に渡さない!」
その声の中に、伯爵は我が子の叫びを感じた。それは幻聴にすぎないのかもしれない。しかし伯爵は二人が溶け合っているかのように感じ、わずかな間、呆然とした。
そして、少女の体を覆っていた紫電は、完全に消え失せた。再び五体の支配を得た彼女は、即座に行動を起こし、伯爵へと矢を放つ。
矢は、一瞬だけ対応が遅れた彼の右脚を射貫いた。骨が叩き折られる音とともに、伯爵の体が倒れる。彼は、顔を強く歪めながら、自身を
一方、彼女は冷ややかに言い放つ。
「じゃあね、パパ。あなたを殺してこの子を産むわ」
そして、少女は追い打ちをかけようと手をかざした。一方、伯爵は魔法による防御の構えを取ったが、まともに撃ち合える状態ではない。覚悟を決め、無念に満ちた表情で目を閉じる彼に、少女は狙い定め……。
少女はその身に激しい衝撃を受け、後ろへと倒れ込んだ。
荒くなる息を抑え、彼女が周囲に視線を向けると、銃士隊が自身へ銃を構えていた。衝動的に撃ったというわけではないのだろう。誰かが一発撃ち込んでなお、銃士たちは構えを崩さない。
人間側が先手を打って横槍を入れたことに、魔人たちは怒声を上げ、戦列を前へ押し上げ始めた。が、少女はそれを認めない。
「邪魔するな!」
普段のカナリアのものではない鬼気迫る怒号に、いきり立った魔人たちも度肝を抜かれ、その場に立ち尽くした。
一方、共和国軍は銃の構えを解こうとはしない。明らかに、上の意志で統制された動きは、「伯爵を殺せばお前も殺す」という覚悟を形にしているようだ。魔法の記述を見せれば、即座に射殺されかねないほど、遠くに構える銃士隊は悲壮な決意を漂わせている。
あと一歩のところで干渉が入ったことに、少女は舌打ちをした。それから、伯爵と銃士隊を交互ににらみつけ……十分に距離を取ってから、彼女は魔法陣の記述に入った。瞬時にして赤紫の門ができ上がると、彼女は無言でその中に身を滑らせ、姿を消した。
後に残った伯爵は、その帰還を確認してから意識を失い、地に伏した。彼の血が、地をうっすら覆う雪を朱に染めていく。
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