第468話 「父と娘①」
10月21日。リーヴェルム共和国の最前線拠点から最寄りの転移門に、一人の貴族が転移した。彼はフォークリッジ伯カーティス。共和国から見れば、国賓として招いておきながら囚われの身となったご令嬢のご尊父である。
普段は鷹揚な彼も、さすがに今は強い緊張感を漂わせている。彼の来訪にあたり、共和国軍から誰を迎いに向かわせるかは、重要な問題であった。ただ、その結論に至るまで、さほどの時間を要すことはなかった。
伯爵を迎えたのは、共和国第三軍将軍副官である、スタンリーだ。さすがに将軍であるメリルが現場を離れるわけには……ということで、
まだまだ若年ながら、彼は議会においても軍議においても、冷静沈着で揺らぐことのない、一種の傑物である。そんな強い心胆を持つ彼も、伯爵の前には神妙な顔つきになり、膝をついて頭を垂れた。
一方、無言で謝意を示された伯爵は、わずかに悲しそうな表情になって目の前の青年に声をかけた。
「頭を上げなさい」
「はっ」
「今回の件は、誰に責を負わせられるものでもないだろう。少なくとも、私はあなた方を咎めだてはしない」
「……ご温情、痛み入ります」
それから、スタンリーは立ち上がって、伯爵を案内した。火急の事態というわけではないが、いつ状況が動くとも限らない。二人は馬屋へ足を運び、前線へ向かって馬を駆り立てた。
共和国の初雪は、おおむね10月下旬である。空を覆う
馬を走らせてから数分後、スタンリーは並走する伯爵に少し馬を寄せ、声をかけた。
「すでにご報告がお目に届いているかと存じますが、現況を」
「頼む」
顔を向けてきた伯爵の、やや情感がこもった返答に、スタンリーはうなずき報告を始めた。
アシュフォード侯による一騎討ち以降も、週に2、3という頻度で”アイリス”は前線に姿を表している。その際の陣容は、あの一騎討ち同様だ。一人突出する形で前に出て誘い、後方に魔人と魔獣が控えて戦列を成す。
対する共和国軍は、一騎討ちに対して貴族を一人差し向け続けた。ただ、アシュフォード侯の時とは違い、双方にとって深刻な状況にまで踏み込ませない程度でやり過ごさせている。つまるところ、軽くお相手して早々に切り上げているわけだ。
そうした状況で向かわせる貴族の人選は、アイリスと面識がない者を条件としている。加えて、カナリアによる品性のない罵詈雑言にやりあえる者を優先している。まかり間違って負傷したとしても、真面目一辺倒な者よりは少々野卑な方が、アイリスの心労になりにくいと判断してのことだ。
より大きく変化があったのは、むしろ一騎討ち以外である。のらりくらりと立ち回るマイペースな実力者を一人差し向ける一方、本隊である銃士隊は、初回の一騎討ちと違って早くに動き出すようになった。また、最精鋭である銃騎兵を運用し、一騎討ち開始から早くに、敵軍の側面を打たせている。
こうした用兵の変化により、戦場の主眼は一騎討ちよりも魔人・魔獣と一般兵の戦い――すなわち、従来の戦いへと逆転することとなった。
この転換の意図するところは、かく乱である。かねてより、敵方には司令塔となる存在を欠いているのではないかという推測があった。それを今はカナリアが担っているのかもしれないが……一騎討ちしながらの指揮は至難であろう。
実際、共和国軍の機動的な運用に対し、魔人側の対応は精細を欠いたものだった。応戦こそするものの、転進する騎兵に対しては反応がまちまちで、多くは渋々その場に留まるといった風である。
一騎討ちを含めた戦場全体が、互いに牽制し合う程度の戦闘に終始するようになり、ここまでは安定して推移している。それは双方の思惑が合致したのだろう。
魔人側にしてみれば、決着を焦る必要はない。急いで解決しなければならないのは、人間側だからだ。戦いが長引けば、「貴族が魔人に操られた」という前代未聞の事態が、民草にまで広く伝わってしまうだろう。そうなれば、一国に限らず社会基盤が大きく揺るがされる。
一方、共和国軍も、拙速を戒める必要があった。有用な打開策が見つからない中で、一騎討ちに応じる勇士を、抜き差しならない状況まで踏み込ませるわけにはいかない。
それに、「ここぞ」という時の仕掛けで失敗すれば、前線を支える兵の士気に深刻な悪影響が生じるだろう。軍として、勝負どころは選ぶ必要がある。
そのため、共和国軍は状況が整うための仕切り直しのため、敵方の指揮系統の不備を突いた。対する魔人側は、引き伸ばしても状況が好転するはずがないと考え、共和国軍の意図に乗っているのだろう。普段よりも退く動きが速いことも、それを裏付けている。
状況説明を終え、スタンリーは軽く白い息を吐いて「以上です」と言った。話を聞いた伯爵は、渋面で小さくうなずく。
「難しい状況だったとは思うが、大きく崩れることなく戦線を維持したのは見事だ」
「いえ……それは最低限果たさねばならぬことです。我が方だけで解決できぬ不甲斐なさを、心の底より恥じるばかりです」
普段のスタンリーとは違い、彼は悔しさと申し訳無さをにじませ、言葉を返した。うつむき加減になった彼に、伯爵が優しげな表情で話しかける。
「ともあれ、今は同志だ。よろしく頼む」
「……はい」
☆
馬を走らせて数時間。夕刻になって二人が陣中に入ると、控えていた兵は一糸乱れぬ敬礼で二人を迎えた。それから陣中を歩いていっても、二人の姿を目にするだけで、多くの兵が足を止めて姿勢を正す。
フォークリッジ伯がこちらへ訪れるという話は、軍の上から下まで徹底して周知されている。その中で、将軍の副官スタンリーが、見慣れない貴人を案内しているとなれば、確証がなくても礼を以って迎えるのが妥当である。
ただ、フォークリッジ伯については、以前からも軍の中で知られていた。将官のみならず、兵の間でも。
事の発端は、アイリスが共和国へ遊学に来た件だ。他国から、叙勲歴のある貴族の子女を迎え入れるとなって、その経歴や家柄に人々の興味が向くのは自然な流れであった。
また、共和国第三軍においては、噂の人物を招き入れた上で国境超えを敢行するという話が内々に広まっていた。そのため、第三軍の兵が、アイリスや彼女の家について興味を抱くのはなおさらのことだ。
そうした流れの中で、アイリスの父であるフォークリッジ伯カーティスの名と功績が、兵の間に広まっていった。フラウゼ王国西方最前線に度々招集される歴戦の武人であると。
数々の戦功について、彼は大いに敬意を払って迎え入れるべき人物だが、兵たちの胸に去来する思いにはそれ以上のものがあった。伯爵に対し、直立不動で敬礼する兵の中には、一声も発さずに涙を流す者も少なくない。
依然として士気が保たれ、統制が取れた軍隊だが、どこか悲哀を感じさせる空気が流れている。ひっそり静まり返った中、二人は歩いていった。
本陣の中央にある幕舎につくと、スタンリーは「私はここで」と言った。天幕の外で待って人払いをする構えである。侯爵は彼に「ありがとう」と声をかけてから、天幕の中へ足を踏み入れた。
中ではメリルが一人で待っていた。伯爵の姿を認めるなり、彼女の真剣な顔から少しずつ申し訳無さが滲み出していく。伯爵がすぐ近くにまで来ると、彼女は片膝をついて頭を垂れた。一国の軍事における有数の権力者が、他国からの客に対してこのような態度を取るのは、よほどの事情がなければありえないことである。
そして彼女には、よほどの事情があった。
「この度の事態につきまして、弁解の余地もございません。誠に……」
「頭を上げなさい」
そう言って伯爵は――自らも片膝をついた。面食らったメリルに、彼は言葉を続ける。
「これまでの報告書には、全て目を通した……外交文章も」
「外交文章、ですか」
「ああ。その中に、あの子が書いた報告書も混ざっていた……言ってしまえば、日記だが」
その”日記”という言葉に、メリルの顔が少しずつ崩れていく。そんな彼女に慈悲深い目を向け、伯爵は言った。
「あの子の親として……良き友人の貴女には、心より感謝申し上げる」
「わ、私は……」
「今まで辛かっただろう」
すると、メリルは顔を伏せた。そこへ伯爵が「私だってそうだ」と続け……メリルの目から、堰を切ったように涙が溢れ出た。
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