第456話 「それぞれの決断」
アイリスが魔人に操られ、身柄を奪われたという凶報は、共和国の初動により各国首脳陣へと伝えられた。
その情報は、本来であれば無用な混乱を防ぐため、下まで降りることは決してない。しかし、当事国であるフラウゼ王国には、どこまでの者に伝えるべきかという問題に直面した。彼女と親しかった者に対する、道義的な責任があるからだ。
そこで、慎重を期して議論を重ね、親しかった中でもごく一部の者にのみ通達する運びとなった。
☆
9月5日、夕方。フォークリッジ伯爵家の食卓は、かつてないほど暗く重い空気に包まれた。普段は余裕のある態度を崩さない伯爵夫人も、今は憔悴した様子でいる。
彼女のただならぬ雰囲気に、レティシアは身構えた。この家に預けられてまだ日は浅いが、それでもすでにかなり馴染んでいる。そんな彼女にとって、今の伯爵夫人の悄然とした様子は、ここに来て初めて見るものだった。
そしてそれは、ともに卓を囲むマリーにとっても同じことだった。この家に行儀見習いとして仕えて長い彼女も、ここまで打ちひしがれた伯爵夫人は、見たことがない。その事実と、他国へ行ったアイリスのことを思い、マリーの胸中を暗鬱な予感が占めた。
卓に三人揃っても、夫人はなかなか口を開こうとはしなかった。ただただ暗い緊迫感が満ち、二人の少女の表情は固くなるばかりだ。
しばし沈黙が続いてからようやく、夫人は口を開いた。普段の陽気さ、頼れる感じをいささかも感じさせない、途切れがちな言葉で、彼女は共和国での一件を話し始める。
彼女が話している間、残る二人は一切声を漏らさなかった。アイリスとはまだ顔を合わせたことのないレティシアにとっても、肉親との別れは他人事ではない。いたたまれなさを顔に出し、彼女はうなだれた。
一方、マリーは、はち切れそうになる感情を必死に押し留めていた。一度崩れれば耐えられなくなる。自分も、奥様も――そういう確かな予感があって、彼女は顔を伏せ、歯を食いしばった。閉じれば泣き出しそうになる目を開け続け、胸元で握った手を見つめ続ける。
今日の昼に、国の遣いから聞かされた一通りを夫人が話し終えると、卓は再び静まり返った。耳をすましても、聞こえてくるのはマリーの深く荒い息遣い程度だ。自分を律しようと戦う彼女に、夫人は悲しげな視線を向け、声をかける。
「マリー」
「は、はい」
「明日からお
「ですが」
「いいの」
普段よりはずっと弱々しいが、それでも夫人はきっぱりと言い切った。その気位から、弱いところは見せまいと遠ざけようとしているのかもしれない。結局、夫人の命には逆らえず、マリーはうなずくことしかできなかった。
その夜、マリーは自室で帰省の準備を始めた。もともと彼女の私物は少なく、あえて言うならば、慣れ親しんだ仕事道具が屋敷中に散らばっているぐらいだ。それらを回収することもないだろう。
彼女は小さな車輪がついた旅行用カバンに、衣類や小物を押し込めた。最初は畳んで几帳面に、後から少しずつ雑になり、体重をかけて押し込んで……。
そうして旅行支度を進めていった彼女は、終いには声を出さずに泣き始めた。
☆
9月6日昼前、フラウゼ王国王都魔法庁、長官執務室にて。長官に一枚の書類を提出したエリーは、凛とした態度で立って反応を待った。
彼女が提出した書類は、長期休暇申請である。普通、直上の上司に出すこの申請は、長官補佐室室長を務める彼女の場合、長官に提出することになる。
ただ、この休暇申請は単なる“休暇“ではない。そのことを察したのか、現長官のエトワルド侯は難しい表情で書類を見つめた。
「本日より三ヶ月ほど、か。随分と急な話ではあるが」
「申し訳ございません」
「申請の理由は、例の件か?」
「はい」
アイリスの一件については、フラウゼ王国の魔法庁でも最上層の幹部には伝わっている。期待薄ではあるが、情報捜査をするためである。
また、エリーはかねてよりアイリスと親しい間柄ということもあり、現在の役職と相まって例の件を知らせるには的確と判断され、例の一件について耳にしている。
ただ、知らされたはいいが、魔法庁としては五里霧中と言ったところであった。魔人に操られたという事例に関しては、先の内戦でそういった魔人の関与が疑われるものがある。ただ、そちらはまだ未解決の件であり、デリケートな問題でもある。王都魔法庁からは働きかけにくいというのが実情であった。
そこへ来て、この休暇申請だ。信頼できる部下からの申し出ではあるが、だからこそ手元にという考えもある。渋面で考え込んでから、侯爵は訪ねた。
「休暇を利用して、独自に捜査しようということか?」
「はい」
「しかし、休暇中はいち私人として動くことになるのではないか? であれば、相応の権限を付与できるよう、別命を与えて派遣する方が好ましいようにも思えるが」
「それは考えましたが、組織人としては動ける範囲に限度があるように思われましたので」
その言葉に、やや不穏な響きを感じ、長官は顔を少ししかめた。
しかし、頼もしくもある。当事国となった二つの国にとどまらない大問題を前に、情報統制のためにと思うように身動きできない現状、母体から切り離されて動く駒というのは、もしかすると重宝するかも知れない。
しばし思案した後、長官は口を開いた。
「私の……いや、魔法庁の指揮系統からは外れて動きたいのだな?」
「はい」
「では、完全に一個人として動くか?」
「いえ。現在のポストは利用します。後で問題にならないよう、重々留意するつもりではありますが」
臆さず言い放つエリーを見遣って、長官は困ったように微笑んでからため息をついた。
それから、長官は目の前の配下を見て、思案した。エリーはあの伯爵令嬢と友人という話だ。にもかかわらず、決然とした態度で自身と相対している。
その心胆を認め、長官は書類を受理した。
「君が休暇中に問題を起こしたなら、それが事態の解決に役立つものであろうと、私は正当な処分を行う考えだ」
「はい。私もそのつもりです」
「できれば、うやむやにしてしまいたいものだが……」
苦笑いしながらぼやくように言うと、エリーも少しだけ表情を崩した。その後、何か思い出した長官は、少し考え込んでから、ややためらいがちに口を開いた。
「転移門を使う予定は?」
「ご承認頂けますのなら、喜んで」
「……まったく。なかなか厚かましいな、君は」
☆
実家に帰ろうと港の方へ向かうマリーは、王都南門の前に差し掛かったところで足を止めた。
もしかすると、もうこちらには戻ってこないかもしれない。そう思うと、これまでお世話になった商店の方々に挨拶をしなければという気持ちになり、彼女は王都へ歩を進めた。
すると、南門の門衛が彼女の姿を認め、声をかけた。南門はあまり通行人が少なく、門衛とは顔なじみになりやすい。また、マリーの性格や話術もあって、南門に配属される面々は大多数が彼女の茶飲み友達である。
そんな彼らは、普段の調子で彼女に声をかけたが、対する返事には元気がない。彼女のうちひしがれたようなしおらしさに、頬をやや染める隊員もいるが、それは無視して門衛の隊長が彼女に話しかける。
「どうしたんだ、マリーさん。旅装に見えるけど、元気ないな」
「……そうですね。少しお暇をいただいて実家に帰るのですが、ちょっと緊張しているのかも」
「へぇ、里帰りか」
「ええ。この件は奥様から切り出されたのですが、もしかすると帰ったら縁談が待っているのではないかと……」
「あ~、なるほど」
「ですから、港へ行く前に、少しご挨拶をと。今回の帰省は、長くなるかもしれませんから」
「そうか。それは少し寂しいね」
「ふふ、お上手なんですから」
そうして内心をさらけ出すことなく門を抜けたマリーは、話しているうちに少しだけ気が晴れたのか、普段に近い顔を取り戻して街路を進んでいった。
中央広場に入ると、マリーはそこで見知った女性に出会った。エリーだ。彼女とはリッツが留置されて以来の仲で、王都で昼時に出くわせば、昼食を共にする間柄である。マリーは作る側として、エリーは食べる側として、様々な飲食店を開拓する趣味が一致しているからだ。
彼女に対しても、これが最後になるかもしれない。そう思って、マリーは昼食に誘おうと声をかけた。
「実は、今日から帰省することになりまして」
「……そうですか」
すると、エリーの顔がフッと曇った。そこでマリーは、彼女もアイリスの件を知らされているのではないかと思い至った。それに気づくや、落ち着いてきた感情が揺さぶられ、マリーは顔を伏せる。
その反応に、エリーも察しが付いたのだろう。彼女はマリーの肩に優しく手を置き、話しかけた。
「少し、静かになれるところで、食事しましょうか」
「……はい」
それから二人が向かったのは、個室で食事できる落ち着いたレストランだ。
席につき、オーダーを済ませて店員が去ってからいくらか間を置き、先にエリーが口を開く。伝えたのは、彼女も王都を長く離れるということだ。
「長期休暇ですか」
「はい。少し調べたいことがありまして、一旦仕事から離れたいと」
「……調べたいことというのは?」
「もう、察しがついているのではないですか?」
すると、マリーは暗い表情で視線を伏せ、静かにうなずいた。しかし、長い沈黙の後、意を決した強い目で彼女は言った。
「私も、連れていっていただけませんか?」
「えっ?」
予想外の言葉だったのか、いつも冷静なエリーは珍しく虚をつかれたような表情になった。そんな彼女に、マリーは思いの丈を伝えていく。
「私は、このまま逃げたくないんです。何かできることがあるなら、やらなきゃいけないって、そう思うんです。だって、私はあの子の、ともだちなんだから……」
言い切ったマリーは、瞳を潤ませたが、泣きはしなかった。彼女にエリーは優しく微笑みかけ……それから思い出したかのようにカバンから一枚の書類を取り出し、難しい表情になっていく。
「……どうなされました?」
「いえ、この書状がどこまで有効なのかと」
そう言って彼女が見せたのは、王都魔法庁長官の権限で発行された、転移門使用許可の書状だ。「他国における魔法の教育体制についての視察」という、当たり障りのない口実が記載されている。
それをカバンに戻すと、程なくして料理がやってきた。配膳を終えた店員が立ち去るのを見計らい、エリーが口を開く。
「終わったら、一緒に魔法庁へ行きましょうか」
「……! はい!」
「では、ちゃんと食べて、元気になってくださいね」
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