第454話 「覚悟」

 心に浮かび上がるものから逃げるように、俺は走った。

 誰も追いかけやしないのに、心臓が張り裂けそうになるまで、俺は草原を駆けた。それでも俺につきまとう自分の影が、どうしようもなくいとわしい。

 俺は駆け続けた。しかし、こんな状態でも体は正直だ。息が上がるようになると、さすがにこの疲労には付き合わざるを得ない。走り続けた心臓の苦しさと、もっと奥からせり上げ、胸を締め上げるものが入り混じる。ただただ苦しいばかりで、何も考えられない。

 でも、これはこれで良かった。どこまでも、何も考えずに走って、本当に何も考えられなくなるまで走り抜けられたら……。


 そんなことを思っていると、いつの間にか結構進んでいたようだ。目の前には、大きな川があった。そこそこ立派な石橋が掛けられるくらいの、それなりに幅がある川が。

 あえて見回す気すらしなかったけど、とりあえず視界には誰もいない。

 ちょうどいい、なんて思った。



 着の身着のまま、俺は川に入っていった。誰もそれを咎めはしない。強いて言えば、止められるのは自分だけだ。

 靴を超えて冷たい水が浸入すると、足が小さく震えた。でも、止まらない。俺はまっすぐ進んだ。その時ふと脳裏をよぎったのは、常に携帯しているメモのことだ。まぁ、もうどうでもいいか。

 さらに進んでいった俺は、川の中ほどについた。流れは大したことがなく、胸元まで浸かる程度の水深だ。見た目ほどの川じゃないけど、その気になれば沈めるだろう。


 俺は後方に身を投げ出し、仰向けに川へ沈んでいった。全身が冷たい水で包まれ、体が震えた。目の前に広がる水面は、波と日光で切り取られたステンドグラスみたいになっている。

 少しだけ頭が冷えてきた。頭の中でいくつもの考えが駆け巡る。


 何やってるんだろう、俺。死にたいのか?

――ああ、死んでもいいかなとは思っている。そうすれば、もう苦しい思いをしなくて済むだろうから。

 しかし、諦めが悪かったはずの俺が、どうしてこうも早く諦めてるんだろう? 思い返せば、これは引っかかるところだった。

 ただ、考え直してみると、何のことはなかった。彼女の体を奪われたってことは、いつでも殺せる人質同然ってことだ。取り返す手段を考えついても、先に自殺されては意味がない。

 そして、奪還する手段は、まだ見つかってないって話だ。たぶん、この先も厳しいだろう。魔法庁はそういう手段を把握していないし、天文院もきっとそうなんだろう。じゃなきゃ、国のトップ層にはとっくに、何らかのアプローチをしていたはずだ。

 タイムリミットは確実にある。両国にとって、あの子が政治的どれだけ重要だろうと、決断を迫られる日はいつか来る。あるいは、連中が先にその断を下すかもしれない。

 あの子を取り巻く様々な思惑は、俺の手をずっと離れたところにある。もう、介入できないんじゃないか。いずれ来るその日までに、何か解説策を見出して、連中が当然講じるであろう妨害にも耐え、どうにかするだなんて……。


 体中に涼しさが行き渡り、激しかった心臓の鼓動が落ち着いてくる。水面の小片には、これまでの思い出が浮かび上がってきた。

 思い返せば、今までとんでもない無茶を繰り返してきた。生まれ育った世界に送還され、そこからこちらへ舞い戻ってきたこともある。内戦に干渉して、どうにか人死にを抑えたこともある。

 それなのに、今回はどうして最初から諦めているんだろう?

 それはきっと……絶望してるのが俺だけじゃないと、感じてしまったからだ。今日の会談で同席した方々も、この国の上の方々も、共和国の方の方々も……いずれも、この状況に対する解決策に思い至らないでいるんだろう。

 それなのに、俺がどうこうできるだなんて、無邪気な妄想に浸る心の余裕は、もうなかった。


 どれだけ水の中に沈んだかわからない。ただ、不思議と息苦しさはない。ものすごい速さで、思考が渦巻いているだけなのかもしれない。なにしろ、こんな状況だから。それでも、このままだと最後は来る。

 俺は、このまま死んでもいいんだろうか?

 いろいろ考えているうちに、少しずつ考えは変わってきた。死んでも構わないとは思っている。でも、だからって自死することは、ないんじゃないか。


 あの子が魔人の手に落ち、どうしようもない状況に追い込まれ、苦しみたくなくて俺はこうしている。

 しかし、あの子がいずれ、俺の手の届かないところへ行ってしまうだろうってことは、今回の共和国行きの件抜きにしても承知していたはずだ。あの子の家柄と血筋は、俺とは決して交わり得ないものだ。俺以外の誰かにめあわせられることになると、そうわかっていた。

 今回の件は、その別れが早まったにすぎないんだ。もちろん、祝福して送り出すのに比べれば雲泥の差ではある。でも、いずれ来る別れとしては、何一つ変わりはない。

 時が経てば、この苦しみもいつかは和らいで、過ぎ去った過去の一つになるんじゃないか。だったら、別に今死ぬことなんてない。時折思い返しては俺のことを苦しめるだろうけど、それも心の中で少しずつ風化していくかもしれない。


 俺の家族だった人たちのことみたいに?




 泣き言は、そこで途切れて続かなくなった。水の冷たさは体中の隅々にまで行き渡っている。それでも、決して冷ましきれない何か熱いものが、奥底で胎動している。

 どうして諦めようとしていたんだ? 最初に死んだときは、考えなしではあったけど、それでも女の子一人救ってみせた。今はどうだ? 苦労して魔法を覚えて強くなったってのに、川の中で泣き寝入りだなんて。

 今でも、やるだけ無駄なんじゃないかという予感は確かにある。しかし、だからって諦めて死ぬことはない。あの子を救えなかったら――そのときは刺し違えてでも連中を殺してやる。俺の手が届かなくても、奴らを殺すための足がかりにさえなれれば、それでいい。

 芯から怒りが湧き出して、体が熱くなる。魔人のクズどもと、世迷い言みたいな逃げ口実を繰り返していた自分への憤りが。


 頭の中を真っ赤に染めるような怒りも、臨界を超えると何も感じなくなった。心の中は、奇妙なほど静かで落ち着いている。水面にはこれまでの思い出――いや、戦歴が浮かび上がる。それと、今まで覚えてきたいくつもの魔法が。

 今の俺でも、何かできるんじゃないか。諦めるには早い。これまでやってきたことを洗いざらいさらって、これからにつなげられないか? 憤怒に取って代わった、使命感みたいな感情が、渦巻いてバラバラになっていた思考を一つにまとめあげていく。


――やがて、俺は川から身を起こし、むせこんだ。どれだけ沈んでたかはわからない。ただ、ここが三途じゃないことは、心臓の猛りが教えてくれた。

 一つだけ、天啓を得た。有り得そうな解への道が。それはどう考えても茨の道でしかない。他人には明るみにできない構想だし、実現するまでには……非道に手を染める必要すらあるかも知れない。

 でも、それでも俺は構わなかった。あの子を救い出すためなら、俺は……。



 幸い、帰り道で殿下の御一行に出くわすことはなかった。歩いているうちに水浸しの服も、ほんの少しは水気が切れた。門のところで、やや不審に思われた程度だ。

 しかし、宿に戻ると、リリノーラさんに心配そうな顔で迎えられた。彼女は、俺の服なんかじゃなくて、顔を見て心配そうになっている。感づかれたのかも知れない。いつもの自分の顔が、どんなのだったか、思い出す自信がないから。

 それでも、後ろめたさを感じつつ「何でもなかったですよ」と嘘をついて、俺は自室に戻った。さっさと着替え、今度は工廠へ向かう。早くしなければ。


 工廠に入り、受付の方に雑事部へ用があると話しかけた。それと……。


「シエラは、出勤していますか?」

「シエラさんですか? 今日は外出していますが……」


 外出となると、「この件」だろうか、それとも別件か……考えれば暗い思いに囚われそうになる。それを振り切り、受付の方に何食わぬ顔で「わかりました」とだけ言い、俺は雑事部へ向かった。


 雑事部の様子は、いつもどおりだった。床で寝ている奴が一人いて、ヴァネッサさんがそいつに呆れながらも俺を迎えてくれる。そんな有様に、今日は物悲しい感じを覚えた。

 もしかすると、これが最後になるかもしれない。

 雑事部に例の件は伝わっていないようで、それには少し安心した。ただ、のんびりしているわけにもいかず、お茶の用意をしようとするヴァネッサさんに、俺は用件を切り出す。


「ホウキの貸与は、認められますか?」

「……公用というわけでは、なさそうですね」

「はい」

「使途は?」

「少し遠出を」

「どちらまで?」

「まだ決めていません」


 そうやって即答を続けていくと、ヴァネッサさんは少し考え込んだ。


「最近はある程度の私用も認めようかという流れはあります。その意味では断りづらいのですが……大変失礼なことを伺いますが、他国に供与しようとか、そういう話ではないのですね?」

「はい。自分だけで使って、お返しします」


 すると、目を閉じてため息をついた彼女は、俺を手招きした。

 そうして連れられたのは、実験室に併設された倉庫だ。中にはいくつものホウキが並んでいる。そこへ、俺たちに気づいた他の職員たちもやってきて、声をかけてくる。


「何してるの?」

「いや、ホウキを借りたくて」

「へぇ」


 そこへ、ヴァネッサさんは軽く咳払いをし、俺に向かって言った。


「ここにある、備品登録前の試作品であれば、試用という名目で比較的容易に貸し出せます」

「……ありがとうございます」

「私たちも、あなたには大きな借りがありますから」


 そう言って、彼女は微笑んだ。しかし、眼差しは真剣そのもので、俺が何やらただならぬ事情を秘めていると感じているようだった。

 貸してもらえるという試作品を物色すると、その中に折りたたみ式のホウキが一本あった。乗り心地は悪いものの、これからのことを考えると好都合な品だ。

「これを借りたいのですが」と言うと、このホウキ担当職員の子が、「え~」と苦笑いしながら返してくる。


「改良案、今考えているところだったんだけど」

「ごめん」

「ま、いいけど」

「……ところで、どれぐらい使われます?」


 ヴァネッサさんに聞かれ、俺は少し考えてから答えた。


「年明けまでには返します」



 夕食後、俺は自分の部屋にこもって机に向き合った。川の中で考えた魔法の構想をまとめるため、そして――書き置きを残すためだ。

 もしかすると、これが遺書になるかも知れない。やるべきことを見出した実感はあるけど、いつもよりも自分が不安定になっている自覚もある。この先どうなるかなんて、誰にも保証できなかった。

 魔法の案は、思いのほか筆が進んだ。一方、お世話になった方々への書き置きは、全然だった。

 今考えている魔法は、誰にも明かせない。俺一人で取り組まなければならないと思う。それが実現できたとき、この世の基準に照らせば、犯罪行為だと判断されても仕方のないものだから。

 だから、本当のことは誰にも言えない。肝心なところを伏せて、一人勝手にどこかへ行く。こんな大変な時期にそんなことをする自分を、すごく不義理に思った。

 それに、もう帰ってこれないかも知れない。内戦のときの王都からの出立とは違う、虚無みたいな寂寥せきりょう感が、俺を責めさいなんだ。

 進まない筆がどうにか一文書きあげると、せっかく書けた紙に涙が落ちて使い物にならなくなった。迷っている自分がいるのがわかる。


 それでも、もう決めたんだ。

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