第453話 「谷底」
9月4日。朝食をとってのんびりしていると、お客さんがやってきた。いつも通りの流れでリリノーラさんが応対に向かい、同居人のみなさんは俺を見てくる。
外にいるのはラックスだった。あの子に何かあったらすぐ知らせてくれる――そう約束していただけに、何か不穏なものを感じて背筋が冷える。やってきた彼女は、落ち着いた様子ではある。しかし、その顔が無理に作ったように思えてならない。
俺は立ち上がり、リリノーラさんに代わった。すると、ラックスは一言、「ついてきて」とだけ言った。
胸騒ぎが一層強くなる。近寄ってみると、ラックスは何か感情を押し込めているような、抑圧的な緊張感に満ちていた。それが、好ましくない何かを暗示しているようで……。
とりあえず、俺はみなさんに外出する旨を伝え、それからラックスについていった。
道中、彼女は一言も話さなかった。足取りは妙に早い。こうして二人で歩くことに、いたたまれなさでも感じているかのように。見た目だけは落ち着き払っていても、その内側はそうでもないんだろう。そんな彼女を見て、俺は苦しくなる一方だった。
静かに早歩きで向かったのは、王都南門だった。門を出ると馬車が用意してあって――殿下と宰相閣下がいらっしゃった。俺がご同行することになるのは間違いない。
そして、この顔ぶれが、本当に悪い知らせの前触れにしか感じられなかった。心臓が早鐘を打ち、両手が汗ばんで小さく震える。
そんな俺に、殿下は「急な話ですまない」と仰った。静かに抑えた声音に、普段みたいな親しみの響きはない。殿下のお言葉に応えようとするも、俺は思ったように声が出せなかった。
すると、殿下は悲しそうな表情を向け、馬車に乗るよう手で指示をくださった。
――馬車に揺られながら、俺は共和国での戦闘中に起きたことを聞かされた。
頭の中が真っ白になった。
馬車の中では、他に何かお話しされた気がする。いや、されなかったかもしれない。何も、頭に入らなかった。ただ、横に座るラックスが、声を抑えながら泣いていたのだけは聞こえてきた。それがまた、逃げ場のない現実を知らせてくるようで、俺の胸を締め上げた。
長いこと呆然としていたと思う。いつの間にか到着したのは、ご立派なお屋敷だ。いかにも、貴族が住まわれる邸宅という感じで、あの”お屋敷”とはだいぶ違う――そうやって、頭の中で比べたお屋敷のことが思い浮かんで、一層辛くなる。
もう何も考えたくない。しかし、そういうわけにもいかない。今日のこの顔ぶれで訪問するからには、何か重大な用件があるに違いない。なけなしの気力を振り絞り、俺は殿下の後に続いて邸宅へ足を踏み入れた。
その邸宅は、アスファレート伯爵閣下の御殿とのことだ。案内係の執事の方は、こちらが海外からの国賓を招くときにも使われると教えてくださった。
――海外からの国賓。もう、何を聞いてもダメになる一方だ。いちいち暗い方へ結びつけてしまう自分に、いよいよ冷笑的な諦めを感じ始めた。
もう、極力何も考えないよう、遠くを見ながら俺は歩いた。空は快晴だ。雲一つない青々とした空が広がり、より一層自分がみじめに思えた。
そして、俺たちは会談の場らしきところへ通された。広い裏庭みたいなスペースに、大きめのテーブルが用意してある。そちらには、見るからに貴人と言った感じの、気品があるたたずまいの男性二人がいらっしゃった。
お一人は邸宅の主で、アスファレート伯と名乗られた。俺と伯とは初対面になるはずだけど、伯は俺のことをご存じのようだ。それはそうか。授与式にきっと参席されただろうから。
伯はド平民の俺に対し、かなりの礼節を以って接してくださった。ご立派なところに住まわれるお方だけど、親しみがあるお方でもあるようで、塞いだ気持ちがほんの少し安らいだ。
そして、残るもう一方。そちらのお方は、伯爵閣下がご紹介してくださった。
「こちらは、かつて魔人を統べる六星の一角だった、ユリウス氏だよ」
見聞きしたことが素通りしてしまいそうな今日だけど、さすがにこれには驚きを隠せなかった。
しかし、伯爵閣下から、ユリウス氏をこの屋敷で預かるに至るまでの顛末を聞かせていただき、どうにか腑に落ちた。これまでにも、何度か殿下と面会され、そのたびにアドバイスをくださっていたようだ。
つまり、今日の訪問もそういうことなんだろう。もしかしたら……。
しかし、事情を聞くにつれ、ユリウス氏の表情は徐々に曇っていく。それが、わずかな望みすらも断たれるようで、どうしようもなく辛かった。
宰相閣下からひとしきりの状況説明が終わると、ユリウス氏は最初に「すまない」と切り出され、言葉を続けられる。
「使用者に心当たりはあるが、詳しくは知らない。使った魔法についても、詳細は術者しか知らないだろう」
「それでも構わない。どうか、教えてもらえないだろうか」
切迫感のある殿下の頼みに、ユリウス氏は申し訳なさそうな顔になって話された。
氏によれば、アイリスさんを操っているのは、カナリアという魔人だ。魔人六星の中でも、謀略や諜報を担当する大師という者の直属で、これまで大きな貢献を見せてきたようだ。王都への襲撃、それにクリーガとの内戦でも、その二名が裏で糸を引いていた可能性は高い。
それを聞いて、怒りと諦めが入り混じり、冷静な思考が働かなくなる。スケールがあって力もある屑どもが、俺たちをメチャクチャにしている。そういう連中が、俺たちがこうして動き回るのも承知してほくそえんでいるのかと思うと、どうにかなりそうだった。
なお悪いことに、ユリウス氏の話では、その精神操作が術者の意に反して破られたことは、決してないという。人間側にも、そういう魔法の存在自体は認識されているけど、使い手がいない魔法だけに理解が進んでいない。なにしろ、魔人側でも使い手が同時に二人といない魔法だそうだ。
話が一区切りすると、殿下は静かに仰った。
「実は、向こうで捕らえた捕虜から、同様の証言を得ている」
「そうか……新情報にはならなかったようだな」
「いや、裏が取れたと考えておく。向こうも、信用できる捕虜だと知れば、いくらかは安心するだろう」
そのように建設的なことを仰った殿下だけど、すぐに神妙な表情で問われた。
「他に、何かないか? なんでもいい」
一国の王太子の懇願に、ユリウス氏は沈んだ表情で考え事を始め、それから少しして口を開かれた。
「例の術者が大師の配下になったばかりの時、他の下々と問題を起こしたことがある。その者は
「どうなった?」
「術を受けた側の感想は要領を得ないものであったが、その術について、私は『川に毒を盛るようなもの』という印象を受けた」
「というと?」
「効果には濃淡があるようだ。それでも、主導権は一貫して術者の側にあるようだが……常に全力を発揮できるわけではない。また、受けた側は自身の意識が生きている実感はあったが、意識の表層は常に掌握されていたようだ。加えて、自分とその使い手の意識の境界が、曖昧になる感覚もあったという」
「……なるほど。完全に混ざらずとも、元の川ではないと」
「あくまで、そういう印象を抱いたというだけの話だ……力になれなくてすまない」
そして、これ以上の話は、もう無いようだった。
話を終えると、魔人であるはずの彼が、本当に謝意をあらわにして頭を下げてくる。その様が、俺にはどうにも耐えられなかった。「失礼します」とだけどうにか口にできた俺は、たまらず席を立ってその場を離れた。
裏庭から出て、邸宅の表側へ入る。色とりどりの草花が、見事に庭を彩っている。そんな光景も、心を安らがせはしなかった。どうせこれらも、いずれは枯れて土に還るんだろう。そんな皮肉めいた考えがすぐに浮かぶ今の自分に気づき、ただただもの悲しくなるばかりだった。
すると、背後から殿下の声がした。呼び止める声に振り向くと、傍らにはラックスもいる。
「リッツ」と殿下は仰った。しかし、その先が出てこないようだ。だいぶ間を開けて、殿下は言葉を続けられた。
「彼の話は、君に聞かせるべきだと思った。だから、こうして連れてきた。何か、役に立てればと……君に期待していないと言えば嘘になる。ただ、責任を負わせはしない。私から言えるのは、それだけだ」
「……好きにせよ、と」
「ああ……本当にすまない」
殿下がそう答えられた後、ラックスが一歩歩み出た。目に涙を溜めながら、それでも彼女ははっきりとした声で話しかけてくる。
「リッツ……どうか、早まらないで」
「早まる?」
やけっぱちになりそうな自分を見透かされたような気がして、自嘲的に鼻で笑いながら返すと、彼女は言った。
「あなたまでいなくなったら、嫌だよ、私……」
今にも泣きだしそうな彼女は、それでも震える声を抑えて言い切った。
つくづく、強い子だと思う。こんな状況でも、俺の内心に思いを巡らし、身を案じてくれている。そんな彼女みたいな強さは、今の俺にはなかった。気持ちを口にすればブッ壊れそうになる。
それが嫌で、二人の目が耐えられなくて、俺はまた逃げ出した。
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