第444話 「戦の始まり」

 私たちが陣地入りしてからというもの、一帯は奇妙なほどに静かだった。それでも、目いっぱい引き絞った弓のように、辺りには緊張感と力が満ち満ちている。この先の戦いに備え、誰もが精神を研ぎ澄ませている。


 決行予定日の前夜、私は陣地本営に呼び出された。

 向かった先の幕舎はかなり年季が入ったもので、この地で幾年も戦い続けてきた歴史を感じさせる。身が引き締まる思いを覚えつつ、私はメリルさんの元へ向かった。


 執務室に入ると、他の部屋よりは少し広い程度の部屋の中で、メリルさんが地図をにらんでいるところだった。呼ばれた身ではあるものの、お邪魔かなと思わず感じてしまうほどの真剣さだったけど、私に気づくなり表情が穏やかなものになる。一方で、切なそうな陰も……。

「今のところ、予定通りにこちらから仕掛ける予定」とメリルさんは話を切り出した。


「私は前線近くに張り付いて陣頭指揮を執ることになるから……ちょっとお別れね」

「ご武運を。こちらはこちらで、頑張りますから」

「うん……」


 あまり元気がないメリルさんは、短く答えた後に窓へ顔を向けた。心奪われそうになる星空を見つめながら、メリルさんはつぶやくように口を開く。


「ここで負けるか……わざと引き払って罷免されれば、ラクになれるかなって、思ったりした」

「それは……」

「ま、やらないけどね……私ってガキの頃から負けん気ばっかり強くって、今もそれが支えてくれてると思う。でもまぁ、たまには弱音も吐きたくなるわけでさ……ごめんね」

「いえ……相手が私で良かったんですか?」

「付き合いが長い奴に、弱音って吐きづらくない?」


 それは……あるかもしれない。一番信頼を寄せている相手には、弱音を聞いてほしい時もあるし、逆に言えないって気持ちも湧き上がってくる。頼りたいけど、頼りっぱなしではいられない。昔頼っていた時よりも、強くなった自分を見てもらいたい……そういう意地が働いているのかな、なんて思う。

――というようなことを話すと、メリルさんはそれまでよりも明るい笑顔になった。


「なるほどね」

「私も大概、意地っ張りで……負けたくない、逃げたくない――なんて思い続けているうちに、こんなところまで連れてこられちゃいました。そういうところ、いいように利用されているみたいで……なおさら腹が立ってきますね!」

「アハハ!」


 それまでの影を吹き飛ばすように、陽気な笑い声を上げたメリルさんは、それからいつもの口調で話した。


「ありがとね、すっごく気がラクになったよ。こういうこと、アイツの前では言えないからさ……」

「アイツって、スタンリーさんですか?」


 パッと思い浮かんで聞いてみると、メリルさんは苦笑いしながらうなずいた。よくよく思い返してみると、副官であるはずの彼の姿が見当たらない。メリルさんに言わせると「夕方には寝た」そうで……。


「アイツ、あれでも神経が太いから。それに比べると、私って結構繊細でさぁ……」

「えっ?」

「ちょっと、コラア!」


 冗談のつもりで聞き返すと、メリルさんも冗談交じりに応じてくれた。

 その後、夜の挨拶を交わし、私は自分の宿営へ戻っていった。



 翌朝。朝早くに、私たち衛生隊は持ち場についた。広いテントの中、いくつものシーツが並んでいる。今はいずれも空だけど、時が経てば……整えられた作業環境を見て、もう後戻りできない状況にあることをひしひしと感じた。隊のみなさんも、負傷者を受け入れる前から緊張感をみなぎらせている。

 テントの中は静かで空気が張り詰め、そんな中でスペンサー興は、やはり不安でいっぱいなのだと思う。お顔はいつも以上に青白く、落ち着かない様子だった。


 やがて、遠くから歓声が響き、かすかにではあるけとも地面が揺れるのが伝わってきた。予定通り、こちらから動き出したらしい。

 これまでの偵察に寄れば、目標の砦付近に不審な動きは見られなかったとのこと。強いて挙げるなら、普段はこれ見よがしに徘徊する手先の挑発が控えめだったぐらいだとか。

 いずれにせよ、相手側に機先を制しようという動きはなかったようで、こちらから攻める展開になっている。


 メリルさんが率いる銃士隊が、暫定国境へ侵攻していく。大方の国民は、この軍に絶大な信頼と期待を寄せているようだったけど、待って構える側としては気が気じゃなかった。

 いえ、たとえ戦に勝てるとしても……死傷者が出るのは避けられない。そういう方が出ないようになんて、祈るだけ無駄だと思う。

 でも、それでも、内心祈らずにいられない自分がいる。



 出撃から、どれぐらい経っただろう。

 隊の中には、じっとして精神を集中させる方、他の部署へ状況を確認に向かった方、静かに道具の準備や確認に勤しむ方……みなさんがそれぞれのやり方で、この沈黙を埋めようとしている。

 すると、テントの外から大きなざわめきが聞こえた。一瞬で中の空気が一変し、その張り詰めた静寂を外の叫び声が切り裂く。


「負傷者だ! 道を開けてくれ!」


 それからほとんど間を置かずして担架で担ぎ込まれたのは、左腕を負傷した兵の方だった。左上腕部に赤黒い穿孔せんこうが見え、服の周囲は血で染まっている。

 決して軽い負傷ではないけど、それで慌てふためく衛生隊ではなかった。全員で群がったりせず、事前の割り当てに従って、それぞれの作業を開始する。

 寝かされた負傷者の方に、さっそく隊員がそばに寄って処置を始め、私は邪魔にならないように気を付けつつ、空いている右側を取って彼の手を握った。

 すると、負傷者の方は、痛みに顔を歪めつつも笑顔を作って話しかけてくる。


「へへ、お恥ずかしい限りで……」

「何言ってるんだ。一番手だろ、結構な名誉だ」

「そうだって」


 服を切ったり、膏薬こうやくを調合したり、各自の作業を進めながら隊員さんが応じる。


「見たところ、戦闘は厳しいな。容体が落ち着いたら、後続の励まし要員にでもなってくれ」

「お、おう」

「で、傷の原因は?」


 処置の中心になっている隊員さんが尋ねると、負傷者の方はかなり渋い顔で、息も絶え絶えに「クチバシだよ」と答えた。


「奥にそれらしいのが見えるが……途中で折れたな?」

「あ、ああ……」

「運が悪かったな。ほれ、口空けろ」


 すると、負傷者の方はだいぶ嫌そうに口を開け、別の隊員さんがきれいな布を彼にかませた。

 次いで処置担当の隊員さんは、傍らの隊員さんから施術用具を受け取った。その銀色の器具を見て、負傷者の方の顔があきらめと覚悟で歪んでいく。


「各員、良く押さえつけろ。止血、もう少し縛って。アイリス様は……優しくしてやってください」

「はい」


 そして、彼の患部に、銀色の器具が入っていく。彼自身も痛みにこらえようとしている、それは十分に伝わってきたけど、抑えきれない体の震えを手で感じた。この苦痛を少しでも和らげたくて、私は痛みにならない程度に手を握りしめ、彼に目を合わせ続ける。


「……案外、余裕そうだな」

「んが?」

「頬が赤い」


 施術者さんの指摘で、負傷者の方は私から微妙に視線をそらした。とりあえず、そこまで深刻な空気にならなくてよかった。

――と思ったのも束の間、細い銀色の器具が患部から抜き出され、声にならないうめき声が聞こえた。その器具は今や先端が血にまみれ、くちばしの先端と思しき破片をつまみ上げている。

 その破片が銀の皿に置かれると、一瞬にして霧散し、跡形もなくなった。


 患部からの摘出が済んだ後、流れるように次の処置が始まった。脇下の止血状態を維持しつつ、患部と付近を清浄にし、縫合が始まる。

 その頃には、患部に塗布した膏薬が効いてきたようで、負傷者の方はいくらか楽になったみたいだった。そこで、今回の負傷について、施術のまとめ役になっている隊員さんが話してくれた。


「抜き取った破片ですが、どうも負傷者の血からマナを得て、実体を維持しているようで」

「なるほど……それで、抜き取ると消えてなくなったということですね」

「はい。放っておくと消失したという話も聞いたことがありますが……早くに処置するに越したことはないですね」


 実際、迅速に処置できたおかげか、かなり深い傷に見えたけど、運び込まれた直後よりは落ち着いたように見える。「激励も効いたようです」と感謝の言葉ももらえた。


 そうして一人目はどうにかなった――なったけど、スペンサー卿の姿が見当たらない。

 なんだか嫌な予感がして、テントの入口付近で落ち着かない様子でいる隊員の子に尋ねてみると……。


「少し、気分が悪くなったと仰せで……」

「そうですか」

「お水はお渡ししました。もう、落ち着かれた頃合いかと思いますが……」


 上目遣いに話す彼女は、かなり心配そうにしている。自分から働きかけるわけにもいかないから、だと思う。これは私の役割と思って「行ってきます」と告げると、彼女は深く頭を下げた。


 テントを出て脇に回り込むと、卿がお一人でいらっしゃった。顔色は冴えず、憔悴しょうすいした感じすらある。

 卿は私にお気づきになると、小さなお声で「一人に……いや、いい」と仰った。


「一人来たばかりだってのに……情けなくて、本当に、申し訳なくって……」

「いえ、慣れがなければ当然のことです」

「慣れ?」


 私はうなずいた。

 そう、これは慣れだと思う。決して、麻痺しているわけじゃない。ただ、耐えられるようになった、それだけのことだと思う。

 つらいのは、いつだって変わらない。


励ましにきたというのに、陰鬱な思いが頭をもたげ、私は少し口ごもってしまった。するとややあって、「僕も」と卿は口を開かれた。


「僕も、頑張りたい」

「……かしこまりました。私も及ばずながら、お力になれればと思います」

「うん……ごめん。本当は負傷者の面倒を見なきゃいけないっていうのに」

「いえ……面倒を見る方も、決して無傷ではいられませんから……」

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