第426話 「リーヴェルム共和国④」
人生初の油屋に入店すると、ふわっと心安らぐ香りが漂ってきた。
油屋というからてっきり、料理人さんか職人さんか……何か、そういうプロフェッショナル向けの店と思っていたけど、予想とはまったく違う。客層は、さっきお世話になった服屋さんとほとんど変わらない。大半が女性で、年齢層は幅広い。それ以外の共通点は……みなさんオシャレなことぐらいかな。
取り扱っている油も、調理油とか潤滑油みたいなものじゃなくて、身につけるもののようだった。商品の前には、試用のためらしき瓶があって、他のお客さんが顔に近づけて香りを楽しんでいる。
そんな店の様子を観察していると、メリルさんがいつの間にか店員さんをつれてきていた。ふくよかな印象のある女将さんだ。彼女は、私に会釈をすると、このお店で取り扱っている油について教えてくれた。
寒くなって乾燥すると、唇や手指が切れやすい。だから、その予防のためにと、皮膚に油脂を補って保護してあげるという習慣が、この国にはある。
しかし、どうせ体に塗るのなら、香りも付けて楽しもう――そんな動きが、かなり前にあったのだそうで。殺風景な箱に、飾り付けをして楽しんでいるような街の様子を見てきた私は、その説明が妙に腑に落ちた。
それで、香りを移しやすい油の特性も手伝って、香り付きの油脂類は大ヒット。ただ、当時の油屋さんにとって予想外だったのは、シーズン外にまで流行が続いたということ。
「もともと日常的に使う商品ですから、香水ほど気張らずに香りを楽しめますし、マッサージにも使えると好評いただいてまして」
「それで、この盛況ぶりということですね」
「はい、ありがたい限りです」
すると、用事が立て込んできたみたいで、店の奥から女将さんを呼ぶ声が。大変申し訳無さそうにされたけど、ここまでのお話でも十分満足できた私は、笑顔で頭を下げた。
店の奥へと去っていく女将さんを見送ると、今度はエメリアさんが説明を引き継いでくれた。
「実は、フラウゼからの原材料を使っている商品も多いんです」
「えっ!?」
思わぬところで、母国とのつながりがあった。驚く私に、エメリアさんは楽しそうに言葉を続ける。
「香りの元になる香草類もそうですが……重要なのは種子類ですね」
「種子というと……絞って油に?」
「はい。獣脂ではどうしても臭みがありますから。ちょうどいい油探しに、この国は血道を上げてきた歴史もありまして……」
だんだん熱っぽくなる講釈に、興味を惹かれたのか他のお客さんも聞き入っている。当のエメリアさんはまったく気づいていないけど……楽しげなメリルさんにそれとなく制され、私は状況をそのままにしておくことにした。
「時の権力者たちも、冬季に陣頭指揮を取る折には皮膚に油を塗っていたのですが、匂いがきつい獣脂はいかんせん人気がなく……新しい種子を手に入れては、片っ端から圧搾して油に変え、良いものを探求していました」
「それで、フラウゼの物が良いと」
「はい。本当に凄いんですよ! 普通、癖のない植物性の油は液体として存在するのですが、フラウゼ固有種のグリーズノキの種子から取る油は、室温程度では個体として存在し、ちょうど人肌ぐらいで溶解するという奇跡的な塩梅の油なんです! おかげで、塗布するまでほぼ固形物として扱える、本当に使い勝手のいい油脂で……」
熱弁に耳を傾けるお客さんの中には、「へぇ~」と言って、商品を持ち上げる人もいる。その商品は、確かに液化していない、固まった油脂に見える。
そうやって他のお客さんが反応したところで、ようやくエメリアさんは状況を理解したようだけど、恥ずかしそうにしながらも話を続けてくれた。
「この国とフラウゼ王国とで、こんな笑い話もあってですね……大昔のフラウゼ王が、友好の証にと花の種を贈られたんです。『これは我が国の比較的寒い地方でも咲く。そちらでもおそらくは……』と」
「……大体読めました」
「ふふ。それで翌年、お二方が顔を合わせた際に、フラウゼ王が問われたんですね。『あの時の贈り物は、いかがであった』と。それに対する我が国の王の返事は、『大変良い香りであったぞ』というもので……」
すると、聞いているお客さんたちは、吹き出し笑いを始めた。
「……フラウゼの王に、真相が伝わったのは?」
「その会談中ですよ。『そなたも愉しむがいい』と言って、搾りたての油を席上に……」
まるで何かの喜劇みたいな流れになって、さっきよりも含み笑いを漏らすお客さんが増えた。
ただ、ご当人たちにしてみれば、笑い話にはならなかったみたい。当時からこの国では種を搾るのが普通だったけど、フラウゼにとっては植えて育てるものだった。その理解がなかったから、贈った種に対するこの仕打ちは、一種の挑発行為と取られた。結局は、間に両国の近臣たちが割り込んで、相互理解がなされたようだけど……。
今を生きる私にとっても、種を潰すという行為に、抵抗感がまったくないわけじゃない。やっぱり、私にとっては植えて育てるものだから。
でも、この国においては、こういう形で私の国の産物が活きている。その事実は嬉しく思う。その反面で、育ててみてもらいたいな……という思いもあるけど、好きな植物を育てるという行為が、この国では贅沢にあたるのかもしれない。
いずれにせよ、この店に来れたことは、とてもいい経験になったと思う。自分の国について、別の角度から知ることができて、私の中の世界が少し広がった感じがある。
☆
三人で街をめぐりながらお話していると、時間が立つのはあっという間。気がつけば空が少しずつ茜に染まってくる頃合いになっている。
私もそうだけど、エメリアさんも少し名残惜しそうにされている。そんな態度が、嬉しくもあったりして。
この国に滞在している間、私はメリルさんの元でお世話になるという話になっている。寝泊まりもそう。貴賓館か、あるいは官公庁の庁舎で……という話もあり、色々と議論を重ねたそうだけど。
そのため、今から私はメリルさんの邸宅へお邪魔することになる。エメリアさんとは、ここでお別れ。別に、もう会えなくなるってわけじゃないけど……今朝、大勢の方としばしの別れを済ませてきた私にとっては、そのことが頭の中でちらついて、少し切なかった。
軽く挨拶を済ませると、会話が途切れて静かになる。そこで、メリルさんが私たちに話しかけてきた。
「エメリア、なんだったら、これからもアイリスさんのことを頼める?」
「えっ!? わ、私が、ですか?」
思いも寄らない提案に、エメリアさんはものすごく驚いている。そんな彼女に、メリルさんはにこやかに言葉を続ける。
「私がつきっきりでいられるわけでもないし……私が傍にいられない間、あなたに任せられたらって。ま、今の仕事の引き継ぎとか、並行して頑張ってもらう必要はあるけど」
「……それは、大丈夫です」
意志の光をみなぎらせ、エメリアさんがメリルさんに宣言する。でも、それからちょっと自信なさそうになって、彼女は私の方に顔を向けてきた。私の方は、もう気持ちが決まっているんだけどな……。
「明日からも、お願いしますね」
「は、はいっ!」
本当に嬉しそうな笑顔で応じると、エメリアさんは少し考え込んだ後に私たちに切り出してきた。
「それでは、今日はここで失礼します。今から部署に戻って、引き継ぎの支度を進めますので」
「熱心なのはいいけど、ちゃんと寝なさいよ? 無理して心配させるくらいなら、世話役から外すからね」
「はい、暗くなる前に帰宅します!」
快活に言葉を返すと、エメリアさんは今一度私たちに頭を下げて、庁舎の方へ走っていった。それを二人で見送る。横目でチラッと見てみると、メリルさんは「ヤレヤレ」といった感じの、呆れながらも慈しむような顔をしていた。
それから、私たちは首都を囲う防壁の門まで歩いた。こういう、壁で囲う都市構造や、門の作りは王都とあまり変わらない。それと、門のところでの身分照会も。
門衛の方々は、さすがに共和国第三軍将軍閣下を指して「大将」などとは呼ばなかった。ただ、ガチガチに固まって恐縮するということもなく、仕事中の緊張感を保ちつつも打ち解けた感じの雰囲気がある。
「お疲れさまです、閣下」
「遅くまでご苦労さま」
「こちらが、例の?」
「ええ」
すでに、私のことは話が伝わっているみたいで、短いやり取りですぐに状況を把握された。
すると、門衛の方々は急に顔や雰囲気を引き締め直し、私に正対した。メリルさんに対するのよりも、ずっと恐縮されているみたいで……いいのかな、これって……。
「お噂はかねがね伺っております! こうしてお会いする機会を賜りましたこと、誠に光栄に存じます! どうぞ、お通りください!」
「いや、仕事はしなさいよ……」
やや呆れ気味のメリルさんが指摘を入れると、門衛代表の方は何事もなかったかのように「もちろんですとも」と言って、私の身分照会を始めた。
そんな一幕があったけど、その後は何事もなく門を通過できた。
防壁の外には牧草地が広がっていて、とてものどかな感じがある。振り返ると、防壁から突き出るものがない首都は、飾り気に欠けて無骨な印象がある。中に入ると賑やかしいけども。
それから、私たちは街道を進んでいった。外を出歩いている人は少なく、あまり気兼ねせずにお話できる。
話題はエメリアさんについてのものが多かった。
彼女は軍の事務官ということで、実際に戦場へ赴くことは少なく、後方からの支援が主な仕事らしい。記憶力や注意力に卓抜したものがあり、細かなところによく気づく人材ということで、上からの評価も高い。
特に書類の校閲では、彼女に手助けを要請するようになってからというもの、軍の外の他部署から細かなイヤミを言われることが激減したそうで……外部向けの文章を
「……そんなに優秀な人材を、私につけてしまって、大丈夫ですか?」
「ええ、まぁ。あなたがお国に帰られた際、不備不足を指摘されては恥だから。あなたの経験が、やがてお国の公文書になるかもと思えば、この人選はいい判断だと思ってるんだけど……どう?」
「まだ初日ですから、なんとも断言はできませんけど……おかげで、あまり不安にかられず滞在できそうです」
「そう」
私の本心からの返答に、メリルさんは満足そうに何度もうなずいていた。
そうして楽しく会話していると、メリルさんの邸宅に着いた。でも、邸宅というよりは、普通のお家といった方がいいかもしれない。富裕な平民のお住まいという感じ。私の家だって、広い以外にはそう豪華なものでもないけど……。
そんな、ぬくもりのある木造の家に上がらせていただくと、さっそくメリルさんのお母様が出迎えてくださった。少し痩せ気味で、小柄な方だ。
「ようこそ、おいでくださいました。何もない家で恐縮ですが、どうぞごゆるりと……」
「なにもないだなんて、そんな……こういう温かみのある家の方が落ち着く性分なものですから、こちらでお世話になれることを嬉しく思います」
世辞のつもりじゃなくて、本音をそのまま告げたけど、お母様がどのように判断されたかはわからない。ただ、やや恐縮したようにしながらも、微笑みを向けてくださるだけだった。
こうしてお母様にはお会いできたけど、お父様は……聞いてもいいものなのかどうか。少し迷っていると、それを察したかのようにメリルさんが話しかけてきた。
「おと……父上は、病で伏せっていて……せっかくお越しいただいたというのに、当主が応対しないのは無礼千万だとは思いますが、何卒ご容赦願えませんか?」
この家に至るまでの道すがらとは違って、とても折り目正しい言葉遣いに、私は距離感を覚えた。私とメリルさんが個人的に親しくなったのは良しとしても、ご家庭内では――男爵家という立場の中では――こうならざるを得ないのかもしれない。
でも、私がこうして入ってきたことで、本来のご家庭の空気が壊れているような感じが確かにある。私に対する遠慮が、こちらの親子の間まで割って入るような感じが。それを私は申し訳なく思うし、できることなら、ありのままで接していただきたかった。
「ご家庭の中でも、普段どおりにして頂けませんか?」
「いえ、さすがに立場上、示しというものが……」
やっぱり、すぐに応諾されることはないけど、それでも私は粘ってみる。
「ご家庭の中にまで堅苦しさが侵食するのは、忍びなく思いますし……私にとっても、少し窮屈です。ここで半年も、お世話になる居候ですから。こんなことを言い出すと、逆にご迷惑でしょうか?」
すると、メリルさんは私とお母様――というか、きっとこの家では「お母さん」――を
「そちらから言わせてしまって、ごめんなさいね。立場上、言質をとってからじゃないと、色々と問題があるから……」
「よくわかります」
私の返答に、メリルさんはちょっとお疲れ気味の笑みで返した。
「そういうわけだから、よろしくね、お母さん」
「だ、大丈夫なの?」
「他にお客さんが来なきゃね。でもまぁ、そういうときって庁舎でやると思うし……」
そういうメリルさんだったけど、お母さんの方は、やっぱりそれでもためらう感じはあって……私の呼び方は、結局お嬢様で落ち着いた。これはこれで耳に馴染みがあって、私は違和感なく受け入れてしまった。
それでも慣れてきたら、こちらのお母さんにも、名前で呼んでもらえればって思う。
女三人でそうやってお話をして、私の扱いは思わしいところに収まった。その一方、病床にあらせられる、ウィンストン卿のことが気になった。慢性の病のように思われるから、私が滞在している間に、お会いできるかどうか……。
でも、そういうことを考えていると顔に出るかもしれない。気がかりは一旦置いておいて、私は母娘と一緒に夕飯をいただいた。ふんわりしたパンと、温かで具だくさんなシチュー。国は違っても、家庭を感じさせる味には相通じる物があって、私は安らぎを覚えた。
夕食の後、少し三人でお話をしてから、私は“自分の部屋“へ案内された。空き部屋を急いであつらえたと謙遜されたけど、こじんまりとしていて清潔な、いい部屋だった。実家の私室に比べれば、こちらの方が布物の家具や小物が多くて温かみがあるくらい。
「素敵なお部屋を、ありがとうございます」と笑顔で言うと、お二人は喜んでいた。お母さんは、やや控えめな感じではあるけど。
「寒かったら、遠慮なく言ってくださいね。体調を崩されてはいけませんから」
「はい。その時は遠慮なく言わせていただきます」
お母さんにそうハッキリと申し上げると、安心したように微笑まれた。
でも、この家なら、寒い思いはしないと思う。
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