第397話 「血戦②」
俺と対峙するあの野郎は、バルコニーと屋内の境界でゆったりと立っている。その余裕がなんとも不気味だった。
バルコニーは広く、手すりを背に立つ俺と奴とは、それなりの距離がある。しかし、禍々しい気配が俺の肌を刺し、体の内側に言いしれない寒気を覚えた。奴が放つその気配は、こんな距離を物ともせず、俺の臓腑を凍てつかせるようだ。
さっき
とはいえ、あの魔法陣でどうこうしていると言うのなら、限界はあるのかもしれない。
しかし、奴は飛来した
やがて矢が着弾すると、その無抵抗が挑発だけじゃないことを理解した。当てた衝撃でわずかに体が揺れたものの、奴の表情は変わりはない――むしろ、楽しんでいるようにさえ見える。初等魔法とはいえ、直撃して完璧にやせ我慢なんてできるような魔法じゃない。
今までのどんな相手とも違う怪物に、体を縛り付けるような寒気を覚えながら、俺は次の魔法を放った。火砲だ。ドサクサに紛れた初撃とは違い、きちんと相対して撃ち、様子を見る。
そして、着弾の瞬間を迎えた。陰惨な光景を脳裏で思い描き、目を背けたくなるのをぐっとこらえ、動かない奴に注視を続ける。
すると、胴体に炸裂した砲弾が弾け、青緑の爆風が巻き起こる。次いで、胸元に空いた赤紫の穴から瘴気のようなものが吹き出して、爆風と混ざり合う。
しかし、奴の体の前面にある魔法陣は健在だった。そこからまたしても糸が伸び、空いた穴を塞ぐように縦横に走る。そして、無数の糸で塞がれた傷口へ、こぼれ出た瘴気の一部が吸われて戻っていく。
着弾の一部始終を見て、俺のこめかみから汗が伝った。すると、奴は愉快そうに話しかけてくる。
「理解できたか? ノーガードでもこの通り! お前らの魔法なんて効かねえんだよ」
結局の所、奴が泡膜で守っていたのは、こちらから打って出る手を制限するために過ぎなかった……というわけなんだろうか。
依然として、あの糸を出す魔法陣に限界がある可能性は残されている。しかし、問題は……。
身構える俺に対し、奴は「帰るまで遊んでやるよ!」と笑いながら突っかけてきた。前のめりに走りながら、矢を浴びせかけてくるのを避け、俺は
奴は、まだ言葉通り遊んでいるんだろう。攻勢はさほどでもない。俺は距離を維持しつつ、奴の攻撃を捌いていく。
互いに円運動をするように動いていくと、奴は手すり際にあったテーブルを火砲で粉々に吹き飛ばした。巻き上がった煙に隠れ、俺に襲いかかるのは
今の調子であれば、しのぎ切ることはできる。しかし、ここで攻めてあの野郎を打ち倒すのは……今後の展開に思考を巡らせても、良い打開策がすぐには見当たらない。やる気があるのかないのかわからない、挑発的な攻撃をさばきながら、俺は強い焦燥感を覚えた。
普通の防御手段に頼らずとも、戦い続けられるというのが何よりの脅威だ。あの魔法陣に限界があるとしても、光盾や泡膜を併用すれば済む話だ。それらの防御が間に合わなかった時の、最強のセーフティーネットとして、あの魔法がある。
加えて、奴には痛覚というものがあるようには見えない。つまり、攻撃を当てたところで、決して怯みはしない。これも、魔法の撃ち合いにおいては相当のアドバンテージだ。
それに……奴と初めて戦った時のことだ。奴は
――あの野郎も、体は死んでるんじゃないか?
奴の魔手から、人々の遺骸を救い出した時の事を思い出した。
しかし……あのとき感じた得体のしれない感覚が蘇る。死者の世界に潜り込んだ時の酷寒が体を震わせる。あの凍てつく世界の主が、目の前にいる。末端に忍び込むことでさえ、激しく心身を痛めつけるような経験だった。今度の相手は、その中枢だ。そこに自分のマナを伸ばして……俺は果たして戻れるんだろうか?
遅れさせた時の流れの中、奴の攻勢は少しずつスピードアップしていくのがわかった。矢の頻度は下がり、追光線と
問題は、時間切れまで粘るかどうかだ。奴には夜明けが帰還のタイムリミットとなっているらしい。それもブラフという可能性はあるけど……。
しかし、できることなら、この場で奴を仕留めたい。曲がりなりにも、奴はこの国の権力構造の上層に食い込んだ。どこまで情報が漏れているかも、それが連中の上に伝わっているかもわからない。手遅れかもしれない。それでも、始末することに意義はある。
それに……人の亡骸を操る、こんなクズを野放しにはできない。楽しそうに人質を取るような、こんなクソ野郎を……。
使命感と殺意が混ざり合い、俺の体を突き動かす。徐々に勢いを増す攻撃を捌き切って、俺は火砲を放った。奴との距離は近く、俺も巻き添えになる。
そこで俺は、着弾前に双盾を書き上げた。間に合わせるために異刻へマナを注ぎ込んだせいか、激しい疲労感が襲う。
その甲斐あってか、近距離での火砲は奴に直撃した。衝撃を受けて大きくのけぞり、右肩辺りが消し飛ぶ。
右腕が使えない今が好機だ。縫合が間に合わないスピードで、破壊し尽くしてやる。奴の体へ向け、俺は火砲の記述を開始した。
すると、俺は視界の端に、赤紫の輝きを見た。恐ろしいほどの寒気に襲われ、異刻の強度を跳ね上げてそちらに視線を向ける。
そこにあったのは、吹き飛ばされたはずの右腕だった。そして、傷口から吹き出る瘴気に隠れ、赤紫の糸が伸びていて――その人差し指が、魔法を記述している。火砲だ。
俺と奴との位置関係で、互いに火砲が炸裂するとまずい。奴はともかくとして、俺が耐えきれない。俺は、ほぼ書きかけていた火砲の記述を途中で消去し、双盾に切り替えた。
そうやって防御を整えたところで、瞬間的にかかった強い負荷で、心臓が締め付けられた。異刻の維持ができず、時の流れが元通りになる。
地に落ちた奴の右腕が放った火砲は、どうにか防ぐことができた。しかし、砲弾と二重になった盾が弾け飛び、濃いマナの霞が散乱する。状況の把握は難しい。
その場に留まるのは危険と思い、俺はふらつきそうになる足を無理やり動かした。手すりに身を預けつつ横に動きつつ、渾身の力で泡膜と双盾を構える。
すると、マナの霞の向こうから、白い手が伸びてきた。魔法じゃない。そいつに抵抗することが叶わず、首根っこを捕まれ、手すりに押し付けられる。
俺の首を締め上げるその手は、ゾッとするほど冷たく、そして強力だった。冷たい工作機械のようだ。その手を両手で掴んで押しのけようとしても、びくともしない。
やがて、先のやり取りでできた霞が晴れ渡った。凶猛な笑みを浮かべたあの野郎が、俺の首を締め上げている。息が苦しい。
そして、視界の端には奴の右腕が見えた。魔法を撃つつもりはないようだ。爆ぜ飛んだ右肩から長い糸が右腕に伸び、こちらへズリズリと引き寄せている。
この期に及んで、俺は奴の戦闘スタイルをようやく理解した。別に魔法でやりあっても戦える。しかし、こういう肉弾戦が一番効果的なんだろう。振りほどこうにも、万力じみた力で締め上げてくる。魔法でひるませることも難しい。
今は、片腕で締められているから、まだ持っている。右腕が戻ってきたら、もうアウトだ。そう確信した。
すると、そうやって右腕に向けた視線に気づいたのか、奴は腹立たしいニヤケ顔で言った。
「腕が到着するまでが、お前の余命ってところだな。でも、安心しろよ? 死体は有効活用してやるからな」
「うるせえ、ボケナス……」
締め上げられながらも、俺はどうにか言い返した。奴は笑った。腕は近づいてくる。拘束は解けない。
それでも、俺は諦めない。こんなところで死ねるか。
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