第359話 「峡谷の戦い②」

 隊列中央から放たれた魔力の火砲マナカノンの集団は、左右に割けて峡谷の崖へ向かった。

 その真の狙いを、ハリーはすぐさま理解した。空戦部隊に指示を出し、直ちに迎撃させる。

 しかしながら、反政府軍指揮官の目論見が、ハリーらの対応を上回った。最初は一塊のように見えた砲弾の集まりは、術者の手を離れるとともに少しずつ散開していき、崖の際に沿うように、列をなして向かう。こうなると、まとめて撃ち落とすことは難しい。

 そして……空から降り注ぐボルトの雨をかいくぐり、マナの爆風から姿を表した一つの砲弾が、峡谷の崖に到達した。

 次に瞬間、轟音とともに戦場全体がわずかに揺れた。音と振動がまとわりつくように残響する。

 この斉射で崖が大きく崩れることはなかった。しかし、指揮官の号令で再度火砲カノンの列が放たれる。


 この間、ゴーレムと対峙する前列の兵が動くことはなかった。彼らの顔には、恐怖と絶望の色がありありと浮かんだ。衝撃で戦場が揺れる中、安定しない足場を後退することは難しい。その上、彼らがいるにも関わらず、その両側の崖に砲撃が行われている。その事実と轟音が、彼らの動く気力をかき消した。

 一方、空歩エアロステップで地面を離れて状況をうかがうハリーは、前列の兵たちを見て歯噛みした。この後どうなるか、予想はついていても打つ手がない。火砲を完全に迎撃することはできない。割って入って光盾シールド反魔法アンチスペルで守ろうにも、後が続かない。

 そこで一瞬、彼の脳裏に一つのアイデアが浮かんだ。あの兵たちを、前に逃がすことはできないか。一時的に将玉コマンドオーブを解除して、ゴーレムの戦列を解けば……。

 しかし、彼は思いとどまった。それが相手指揮官の思惑であれば、とんでもない過ちを犯すことになる。自身の良心を満足させる慈悲心のために、仲間の命を危険にさらすわけにはいかない。


彼が自身の良心を押さえつけたその直後、火砲の轟音とは違う音が、地面から響いて峡谷を満たした。戦場全体に、これまでにない衝撃が走る。

 そして、度重なる砲撃に耐えかねた峡谷の崖が、ついに崩落を始めた。細かな石が岩肌から流れ落ち始め、それからすぐ、堰を切ったように巨岩が崩れ落ちていく。

 見捨てる覚悟をしたはずだった。それでも、腹の底から湧き上がる衝動が、ハリーを叫ばせる。その「逃げろ!」という声は、しかし、崩落する崖の地鳴りの前には無力だった。

 やがて、最前列は落石に呑まれ、雪混じりの噴煙が立ち上った。ハリーはすかさず、自制心でもって平静を取り戻し、指示を発する。


「各員、距離を取って防御!」


 その指示からほどなくして、噴煙の向こう側から射撃が飛来した。実体を伴う矢と、マナの矢が入り混じって襲来する。幸いにして、事前の命令のおかげで事なきを得たが、相手の目論見を読んだ喜びなど、ハリーの胸中には欠片ほどもなかった。


 それからも散発的な攻撃が続き、徐々に戦場の噴煙が晴れていく。

 一同の目に映ったのは、変わり果てた戦場だった。峡谷の両側はえぐり取られたように崩壊し、そこにあった巨石群が崖の間を埋めている。

 そして、それまで戦っていた者たちの姿は、もはやそこにはなかった。人もゴーレムも、岩の雪崩に呑まれてその下にいる。

 こうなっては、ゴーレムは用をなさない。地面に覆いかぶさるように巨石が転がり、小石を集めることがままならない。それに、地面の高低差が激しくなった今、ゴーレムを展開できたとしても、巨石同士の間を埋める程度の存在にしかならない。

 それこそが、相手指揮官の目論見だったのだろう。近衛部隊の、事実上無敵の前衛は無力化した。しかし一方で、彼らの兵も……。


 戦場に暗く重い空気が漂う中、なおも矢の雨は降り注いだ。しかし、その少しずつ勢いは収まっていき、やがては止んだ。「撃てなくなったみたいだぜ」と、ラウルは沈んだ声で告げた。

 だが、攻撃が止んでからほどなくして、変化が生じた。「向こうの指揮官が来るぞ!」という声を受け、ハリーは空歩で駆け上がり、状況の確認に移る。

 すると、ラウルが言ったとおり、敵指揮官が一人歩いてきていた。その目的が停戦交渉でないことは、ハリーの目には明らかだった。紫の光盾と泡膜バブルコートで身を固め、敵意もあらわに剣を構えている。


 やがて、指揮官は空を駆け出し、ハリーのもとへ一直線に突撃した。「私に続け!」という彼の号令で、それまで攻撃を中断していた兵たちから、再び射撃が行われる。

 まっすぐに向かってくる指揮官に対し、ハリーは正面から応じた。双盾ダブルシールドを展開し、剣を構えて迎え撃つ。

 そして指揮官は斬撃を繰り出した。下から振り上げる形でのその一撃は、空中戦にも関わらず、実に重いものであった。それでたじろくことこそなかったが、体格の差を十分に埋める力を、ハリーは感じ取った。

 初撃を剣で受け止められ、指揮官はすぐさま大きく後ろに退いた。そうして空いたスペースを埋めるように、後方からの射撃が飛来する。

 もっとも、これは読めていた動きであった。最小限の回避でいなしつつ、ハリーは敵に注意を払い続ける。

 すると、距離を取った指揮官は、巨石の上に着地した。なんのことはない小休止なのだろう。しかし、その下に居る者の存在が、ハリーを激昂させた。


「踏むな!」


 その声に、指揮官は表情を歪めた。苛立ち、憎しみをあらわにして、再び突撃する。

 すると、彼の猛進を阻むように、空戦部隊からの一斉射撃が放たれた。この場にトップエースこそいないものの、空中で動く物体を狙い撃つことなどお手の物だ――たとえそれが、人間であっても。もはや、彼は討つべき相手だった。

 自身に集中する攻撃を、彼は空歩でほんのわずかに回避し、光盾と泡膜で相殺し……自身の体で受け止めた。被弾の衝撃で兜が抜け落ちても、一向に構う様子を見せない。彼はついに、ハリーに肉薄して剣を振り下ろした。

 その一撃を、ハリーは剣で受け止めた。鍔迫り合いの形になる。しかし、膠着が続くことはない。指揮官は叫んだ。


「私が抑えている内に撃て! 殺して先に進め!」


 それから少しして、わずかに狙いを外した射撃が飛来した。横を通り過ぎていくだけの攻撃を見送り、指揮官は苦々しい表情になる。


「この期に及んで、なんて甘い連中だ」

「……そんなに殺し合いたいのか、あんたは」

「ここから逃げて帰る場所など、我々にあるものか!」


 奥底から吐き出すような咆哮とともに、彼はハリーを突き飛ばし、間髪入れずに魔法を放った――火砲だ。決して、人間相手に使ってはならないとされる魔法を、巻き込まれれば自身もただでは済まないこの距離で、彼はためらわずに放った。

 飛来する砲弾を認めたハリーは、空中で後退しつつ光盾の再展開に意識を集中した。すでに双盾を張っている。砲弾の直撃と、その後の爆風は防ぐことができる。だが、追撃の恐れはあった。

 その予感通り、着弾した砲弾によるマナの爆風の向こうから、第2第3の砲弾が飛来する。しかし、空戦部隊による迎撃により、それらがハリーのもとに届くことはなかった。


 敵指揮官との戦いに専念するハリーに代わり、指示を出していたのはラウルだった。彼は空戦部隊を二手に分け、一方はこうしてハリーの援護を行っている。

 もう一方は、敵一般兵への威圧に向かっていた。今、指揮官の目は全体に回らず、兵たちの目も隊長同士の一騎打ちに集中している。そんな中、彼ら一般兵を狙う空戦部隊の一部は、峡谷の崖を隠れ蓑にして部隊後背を取っていた。

 そうして密かに挟撃する形になった空戦部隊は、一斉に威嚇射撃を行った。すると、後ろを取られたことに対し、兵の一部はひどく狼狽し、悲鳴が上がる。一方、その情報が伝わらない前方の兵は、空戦部隊の攻撃に応じて撃ち合いになった。

 しばし指揮官たちの手を離れて、射撃の応酬が繰り広げられる。すると、流れ弾が峡谷の崖に当たり、人の頭ほどの大きさの岩が地面に転がり落ちた。

 続く崩落はない。しかし、転がり落ちた岩は、今なお健在の部隊にほど近い位置に落ちた。そのことは、一部の兵を恐慌状態に陥らせるに十分だった。やがて、指揮官の目の届かぬところで恐怖が伝播し、空戦部隊に応じることもできなくなっていく。

 そして他にも、彼らに攻撃の手を止めさせるものがあった。


 遠目に見ても士気の崩壊を感じ取ったハリーは、斬撃と射撃の応酬から一度大きく距離を取り、叫んだ。


「後ろと足元を見ろ」

「その手には乗らぬ」

「見ろッ!」


 憤怒の形相とともに、ハリーは叫び、剣を地に投げ捨てた。その様に、指揮官は少なからず驚きをあらわにし、ハリーの言葉に従って戦場に目を向けた。

 悲惨な状況であった。後方に置いた部隊は、空戦部隊に取り囲まれ、応戦することもできないほどに気力を失っている。その中には、口元を抑えてうずくまる者も、少なくなかった。

 そして、指揮官は視線を下に向けた。巨石が散らばり、うっすら雪が覆っていた岩場は、今では岩の影から赤いものがにじみ出ている。


「まだ戦う気か」


 ハリーの言葉に、指揮官は向き直り、彼を睨みつけた。


「情けをかけようというのか?」

「……俺は、孤児だ。似たような思いをする子を、増やしたくはない」


 その言葉に、指揮官は歯を強く噛み締め、宙をにらんだ。

 やがて無言が続き、彼は「撤退する」と告げた。


「背後を撃ちたければそうするがいい」

「本気で言っているのか?」

「……あるいは、その方が幸せかもしれん」


 そう言い残し、指揮官はハリーに背を向けて立ち去った。その背中に対し、ハリーはどうすることもできず、ただ見送った。

 やがて、包囲していた空戦部隊が再び一箇所に集合した。そうして逃げ場ができ、反政府軍は重い足取りで来た道を引き返していく。

 今や、彼らは遊兵となった。本隊に加勢することもできず、山河で隔たれて孤立するしかない。拠点に戻ったとしても、どう扱われるか……。


 作戦は成功した。しかし、ハリーの胸中は晴れない。やりきれない思いが巣食って、彼の心を責めさいなむ。

 彼は去っていく敗残兵を遠目にみつめていた。そこに、副将格のラウルがやってきて、苦しそうな声で話しかける。


「なぁ、ちょっといいか……」

「待て、その傷は」


 敵部隊の対処のため、空戦部隊を率いて指示を出し続けていたラウルは、短時間とはいえ敵の攻撃の的であった。体中に矢傷と思われる裂傷が走り、彼の服を赤く染めている。

 しかし、心配そうにされながらも、ラウルは言った。


「大丈夫だ、こんぐらい……」

「いや、早く手当を」

「下の人たちも、だ」


 息も絶え絶えになりながら、しかしハリーをしっかりと見据えて、ラウルは言った。


「まだ……生きてるかもしれない、だろ? それに、せめて……俺たちが、弔わないと」

「……そうだな」

「頼むぜ、大将」


 そこまで言い切って、彼はハリーに身をあずけるようにして気を失った。

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