第336話 「情報戦のゆくえ」
クリーガからかなり歩いたところにある川は、なかなかの釣りスポットだった。魚は少なく、他に釣り人はいない。
そんな川べりに腰かけ、針のない釣竿を垂らす。そうして釣りを始めた僕は、腕を少しまくり上げ、
「定時報告です、どうぞ」
すると、すぐに宰相閣下からの「聞こえています、どうぞ」という声が返ってくる。
周囲に人はいないものの、長居はしたくない。両足で挟んだ日記を見ながら、僕はさっそく腕輪越しの報告を始めた。
「例の救助作戦における情報提供者のご家族は、"中立地帯"まで護送できました。現在、我が方の隊員が一人、帰省中の息子として付いています」
「それは何よりです。しかし、人手の方は大丈夫でしょうか?」
「中立地帯での情報収集も必要ですし、追手がいないとも限りませんので。追加の人材があれば助かるのですが」
「難しいですね。こちらの防諜のこともありますから」
「かしこまりました。現状の人員で継続します」
「本当に、申し訳ありません」
腕輪越しにも、謝意が十分に伝わってくるような声の響きだ。宰相閣下が頭を下げておられる姿を、つい思い浮かべてしまう。
閣下は、時には果断な決断をなさるお方だが、基本的には温厚で……かなりお優しい。情報提供者のご家族への対応も、閣下のご厚意あってのものだ。
もちろん、何かしらの情報になればという打算もあるだろう。だが、根底にあるのは、例の給仕の彼女に報いたいという一念だと思う。
そういう閣下の直属として働けることは、実に嬉しく思う。しかし、難しいお立場での綱渡りを余儀なくされる状況にあって、そのご心労の程は心配ではあった。
案件の一つについて報告を終え、僕は次の件を切り出した。
「最初の離反者の候補に関しては、三つにまで絞れました」
「なるほど……それ以上は難しいでしょうか?」
「困難と言って良いかと」
即座にそう返答すると、腕輪から小さな唸り声が聞こえてきた。
“最初の離反者”とは、今の内戦状況の発端として、魔人側の接触があったと思われる貴族だ。事が起こる前の、人や物、金、情報等の動きから、どうにか三つ程度にまでは候補を絞り込めた。
そもそも魔人の関与があるのかという声も、王都の首脳陣の中にはあったが、こちらの調査では疑いようがないほどに濃厚だ。
しかし、ここからが難しい。痕跡をつなぎ合わせて辿った調査では、真相に到達できない。リスクを負ってでも追究するべきかどうか……諜報の長の判断は、「否」だった。
「人手が必要な工作というものもあるでしょう。人員を喪失するリスクを鑑み、今は深追いしないように」
「かしこまりました……一応、私があちらに取り入る口実は考えてみたのですが」
「ふむ」
「魔法庁長官の座を追われて、何かアレだと」
冗談のつもりで言った提案は、閣下も冗談と受け取ってくださったようだ。ちょっとした笑い声の後、「それはナシにしましょうかと」言われた。
今回の報告は以上だ。細々とした話はまだあるものの、こんな場所で話していてはキリがない。
「離反者の件含め、収集した情報は例のルートで送ります。詳細はそちらで」
「了解しました、では」
交信状態が切れ、腕輪から人型の淡い光が消える。その瞬間、自分の体がふっと軽くなるのを感じた。
宰相閣下に強圧的なところは、まったく感じられない。とはいえ、一国の平民・文民の最高位におられる方だ。腕輪越しの会話であっても、重みを感じずにはいられない。それが敵地での会話ともなれば、なおさらプレッシャーはある。
ふと日記から視線を川に移すと、針のない釣り糸に魚が群がっていた。彼らを糸で翻弄しながら、僕は長いため息をつく。
一言でクリーガの住人と言っても、すべてが正統政府との戦闘を望んでいるわけではない――それが、あちらに潜り込んで得た実感だった。中には、今の動きに対して懐疑的な者もいる。
しかし、それは少数派だ。多くの民は、歴史の変わり目という熱に煽られ、一つの猛火に身を捧げている。そんな中、流れに逆らって立ち向かえる者がどれだけいるだろう?
僕が会った非戦的な方々は、あちらの言を借りれば、惰弱で臆病で、後ろ向きだった。そんな非戦派の声をかき集めても、猛り狂ったような劫火の前には、ほんのか細い声にしかならないだろう。工作に使うよりは、戦後処理の中で何らかの役を担ってもらう方がいい。
しかし……やりがいがある仕事なのは確かだけど、日に日に心が荒むというか……スれて打算的な人間になっていく感じがするのは否めない。内部統治に悩まされていた魔法庁の時と比べても、あまり気分のいいものじゃない。
考え事をしながら川の中を眺めていると、食事にありつけないと悟ったのか、あるいは単に興味を失ったのか、魚たちが去っていった。それを見て、急に一人になったような気がしてしまう。
釣りという方便も、もう通じなくなる頃合いだろう。やるなら今しかない。僕は、腕輪を外し……カバンから別の外連環を取り出した。
☆
ウィルとの会話の後、王国宰相は天井を見上げて安堵のため息をついた。
配下の諜報員たちは、情報を集めつつも自身の安全を確保できている。内戦下という難しい状況にあって、そのことは確かな救いだった。
仕事柄、諜報員たちは様々な覚悟を済ませた上で現地にいる。しかしそれでも、彼らを一人でも喪失することは、実務的にも心情的にも避けたいことであった。
一方で、そういう考えが、好機を逃すことにつながりかねないということは、彼も自覚している。
他にも判断を迷わせる事項はいくらでもあって、執務机に積んだ書類は増え続ける一方であった。
とはいえ、一つ一つ手を付けなければ始まらない。彼が机の上の紙に手を伸ばそうとした矢先、ドアがノックされた。続いて、「閣下」という声が。専属の秘書のものだ。
何か仕事に手をつけようとしたところに、これである。積み重なる一方の書類の山がいかにも象徴的で、宰相は思わず苦笑いしてから「どうぞ」と返した。
「アスファレート伯爵家より、使用人のサミュエルソン様がお越しです。いかがいたしましょう」
「それは確かですか?」
「は、はい」
思わず口をついて出た確認の言葉に、秘書はわずかに戸惑うような返事を返してきた。そこで自分自身の困惑も改めて自覚し、宰相は瞑目した。
史学全般に関心を持つ宰相と、文化や芸事に関し造詣の深い伯爵とは、かねてより親交がある。年の離れた趣味仲間といったところだ。
しかし……宰相の中で、伯爵は無比の”暇人”であった。彼自身が足を運ばず、使用人を送って寄こすというのは、かつてない事態であるし、少し信じられないという思いもある。
そこで宰相の脳裏に、先日の
こういう時の勘は、大体当たる。自分以外誰もいない部屋で、心の赴くまま渋面を作った宰相は、「今出ます」と言ってドアに向かった。
それから、宰相が応接室に向かうと、そこには旧知の老紳士が直立不動で立っていた。宰相が入室するなり、紳士は深々と頭を下げる。
その後、ソファーに座るのももどかしく、紳士は用件を切り出した。
「ご多忙を極める中、大変無礼かと存じますが、火急の言伝を」
「どうぞ」
「当家でお世話をさせていただいておりますお客様より、宰相閣下と王太子殿下のお耳に入れたい話があるとのことでございます」
これも、何らかの策謀なのだろうか? 宰相は
例の魔人と会談した際、王太子は彼に対して信用の念を抱いたという。それを疑うわけではなかったが、懸念は晴れない。
しかし一方、何かしら有益な情報を得られるのであれば、それは願ってもない話ではある。
結果として、宰相は話に乗ることに決めた。ただし、条件を付けてであるが。
「明日そちらに伺います。殿下につきましては、ご意向次第ですが、おそらくは同行されるかと。ただ、こちらから護衛を何人かつけさせていただきます。構いませんか?」
「ご意向のままに。では」
用件はそれだけだったと見え、使用人は深々と頭を下げる。そんな彼に宰相は……ほんの出来心で話しかけた。
「酒は出ますか?」
「……ご会談がお済みになられましたら」
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