第333話 「生還」
意識が暗転した後、俺をひっきりなしに呼ぶ声が聞こえて、目が覚めた。仰向けに寝かされていて、目の前には女の子が、俺の顔を覗き込んでいるのがぼんやりと見える。
俺を呼ぶその子の声は、何度も聞いたことがある。でも、今出している悲痛な声は、身に覚えがなかった。様々な感覚が曖昧な中、彼女の声もうまく聞き取れなかったけど、どういう状況なのかは感じ取れた。
全体的に暗い視界は霞がかっていて、おぼろげにしか見えない。聴覚も判然としないノイズ交じりだ。しかし、それでも……俺から少し離れたところで、友人の声が聞こえた。きっと、副長の彼がみんなに指示を出しているのだろう。任せて良かった。
外界からの刺激は、間にクッションが入ったかのように、輪郭がぼやけている。その一方で、内側の感覚はどこまでも雄弁だった。強い倦怠感と苦痛が全身に満ち満ちている。
いや……正確に言うと、無反応な部分もある。右手から上腕にかけては、自分の身体じゃないみたいだ。何の感覚もない。
一方、体の中心からは、臓器が締め上げられるかのような苦痛が走ってくる。そして、良くわからない熱いものが、せりあがってきて……。
俺はどうにか左手を動かして口を覆った。熱く、苦く、酸っぱいものが口中を満たし、抑えきれなかった分が、手と口の隙間からあふれ出る。
そんな俺の顔に、冷たい雨に交じって、温かな雫がしたたり落ちてくる。
うすぼんやりとしていく五感の中で、俺は死んだ日のことを思い出した。周囲にいるみんなよりも、この地で同じように横たわっている人たちの方に、自分が近づいている感覚に囚われる。
このまま死ぬんだろうか?
しかし、「死ぬかも」という弱気よりも、「死ねるか」という強気の方が圧倒的に勝った。
今回の騒動で、あの野郎は逃げ帰り、あの人たちはあるべき場所へ還り……後は俺次第だ。
この戦いは、決して奴の思惑通りの展開ではなかっただろう。でも、俺がここで死んだら、結局はあの人たちをダシにして俺が殺されただけじゃないか。
それに、奴はまだ生きているんだ。そう思うと、おとなしく寝ていられない。
次第にすべての感覚が遠ざかっていく中、気持ちだけが最後の砦だった。
いや、気持ちだけじゃない。体の大半が凍り付いたようになっても、体の内奥は全力で戦ってくれている。こんなにも苦しいのは、生きようとしているからだ。そう自分に言い聞かせた。
生と死を意識する状況にあって、ふと家族の事が脳裏によぎった。1回目での死では感じられなかったほど、強い情動が俺を生へ向かわせている。そのことに、強い罪悪感を覚えた。
それでも……俺はまだ死ねない。意識が遠のいていく中、最後の瞬間まで、俺はそう念じ続けた。
☆
全身に、柔らかな温もりを、右手にはもう少し温かな何かを感じる。辺りは静かだ。恐る恐る目を開けると、なんだか見覚えのある天井が目に入った。王都の、療養所だ。
どうにか、生きて帰って来られたようだ。安心してから、俺の右側に視線を移すと……。
「おはよう」と、奥様が俺に声をかけてこられた。その声は、聞き覚えのあるものよりも、少し冷たい。とても真剣な表情で、俺の顔を見つめられている。
奥様の傍らには、アイリスさんが座っている。彼女は座ったまま寝ていて、それでも俺の右手を握り続けていたようだ。
ほんの少しずつ、状況がのみ込めてくる。しかし、どう対応すればいいのかわからないまま固まっていると、奥様は横のアイリスさんを軽く小突かれた。
「彼、起きたわよ。あなたも起きなさい、アイリス」
呼びかけられ、次第に彼女の顔に意識が戻ってくる。そして、彼女は俺の顔を見るなり視線を伏せた。ほんの小さな「良かった」という声が耳に届く。
それから少し間があって、奥様はアイリスさんに仰った。
「まずは、私の方から言うことがあるから、あなたは外しなさい」
「はっ、はい!」
「……そんなにかしこまらなくってもね」
そう仰ってから奥様は、ベッドサイドの鏡に視線を向け、急に苦笑いなされた。それから、部屋を出ようとするアイリスさんに「怒ってるわけじゃないわ」と声を掛けられる。
アイリスさんが去り、奥様と二人っきりになると、奥様は少し表情を崩して仰った。
「この建物はね、全体的に壁が厚くてしっかりしてるの。あの子が聞き耳立てるとも思えないし……恥ずかしい話だって問題ないわ」
いつも通りの、おちょくってくるような発言に、どこか懐かしさと安心感を覚える。でも、そんな冗談のために彼女を追い出したんじゃないことはわかっている。
「ご迷惑をおかけいたしました」
俺の方からそう言うと、奥様は若干あっけにとられたような表情になられた。
「どういうこと?」
「その……俺がこちらに来て間もないころ、屋敷に大ケガした方が担ぎ込まれましたよね? その時の治療を、もしかしたら俺にも施されたのではないかと」
「……勘がいいわね。もしかして、アテにしてたかしら?」
「いえ、そのようなことは決して!」
慌てて言い返すと、奥様はドアの方をゆっくりと向かれた。少し声が大きかったのかもしれない。
それから、奥様は俺の口に、そっと優しく人差し指を当てられた。「静かに聞いてね」と仰って、言葉を続けられる。
「赤紫のマナは……人体に侵食する力があるの。より正確に言うと、体に流れるもともとの色のマナを塗りつぶそうとする力かしら。それをそのままにしておくと、取り返しのつかないことになるというわけ」
そんな危ないマナを、必要に迫られたからとはいえ、俺はガンガン使っていたわけだ。顔が青くなりかけるけど、奥様は優しく微笑みながら仰った。
「赤紫の侵食具合は、あの時の彼ほどじゃないわ。血に入り込まれたわけでもなかったし……あなたの、魔法使いとしての力量と工夫、それと瘴気を防ぐ服の存在があったから……ってところかしらね」
右半身の自由が利かなくなったのは、そういうことなんだろう。しかし、それだけじゃ説明がつかない部分もある。気づかないうちに
「全身がかなり苦しくなった記憶があるのですが、それはマナとは無関係でしょうか?」
「ただの頑張りすぎね。何をしたのか知らないけれど、よほど心身に負担をかける魔法を使ったのでしょう。それは、あなたにこそ心当たりがあるのではないかしら?」
そのようにピシャリと言い放たれると、こちらとしては返す言葉もなかった。反省の色が顔ににじみ出たようで、奥様は優しく微笑まれた。
「右半身についても、過労で弱ったところに、瘴気が侵食しようとしたのだと思うわ」
「つまり、分不相応な働きをしたと……」
「そこまでは言ってないわ」
そう仰って、奥様は俺の顔から視線を外された。その先を追うと、窓の外は雨がやんでいた。まだ暗い雲は広がっているものの、ところどころに切れ目があって、青い空が覗いている。
「どれだけ寝ていましたか?」と尋ねる俺に、奥様はこちらに視線を向けて返される。
「詳しいことは知らないわ。後でお友達に聞きなさい。私が知っている限りでは、昨日の日没後に担ぎ込まれて、そこからずっと寝てたというところ。もうじきお昼だから、ちょっと長めに寝たって程度かしら?」
「確かに、やや寝すぎたぐらいですか」
次いで、俺以外の仲間のことが気になった。しかし、奥様に聞くのは筋違いだろう。それに、仲間に何かあれば、もっと深刻な雰囲気になるだろうけど、そういう暗さはない。奥様にも、さっき部屋を出ていったアイリスさんにも。
おそらく、みんな無事だったんだろう。なんとなくそう思ったところで、今度は自分の事が気になった。俺が死んだことがあるという事実を、みんなはどう受け止めているんだろう。その件について、奥様は知っておられるんだろうか?
俺は奥様に視線を向けた。しかし、「何?」と微笑みかけられるだけだ。陰のようなものは感じられないし、そもそも俺がお顔をうかがってお気持ちを汲み取れるような相手かどうか……。
結局、やぶ蛇になるのが嫌で、俺は少しの間黙り込み、別の話題を持ちかけた。
「奴はまだ生きています。それで、また同じようなことをされても……こういうことは、すべきではないでしょうか?」
「どうして私なんかに聞くの?」
まっすぐ俺の瞳を見つめられながら、奥様は仰った。威圧感というほどではないけど、視線の強さには、たじろいでしまう。そのせいで、返答が我ながらしどろもどろになる。
「そ、それは……こうして、ご迷惑をおかけしてしまいましたし」
「それは、そうね。あなたはまだ、未熟だったのだと思うわ」
奥様はそう、キッパリと断言なされた。しかし、それから急に表情を柔らかくし、俺の額に手を置かれた。
「それでも、あなたは正しい行いをしたと……私は思うわ。私に話をしてくれた、あなたの友人も、みんながそう考えているでしょう」
胸が熱くなって、返す言葉がなかった。
それから、いくらか沈黙が続いた。冷たい風が入り込んで、カーテンを揺らす。すると、奥様は立ち上がって窓を閉め、その流れで退出しようとされた。
しかし、部屋を出る直前で、奥様は俺に向き直られた。そのお顔は、かなりイジワルな感じで……すごく嫌な予感がする。
「善いことをしたとは思うけど、私の手を煩わせ、愛娘を泣かせた罪は重いわ。だから、娘に叱ってもらいなさいな」
奥様はそう仰って、俺の抗弁を待つことなく退出なされた。部屋には俺だけが残され、静かな室内には、風で窓が揺れる音だけが響く。
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